花の園でパン・ド・ミを   作:たんぽほ°

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木こりの斧

 

 男は、小さいころからひとりぼっちでした。そのせいか、きみのわるいくらい年よりのような自意識をもっていました。

 そして、とてもわすれんぼうでした。

 秋の朝。まだくらいころのことです。その男はじぶんの名前をわすれてしまいました。

 人の名前をわすれると、すこし、ゆううつになりましたが、じぶんの名前をわすれてしまうのはもっとむなしいことでした。

 男は、あるひ、むねがくるしくなりました。ふだんは出来ていたうんどうができなくなりました。

 とうとう、ちのからまったたんをはくようになり、自分のせいにぎもんをもちました。

 男は、病院にいきました。病院のまちあいしつでよばれるじぶんの名前にきづくのにじかんがかかったりもしました。

 病院の先生にみてもらうと、先生は男に、はいがんです。といいました。

 男は、ああ、そうなんですか。とまるでひとごとのようにいいました。

 先生は、どうしますか?と問うと、男はどうしましょうか。とききました。

 先生は、治療しましょう。その方法はこんごのこまかなけんさで決めていきます。といいました。

 男は、わかりました。とまた、ひとごとのようにいいました。

 男は、病院からでると、あてもなくあるきつづけました。

 きえかかった冬の夜があしぶみして、遠い夜あけを待つあいだに、男はある女にあいました。

 男は、もう女にはあわない。こうきめると、ふたたび、ねむりこんでしまいました。

 夜のあけるまで、ゆめも見ないで、ぐっすりとねむりました。

 

 

 

 

 男は、女の光に照らされ、女の光に魅せられました。

 しかし、男は、大海を夢見る蛙のように、その手を光に伸ばすことは出来ませんでした。

 男は、光の美しさにつられて飛び込むと、光に焼き殺されることを知っていました。

 そして男は、自分が羽の欠けた、地を這いずる蝶であることを知っていました。

 蝶は、光を避け、暗影に、暗闇に、と歩を進めます。

 だけど、影は光の中にこそあるのです。蝶の影を写すのは他でもない光なのです。

 夜の帳が下りると、辺りを闇が包みます。けれども、朝日は必ず昇るのです。穏やかで、温かな色の光です。頼もしく光る、光。

 蝶は、ひとりぼっちでした。

 いま、一体どこにいるのだろう。光は蝶を探します。どこかで蝶に会えるかな、私が、蝶のことを、目に見えるように、はっきりとお話すれば、姿を現わすかもしれない。

 光は、そう考えると、また昇るのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 ───────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ、二日酔いはなさそうね」

 

 翌日の金曜日、瑞樹は目を開け身体を起こすと枕元に置いていた携帯を手に取った。

 ロック画面を解除してメールのアプリを立ち上げると、例の“彼”からの連絡が『ケイです』という題名とともに『よく眠れましたか?お代の事はお気になさらず』とまるでもう貴女とはもう会わないと言っているかのような、瑞樹が唖然とするくらい短い文章だった。

 

 寝ぼけた瞼を開けながら瑞樹はメールの返信ボタンを押す。

『連絡どうもありがとう、ダーリン。それと昨日の夜のことはごめんなさい。あなたはとびっきり優しかったわ。感佩しても足りないくらい。残念ながらお代の事は気にするの。時間が空いてる日を教えてね』

 返事を書くと、さっと跳ね起き服を脱いで脱衣箱に入れるとシャワーを浴びた。

 

 

 

 シャワーを浴び終え、髪を乾かしながら携帯を開くと高校時代の友人からメッセージが届いていた。

『瑞樹やっほ!今日暇かな?久しぶりにランチでもどう?』

 時計に目を向けると、時刻は九時十四分を指していた。

 

「たしかに、久しぶりに会って話でも聞いてもらおうかな」

 

 瑞樹はつぶやくと友人に了承の返信を送った。

 

 

 

 

