夕暮れの病院のベンチで座り、俺は明日の手術に思いを馳せていた。
明日で俺のこれからが決まる。彼女との未来が決まる。
「こんにちは、何をしてるの?」
後ろから誰かに話しかけられた。首だけを後ろに回すと髪の毛を二つに纏めた華奢な少女だった。
「ん?…ああ、カラスの鳴き声を聴いてたんだ」
不意にまた嘘をつく。
彼女と会って、少し変わり始めた心の障壁は、奥底に楔となって巣食い続ける。
「お兄さん今、嘘ついたでしょ?」
「ついてないよ」
「私、分かるんだ。これまで散々聞いたもの」
ああ、この娘は…
「『きっと、次はよくなる』、『手術は成功した』って?」
「そう、うんざりしちゃう。オトナの見え透いた嘘」
「そうだね。でもそれはたぶん必要な嘘なんだよ、
「ふぇ!?なんで…」
「周りをよく見てるのは君だけじゃないってことさ」
「…へえ、やっぱ面白いねお兄さん」
彼女には、見えているのだろう。
周囲の状況や立場、環境全て。そして俺の今ついた嘘も。
彼女の名前を知ったのは、本当に偶然の事だった。
先日、窓の外を物憂げに眺めていた可憐な少女を目にしただけ。ただそれだけの事だった。
「『やっぱ』って?」
「お兄さんの表情だよ」
「僕の表情が何か変かな?」
「お兄さんの顔色から分かるんだけど、ただの入院じゃないよね?」
「まあね、大したこともない手術をするだけだよ」
「……これまでもお兄さんみたいに大きな病を抱えて、ここに来る人の表情はみんな決まってるもの」
「…………へぇ、どんな?」
「否認と孤立、憂鬱。そして、怒り。そのどれもお兄さんには当て嵌まらない」
「君には、そう見えると?」
「うん。お兄さんからは、希望が見える」
「…………賢いんだね、君は」
「ふふっ、そうでしょ?」
胸を張って答える彼女からは、勇気と強さ。そして一糸の弱さが見えた。
「これは誰にも言ってないのだけれど、本当は、失敗すると思っていないんだ」
「すごい自信ね」
「まあね。でもこれだけは言えるよ。俺は生きて帰る」
彼女の元へ。
これは紛れもなく、俺の心の底から出た言葉だった。
「僕から君に、一つ質問をしてもいいかな?」
「質問?ええ、どうぞ?」
「こうして僕らが毎日毎日必死こいて生きてるのは、いったい何のためなんだろう?」
「うーん、なんでなんだろ?自分や周りの家族や友達、自分を待ってくれている人達のため?」
「なるほどね。
もし、僕らの人生が、時間や空間のようなものに頼って成立してるようなものだったなら、やがて僕らが、時間と空間を克服したあかつきには、どんなことになるんだろう?」
「?どういう意味?」
「それは僕らの生きる意味すら破壊することになるんじゃないかな?
空間を克服したあかつきには、僕らにとって残るのは
そして、もし時間を征服したとすれば、僕らの前にあるのは
そうなれば、この
そうは、思わないかい?」
「あーもー!言ってる意味がよく分かんないって!」
「ふふふ、そっかそっか。それはごめんね」
「む、なんか馬鹿にされた気がするかも」
「馬鹿になんかしてないさ」
彼女の二つに纏めた髪が風に揺れている。
これは俺から彼女への餞別。
曲がりくねった再逢の約束。
「恥ずかしがりの僕なりのメタファーだよ」
「え」
「また会おう。次はもちろん、病院の外でね」
「
「はは……君もよく見ているんだね。ありがとう」
先週の嵐は、今日の為だったと言わんばかりに、金色の平和の冠となってこの夕焼けを贈っているようだった。
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吾妻景。
アヅマケイ。
それが彼の名前です。
彼は、幼少時に両親を病で亡くしました。
奇しくも、彼と同じ、がんでした。
二歳で母が、四歳で父が母を追うようにして息を引き取りました。
父方の祖父に引き取られた彼は、仕事に没頭する祖父の元で満足に愛を感じることなく育ちます。
祖父は孤独に一人、パン屋を営んでいました。
それから彼は、いつだって言葉少ない祖父の大きな背中を見て小学校、中学校を卒業しました。
彼が高校に入って一年が過ぎる頃。
祖父がふとした事を忘れることが日に日に多くなりました。
最初は、新作のパンの作り方を忘れた事だったでしょうか。
それからは、次第に多くのことを忘れて行きました。
祖父が自ら命を絶つ一年前。
祖父はとうとう、彼、孫の名前を忘れました。
しかし、祖父が自殺した前日まで祖父はあるパンの作り方だけは忘れませんでした。
それは店の看板商品である、パン・ド・ミです。
しとしとと、いつまでも、いつまでも、雨が振り続けそうな、ある秋の夜長。
彼は工房で大量の錠剤と静かに眠る祖父を見つけました。
その祖父の手には、つい先ほどまでパンを作っていたかのように小麦粉が着いていたそうです。
遺体の傍らにあった調理台の上には、いくつもの食パンがあり、それらは全てカタチは成していたものの、祖父が作っていたパンとは味も見た目も程遠く歪なものでした。
祖父が何故、それは彼にも分かりませんが、祖父が自殺をしたのが孫の好物のメロンパンを忘れた時でも店の殆どのメニューを忘れた時でもなく、パン・ド・ミを忘れた時だったことは確かでした。
