数年ぶりの投稿になります。
瑞樹パートを手直ししておりますので、興味があればご一読いただけると幸いです。
日曜の朝には公園沿いの店に鳥々の鳴声が響く中を、東京の気取った客達が誰彼と無くケイの店に舞い戻り、店の前に数人の列を成した。
「アヅマベーカリーさん、再開してくれてよかったわ」
貴婦人は、ケイに語りかけながら選んだ焼き立てのパンを会計に持ち込んだ。
「佐藤さん、お久しぶりです」
黒のシックなワンピースに身を包んだ貴婦人にパンを包んだ紙袋を渡してケイは軽く会釈をした。
「日曜の朝はここでエピを買って、コーヒーを飲むのが日課だったから、お休みになっちゃって大変だったのよ?」
「アメリカン?」
ケイが尋ねた。
「そう! 覚えててくれたのね」
「ええ、佐藤さんは昔からの常連さんですから」
貴婦人は紙袋を手に取り、出口の方へ歩き出す。
「そういえば」と思い出したように振り返った貴婦人が感慨深げに落ち着いた声で言った。
「明るくなったわね。憑き物が落ちたみたい」
「……はは、そうですか?」
少し間を空けたケイは、すぐに諦めて無邪気に尋ねた。
貴婦人は思い出す、数年前まで少年時代の深く心を打たれた記憶に留まることしかできなかったケイの姿を。
昔から愛想が悪いわけではなかったが、話しているのにそこにはいないような、そんな儚さを持つ姿を。
休業明けの今度もあれと同じく、また虚勢という暗いかたまりが流れ去っていくように話す彼を見るはずだと思っていた。
ただ今はどうだ。
店には以前まではなかった花などの植物が飾られていた。
林檎の木の枝が飾られ、匂いに満ちて店は明るい印象に富んでいた。
「良い人ができたのかしら?」
貴婦人は、優しく語りかける。それにはほんの少しの慈愛をはらんで。
「さあ? どうでしょうね」
少しはにかんだケイを見て、貴婦人は考える。
昔のケイはその容姿や話し方から来る華やかさの裏には、夜の雲の海を彷徨うような、無窮の世界が足元に広がっているような印象だった。
ただたぶん今は、ケイの両手をしっかりと握りしめて、今日から明日へと、宝物のように大切に守ってくれている人がいるのだと確信した。
これは貴婦人の勘ではあったが、この音楽的とも思えるなだらかで心弾むような勘は、嘆きも叫びもない最純粋な願いでもあった。
「あら、妬けちゃうわ」
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その日は珍しくケイが瑞樹の部屋にいた。
「ケイ君、私やっぱりやってみたいの思うの」
ケイには、進言することなんかまるでないのだが、ただこうして瑞樹の目を見てしまうとどうしたものかと悩んでしまうのだった。
ケイは、なんとかしてその問いに対する正解を見出したかった。
ケイは謎でも解くような気持ちでそれを探した。
ケイが見出す解決法はきっと決まって、瑞樹に拒絶されそうなものばかりだった。
「瑞樹、本気で言っているのかい?」
「ええ、本気よ。ケイ君、人生には解決法なんてないのよ。人生にあるのは、前進中の力だけ。その力をいま造り出さなきゃいけないの。それさえあれば解決法なんか、勝手に見つかるものよ」
だからケイは、自分の役割を瑞樹と瑞樹が起こそうとしている事の間に、活動的な力を造り出し押し止めるだけに留めていた。
この力が瑞樹が暴走するのを防いでくれると信じていたし、実際そうだった。
ところが、現在の事態を前にして、ケイは全く無力だった。
元より瑞樹という人間は、暴風雨に対しても幽霊に対してだって、一度覚悟してしまえば止められるものではなかった。
そんなわけでいま、ケイは瑞樹を待たせてコーヒーを飲みながらしょう事なさに部屋をぐるぐるとまわっていた。
瑞樹がアイドルになると言い出したのだ。
普通であれば、頭がおかしくなったのかと問いかける場面でもあろうが、身近に前例がいたので少し納得もしてしまった。
彼女も少し恥ずかしさを感じていたようで、不安な気持ちでケイの顔を見ていた。
ケイの本心としては全力で応援がしたい。が、気掛かりなのは瑞樹の年齢だった。
二八歳。
本来アイドルを目指すには遅すぎるとも言える年齢だった。
彼女の夢も、苦悩も、ケイは理解しているつもりだった。それでもケイは瑞樹の現在が瑞樹自身を否定しているようにも感じられた。
対して瑞樹もケイが賛成してくれるような兆しがないものかと必死に探していた。
アナウンサーとして受賞したトロフィーも、花束も全てがこれからアイドルを目指すことに対しての否定を現していた。
瑞樹にはいま何の兆しも見当たらなかった。
この場の全てが、同情に、思い出に、夢に反抗していた。
ケイがあまりに声をあげようとしないので、瑞樹が耳にした唯一の言葉は、アイドルを目指すと話した際の「そうか」だけだった。