 瑞樹はマンションを出てタクシーを拾う。少し疲れが残っているが、旧友に会える楽しみが優ってそう気にはならなかった。タクシーの運転手に目的地の喫茶店の名前を告げ、それからは流れる景色を眺めながらケイについて考えていた。

 彼女がケイと昨日顔を合わせてみて気になることというのは、今にして思えば幸運な事だった。それが意味するのは、ケイは瑞樹と何というか、明確に言葉にすることは難しいが、とても馬が合ったということだ。

 今になって外見を探り出す。

 昨日はバーの暗がりでよくわからなかったが、ケイは周りの男性に比べて痩せすぎな気がした。頬は痩け隈が目立って一目見て病的と思えるように。たしか彼は肺を患っていると言っていた。重い病気なのかと心配になる。今度彼に会ったら問い詰めようと決めた。

 

 

 瑞樹の中のケイの印象は、すらりと長い手脚に、紫黒の黒髪、右目の下の泣き黒子、そして彼の惰性的で艶っぽい雰囲気に誘われた彼の肩に抱かれる魅力的な娘たち───いや、女たち。

 瑞樹は鼻を鳴らした。

 彼と話してわかった。彼は誰彼構わず口説くような男ではない。むしろ、心中では自分に近づく者を拒んでいるような、そんな感覚がした。

 

 角のところで停めてくれと彼女。喫茶店は小さな食品雑貨店とこじんまりとした花屋に挟まれ、言葉なく叙情的に埋没するように建っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「久しぶり〜!」

「久しぶりね!」

 

 瑞樹の友人のミサが彼女を馴染みやすい笑みを浮かべて、彼女を出迎え、彼女もそれに応じて微笑んだ。

 

「元気にしてた?」

 

 軽快に尋ねるミサの左手の薬指には銀色に輝く淡い光が灯っているのを見つけた。

 

「うん。少し疲れることはあるけど、仕事が嫌なわけではないし、ぼちぼちやってるわ。それと…どう?子供っていうのは?」

「えへへ…正直に言っちゃうとね。可愛くてしょうがないわ!確かに夜泣きはキツいし、おしめを替えたりするのも疲れるのよね。どっと。でも、それでもね。…この子は私があんなにお腹痛めて、産んだんだって思うと愛おしくて、愛おしくて…もう!恥ずかしいわ!」

 

 ミサは頬に手を当てキャーキャーと身体をくねらせた。

 ふうとため息を一つついて微笑みながら瑞樹は続けて尋ねる。

 

「もう、今更恥ずがらなくたっていいじゃない!そういえば赤ちゃんはどうしてるの?」

「今は義母さんに預けてる。あの子もようやく周りの人の顔を覚えてきたみたいで。旦那と義母さんなら泣き止むようになったの。義母さんもたまには息抜きしてきなさいって言ってくれて。義母さんとも仲良くやれててすごくホッとしてるわ」

「写真みせてよ!」

 

 いいわよ〜とミサは携帯を取り出して彼女に我が子の愛画を見せた。

 

「かわいい〜!」

「でしょでしょ〜!今からでも頬ずりしたいくらい!」

「…いいなぁ」

「いいなぁって、瑞樹はどうなのよ。職場でいい人とかはいないの?」

「うーん。それがいないのよねぇ」

「もったいないわねー。まっ、高校の時から変わってないのは少し安心したかな。学校一のイケメンの先輩の告白断ったりして…芸能界でもダメなのかしら。そういえば、この前テレビで気鋭のモデルの子が瑞樹がタイプって言ってたわよ!その子はどう?いい子そうだったけど」

「あ〜…あの子ねぇ…悪いけど、あの手のタイプって自分しか映ってないのよ。私の手をひく自分しかね」

 

 瑞樹は期待はずれと言うように、首を振った。

 

