Fate/crescent 蒼月の少女【完結】 作:モモのすけ
──視界が、一瞬にして黒に染め上げられた。
聖杯の泥。形を持つほどの呪詛の海。
それに呑まれたと気づいた時には既に、彼女の命運は決まったようなものだった。
「──────っ‼︎‼︎‼︎」
最初に感じたのは、全身が火だるまになったかの如き熱さだった。
皮膚が爛れて焦げ落ちて、ナカまで真っ黒に焼き溶かされる。
無我夢中で腕を、足を振り回して、全身を染め上げる黒泥を払いのけようとした。でも無理だ。この手の中に武器はない。黒すらも斬り祓うような、精錬無謬の武器さえあれば、まだ分からなかったのに。
「あ────っ、が────」
ささやかな抵抗どころか、呼吸すらもままならない。
この泥の呪いは人すらも呑み込み、喰らい、貪り尽くす。
触れるだけで命が削られるソレを、しかし彼女は全身に浴びたのだ。まともな人間が、その致死性に耐えられるわけがない。
──死ね、と。
その二文字だけが、壊れかけの頭に響いている。
全身に絡みついた泥は彼女を離さず。身じろぎもできぬまま、ひたすらにその闇をまざまざと眺めさせられる。
目の前のこれら全てが、何なのか。
信じられないが、答えは一つしかなかった。
蠢き、悶え、暴れ狂う黒の嵐。脳に響き続ける怨嗟の声。これら全ては間違いなく、この世全てにある、人の罪業と呼べるものだ。
それを理解した瞬間、アナスタシアはがくんと膝から崩れ落ちそうになった。
だって、こんなものは認められない。世界がこんな醜いものに満ちているという事実と、それを自分も持っているという事実が、絶望と嫌悪の刃となって自分を簡単に刺し殺す。
この闇が人を殺すのではない。
この闇に呑まれたものは、自分で自分を食い潰すのだ。
「────────」
既に、唇すらも動かない。
瞳に映る光は、この世全ての罪業の前に消え失せた。
『アナスタシア、貴方は逃げなさい』
この時始めて、彼女は走馬灯というものを見た。
けれど、そんなものを今更見返したところで、自分の醜さがより一層浮き彫りになるだけだ。
かつての全てを奪い去っていった連中。それらへの復讐のためだけに、アナスタシアは生涯を生きてきた。全て喪った心はもう機能しなかったから、復讐の炎だけを原動力として、彼女は生きてきたのだ。
『君には素質がある。我らが主の代行を成すに相応しい力が』
ざざ、と、記憶の海が色彩を変える。
ずっと手放さなかった十字架は、お守り以外の意味なんてなかった。聖職者を名乗りながら、信仰心すらも消えかけていた。
魔を滅ぼす力を得られるのであれば、聖職者であろうと復讐鬼であろうと、何に成り果てても良かったのだ。
『……死ね……‼︎』
記憶の中の自分が、咆哮して武器を振りかざす。
『死ね……死ね、死ね死ね死ねぇっ──‼︎』
殺す。殺す。殺す。殺して殺して殺し尽くす。
自分から全てを奪った魔を、この世界から全て駆逐してやる。
馬鹿な話だ。
眩むほどの血を浴びながら、疑問に思ったことはなかったのか。
もし仮に。全てを駆逐して復讐を終えたとして、その先に、自分が生きていく意味はあるのかと。
『…………………………………』
心はずっと枯れたまま。
ただ、血と悪意に染まった道を、ひたすらに歩むだけ。
────「死ね」。
そう、死んでしまえばいい。
死ぬべきは自分だった。そんなものでしか生きられない人間など、最初からあの時に死ぬべきだったと、なぜ分からなかったのか。
彼女は全身の力を抜いた。
何かをする必要もないし、その気力もない。数瞬後、アナスタシアという人間は溶け落ちて絶命する。最初から生きるべきではなかった命が、あるべき死を受け入れるだけ。
それでいい。
それがきっと、正しいあり方なのだから──……。
『アナスタシア』
