花の園でパン・ド・ミを   作:たんぽほ°

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老猫の鳴声が変えたモノ

 

 

 それは季節外れの雪が降る寒い日。

 地上から何メートルも何マイルも離れたはるかな空の高みから、美しい雪が降りしきる虚無的で包括的な夜だった。

 

 

 遠い遠い湖のほとりでおっきなまんまるの満月に魅せられた老猫が鳴いた。

 

 

 あぉ〜んと一鳴き。

 わぉ〜んともう一鳴き。

 

 

 山のせせらぎは、雪のひとひらもろとも、泡だち渦巻きながら谷間の流れに入り、そのとたんから雪は深みのある水の滔々たる勢いにのって運ばれていた。

 

 

 猫の鳴き声の波紋にのった雪は遠い遠い彼の元へ。

 

 

 雪はあやめもわからぬ暗闇をただひたすら、この先どこへ行きつく皆目検討もつかずに飛んでゆく。

 

 

 暗い暗いトンネルを抜けるとあろうことか。

 

 

 雪のひとひらは男を見つけた。

 男は血の滲むほど、その爪で己の腕に差し込んだ。

 どうすればいいんだとうずくまり、耳を塞ぎこむ。

 

 

 けれども、彼の瞳はえもいわれぬ優しさにあふれていた、雪の方が胸がいっぱいになってわっと泣き出したくなるほど。

 

 

 どうして私は彼がこんなに気になるのだろう。

 

 

 雪のひとひらはわれと我が身に問いかけた。その瞬間、彼女の一部で、その心臓の鼓動もそのまま彼女のそれと彼のそれは繋がった。

 

 

 そうか、私は彼が為に…

 

 

 最後に、雪のひとひらは、自分が生をうけたこの世界のありようとその意味に、心から驚嘆した。

 世界にはまず山があり、村があり、街があり、谿があり川があり湖があり、そして海があった。それらはいずれもいかにも広大に見えながら、ひとたびかの巨大な太陽や、月影や満天の星に思いをいたせば、まことに取るに足らないささやかさだった。

 

 

 思えば大あり小あり、美あり醜あり、多あり少あり、驕れるあり慎しきあり、世はさまざまだった。

 けれども、いまにしてわかったように、どんなにささやかな貧しい者、つつましい存在でも、ひとつとして無駄に見過されることはなかったのだ。

 

 

 雪のひとひらも、太陽も、全ては等しく一つの命。だれひとり、何一つとして無意味な物などないのだと。

 

 

 雪のひとひらは、この宇宙のすばらしい調和を思い、この身もその中で一役果すべく世に送られたことを思った。

 すると、安らかな、みちたりた思いが訪れてきた。

 

 

 そう、愛のまなざしのもとに。

 

 

 彼女は彼の怒りと懐疑、不思議に溢れる手の甲に降り降りた。

 

 

「………雪………?どうしてこんな時期に…全然寒くなんてないってのに」

 

 

 さあ、立ち上がって………前へ、前へ…!

 

 

 彼の鼓動は少しずつ、少しずつ強まっていく。

 この終焉のきわに、彼は今一度、あのほのぼのとした、やわらかい、すべてを包みこむような優しいものが身のまわりに立ちこめるのを感じた。

 

 

 それは彼を甘やかな夢にいざない、恐れを鎮め、全身全霊を彼女の優しさが包んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雪が降った。いや、正確には氷の結晶が一つ降った。

 どういう訳かその事実は、俺のこの身を立ち上がらせた。

 怒りや寂しさが渦巻いた心はいつのまにか静まりきっていた。

 

 

 視線を前に向けると、一人の女の子が数人の男に絡まれていた。

 いつもは目に入らない、目に入っても無視して進んだ光景がなぜか見過ごすことができなかった。

 

 

「どこ行ってたんだよ。心配かけさせやがって」

「…え?」

「あ?なんだオメー?」

 

 男達の一人が俺に視線を向けた。

 

 

「オメーって言ったって…こいつの待ち人」

「なにカッコつけてんだ。この子がさっき一人って言ってたぜ」

「……だからなに?」

「そういうみっともない正義感なんていうのに任せて動くガキが俺は大嫌いなんだ」

 