「ふーん。そんなものなのかしら。私にはサッパリわかんなーい」

「あーでも、少し気になる人はいるわ」

「え!誰!誰!?」

「芸能人じゃないわ。昨日たまたま飲みの席が一緒になっただけ…よ…」

「あら、芸能人じゃないのね。ってどうしたのよ?ん?」

「ケイ君…?」

「どこ見てるの?」

「いや、あの人よ…昨日の彼」

「わーお。これまたイケメン。…ちょっと瑞樹!」

「ケイ君!」

 

 瑞樹はガタと椅子を鳴らして立ち上がると、件の男へ歩いて行った。

 

「?…………川島さん!?」

「あなたねぇ…!って何それ?」

「いや、これは…」

「まあまあ。瑞樹も少しは落ち着きなさいよ。注目されちゃってるわよ?」

 

 ミサに窘められ瑞樹は周りを見渡すと、客から店員までこちらを見ていた。

 顔を赤くした瑞樹はケイの手を取ると、彼女達が座る席まで引きずった。

 

 瑞樹はケイを見やる。

 悠然と微笑み、まっすぐ相手を見やるのが、先日知り得た普段のケイだった。しかし彼の笑みは今に限って、すっかり弱々しいものになっていた。それはグラスから溢れた水のように、頼りなく唇にこびりついているだけだった。

 

「その紙を…みせなさい」

 

 瑞樹は、まるで皇族貴族のように泰然自若にケイに問いかける。

 しかし、ケイは口を噤んで、視線を下に向けていた。

 

「大体予想は着くわ。あなたの病気のことでしょう。はやく出しなさい」

「まあまあ。瑞樹もそんなカッカしないの。はじめまして、私はこの子の友達のミサよ」

「………はじめまして、ケイです」

 

 ケイは口数少なく自己紹介をすると、もう一度俯いた。

 

「ねえ、単刀直入に言うけど。あなたって何者?」

「何者…なんでしょうか。川島さんとは昨日出会ったばかりですから」

「歳は?」

「26です」

「「26!?」」

 

 二人は同時に身を前に乗り出して大げさに反応した。ケイは瑞樹がこんなにリアクションを取ることは疑問だった。

 

「あらまあ、思ったより近い…」

「私、もっと歳下だと思ってたわ…」

「失礼だけど、お仕事は?」

「あの…なぜそこまで?」

「瑞樹の親友としては、この子に近づく男達を長い間見てきたから。少しは警戒しないとね」

「僕等はそんな関係じゃないですよ。ただたまたま会って、昨日川島さんを家まで送っただけの男です」

 

 瑞樹はケイの先ほどからの他人面をする口ぶりに苛立ちを感じた。なぜかは自分でもよく分からなかったが、どういうわけか無性に腹が立った。

 

「だったら今日からは、私とあなたは友達ね。二度も偶然出会ったんだもの」

「友達…ですか。それはどうでしょうか」

「私と親しくなるのがそんなにイヤ?」

「ちょっと瑞樹もそんなに躍起にならないで」

「でも…」

「お手洗いにでも行ってきなさいな。私、彼と少し話したいことがあるの」

「…わかったわ」

 

 瑞樹は乱雑に席を立つと手洗いに向かっていった。

 

「私も不思議な気持ちだわ」

「?」

「瑞樹が男の人のことでこんなに感情的になるなんて、一度も見たことなかったもの」

「………それは僕の知るところではないですから…」

「どういう事情なのか私には分からないけど、もう少しあの子に向き合ってもらえないかしら?」

 

 ケイは数瞬考え、ミサに手に持つ紙を見せた。

 そこには『肺がんⅡB期 肺及び、肝臓。他部転移の可能性あり』と書かれていた。

 

「肺がん…それに肝臓まで…」

「手術が必要みたいです。生存確率は50%以下の46%。他の場所に転移している可能性も高いらしい。そんな僕でも、今は眠りが唯一の救いなんです。目が覚めている間じゅう苦しんでる。苦痛だけです。苦しみから解放されるときがありません。もう大して生きられないでしょう」