その刹那。
誰かの声を、彼女は幻の中で聞き取った。
(────────あ)
どくん、と。
冷え切って感覚の消えた身体に、心臓の鼓動を感じ取る。
じわじわと拡がっていく仄かな熱。
この感情の名前を、彼女はすでに知っている。
『僕は槙野和也、未熟ながらこの店の主人だ。これからよろしくね』
流れていく走馬灯は当然のように、つい最近の記憶を呼び起こす。
その顔を見た瞬間に、何故か涙が溢れそうになった。
あたり全てを閉ざしてしまった闇の中で、ただ一つ。眩く光り輝くその光景が、眼前の黒を斬り開いていく。
『驚いたかい? ふふ、最初は君の事を知るのに僕も苦労したけどね。最近の君は以前よりもずっと表情豊かになったんだ。もっとも、君自身は気付いてないかもしれないけど』
以前の彼女なら、きっとこの闇に耐えられなかった。
でも今は違う。復讐の念に頼るしか生きる道を見つけられなかった弱い少女は、もうここには存在しない。
『君がいるだけで、僕は十分に……十分すぎるくらいに、嬉しかった』
そう言ってくれた人を、守りたいと。
かつての自分は、そう願ったはずだ。
『貴方は生きて、自分がすべきと思った事を成しなさい』
母の最期の言葉が、今一度蘇る。
──自分の醜さに耐えられないから、死ぬ?
ふざけるな、と彼女は歯を食いしばった。
確かに人は醜くて、あらゆる所に、どんな人間にも悪意は潜んでいる。自分自身がかつて悪意に取り憑かれていたのだから、言い訳なんてできるはずもない。
そう考えると、確かにこの世界は地獄にも等しいのかもしれない。
けれど。それでも、彼女はあの店で学んだのだ。
──この世界には、悪意を溶かすだけの善意もあることを。
『僕はずっと……ここで、君を待っている』
その声を聞いた瞬間、アナスタシアの全身に十全の力が戻った。全身の回路は唸りを上げ、胸の奥に眠っていたモノが、覚醒の時を迎えて咆哮をあげる。力の使い方は、この身体が憶えている。
やるべき事は一つだけ。
必ず守ると誓ったのなら、立つ。
瞳に確かな光を灯し、少女は闇を突破する──。
◆
言葉を失い、ライダーはその凄惨な光景を傍観することしかできなかった。
大聖杯に取り憑いた、形を持つほどに濃密な呪詛の海。しかしそれはあくまで在るだけの存在であり、それ自身は意思など持たぬ類の力──の筈だった。
しかし。
「馬鹿な……っ」
代行者の少女が近づいた瞬間、ソレは明白な攻撃行動を見せ、彼女を一息に呑み込んでしまった。
ありえない。
聖杯の泥は災厄を振りまくものとはいえ、それ自身が特定の誰かに対して攻撃を行う、といった性質は有していない。
クロウリーは聖杯の泥を上手く手繰ることで攻撃手段にしていたが、それも彼女の介入あっての攻撃だ。泥自体に攻撃意思などない。決して。
「何がどうなってる、クソが……‼︎」
聖杯の泥はアナスタシアを呑み込んだだけに留まらず、暴走したかのように暴れ始めていた。
さっきまで物音一つ立てずに凪いでいたタールの海は、今や飛沫をあげて荒れ狂っている。地下空洞のそこかしこに亀裂が走り、落ちてくる小さな瓦礫がライダーの肩を叩いた。
「──────チッ」
急激に活性化し、こちらに拡がってくる聖杯の泥に触れぬようじりじりと後退しながら、ライダーは代行者の即死を悟る。
自分でも、呑まれれば正気を保っていられるとは思えない。
ましてただの人間など、この呪詛に喰われて終わりだ。
ライダーは何故自分がこんなにも狼狽しているのか、苛ついた頭で考える。だが、ゆっくりと頭を回している暇はないらしい。今も暴れ回る黒泥は、今にもライダーの足元に届きそうだ。じき、この地下空洞は黒泥によって完全に沈むだろう。
「……退くか。今更、この体では楽しめそうにもないが──」
