「ごめんなさい。今日は友人と食事をする予定なんです」
と言って、瑞樹は彼女をディナーに誘う男の同僚に微笑んだ。
「そうですか…」
同僚の男はデスクの前の深い椅子に腰を下ろして、気落ちしたようにがくりと頭を下ろすと、彼女を見送った。
彼女は入館証を機械にかざして、テレビ局のロビーを出ると、タクシーを拾って自宅へと向かった。
その日は、少し歩いて帰りたい気分だった。
だからいつもより少し手前でタクシーを降りた。
本当にただの偶然、それこそたまたま。
帰り道のコンビニで、ポールに腰掛けて、のら猫を膝にのせ、コンビニの明る過ぎるほどの電灯に、光背のように照らされた、好きじゃなかったタバコを美しく吸う彼に出逢えたのは。
◇
「ううん。初めは、ほんの興味本位だったの」
「たまたま目に入ったから。たまたま次の日は仕事は休みで、その日はそれから暇だったから」
「そうね。どうとでも言えるわね」
「だけど、私は彼がどうしても気になった」
「確かに彼は…私好みの甘いマスクをしていたわ」
「それでも私が彼に逢えたのは、やっぱり運命なんじゃないかって思うのよ」
「こんな歳になって運命なんて、馬鹿にされちゃうかしら?」
「いいえ、いいのよ。私はそれでも。事実、今はもう彼は私のモノなんだから。この時から私はなんとなくわかってたんだもの。私は彼に恋に落ちるって。故意にね」
◇
男を見ていた私に、男が尋ねる。
「どうかしましたか?」と問われた私は少し考えた。
「いいえ、気にしないでください。ごめんなさい」
となんでもないように、ただ視界に入ってただけだと言うように、私は短く言った。
彼はタバコを持つ逆の手に持っていた缶コーヒーの口に、花瓶に花を生けるように綺麗にタバコを放り込むと、のら猫に「ほら」と言ってのら猫を退かして立ち上がった。
立つと意外と身長があった。一七〇後半か百八十に届くかに見える背にひょろりとした身体で、すらと伸びた脚は長く華麗だった。
黒のジーンズに黒のハイネック、その上に羊羹色のチェスターコートを羽織っていて、彼のふわりとした印象と相まって、映えていた。
彼を横目で観察していると、彼が病人のようにごほごほと咳き込んだ。
「風邪ですか?」
私が何気なしに、そう彼に尋ねると「いいえ、少し肺を患ってまして」と言った。
「でしたらタバコなんておやめになったら?」
私は見咎めるように彼に言った。
そうすると彼は困ったように苦笑して「あはは…なんだかこれがないと落ち着かなくって」と、手を頭の後ろに置いて弁解した。
「もう大丈夫なんですか?」
と問うと、「はい。一時的なものですので」と言って、缶コーヒーをゴミ箱へと捨てた。
異様に儚い人。
彼に対して何故か節介をかこうとする心を押し殺して、ヒールをコツリとならして方向転換をした。
いや、これは節介ではない。
そう自分に言い訳をして、最後に彼の方に頭だけを向けて言った。
「それでは、御身体にお気をつけて。なるべくタバコは控えるように」
念を押すように私は言うと、彼は眉を上げて少し驚いたようにしていたが、すぐに先ほどまでの柔らかな笑みに戻して「ありがとうございます。気をつけますね」と言って頭を下げた。
礼儀正しいやつだ。純粋にそう思った。
もう会うことはないだろう。まあいい。帰ったらお風呂に入ろう。そう考えて歩き出すと「あの、すみません!」と声をかけられた。
この声は。と振り返ると、息を切らして肩で息をしている彼の姿があった。
「…どうしました?」
やや警戒して、彼に尋ねる。「いえ、ただ今日は寒いので…手が冷えます。ですから、どうぞこれを」と言って、まだ熱のある缶コーヒーを私に向けて差し出した。
わざわざ買ってきたのか。あれだけの会話で、ただ少し心配をしただけで。
やっぱり、礼儀正しいやつだ。と考えた。
ただの暇つぶしだ。そう、ただの暇つぶしだわ。今一度自分に言い聞かせるように、頭の中でひとりごちると、私は缶コーヒーを持つ冷たくなった彼の手の外側を、自分の手で包んで言った。
「ねぇ、これから暇かしら?暇だったら少し飲まない?」
と、同僚には断った誘いを、異性に対して自分からした事のなかった誘いを初めて彼にしたのだった。