それは願いで、希望だった。
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謎の又三郎
バレンタインのその日でも、学校自体も何も変わらない。
まどかがいつも通りに起きて、お父様に挨拶をして、お母様を起こして、朝ご飯を食べて、学校へ行く。強いて言うなら、誰にチョコレートをあげるとか、あげないとか、そんな会話があって、まどかが友達からチョコを受け取ったくらい。
本当に平和で、穏やかな一日だ。
そんな中、いつもとは少し違う出来事が現れた。学校に向かうその瞬間、美樹さやかが、突然まどかの両目を覆ったのだ。
「へっ? さやかちゃん?」
「おおっと、抵抗しなーい」
「んっと、いいけど、どうしたの?」
背後から目を覆われながらも、まどかはさほど慌てていなかった。
どこか戸惑いがちな声をあげつつ、言われるがままに大人しく、されるがままに視界を隠され続けている。
片手をまどかの目隠しに使いながら、美樹さやかが自らの鞄の中へと手を入れた。
その時、冷たい風が吹き、彼女達の間を通り抜けた。
「さむっ、もっと密着して良い?」
「うん、いいよ」
美樹さやかがもう少し身体を寄せると、まどかの背中と触れ合った。
そして指先をまどかの柔らかそうな頬に当て、足を絡める。
「ひあっ」
「おおー……まどかあったかい」
「さ、さやかちゃん、なんか冷たいね」
「でしょー。体冷えちゃって」
まどかで暖をとりつつも、美樹さやかは手元の荷物から何かを器用に取り出した。
それは一つの小さな包みで、片手だけで剥がされたその中には丸いチョコレートが入っている。
美樹さやかは、目を覆われたままのまどかと更に密着して、チョコを持ったその手をまどかの顔へと近づけた。
「はい、まーどか。口開けてー」
「え、うん」
白い吐息が漏れる口へ、美樹さやかの二本の指が侵入した。
指はあっさりとまどかの舌へチョコレートを置き、すぐさま去っていく。
何が口へ入ったのか、その甘い風味で理解したのだろう。まどかがはっとした表情となり、嬉しそうに口を閉じた。
「よし、口動かして良いよ」
「ん……」
小さなチョコ一つを味わうにしては非常に味わい深そうに、一つ口を動かす毎に瞳をきらきらと輝かせて、彼女の喜びが周囲に強く伝わる。
まどかは、ゆっくりと食べきった。
「どう?」
「おいしい!」
「でしょー? ちゃんと作ってきたんだよねー」
得意げに笑う美樹さやかに向かって、まどかも楽しげに頷いた。
「ほら、まだまだあるよ」
薄桃色でラメの線が入った袋が、まどかに手渡される。中身はホワイトチョコレートだ。
まどかは嬉しそうにそれを受け取って、眩しい笑顔を浮かべた。
「ありがとう! じゃあ、わたしもっ」
まどかが手元の袋を持ち上げた。
「その紙袋ってさ、やっぱり」
「うんっ、わたしも持ってきたんだ」
中から取り出された小さな紙の箱が、美樹さやかの元に渡された。
楽しげに受け取りつつ、美樹さやかはしげしげと箱を眺める。
美樹さやかの名前が入った、デフォルメされた動物のシールが貼られている。箱は爽やかな青色が主体で、渡す相手の色に合わせているのが分かる。
「ありがと、これって手作り?」
「うん。パパと一緒に作ったんだよ。トリュフチョコなの」
「へーえ。他の奴も同じなの?」
「うん。いっぱい作ったから。これは杏子ちゃんの、これは仁美ちゃんで」
「おお、箱は全員違うんだねえ」
幾つか取り出して見せていると、美樹さやかが、まどかの持つ袋の中から、一つを取った。
その箱は紫色をしていて、名前のシールがどこにも貼られていない。
「これは?」
「えっと……さやかちゃんのだったかな」
「え? じゃあさっき貰ったの、あたしのじゃなかったの?」
「……あれ?」
怪訝そうな顔のまどかに対して、美樹さやかは自分の青い箱の全体を確認した。
「こっちはあたしのだよね。名前入ってるし」
「うん。さやかちゃんに渡したのは、さやかちゃんの分で合ってるよ」
「じゃあ、それは誰の?」
「……」
黙り込んだまどかの反応から、何を感じたのだろうか。
美樹さやかは急に悪戯っぽい笑みを浮かべて、まどかの肩を抱いた。
「じゃあ、ひょっとして本命かなー?」
「あ、いや、ちがくて……あれ? 友達用に作ったんだけど……このチョコ、誰のだっけ」
不思議そうに、誰の名前も入っていない箱を撫でる。