悪態をつきながら、彼が数十メートル上の巨大な亀裂を見上げた、その瞬間。
「──────‼︎⁉︎」
ただ、閃光が炸裂した。
あまりの衝撃。音も視界も消え去って、やがて眼前の光景が明らかになる。
神々しい光が、黒泥を振り払って放たれていた。
それは黒の真逆、あらゆる穢れを寄せ付けぬ無垢の白。
その中心。
凛然と立つ少女は、硬く両手を組んで握りしめている。
「テメ、エ……一体、何をした……?」
ライダーの問いは、しかし言葉を吐いた彼自身によって否定される。
「違う。そもそもテメエは、何者だ──⁉︎」
人ならぬ英霊である彼ですら、目の前の存在を理解できない。
アナスタシアは既に元の姿を保っていなかった。
ブロンドの髪は閃光と同じ白に染まり、身体を覆っていた修道服は消し飛んで、代わりに不思議な紋様が全身に刻まれている。
その様はまるで神話の天使か女神か。確かに人間でありながら、その存在感の端々に、神が有するソレが混じっている。
「ライダー」
傍で暴れ狂う黒泥すらも意に介さず、アナスタシアはライダーの方を振り返った。
「ここから離れて下さい。今ならまだ、間に合います」
その瞳を見て、ライダーは全てを悟る。
事情が全て分かった訳ではない。その姿が何なのか、何故黒泥を跳ね除けるほどの力を持つのか、分からないことばかりだ。
それでも、目を見れば理解できた。
彼女は命すらも使い尽くす覚悟をもって、この泥と対峙する気だと。
「何を、する気だ」
「私は代行者ですから。
その覚悟に揺るぎはないらしい。そうこうしている間にも、活性化した黒泥は更に地下空洞を侵食していく。じきにこれらは空洞を満たし、地上に溢れ出して災厄を振りまくだろう。
もう時間はない。
言うべきことも、時間に迫られてしまって出てこない。逡巡の末、ライダーは今一度その姿を見て、最後の問いを投げかけた。
「────それが、テメエの選んだ答えなのか?」
しん、と、周囲全ての音が消えた気がした。
以前として灼熱する黒泥の海は気泡を弾けさせ、不快な熱と瘴気を振りまいている。それでも、二人には気にならなかった。
アナスタシアは、その問いを受けて微かに笑みを浮かべ──、
「ええ。これは、私がなすべき事ですから」
そう、迷いなく言い放った。
なすべき事。
手段に違いはあれ、大元は揺るがない。愛する人を守るために、この命をかけて戦い抜く事だけだ。闇を抜けてなお抱き続けたその覚悟は、決して途中で折れはしない。
「……そうか」
ライダーは顔を背け、無言のままに黙り込んだ。
その表情は分からない。雷帝と呼ばれた少年が、何を思って言葉を失っているのか、アナスタシアには想像できない。
やがて、騎兵は顔を上げてこちらを向いた。
その口から、離別の言葉を告げるために。
「俺はもう行く。さらばだ、代行者」
何度か壁面を蹴って、瞬く間に彼は亀裂の向こうへと消える。
だが、その直前。
完全に姿を消すその前に、彼は一つの呟きを残していった。
「──為すべきことがあると言うのなら、やり遂げてみせろ。決して、無為に命を散らすなよ」
その様を僅かな笑みと共に最後まで見守って、アナスタシアは改めて眼前を睨みつけた。
依然として黒泥は暴れ狂い、ますますその量を増している。
しかし、そんな危機の中にあっても落ち着いたまま、アナスタシアは最後の念話を開始する。
「アーチャー、聞こえますか?」
『マスター……‼︎ おい、何が起きてる⁉︎ こっちに流れてくる魔力量が異常だぞ‼︎』
口早に告げられるアーチャーの問い。
彼女自身、この現象の理屈を一から十まで理解しているわけではない。故に、今話すべきはそれではなかった。
「時間がありません。なので、最後の頼みを聞いて下さい」
そう言って、彼女は刻まれた令呪に薄くなった感覚を向ける。