明くる日の朝、訃報を聞いた祖父の息子、父の兄である叔父が家にやってきて言いました。
「お前が産まれてから全てがおかしくなった」
確かに彼が生を受けてから両親は死に、祖父は認知症になりましたが、どれも病や事故のような彼にはどうにもならないことばかりでした。
彼がどうしたら良いものかと黙り込んでしまうと叔父は言いました。
「お前は母とその浮気相手にできた不義の子だ」
彼は言葉を失いました。
叔父は続けて言います。
「祖父からは死んだと伝えられていた祖母は、お前を育てるか育てないか大いに揉め、結局祖父を見限り、家を出て行った」
彼のその時の衝撃は如何程だったでしょうか。
それは、私でも想像つきません。
祖父は、彼の入学式にも、授業参観にも、運動会にも、卒業式にも一度と顔は出したことはありませんでした。
しかし、それにも理由がありました。彼を養うには、老体を押してでも店を営まなければなりません。
祖父は働き続けました。
祖父は、たとえ、血が繋がっていなくとも、私の孫には変わりないのだと。
一方で、彼は、自分は愛されていない、ただの邪魔者であったのではないかと思っていました。
事実はそう、勘違いしていただけで、誰よりも彼を愛したのは祖父でした。
しかし、それに気づいたのは祖父が去ってしまってから。
後の祭りでした。
ひとりぼっちだった彼は、真にひとりぼっちとなってしまったのでした。
彼はその時、『吾妻』の名を忘れました。
後に残ったのは
それから彼は、何かに追われるようにパンを焼き続けました。
祖父への罪滅ぼしのつもりだったのか、それとも彼の手に残ったのが祖父のパン屋だけだったのか。
正解はもしかしたら、彼にも分からないのかもしれません。
彼は彼自身に対して防柵を築き、他人と深く関わるのをやめました。
表面上だけで。接地面だけで。
もう誰かを傷つけないように、壊さないように。
小さな摩擦すら恐れました。
もう誰かに傷つけられないように、壊されないように。
彼は、ココロを大海の遥か遠い、遠いほとりへと追いやりました。
海岸を少女は歩きます。
その日は星降る、雲一つない落ちてきそうな満月の夜。大きな、大きなまんまるの月の力の強まる幻想的な夜でした。
星の光は清らかで、夜空の高みに優しく心をなごませるような輝きを放っていました。
貝を拾っていた少女は、膝を抱えてうずくまる人形を見つけました。
その人形はいままで拾ったどの貝よりも、美しく綺麗でした。
少女は、人形に尋ねます。
「きれいなお人形さん、あなたはどこから来たの?」
人形は、何も言いません。
「あなたはひとりぼっちなのね。だったら私が側にいてあげる」
少女は、人形の隣に腰を下ろすと、少女の温もりを人形に感じさせるように、人形の肩に頭をのせて、共に海のさざ波の音を聴きました。
何時間、何分、何秒?
二人には時間の概念を感じさせない程、この世の終わりかと思えるまで、少女は人形に寄り添いました。
すると、海の果てからぷかぷかと一つのボトルが彼女の元へ流れ着きました。
なにかしらと少女が中を覗くと、そこには小さなハートが入っていました。
少女は、ハートをボトルから取り出して見るとハートには、くしゃくしゃの子供のように拙い文字が書かれていました。
少女は、もしかしてと人形の胸元を注視すると、人形には胸元に大きなくぼみがぽっかりと空いていました。
少女が天を眺めやると、流れ星がふっと光って、ふっと消え、数多にスイスイと飛んで行く蛍火のようなあえかな光達を見つけました。
少女はハートを人形の胸に嵌め込むと、流星群から一つの星がこぼれ落ち、彼の胸に落ちました。
辺りを夢幻的な光が包みます。
人形の体が眩く輝くと、立ち上がって彼女を抱きしめました。
「ありがとう。僕を見つけてくれて」
人形から人間に変わった男は、そう言うと、少女は男の胸に顔を埋めて言います。
「きれいな、きれいなお人形さん。やっぱりあなたは人だったのね。もっと顔をよく見せて」
少女は男の頬を優しく包むと、言いました。
「お人形さんのあなたも大好きだったけれど、今のあなたのほうがずっとずっと大好きよ」
「ありがとう」
涙を流す少女の目元を男は拭うと、抱きしめそっとキスをしました。
空に光る三日月はぴかぴかと光って、まるで二人を祝福するかのように微笑んでいました。
「…………………く……」
「……くん……きて……」
景。聞こえるか?はやく目を覚ませ。
お前の寝坊癖はいつまで経っても治んねーもんだ。
まだまだ俺に縋ってるままじゃ駄目なんだ。
さっさと起きて、自分の足で立ってお天道様に挨拶しろ。
そんでお前の彼女に感謝するんだな。
昨日から寝ずにお前を心配して、ここには朝一番で来てくれたんだ。
今はお前を待ってくれる人がいる。
ひ孫の顔を見るのを楽しみしているよ。
「…起きて…ケイ君……」
「……瑞樹?」
「良かった…」
彼女は身体を起こした俺に抱き着いた。
「………寝てないの?ヒドイ隈だよ」
「もう…こんな時までからかって…!」
瞼に涙を溜めた彼女に微笑むと、彼女も一緒になって微笑んだ。
妙に懐かしいあの声は…………
うん…わかってるよ。
前に墓参りに行った時に、もうすぐ逝くよって言ったけど、あれはやっぱり取り消しだ。
ずっと見てくれたんだね。
これからも頼むよ。
おじいちゃん。