あれですね。今の海水浴にはロマンなどないですね。輩と家族連れしかいなくてなんの参考にもなりませんでしたね。
それはさておきずっと書きたかった熱海旅行の話です。
熱海-関東の奥座敷と呼ばれ、長く権力者や文豪に重宝されてきた。山と海に囲まれ豊富な温泉が湧いており今日でもリゾート地として多くの観光客が集う。
かつて甲辰商事でも社員旅行で二泊三日の熱海旅行を行っていた。現在では長期的な不景気やワークライフサイクルの変化からツアーパックの割引に留まっているが、滉一達が若手の頃はバブルの名残としてこうしたリゾート地への社員旅行というものが残っていた。
これは滉一や野口にとって忘れられない熱海でのお話...
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旅行前夜、麻知は楽しそうに二人分のキャリーケースを荷造りしていた。まぁ私がやったところで二度手間になるだけなので手を出さなかった。いつものことだ。
「あ、そうだ」
麻知は思い出したようにリビングをでていった。何か取りに行ったのだろうか。私が珈琲を啜っていると、麻知がビニール袋を持って戻ってきた。
「新しく買ってみたんだっ!水着」
「楽しそうだね」
この頃は結婚したばかりで麻知はいつも上機嫌だった。学生時代のことや長野での新婚生活、そして東京に戻り長い就職活動を経たからかもしれない。
「うん!だって、コウくんと結婚してから初めての旅行だもん」
「ごめんな。麻知、ずっと辛い思いさせて」
結婚してから麻知には色々迷惑をかけている。就職活動を支えてくれたこともそうだが、やっとの思いで入社した甲辰商事に勤めてから休む間もなく働き続けていたので夫婦の時間というものを設けることはできなかった。また、収入も大手商社とはいえ新入社員の給料では二人で食っていくにはギリギリだった。麻知はどうにかして遣り繰りしてもらっている。そして一番は麻知がお父さんと...
「...気にしないでよ。私が選んだことだから..それにコウくん言ってくれたよね?これから先はずっと一緒だって。私も一緒だよ?楽しいときも悲しいときもこれからもずっとコウくんの傍にいるから」
麻知が私の手を取った。麻知の手は温かく、麻知の体温が私の手に移っていくような感覚をおぼえた。
「落ち着いた?」
「うん...」
何故だろうか。いつもより麻知がいとおしく見えた。どれだけ帰りが遅くても眠らずに待っててくれるのだが、ご飯を済ませたらすぐ寝るような生活が続いていた。
そんな生活が続けば男としての欲求が膨らむばかりなのは仕方のないことだった。
今は誰にも遠慮する必要はない。麻知の手を離す。
麻知は少し悲しそうな顔をしたが、私の手が黒のキャミソールの肩紐に伸びていると知ると羞恥混じりの涙目になって嗜虐心を煽られる。
麻知の白く華奢な肩に掛かる細く黒い紐に片指を掛ける。
衣擦れ音を鳴らしながら指を麻知の丸みを帯びた肩にスライドさせて1秒,2秒,3秒...
「コウくん」
とても小さな声で麻知が呼び止めた。私が動かしていた一本の紐を麻知の手が震えながら押さえていた。
「やっぱりまだ恥ずかしい...」
「ごめん」
「ううん。こっちこそごめんね。でもやっぱりまだ恥ずかしい」
おあずけを食らった気分だった。ムードは消えても私の麻知に対する劣情はいつまでも消えることはなかった。
実は夫婦の営みは1回きりである。初めてしたときはこれまで経験したことがないくらい私も麻知も融け合うかのような深いものだったが、それ以降時間がなかったのもあるが麻知が箱入りで男性経験が乏しかった(一時を除けば殆ど私だけだが)のでアプローチをかけても今のように逃げられてしまうのだ。
また一人でするしかないか。
言っても他人を見てするのなんてもう数年できていない。"おあずけ"が続いた結果私の身体は麻知でしか気持ちよくならなくなっていた。今や私の寝室で麻知に見せたくないものはすみれとの手紙くらいだろうか。望んだことだが、少しずつ麻知に身も心も支配されていっている。
「明日は早いしもう寝るよ」
「うん。6時の電車に乗るから早く起きてね。ゆっくり休んでねコウくん」
「おやすみ」「うん。おやすみ」
旅行には麻知も随行する。会社の人間もいるが、結婚以来初めての旅行だ。麻知といい思い出を作れたらいいなと私は眠りについた...