残り二画。その二つ全てを使って、彼に最後の願いを託す。
「残りの令呪をもって命じます。アーチャー、──────」
その願いは、確かに言葉になって届けられ、残りの令呪は真っ赤な閃光を散らして消滅した。
念話の奥。今も長大な距離を置いた場所に居るであろう狙撃手は、その願いに息を飲んで沈黙する。
『……お前は、どうする気だ?』
「聖杯の
ぎり、と歯を食い縛る音が、念話越しにすら伝わってくる。
それでもアーチャーは何も言わなかった。
マスターの声色から、その思いの固さを悟ったのだろう。ならば、止めても彼女の決意を鈍らせるだけ。そう考えて、狙撃手は唇に血が滲むような沈黙を保つ。
「……ありがとうございます、アーチャー……」
感謝の意を告げたころ、ひときわ大きく唸りをあげた黒泥が光の壁を乗り越え、僅かばかりアナスタシアの頰に触れる。それはじゅうっ、という肉の焼ける嫌な音をたてて皮膚を抉り、アナスタシアは思わず顔をしかめた。
「あぐっ……う‼︎」
そろそろ念話に割く余力もなくなってきた。
ここからは全身全霊、命を最後の一滴まで振り絞る渾身をもって相手せねば、世界全ての悪意に呑み込まれる。
じりじりと距離を詰めてきた黒泥は次第に光の壁を侵食し、アナスタシアの体に僅かながらも降りかかった。泥を浴びた箇所が焼け、感覚すら死に絶えたように消え失せる恐怖に、歯を食いしばって耐えながら──、
「アー……チャー……、約束を、守れず……ごめん、なさ……」
『……っ、マス──……‼︎』
そこで、念話を打ち切らざるを得なかった。
体力の消耗が激しい。このまま悠長にしていれば、黒泥に呑まれて呪い殺される前に、自壊して潰れてしまう。苦しげに肩で息をして、再度光の壁に力を込める。
ゴウ、と烈風が荒れ狂って、活性化した黒泥を再度押し返した。
「はあ、はあ……はあ……っ」
アナスタシアは、死に物狂いで70億の悪意を受け止めながら、何をどうすればいいかを改めて考える。
──これが、彼女がかねてより用意していた対「不浄」への剣、隠し持つ唯一の切り札。第十三聖典の覚醒である。
聖典の正式な保有者だった母親の形見である十字架を鍵として、アナスタシアの体内で休眠状態にある聖典にアクセスし、その概念的機能を起動させる。
言葉にしてみれば簡単だが、その肉体への負荷は想像もできない。
長くはもたない、と改めて認識する。
「アンリマユ……この世、全ての、悪……でしたか」
今にも崩れ落ちそうに体をふらつかせて、それでも立ちながら、アナスタシアは嘯くように呟いた。
聖典を起動させたとはいえ、所詮は一人。
70億人の悪意に対抗するには、全くもって足りていない。
たった一人の善意など、気を抜けば嵐の前の木の葉のように揉み捨てられる。
「罪業、悪意とは。この世界を生きる誰もが持ち、そして同時に……一人一人が向き合い、克服すべきものです。決して、誰か一人に押しつけていいものではありません」
彼女はそう言った。
この世全ての悪。そんな都合のいいものを認めて、自分自身の弱さを見知らぬ誰かのせいにするなんてことを、決して許すわけにはいかない。それを、彼女は学んだのだから。
故に──、
「その在り方は間違っている。それら全ての誤ちを、主の憐れみをもって正します」
やってみろ、と吼えんばかりに、黒泥の海が沸騰した。
アナスタシアは十字架を握ったまま、地に跪いて目を閉じる。
そして、彼女は軽やかに口を開いた。
「────"私が殺す。私が生かす。私が傷つけ私が癒す"」
刹那。その警句と共に膨れ上がった白が、黒泥の海と噛み合った。
──洗礼詠唱。
それは、教会が唯一公式に習得を認めし奇蹟。
考えるまでもなく、世界全土に広まった神の教えは、存在する魔術基盤の中でも最強最大の対霊性能を持つ。