どの箱も丁寧にラッピングされている。渡す相手のいない物も例外ではなく、まどかが嬉しそうに箱を包む姿が、目に浮かぶ様だった。
まどかにとっては、全部が本命。一つ一つに愛情と優しさのこもった箱の包みを見ていると、そう言われても納得できてしまう。
「本当に、本命じゃないの?」
「うん、ないよ。相手も特にいないし……」
「ふーん。なんか残念な様な、安心した様な」
美樹さやかは、まどかから貰ったチョコレートを開けて、一つ食べた。
まどかが少し期待した風な目で見ている。
「うん、いいじゃん。美味しい」
その視線に気づいたのか、美樹さやかはまどかの頭を軽く撫でた。髪型が崩れない程度の、優しい触り方。
まどかは、その手をちょっと照れながらも素直に受け入れていた。
「えへへ……そうかな」
「にしても、本命もないのにずいぶん頑張ったね」
「うん。せっかくだから作りたくて……それに、こんな風にね、みんなと一緒にチョコを食べたかったんだ」
美樹さやかが、まどかに抱きついた。
「まどかー! まったくかわいい奴! 男になんかやらないぞー!」
「ふぇっ。えへへ、もーさやかちゃん」
「よーしよし。はいまどか、もう一回口開けるー」
「んっ……うんっ。さやかちゃんも、食べて?」
「あー……っん。あははっ、まどかの愛情を感じるー!」
二人は抱き合ったり笑ったりしながら、その場でチョコレートを食べさせ合った。
このままだと学校に遅れそうだけど、それは良いのだろうか。ううん、まどかが嬉しそうにしているから、良いのだろう。むしろ、どこにも問題などない。
「さやかちゃんは誰にあげるの?」
「ん、まどかとそんな変わらないよ?」
一歩一歩ずつ進む毎にふざけたり、会話を楽しみながら、二人で仲良く学校へ向かっている。
やっぱり、二人は本当に仲がいい。大切な友達だというのは、まどかから何度も何度も聞いた。例え後からどんな者が現れたって、まどかの一番の友達は美樹さやかなんだろう。
まどかには、友達がいる。まどかを愛してくれる友達がいる。まどかを見てくれる人がいる。それはとても素晴らしい事に思えた。
まどかが笑ってくれて、誰かと一緒に学校へ行く。それはとても輝かしくて、素晴らしい光景だったのだ。
私も一歩踏み出して、二歩踏み出して、三歩目には足早に、まどかの元へ向かった。
今なら、流れに任せて言える気がする。渡せる気がする。
まどかの背後まで迫ったその時、私はその背中へと声をかけた。
「まどか、貴女に渡したいものがあるの」
+
「え?」
振り返って、声がした先を見る。
さっき、わたしが通り過ぎた場所だ。
そこには誰も居なかった。
「まどか?」さやかちゃんが、首を傾げる。
「あ、えっと……今、誰かに呼ばれたような?」
「? いや、聞こえなかったけど」
さやかちゃんは本当に聞こえていない様子だった。
でも、私の耳には確かに聞こえた。助けを求めている様な囁く声が。
「そっか。気のせいかな?」
空耳だったと納得しても、その声をどこかで聞いた気がしていた。
わたしが転校した時、隣に誰かがいた。一緒に廊下を歩いた。とても大切な事だった筈なのに。
思い出せない。
それがもどかしい筈なのに、手を伸ばさなきゃ、いけない筈なのに。
「……」
袋の中の箱を見ていると、その予感はより強くなった。
このチョコレート。
喜んでほしいなって、一緒に食べようって、頑張って作ったのを覚えている。
それなのに、誰に食べて貰おうと思ったのか、それがどうしても思い出せなかった。
「あっ」
思考に沈んでいた時、わたしの手を誰かが握る。
顔を上げると、さやかちゃんが朗らかに声をかけてくれた。
「ほら、学校遅れるよ」
「ご、ごめん」
さやかちゃんと手を繋いだまま、学校までしっかりと歩む。みんなにチョコレートを渡す為にも、今日は遅刻なんかできない。
みんなにチョコを渡す。
そう考えた時、もどかしくて、そして、寂しい気持ちが心に走った。
+
部屋のイスに座って、何をするでもなく天井を見つめる。
その先に見えるのは、欠けた月と、まどかの嬉しそうな顔だった。
鼻歌まじりにベッドへ転がり、枕の上に頭を乗せる。左手の甲にそっと触れて、今も、自分がまどかを維持できている事に安堵した。
「頑固だね、君も」
不愉快な声が耳に届いた。
顔を少しだけ上げると、インキュベーターが机の上に座り込み、こちらをのぞき込んでいる。
「……」
「そうやって、いつまでも逃げ続けるつもりかい?」