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東京駅八重洲口-オフィス街の集まる丸の内でも朝は街が止まっているかのように静かだ。街灯は殆どなくビルジングの窓ガラスは黒く染められているようだ。鉄道の看板だけが無機質に輝くだけである。
麻知とキャリーケースを轢きながら京王線に乗ったが、この時間だからかいつも乗る満員の電車とは違う空気と静寂さがあった。麻知はあまり睡眠がとれていなかったのか私の肩に身体を預けてすぅすぅと眠っていた。
私は麻知を起こさないよう電車の揺れに耐えていた。
集合場所の東京駅に着くと、既に何人か集まっている。挨拶をすると先輩方は麻知の方に目を向けた。結婚していることは既に周知の上だが、こうして顔を見せるのは初めてのことなので興味津々という感じだった。
麻知は「はじめまして。山城の妻の麻知です。今日は旅行にご一緒させていただきます。よろしくお願いします」
と深くお辞儀をした。
麻知は先輩社員や女性社員とも仲良く話していた。私のどこがよかったのかとか、私の普段についてなど根掘り葉掘り聞かれていたようだが、上手く切り返していたので心配はいらなかった。
「山城おはよう」
肩を叩かれ振り向くと、そこには同じ繊維2課の野口がいた。野口は私よりも年下にあたるが同期である。野口は新卒、私は中途で同じ繊維2課に配属された。野口はフランクな性格のためか最初からため口だった気がする。私は野口のそういう遠慮のないところが好きで今でも付き合っている。
野口の脇を見ると女性が寄り添っていた。茶髪のショートカットに黒のノースリーブシャツ、淡い青色のジーンズを穿いていた。彼女は私に軽く会釈した。
「君の彼女か」
「そういえば紹介していなかったな..」
「待ってくれ。私も君に紹介したい人がいる。」
私が麻知を呼ぶと、先輩方に軽く会釈してこちらに駆け寄ってきた。
「話したことがあるから知ってるだろうけど、妻の麻知だ」
「この方は?」
麻知が私に聞くと、野口が口を開いた。
「はじめまして麻知さん。旦那さんと同じ部署にいる野口です。」
「こちらこそはじめまして。いつも夫から野口さんのことは伺っています。これからもよろしくお願いします」
麻知が笑顔を向けると、野口は隣にいる女性に挨拶を促した。
女性は少し恥ずかしそうにぎこちなく自己紹介をした。
「はじめまして......宏..野口の妻の透...です。いつも旦那が世話になっています」
私が挨拶を返そうとすると、麻知に裾を引っ張られた。表には出さないが、やはり女性と喋るのは許さないようだ。
しかし、麻知は透さんににこやかに挨拶を交わしていたが、透さんの方は少し顔が曇っているように見えた。
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集合時間になり、新幹線の乗車券を受けとる。誰かが「グリーンじゃないのかよ」というと次長がわざとらしく咳き込んでいた。まぁ口には出さないが誰もが思ったことだろう。
私は乗車指定券を取り出して麻知に手渡す。キオスクで飲み物を買い、8:02の新大阪行きに乗り込む。
指定された座席に座ろうとすると、野口と透さんがちょうど前の席に立っていた。折角だし、向き合って話でもしようと席を向き合わせた。私の目の前には野口、麻知の目の前には透さんがいるという並びになった。
「石油資源部は社員旅行シンガポールだってよ」
野口がぽつりと言った。
甲辰商事ではエネルギーや鉄鋼などの部門は出世コースと言われ、優秀な人材がひしめき合っている。その為、繊維部のような生活資材部門とは違い、福利厚生の部分でも待遇がいい。
「社員寮もすごいらしいな。プールがあるらしいし」
「まぁ仕方ないよな。俺は三流大学出だし、山城も中途採用だもんな。」
野口と傷の舐めあいをしていると、麻知と透さんはファッションのことを話していたようだった。
「野口、いつの間に結婚してたんだ?」
「2年前だな」
「2年前って入社してすぐか」
「そうだな。収入も安定したし、結婚しようかって感じだな..山城は学生結婚だよな?」
「そうだよ。そういえばプロポーズをしたときも電車の中だったな..」
隣に座る麻知をふと見た。肘おきには重なるように麻知の手が私の手に置かれていた。
駆け落ちしたときもこうして手を重ねていた。違うところがあるとしたら、薬指に指輪が輝いていることぐらいだろうか。
「うちは幼なじみだけど、野口はどうやって知り合ったんだ?」
私が聞くと野口はチラッと透さんを見た。珍しく野口が照れているようだった。
野口がなにか言おうとすると、熱海駅に到着するアナウンスが流れた。
「もう熱海か。早いな」
野口は平然としているが、心なしか安堵しているようにも見えた。
熱海での少し暑い夏のはじまりだった。
ご覧いただきありがとうございました。
みなさんは連休どうお過ごしでしょうか。私は明日から四連勤です。
次回は水着が(作中で)出てきますが、今月中に投稿できるか不安しかありません。