 

 ニヤニヤとしながら、男は俺の胸ぐらを掴む。男の表情に腹が立った俺は言う。

 

 

「俺はあんたみたいな自意識で凝り固まったイキってるやつが大嫌いだ」

「あ?」

「もう一回言ってやろうか。ダセエって言ってんだよボケナス」

「……テメエ!」

 

 

 男が胸ぐら掴んだ手を押し出し、俺をそのまま壁に押し付けた。

 男の膝蹴りが腹の中心に入る。

 

 

「ぐうう!」

「調子のんなよガキ」

 

 

 俺の身体がくの字に曲がると男は俺の顔を持つと横に放り投げた。

 

 

「マジでヤっちまうかもしんねえからよ。ま、死なねえように頑張れや」

 

 

 男は倒れる俺の元に近づくと、サッカーボールキックで二度三度と腹や顔を蹴りつけた。

 

 

「ちょっと!!もういいじゃない!!着いて行くから!!」

「おい!本当にもうそろやめとけって。注目されちまってるぞ」

 

 

 男が周りを見渡すと、周囲に人だかりができその内の何人かは携帯を持ち警察に連絡をしていた。

 

 

「チッ………これで分かったろ、ダセエのはオメーだ。弱っちいガキが」

 

 

 しゃがんだ体制でそう吐き捨てると男達は消えていった。

 

 

 クソ…!クソ!クソが…散々蹴りやがって……いくらなんでもやりすぎだ馬鹿……

 倒れていた姿勢を直し、壁に寄りかかると絡まれていた女の子が近寄ってきた。

 

 

「ごめんなさい。私のせいでこんな…」

「いいよもう。俺もどうにか帰るから、君も早くどっか行って」

「そんなの無理よ!貴方動けそうにないじゃない」

「うるっさいなぁ…動けるから動くって言ってんの…同情とか心配ならムカつくからさっさとどっか行ってくれる?誰のせいでこんななってると思ってんだ」

「イヤよ。私のせいだからこそ貴方が動けるまで私はここを離れない」

「だからぁ……」

 

 

「大丈夫ですか?」

 

 

 近くで見ていたのであろう一人の女性が話しかけてきた。

 

 

「いや、本当にもう大丈夫なんで…ありがとうございました」

 

 

 痛む身体を引きずって、壁に手をつきながらその場を離れた。

 

 

 

 

 

「いつまで着いてくるつもり………?」

「私が満足するまでよ」

「知るか…勝手にしろよ」

 

 

 いくらか歩いた先で後ろを振り返ると、彼女は未だに俺の後ろに着いてきていた。

 彼女を無視して前を振り返ろうとしたところで、彼女が俺の手を掴んで言った。

 

 

「ねえ、私大学のために上京してきて一人暮らしなの。すぐそこに私のアパートがあるから…せめて傷の手当てぐらいはさせて」

「イヤだ」

「わがまま言わないで」

「イヤだって言ってんの。わかんない?」

「…………」

「そういうこと、じゃあね」

「……さい………つ………よ」

「は?」

 

 

 彼女が俯いてプルプルと震えている。

 嫌な予感がした。

 これはまた痛い目に合うと。

 

 

「いだっ!!」

「ぐちぐちうるさい!!黙って着いてきなさいって言ってるのよ!!!」

 

 

 彼女は振り解こうとする俺の手を引っ張ると強烈なビンタでなぎ倒して言った。

 

 

 馬鹿力がぁ……普通に痛かった。ビンタもそうだが、ビンタで打ち付けられた身体が死ぬほど痛い。

 

 

「あんた今何歳!!」

「……18」

「私は20よ!!ほら!ガキんちょは黙ってお姉さんに着いてきなさい!!」

「ちょ、ちょっと待ってひっぱらないで…痛い、痛いから」

「うるっさい!行くわよ!」

 

 

 強引な彼女に俺は拉致された。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「言いそびれちゃったから…本当にありがとう」

「いいですよ…別に…って痛い!」

「動かないで!傷が熟れちゃったら大変でしょ」

「この擦り傷はあんたにやられてできた傷なんだけど…」

「はいはい、ごめんなさいね。ほら絆創膏」

 

 