片手を軽く振ると、インキュベーターが潰れた。
潰した後で、ただの八つ当たりだったと気づく。
思わず攻撃してしまった。そんな事、今となってはなんの意味もないというのに。
残骸が机に転がっていて、汚れが残ると大変だ。
渋々立ち上がって、乱れた髪を整える。
「逃げては居ないわ」「ただ、私はあの子と一緒にいない方がいいだけよ」
それが本心から来る言葉なのか、自分でもよく分からない。
ただ、私に分かるのは、まどかの未来に立ちふさがる物と戦う。誰の願いでもなく、自分の意志で戦わなければいけないという事だけだ。
ひしゃげたインキュベーターの残骸を、ちりとりで拾い集めてゴミ袋へ捨てた。
「ひどい事をするんだね」
あきれ気味の声が聞こえても、今度は潰さなかった。
インキュベーターが戻ってきて、ゴミ袋に頭を入れている。まるで害虫だ。
そんな害虫でも、まどかに近寄らせなければ存在して貰わなないと困る。
「インキュベーター」
「?」
「渡すものがあるわ」
机を軽く拭いてから、インキュベーターに声をかける。
新品同然の紙袋と、ぼろぼろになった安っぽいビニール袋。粗雑な袋の方を掴み、中からチョコレートを取り出した。
「ほら、食べなさい」
「君がかい? 珍しいね」
「他に渡す相手が居ないから」
不揃いでイビツなチョコレート、そのうちの一つを投げて渡すと、見事に飛び跳ねて口でキャッチした。包み紙だけは吐き出して、中身を器用に口で転がす。
猫の様に飛び、チョコを咀嚼する姿は、見た目だけは愛くるしい。見た目だけは。
「……これは」
最初はただ普通に食べていたインキュベーターが、次第に口を動かすペースを落とした。
インキュベーターが顔をしかめた様に見えて、思わず笑みが漏れてしまう。
「苦すぎるんじゃないかな。それに、こっちは形も上手く固まらなかったのかい? ああ、こっちは見た目でわかるね、一般常識から言えば、美味しくないと思うよ」
「失敗作だから当然よ」
そう、これは失敗作だ。人生初の手作りチョコレートにして、ひどい間違いの塊だった。
人に食べて貰うには到底ひどすぎる出来映えに、自分でも落胆してしまう。
誰にあげられるでもない失敗チョコレートの山。
せっかくバレンタインだから、せっかく体が健康になったんだから、チョコレートを作ってみよう、なんて考えて、つい材料を揃えてしまった。
余計な事まで考えて、結局はチョコレートの味を酷くするなんていう、ふざけた結末に至ってしまった。
けれど、それは言い訳だ。
今なら分かる。まどかにあげたくて仕方がなくて、自分を誤魔化して嘘をついてでも、作らずにはいられなかった。
もっと美味しい物を作って、まどかを喜ばせたくて、そんな気持ちでいっぱいになって、たまらなかった。
渡せない事を思い出した時には、たくさんの失敗作を生み出した後だったのだ。
一つつまんで食べてみれば、痛みにも似た苦みが走る。
「……本当に、酷い味」
とてもではないけれど、まどかや、知り合いに食べさせたい物ではない。
沢山作ってしまった自分が恨めしい。まだ、口の中で嫌な感じがする。
もう一つの袋に入っている物を食べて、口直ししてしまおうか。
自分で作った物は全てが失敗作だ。だけど、この袋の中身はきっと美味しい。
それは市販品で、ついさっき買ってきた物だった。
今の私が、まどかにチョコをあげていい様な存在ではない事に気づいたのは、まどかの顔を見た時だった。
まどかにあげたかった友チョコ。私が食べるのももったいなくて、でも、誰に渡せる訳でもない。
でも、せっかく買ったのに捨ててしまう事も無い。
「インキュベーター」
「これを、食べればいいのかな」
「こっちは駄目よ。失敗作の方はあげる」
ビニール袋の中に顔を入れると、インキュベーターは黙ってチョコを処理し始めた。
「もったいないわね」
しかし、やはり、今の私には渡せる相手が居ない。両親も、学校も、大切な人との関係だって、私は捨てている。
誰か、渡しても問題が無さそうな相手に渡してしまおうか。
例えば、佐倉杏子のベッドの上に置いておけば、勝手に気づいて食べるだろう。幾人か思い浮かべていると、一人だけ、顔も思い出せない誰かの声が頭の中で響いた。
『ほむら』
『あなたが好きよ』
知らない人間だ。出会った事もなければ、見た事もない。正真正銘、私とは無関係の人。