目の前の黒泥は濃密な呪詛、言い換えれば膨大な悪しき思念の塊。これら全てを相手取るに、これ以上相応しい武器はない。
「"我が手を逃れうる者は一人もいない。我が目の届かぬ者は一人もいない"」
だが、アナスタシアの顔には苦悶の表情が浮かぶ。
当然だった。いくら教会が誇る洗礼詠唱といえど、アンリマユほどの呪詛を無条件に消滅させられるほどの力は持たない。
──しかし。
「"打ち砕かれよ。敗れた者、老いた者を私が招く。私に委ね、私に学び、私に従え"」
ここには、それを成し得る可能性を持つ人間がいる。
アナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナ。
彼女のみが最初から例外だった。この世全ての悪を単身で相手にできる、世界を見渡してもただ一人の特異点。
その理由は、ただ一つしかない。
「"休息を。唄を忘れず、祈りを忘れず、私を忘れず、私は軽く、あらゆる重みを忘れさせる"」
彼女が融合した第十三聖典に刻まれし文言。
それこそが──「原罪からの解放」だ。
生まれた時から人が背負わなければならぬ悪性。神が「原罪」と呼んだそれらは誰のせいでもないと赦す、唯一無二の概念武装。
それが、アナスタシアが宿す聖典だった。
「"装うなかれ。許しには報復を、信頼には裏切りを、希望には絶望を、光あるものには闇を、生あるものには暗い死を"」
つまるところ、世界全ての悪意を前に、彼女は世界最大の「悪意に対する神の教え」をもって抗おうとしている。
それはこれ以上ない、まさに最善の方法だった。
並の聖職者の言葉は届かない。聖言を用いても全く足りない。
それでも、この第十三聖典だけは──アンリマユの存在、
「"休息は私の手に。貴方の罪に油を注ぎ印を記そう"」
この世界において、考えられる中で最悪とも取れる相手。
それを前にして、アンリマユは積極的にその排除を試みていた。
依然として放たれ続ける白光と、確固たる意志と信仰の力は、穢れたる黒泥を寄せ付けない。されど、穢れぬならば壊れるまで穢すのみ。もはやアンリマユは大海にも似た様相を呈し、その膨大な質量をもって、少女を亡き者にせんと暴れ狂った。
「"永遠の命は、死の中、で"……うあっ‼︎」
やがて──放たれ続ける白光を食い破って、ついに黒泥が代行者へと辿り着く。
教会の洗礼詠唱、「この世全ての悪」に対する特攻作用を持つ第十三聖典、これら反則級の武器を存分につぎ込んでなお、世界最大の呪詛を食い止めることは叶わなかった。
「あ──が、ぐ────⁉︎」
光のうちへと潜り込んだ黒泥は、耳障りな詠唱を止めるため、彼女の口蓋へと殺到した。
「────っ、──‼︎⁉︎ ──、─────〜〜っっっ‼︎‼︎‼︎」
言葉を紡ぐどころか、息すらもままならない。
痛い。痛い。痛い。喉が焼けて、体の中からめちゃくちゃに破壊されていく。発狂せんばかりの激痛が喉笛を引き千切る。絶叫すら許されず、アナスタシアは必死でその泥を引き剥がそうとした。
けれど、腕を動かすわけにはいかなかった。
この両手で握りしめた十字架は最後の盾だ。これから少しでも手を離せば、きっと折れてしまう。何が何でも──、
「──────ア゛、ぎ、があっ‼︎」
だから、彼女は最後の手段に出た。
思い切り顎を閉じて、口に殺到した黒泥を、決死の覚悟で
残りを喉奥に呑み込んで、今一度祈りを込め直し、こびりついた灼熱の泥を消しとばす。
「ぜはっ、ぜえっ、ッ……"永遠の、命……は‼︎ 死の中で……こそ、与えられる‼︎"」
無茶なことをしでかしたらしい。呑み込んだ黒泥が胃の中で暴れまわり、出口を求めて臓腑を焼いた。ごぶ、と口から血を零して、しかしアナスタシアの眼光は怯まない。
「が、ごぼっ……"許し、は……ここに"……っ‼︎」
