お久しぶりです。
短いのは本当に申し訳ないです…これまで通り不定期ですが、私生活の合間を縫って完結まで頑張ってみようと思います。
タイトルにはなんの意味もありません、この話を書き上げた際に聴いていた曲の題名です。
瑞樹には初めての経験だった。
「みんなが貴方を欲しがる」
彼を引く手は数多ある。
「イヤよ。誰にも渡したくない」
その手は誰かでも、人ではない概念でもあった。
「イヤ」
それでも瑞樹は拒絶した。
「私がこうなるだなんて。自分でも想像もしなかったのよ」
いつの間にやら、助けたいと願った彼に溺れていた自分。
「本気なの?瑞樹?」
答えは赫らむ自らの顔がすでに出していた。
「ええ、今更怖がってどうするの。それを探す過程はとうに過ぎたのよ」
痛いほど胸の鼓動は鳴り続ける。
都内にある集合住宅の門を入って、むやみに明るい街灯に照らされた家々を通り過ぎ、少し行った先に小高い丘がある。
斜面に枕木が装飾兼用で埋め込まれている小道を抜けると、彼の家、兼職場はそこにぽつんと寂しく立っている。
瑞樹はつとめて平静さを装っている。
彼女はぎこちない笑みを浮かべた。
「何度来てみても、ここはいいとこね」と、朱の傘を差しながら歩いていった。
瑞樹はインターホンを押すと、数瞬した後にはい。と彼の声に似た機械音が聞こえた。
「私よ。瑞樹」
そう短く告げると、木目調の扉がガチャリと開いた。
「こんばんは」
瑞樹は髪を撫でやかにかきあげイヤリングに触りながら挨拶をした。
「瑞樹──」
彼はうまい言葉を答えあぐねているようだった。
「んっ」
瑞樹は傘を投げ捨てると彼の腰と首を腕と手で抑え込むと、彼に口づけをして、舌を差し込んだ。
その口づけは人目のある場所、ひいては玄関先でするにはあまりに過激で熱のこもった口づけだった。
「瑞樹──」
「大丈夫よ」と、瑞樹は彼の髪を優しく撫でた。
瑞樹と彼はそれから何も言わず、長い間キスをした。
どちらからともなく、唇を離すと、瑞樹が口を開いた。
「抱きしめて」
彼にははじめ、瑞樹が何を言っているのか、あまり理解ができなかった。
「苦しいくらいに、消えない傷ができるくらいに抱きしめて欲しい」
彼は瑞樹を自分が視界に入れたときも、彼女の雰囲気が異様にきつい感じがした。
さらに驚いたのは、瑞樹からそれから声を出さなかったことだった。
はじめは玄関先では話す内容だと考えているせいだと思った。
だが、それではなぜ目を見開いたままなのか、なぜ目が濡れて、懇願するような色を宿しているのか説明がつかなかった。
「ケイ君」と瑞樹が言った。
ちょうど彼が瑞樹の言葉の真意を問いただそうと声をかけようとしたときだった。
「ケイ君、言いたいことがあるの──」
「なんだい?」
彼は声をしぼりだした。
「私──」
「私、あなたの隣に居てもいいんだって証明が欲しいの」
理性的に考えられるわけはなかったが、彼もまた欲しいと願った。
二人にはそれだけが全てだ。
時は遡ること十二日と一時間ほど。
瑞樹は内心で彼のための読書リストを作り出していた。
手はじめはサリンジャーがいいかもしれない。はやく読めるし、あれなら彼も興味が持続するだろう。それとも自らの趣味に沿って、もっとロマンティックな──たとえば『嵐が丘』とか『ジェーン・エア』、あるいは『風と共に去りぬ』あたりがいいかもしれない──そう、『風と共に去りぬ』ならば最適だ。
マリリン・モンローに魅せられる点を考えて、美女が悲劇的な結末を迎える物語、『アンナ・カレーニア』や『ボヴァリー夫人』もいいだろう。
もちろん瑞樹が少し道案内をしてやれば、シェイクスピアに挑戦できないこともない──まあ、彼のことならシェイクスピアならば既に読んでいるだろうと考えても、もし未読ならば『ロミオとジュリエット』が最初はぴったりだ。
シェイクスピアを思いついたとたんに、瑞樹はテネシー・ウィリアムからチェーホフ、ショーへと連想を広げていった。
ここで瑞樹ははっと夢から醒めた。
瑞樹は何もケイを別の男にしようとしたいわけではなかった。
少なくとも彼女が好意を寄せるケイという男は、それらの本を読んでいた男ではなかった。
それでも、瑞樹は自分の趣味に染まるケイの姿を想像して、痛くその身体を熱くしていた。
彼女の表情はそのたびにいろいろと変化した。
感嘆、羨望、懼れ──嘲るような冷笑も浮かんだ。
まさかこれほど自分の顔にたくさんの表情があったとは予想もしなかった。
これこそ彼女の考える「傲慢で一人よがりな恋愛」の形だった。
瑞樹はそんな自分が気恥ずかしくなり、布団を頭からかぶった。
暗闇の中から枕元の本棚に手を伸ばすと、一冊の本を抜いた。
「ふふっ、予想外ね」
それは『ハックルベリー・フィンの冒険』だった。
モノポリーゲームに似た彼女の家は真暗で、昏い夜空にぼんやりとした長方形のシルエットを浮かばせていた。
彼女。こと記者の相田美保は鍵のかかってない玄関のドアをあけて、家に入っていった。
遊園地のびっくりハウスを思わせる深い闇だ。
彼女はじりじりと足をすすめ──ナイロンらしきものを踏んで、あやうくころびかけた──高校時代に好きだったアイドルのポスターを祀った壁までやってきた。
写真に指を這わせていくと、電灯のスイッチがさわった。
カチリとつけたが、漆黒の闇は変わらない。
電球が切れたのか?
たしかに、最後にこの家に帰ってきたのは二ヶ月も前だ。
手さぐりで壁の曲がり角をみつけ、廊下をすすんで寝室に入った。
窓からの光でおぼろげながら部屋の様子がわかる。
ベッドは空っぽだった。
窓辺の扇風機も停止している。
彼女はデッキチェアに寝そべると、ぽっちりとした煙草の赤い火をその上に漂わせていた。
「貧乏人って、ムカつくわよねぇ」
このような低い、とがった声を彼女は普段は出さない。
これまで慎重に隠していた彼女の一面はここでだけあらわになる。
いいかげんで、卑屈で、憐れっぽい性格だ。
彼女の体から発した敵意にみちた物理的な波動が、ひたひたとシャツに打ち寄せた。
煙草の先端が闇のなかでゆっくりと弧をえがき、吸われたとみえて赤々と燃えさかった。
相田美保は元来、こんな女性ではなかった。
小中高と水泳部に所属し、勉強もそこそこできたし、それなりの大学も出た。
だのに、どうしてこんな惨めな暮らしをしているのかを彼女自身もわかっていなかった。
大学時代に付き合った年上の男が、ヒモでどうしようもないクズだったから?
平凡な人生に飽き、馬鹿な好奇心を探り寄せてしまったから?
正直、今の彼女にはそんなものはどうでもよくなっていた。