でも、これは恐らく円環の理から伝わった記憶だ。私ではなく、どこかの私が出会って知った、この私とは無関係の誰かの姿だった。
「……」
そっと窓の外を見て、かつて自分が居た病院を意識して、どこかの自分がバレンタインに出会った、名前も聞けなかった誰かの姿を思い浮かべはじめ。
顔を覚える前にやめた。
「……未練がましいわね」
誰に渡すまでもなく、自分で食べてしまえば、問題は起きようもない。
そう思って、椅子の下の紙袋を持ち上げる。
魔女の結界に居た時、バレンタインになったらまどかにあげようと密かに狙っていた。そんなお店の、一番高いチョコレート。
私の甘さが産んだ、愚かな行動の象徴だった。
でも、きっと美味しい。店内の甘い香りを思いだし、味を想像してみると、心が柔らかくなった気がする。
この気持ちも、甘みで少しは軽くなるかもしれない。
ちょっとした期待を胸に、紙袋を持ち上げた。
「?」
それは買ってきた時よりもやけに軽い。
まさか、と思って中を見ると、チョコレートの箱が無くなっていた。
丁寧に梱包して貰って、まどかが喜んでくれる様に綺麗なリボンを巻いた箱は、今はもう見あたらない。
大きく振り向き、再び現れていたインキュベーターを見つめる。この場に居るのは私と、彼らだけだ。
「インキュベーター」
「何だい。僕はこのチョコを食べているんだ」
「あなた、ここに置いてあったチョコレートを知らないかしら」
「僕が食べたわけじゃないのは、確かだね」
口元にチョコの残骸を付着させながら、奴は興味なさげに返した。
「でしょうね」
インキュベーターではないだろう。
信じる気はないけれど、奴らにとって、チョコレートの味に意味がないのは知っている。バレンタインの日を何とも思っていないのも、分かっている。
だとすれば、どこに?
誰に?
どこへ?
……なぜ?
「……まさか」
+
誰かが、私に一つの箱を差し出してくれた。
綺麗な包装紙に包まれた箱をわたしに見せて、受け取るのを待っている。
「これ、わたしに?」
突然の事なのに、不思議と驚かなかった。
むしろ、自然とその誰か、の前に立って、突き出される箱を両手で受け取る。
「くれるんだね? ありがとう!」
両手でしっかりと掴んで、その箱を離さない様に抱いた。
そんなわたしの姿を見て、誰かが笑ってくれる。とても柔らかな雰囲気で、わたしがここに居るだけでも、喜んでくれている気がした。
「じゃーあ、これっ」
誰に渡す為に作ったのか分からないチョコレートを、その子に見せた。
きっとこの人に渡す為に作ったんだ。
「え、私に?」なんて表情で自分を指さす姿がなんだか面白くて、笑ってしまう。
「うん、作ったの。わたしがじゃなくて、実はほとんどパパなんだけど……え? そうかな? えへへ、ありがとう」
一瞬驚いた様子で目を見開き、おずおずと、素敵な笑顔で受け取ってくれる。
その子は満足そうに微笑んで、そして、ふっと、消えた。
「あれ?」
髪が顔にかかる。
「あっ」
いつの間にか、髪を留めていたリボンが解けていた。
赤いリボンを軽く結びなおしてから、渡されたチョコレートをもう一度見つめた。
桃色の包装紙に紫のリボンが巻かれていて、真ん中には有名なブランドのマークがある。
見るからに、とても高そうなチョコレートだった。
わたしの手作りだけなんかじゃ、とてもじゃないけど釣り合いがとれない。
後でしっかりお礼を言わなきゃ、と。
「あれ? 今の、誰だったっけ……?」
仁美ちゃんかな? と考えて、もう貰っている事に気づく。
誰かのを間違って貰ったのかもしれない。そんな風にも思ったけれど、違う。確かにわたしにくれたチョコだった。
包装紙に、アルファベットでわたしの名前が入っていて、きらきら光っていたからだ。
破かない様に包みを開けると、箱は厚紙じゃなく、とても滑らかな手触りだった。
中に入ったチョコレートから、一番目の前にあった物を手にとって、眺めてみる。
よく見ると、わたしの名前が入った彫刻が刻まれていた。
本当に、わたしの為だけに用意してくれた事が分かる。
いったい、誰がくれたんだろう。
わたしの作ったチョコで喜んでくれたら嬉しいけど、改めてお礼も言いたい。
誰がくれたのか、後でみんなに聞いてみよう。
チョコレートを口に入れながら、そう思った。
「んんー! 美味しいっ……!」
それはとっても甘くて、柔らかくって。
思わず声が出ちゃうくらいに、幸せな味だった。
鹿目さんが喜んでくれるのは素晴らしい事だ