 そう言って彼女は消毒液をしまうと、頬にできた傷に絆創膏を優しく貼った。

 

 

「ねえ、あなた高校生でしょ?なんであんなところに一人でいたのよ」

「さあね、俺にもわかんない」

「ははーん、さては悩み事ね。わかるわ」

「…別にそんなんじゃ」

「ほらお姉さんに相談してみなさいよ」

「いや、だから…」

「しなさいよ」

「………はい」

 

 

 それから俺は事の次第をいくつかかいつまんで話した。

 

 

「ふーん、お互い好き合っている女子と自分が不釣り合だと思って彼女と向き合うのが怖いか…」

「好き合ってるわけじゃ…」

「いーえ、少なくとも彼女はあなたのことが好きよ。それにあなたも彼女のことが好き」

 

 

 あいつのことをそんな風に見たことは一度もなかった。

 だけど、あいつから逃げ出そうとしている惨めな自分は、あいつのことが好きなのか?

 もしかしたらもっと前からわかっていたのかもしれない。

 わかっていてもわからないように考えていただけで、俺はあいつが………

 

 

「結論から言わせてもらうわ」

「え、はやくない?」

「あなたみたいにぐずぐず考えてられないのよ」

「ぐずぐず……」

「付き合っちゃいなさい!それであなたから彼女に告白するの!」

「……マジで?」

「大マジよ」

 

 

 嘘……マジで…?俺が高垣に告白……?

 まずい。恥ずかしくてあいつの顔見れないぞ。

 

 

「告白を女からさせちゃダメ」

「オレガ、コクハク?」

「アンタガ、コクハクするのよ」

「ううう……キッツいなぁ」

「なに今更恥ずかしがってんのよ!シャキッとしなさい!」

 

 

 そう言って、彼女は俺の背中に張り手をすると手を掴んで立ち上がらせた。

 

 

「子供はこんな夜遅くまで出歩いてちゃダメ。お金あげるからタクシーで帰りなさい」

「歩いて帰りますよ…」

「助けてくれたせめてのお礼よ。受け取って」

「はぁ………分かりました。相談乗ってくれてありがとうございました」

「こちらこそありがとう、よ。助けてくれた時のあなた、カッコよかったわ。もしその子にフラれちゃったら私と付き合わない?」

「縁起でもないこと言うな!」

「ふふ、それじゃあね。おやすみなさい」

「はい。おやすみなさい」

 

 

 彼女の家の扉を開けて外に出る。

 外の空気が傷にしみた。

 それでもこの痛みは、彼女が絆創膏を貼ってくれた手のように優しく、暖かかった。

 

 

「あ、そうだ。あなた名前なんて言うの?」

 

 

 彼女が扉を開けて、顔を覗かせて言った。

 

 

「吾妻景」

「吾妻景か、いい名前ね♪」

 

 

 彼女の笑顔はふわふわととても朗らかで、湖上をわたる夏のそよ風のようで、俺はそんな彼女に心惹かれて茫然としてしまった。

 そんな中で、なんとか言葉を捻り出した。

 

 

「お姉さんは?」

「ん?私?私の名前はね……」

 

 

 

 

 

「川島瑞樹よ。よろしくね、ケイ君」

 

 

 

 

 

 ふと自分の身に不思議なことが起こったのにはじめて気がついた。

 まわりの景色は打って変わり、光に溢れ、はるかかなたに消えかけているあの星の輝きはより一層眩しく光って見えた。

 いつしか元の姿と、あの荒廃した灰色と白との世界とは、似ても似つかぬものになっているようだった。

 

 

 タクシーを拾って、深まる夜の光景を、速度を上げた虚無の真空の中で、一人考えていた。

 

 

 

 彼女に会いたい。

 

 

 

 そう心の底から思った。

 

 

 

 

 

 

 






この世界線は、瑞樹の世界線とコインの裏表、賽子の丁半といった関係ではなく、どちらも表であり裏。丁であり、半であることを理解していただきたいです。
どちらも正史であるのです。
瑞樹の話と同時進行で続きます。たぶんもう一回こっちを挟むと思います。そしたら瑞樹→楓→っていう感じで。
このバタフライ効果で何が起こるのか。気長にご期待ください。


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