「それで…」

「これで僕が彼女に近づいてはいけない理由がわかりましたか?」

「…でも手術はもちろんするんでしょ?」

「さぁ、どうでしょうか。しないかもしれない。僕には『元気にならなくちゃ』とは素直には思えない。こんな状況で安らかに死ねるとしたら、それもまた本望です」

 

 ケイの手は力無く握られているだけだ。

 

「以前、死刑を宣告された犯罪者の刑が執行されたというニュースをみました。今では彼のことを羨ましいと思います。そのときは、こんなことをちっとも感じませんでしたが、今は彼を幸せなヤツだと思います。死んで当然のヤツだったけど、苦しみもなく、あっという間で痛みもなく死ねた。それは幸福なことなのかもしれない。それに比べ、僕は毎時間、毎日が苦痛の連続です。生き続ける意味も見出せていない」

 

 ケイは窓の外の景気を見やり、ミサを見ると儚げに呟いた。

 

「この辺りでお暇させてもらいます。川島さんには僕は帰ったと伝えてください。あと、これ以降連絡を取る必要はないと」

 

 ケイは静かに立ち上がり、出口に向かっていくと、ミサがケイの手を取る。

 

「………まだ話でも?」

 

 一言、ケイはミサに対して言葉に少し怒気を乗せた。

 ケイはもう放っておいて欲しかった。この場からすぐに逃げ出したかった。

 しかしミサはそれを許さない。

 

「あなたはそれでもいいの?誰かに支えてもらいたいとは思わないの?」

「…その誰かは僕にはもったいない。元々一人でしたから。死ぬ時も一人。何も問題はありません」

「本当にそうかしら?」

「…………どういうことですか?」

「あなたはそう思ってもこの子がそれを許すかってことよ」

 

 ミサはケイを見つめて言うと、手に持つ携帯の画面をケイの顔前まで持っていく。画面には通話中の文字と瑞樹の名前があった。

 

「いつから…」

「あーあ、これは大目玉ね。あの子ブチギレちゃってるわよ」

 

 そう言ったミサの視線の先に目を移すと、携帯を耳元に抑え、目を釣りあげ憤怒の表情を浮かべた瑞樹がいた。

 

「川島さん…」

「許さないわ……」

「えっと…その…って…え?」

 

 ケイが目にしたのは、瑞樹の目元に溜まった蒼い滴だった。

 身体を震わせ瑞樹はケイに言う。

 

「一人で、誰にも知られず、死ぬなんて許さない!」

「あなたが一人だったとか私には関係ない!」

「それならこれからは私が側にいて、あなたの世話をする!」

「あなたが寒いと言えば、抱きしめて暖める!あなたが眠りたいと言うなら、あなたが眠れるまであなたの手を握り続けるわ!」

 

 

「だから…だから……もう二度と、死にたいなんて言わないで…………」

 

 

「川島さん…」

「ねえ、これでもあなたは瑞樹を拒むの?」

「…………」

「前に…自殺志願者をインタビューすることがあって、こんな文献を目にしたわ」

 

 

 

 太陽の光は金色のベールとなって輝き

 あまりの美しさに私の体は疼く

 頭上には叫びだしそうな青い空

 確信を得てわたしは思わず微笑む

 世界は花に満ち微笑んでいるかのようだ

 飛び立ちたい、でもどこへ?どこまで高く?

 有刺鉄線に囲まれていても花は開く、それなら

 この私だって!絶対に死んだりしない!

 

 

 

「作者不明の『陽ざしあふれる夕べに』という作品だったわ。こんな風にあなたにも想って欲しい」

「僕は…それでも」

「それでも、私に迷惑をかけるなんて思って欲しくなんかないの。私がやりたいからやるの」

 

 

 

 

 

 女は

 ためらう男の心の琴線の上を

 悲哀の音楽を奏でながら

 疾走していく。

 

 




デキル女ミサさんによってなんとなくで流されていますが、私に医療に関する知識が全くないため、ぽやっとした描写でお許しください。

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