間に合うか。
最後の攻勢に出たアンリマユが、地下空洞をすべて満たすほどに膨れ上がったマグマの海が、一斉に彼女の元へと殺到する。
壊れる寸前の頭を、無理矢理にでも駆動させる。
せめてあと五秒、いや、三秒だけでもいい。
それだけでいいから保てと、自分自身を叱りつける。
「"受肉……し、た……"」
意識が遠い。もう、全てが終わるその寸前にある。
周りでこちらを発狂死させんと渦巻く悪意の嵐。それでも彼女が、善なるものを信じて言葉を紡げているのは、きっと。
『────────』
暖かな記憶の中で笑う、あのひとがいるからだ。
微かに笑う。この思い出さえあれば大丈夫、と。
どんな悪意に襲われたって、どんな罪業を見せつけられたって、この世界には善意もあると信じられる。その最後の信頼は魔力の暴風と化して、ほんの僅かに黒泥を押しとどめた。
そして──、
「"私が、誓う"……────‼︎‼︎」
ついに洗礼詠唱が完成を迎えゆく。既に力尽きた身体は、意志の力だけで動かした。紫電の如く走り抜ける魔力が、瞳の中で火花を散らして燃え盛る。
何かが砕け散る不快な音。最後の守り、白光の壁が決壊したのだ。泥の大顎は障害を突破して殺到し、聖なるものを砕き潰す。
しかし、その寸前。
少女は祈りを捧ぐように、十字架を握る両手を天に掲げ──‼︎
「"
──その声は、確かに世界を震わせた。
瞬間。あらゆる全てを埋め尽くしていたはずの黒が、一瞬にして眩い白に染め上げられた。
その爆発的な閃光は、前よりも更に勢いを増し、巨大な天月の塔すらも呑み込んで、黒雲立ち込める空へと突き刺さる。
その日、最後の戦いに臨んでいたものは例外なく──そして彼女のサーヴァントも同様に、その光景を目にしていた。
──燦然と立ち上る光の柱。
──人の善性を感じさせる、その暖かな輝きを。
「この世全ての悪」の直接指令によって行われていた、街の人々から魔力を吸い上げる捕食行動は、それを以って完全に停止していた。
この夜に消える筈だった何千、何万の命は、大量殺戮を前に食い止められたのだ。それには勿論、彼女が守ろうとした、とある男も含まれている。
彼女は確かに、すべきと決めた事を成し遂げた。
「……………………マスター」
アーチャーは口を閉じて、その輝きに沈黙を捧げる。
美しかった。
ただ、善性の証明たるその光は、涙が出るほどに美しかった。
「お前の光は、確かに……世界の闇を祓ったよ」
それが何を意味するのか、アーチャーは深く考えるのをやめた。
迷うことはない。
──ただ、あの少女が遺した願いを、ひたむきに果たすだけだ。
【アナスタシア】
本名、アナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナ。
代行者見習いにして、未公認のNo.13、第十三聖典およびその守護精霊と融合した少女。
本来代行者としての素質は持っていなかったが、聖典と融合したことで「聖なる者、神に仕える者」としての属性が強化され、代行者たりうる素質を獲得した。
【第十三聖典】
儀礼用ながら強力な概念武装としての性質も持つが、アナスタシアの身体と融合しているために実体はない。
刻まれた文言は「原罪からの解放」。アナスタシアが以前より準備していた対・不浄への切り札とは、これを起動させる事にあった。
【第十三聖典の解放】
聖典が持つ概念武装としての機能を揺り起こし、使用する。聖典が形を保っていたならば武装の形をとるが、アナスタシアの場合は身体と融合していたため、彼女自身が武器として変容した。
「罪を赦す」武装としての概念的性質を強く持つため、悪霊や怨念、人間の罪業といったものには無敵とも言える浄化性能を発揮する。ただし、それ以外のものにはあまり効果をもたらさない。