俺と後輩と酒と 作:JOS
「そうか……」
全ての話が終わった後、壮年の男性はただそう呟いた。知っての通り俺は頭があまりよろしくない。だから、話は所々で脱線したし、スマートにことを伝えることは出来なかった。しかし、それでも目の前の男性はただただ黙って俺の拙い語りを聞いてくれた。
「それで、それでキミはいいのかね?」
高級感のあるBOX席。カウンターからは隔離されて誰からも見られないこの場所は上物のバーならではの場所だろう。BGMとしてスピーカーからはカノンが聞こえてくる。このバーの雰囲気にはクラシックはとてもよく合っていた。
そんな穏やかなBGMを切り裂くように男性は低い声で問う。それは本当にお前はその道を選んだことに後悔はないのか? という最終確認だ。
「はい、それでいいです。きっと大きな間違いをしているんでしょうけど、俺はこれを選びました」
答えなんてとっくの昔に出ていた。今まで先延ばしにしていたのはただ覚悟が足りなかっただけ。その覚悟もあいつのおかげでついた。もう、何も迷う心配も悩む心配もない。
「…………」
「…………」
幾何かの沈黙が場を支配した。俺は語るべき言葉を持たず。彼は語るべき言葉を探して、お互いがただ口を閉ざした。その沈黙は幾何続いただろうか、十秒だった気もするし、三十秒だった気もする。いや、本当はそのどちらでもなく五分だったのかもしれない。
兎も角、少しの空白の後、彼は口を開いた。
「こういう時、私はどうすればいいのだろうな?」
感情を押し殺そうとしたが、それでも溢れて出る感情に彼の声は震えていた。
「…………」
「情けない話だが、どうすればいいのか私には分からないよ。あの子の父親としては君を殴るべきなのかな? それとも、逆に君に感謝の念を送るべきなのか……。もしくはただ君のその判断に同じ男として敬意を払うべきなのか……」
彼はさらに震える声で続ける。
「君の気持ちも君の状況も分かった。きっと君は間違っている。でも、君が男としてそれを選んだのであれば、私は、私は君の気持ちを……君の選んだ道を見守ろうと思う」
「ありがとうございます。おじさん」
目の前で黙って涙を流す男性に俺はただ頭を深く下げるだけだった。
「あぁ、後は任したまえ。最後に一つ聞いていいかな? 君にとって楓はどのような存在なのかね?」
俺にとって高垣楓がどんな存在なのか? それは考えるまでもないことだった。
「こんな話をする機会はもうないと思いますので、嘘や誤魔化しなく、本心で答えます。それが誠実だと思いますから。俺にとってアイツは――――――」
ここで一旦言葉を区切ると、大きく息を吸う。
「――――心の底から憎むべき劣等感の塊でした」
自分自身で自らの人生を振り返ると、俺の人生とはずばり二文字の言葉で物の見事に表せることに気付いた。その二文字とはずばり、“逃げ”だ。では、何から逃げていたのか言うと、色々な物から逃げていた。現実から逃げ、彼女から逃げ、その上自分自身の弱さから逃げ、最後には選択した道からも逃げようとした。我ながら思い返してみても酷い逃げっぷりである。思い返してもつまらない人生だったのが、こういう時にしか振り返ることもないので、少しばかりこれまでの人生を思い返してみる。
始まりがいつだったのか、きっかけがなんだったのか、それは覚えていない。覚えていないが俺の隣にはずっと彼女がいた。一つ下の彼女はいわゆる天才児と呼ばれる奴で、何でも出来た。何をやってもダメダメな俺とは違い、幼稚園の中では常にみんなの人気者で、俺にも読めないような難しい絵本や紙芝居を読み、運動では年上を差し置いて常に園内で一番だった。それは小学校や中学校に上がっても変わらずで、勉強もスポーツも彼女は常に、学年いや学校でもトップだった。そんな彼女といつも一緒にいたせいか、周りは俺と彼女のことを比べ、俺を暗に非難した。
――いつも一緒にいる一つ下の高垣はあれだけ優秀だと言うのに、お前は何でこんな簡単な計算問題も解けないんだ?