「…………ケイ君は応援してくれる……?」
瑞樹は非常に申し訳なさげに目を上げてケイを見守った。
ケイは自分というものが、ここに在っては瑞樹に対してなにも助力することができないことを切ない気持ちで思い知った。
瑞樹は、ケイに打ち明けたことを後悔しそうな目をしているし、自分が無責任なことを言えない為、どこかへ隠れたいとさえ思ったが、ようやくそれを耐えていた。
瑞樹は異常というわけでは決してない。彼女という実在がいかに強力で魅力的なことはケイも痛いほどわかっている。
瑞樹を思えばその背中を押して共に歩き出して行きたい。ただ失敗してしまった時、彼女はどうなってしまうのだろうか。自分だけで痛み切った彼女を支えられるのか不安になってしまう。
それ程に瑞樹は強い女性だった。
ようやく気まずさを覚えたケイが、瑞樹の顔を読み取ろうと視線を向けると、極めて美しく厳格な覚悟を見た。
瑞樹の一徹な決定の前には、弱気は一切感じなかった。
どんな大きな失敗であっても乗り越えてしまうのだろうとさえ思ってしまった。
「人間の幸福は……」
「?」
「人間の幸福は、義務の甘受の中に存在するのではなく、自由を越えた挑戦にこそあるんだね。きっと」
「どういうこと……?」
「瑞樹の夢を応援するって、ことさ」
ケイは瑞樹のことは何もかも知り尽くしていると考えていた。
そう考えるほどに会話を積み重ねてきたし実際に体験してきた。
ケイは今日まで無数の会話や逢瀬を繰り返してきたが、それらの体験があっても、瑞樹の思いやその才能に気づく事はできなかった。
「まだまだ頑張らなきゃな僕も」
「どうしてケイ君が頑張るのよ?」
「いや、こんなに尊敬できる人が隣にいたら頑張らなきゃ置いていかれちゃうよ」
「ふふ、貴方を私が置いていくわけないでしょ?」
「だといいな、今日はステーキにしようか。買い物に行こう」
「やった! 今日は食べて飲むわよ〜!」
二人は手を繋いで歩き出す。
何が起きようと、二人ならどんな壁も乗り越えられると感じられた。
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瑞樹がアイドルを目指すとケイに伝える二週間前。高垣楓と出会った一週間後。
瑞樹は夢を見た。
どこかしらか鐘が鳴り出し、鐘は深く、鈍く、うつろに、滅入るような音をたてて、一時を打った。
その瞬間、部屋中に光が差し込んだかと思うと、誰かの手が瑞樹の手を引いた。驚いて半身を起こした瑞樹は、それを引き寄せたのが高垣楓であることを視認した。
この世の者とも見えぬほど美しく彼女はウエディングドレスに身を包んでいたのである。
恰も今は何にも邪魔されないかのようで、精神的には心地良さも感じるほどに彼女の熱を感じるほどであった。
首のあたりで髪を纏めたおかげで彼女の綺麗な頸が見えた。
顔には一筋のしわもなく、みずみずしい血色をしていた。
腕は長く、脚も長い。その美貌は並々ならぬもので、純白の長いドレスを着、きらきら光るジュエリーが散らばめられていて、その光は素晴らしいものだった。
しかしながら、なによりも一番不思議な事は、瑞樹の手を引くのが楓であった事だ。
けれども、瑞樹が一層目を据えて見ているうちに、これから何を見るのか分かってしまった。
そこはやはりそこは結婚式であった。ある一箇所がぴかりと光ったかと思うと、他の所が光り、今、明るかったかと思ううちに場面は変わった。
どこかのアリーナ、ライブ会場であった。
最前列に立つ瑞樹の前には、キラキラと光りながら踊る楓の姿を見た。
その姿は瑞樹が幼い頃に憧れ、歳を経てそっと蓋をした憧れそのもので、羨ましいなどと思うより早く感動の感情がどっと流れ出した。
なんて彼女は綺麗なのだろう。
それに比べて自分はどうだ。彼女は進み出した。精一杯の勇気を振り絞って、自分の人生を変える為、最愛に振り向いてもらう為、彼女は変わったのだ。
実の所、瑞樹は楓に会った時から彼女が羨ましくて堪らなかった。
あまり過去を話したがらない彼を知っている唯一無二であり、自分も強く
彼が瑞樹の歳を気にしていない事は理解はしていた。理解はしていても納得できるものではなかった事は確かで、瑞樹のコンプレックスでもあった。
そして、瑞樹と同じ夢を持つ身として前を走る者である事がより一層彼女の琴線の爪弾いた。
彼の隣に立つべきは彼女であるとさえ、思ってしまう程楓は魅力的だった。
しかし瑞樹もまた強い女性であった。
彼の隣を歩む者として、その矜持は揺らぐ事を許さない。
何をすれば良いかなど、決まっていた。
目を覚ました瑞樹の横で小麦粉の甘い香りを立てて、寝息をかく彼の頭を撫でた。
握り締めた拳には一つの覚悟が潜んでいた。
強いですね。