学校の教師は勿論。
――お前と一緒にいる高垣は何でも出来るのにお前は何も出来ないのな。
クラスメイトも。
――いつまでも遊んでないでちょっとは楓ちゃんを見習ったらどう? あの子この前のテストでも満点だったそうよ。あんたもちょっとは勉強しないと……。
そして、実のお袋ですらそうだった。
俺は高垣楓に比べると何も出来ない。
それが幼いながらに悟った運命にも似た、いわば宿命のような物だった。
勿論俺だって努力はした。どうにかして、高垣楓に勝とう、いや何か一つでもいいから彼女よりも優れた点が欲しかった。放課後河川敷で走る特訓したり、その時男子の間で流行っていたサッカーのリフティングも練習したりした。勉強でも自ら頑張れる範囲で努力したこともあった。
でも、結果はダメだった。
特訓の成果かもともと俺に才能があったのかは分からないが、足の速さはクラスでも三番手になった。でも、高垣楓はクラスどころか学年、いや学校中の女子生徒の中で一番だった。
リフティングが少しばかり出来るようになって、アイツの前で披露して見れば、「先輩、私もやってみたいです」と言った彼女は初めのチャレンジで俺のハイスコアだった35回にたどり着いた。
学問では努力した甲斐もあって平均で85点を取れた。でも、彼女は平均95点を取っていた。
クラスで三番目に足が速いことも、リフティングが35回出来ることも、テストの点数が平均で85点だったことも、俺はその全ての結果に満足していた。どの数字を取ってみても普通の人よりは上の結果だ。俺はそれに満足していた。
――でも、周りは違った。
――お前と仲の良い高垣はやっぱり足もはえーよな。
誰も俺を見てくれなかった。
――ふむ、いつも一緒にいる高垣は今回のテストでも学年トップだぞ、お前ももう少し頑張らないとな。
誰も俺を必要としていなかった。
『なぁ、お前ってあの高垣と仲がいいんだろ? よかったらメールアドレスとか教えてくれないか?』
中学生にもなると色々と誰々が誰々を好きだとか、アイツとアイツが付き合っているとか、そんな恋愛話に興味が湧いてくる。そんな時に俺と仲良くなった奴が二言目にいうセリフがこれだった。
『なぁ、お前楓ちゃんといつも一緒にいるよな? 今度一緒に遊び行こうぜ、楓ちゃんも一緒にな!』
彼女は人並み外れた頭脳や運動神経だけでなく、その見た目もそしてその内面も美しかった。美少女であり、誰にでも隔てなく接する彼女の周りには多くの人がいた。それに比べて俺の方はと言うと、顔の方は言うまでもなく、内面の方でも常に彼女に対して劣等感を抱いていた。そんな俺に周り集まるのは彼女と仲良くなりたいと下心丸出しの男子だけ。九割の奴らが二言目には「高垣楓を紹介しろ」だった。
――高垣楓と一緒にいる限り幸せにはなれない。
そう思った俺はアイツを邪険に扱い、距離を遠ざけようと思ったことがあった。アイツさえ周りにいなければ俺でも人並みに認めて貰えると思った。
でも、それは出来なかった。
「うふふふふふ、やっぱり先輩と一緒にいると楽しいです」
そう言って無邪気に笑う彼女を見るとどうしても冷たくあしらうことが出来なかったのだ。
それに彼女は悪くない。悪いのは周りの期待に応えられない俺と、お門違いに彼女の事を恨む俺の卑しい心だ。最後の俺の良心が彼女への八つ当たりを許さなかった。
だから俺は逃げる事にした。本に逃げた。本を読んでいる間は物語の世界に居られる。そこでは俺は時には勇者になり、時には英雄になり、時にはしがない画家になり、そしてある時は学生になった。本を読んでいる間だけは高垣楓の付属品である俺でも“主人公”になれた。
本の世界にいる間だけは、現実世界での患いからも、高垣楓からも逃げられた。だから、俺はひたすらに本を読んでいた。本ばかり読むようになり、相手をそこまでしなかったにも関わらず、彼女は相変わらず俺の部屋へとよく遊びに来た。お互いにただ本を読むだけの日々が続いた。そんな中でも彼女はいつも通りの柔らかい笑みを常に浮かべていた。
今思い返してもただ同じ部屋で黙って本を読む、これだけだけの事でも彼女は満足していたように感じる。
高校はなるべく遠い所を選んだ。偏差値なんて気にせずにここから受けられる一番遠い高校を選んだ。偏差値は高かったが、今まで読んでいた本のおかげで国語で満点近くを取れ滑り込むように合格できた。それから一年は平和だった。俺のことを知らない人間ばかりで、それなりに友達も出来、おもしろおかしくやっていた。
その一年後彼女が入学してきた。
アルコールを日常的に摂取しだしたのもこの辺りだったと気がする。彼女が入学してしばらくして、一人の友人がこう切り出した。
――新入生の高垣楓ってお前と仲がいいんだよな? すげぇ、可愛くてタイプだから今度メールアドレス教えてくれない?
親友と思っていた奴だった。その時漠然と思った。
――俺は高垣楓の付属品なんだな……。
本の次にそれからはアルコールに逃げた。現実からも自分自身からも彼女からも逃げたかった。酔っている間は何も考えなくてよかった。劣等感を感じることもなかった。
この気持ちが逆恨みなことも、見当違いなことも、俺の心の醜さも全て分かっている。分かっている上で俺はこう言いたい。
――俺は高垣楓を心の底から憎んでいる、と。
大きな窓から空を見れば綺麗に澄んだ青空が見えた。夏場にあれだけ見ることのできた入道雲は見えず、羊雲が視界の端に申し訳なさそうに浮かんでいた。九月も過ぎて晩夏と呼ばれる季節もとうの昔に過ぎた。流石に入道雲はもう見れないみたいだ。何となく残念な気持ちになりながら、携帯を取り出し、電話帳を引っ張り出すとコールをする。
三コール目に電話の相手は出た。
「よぉ、元気だったか?」
何気ない雑談の様に言葉を続ける。
「あぁ、俺か元気元気。こう見えて体力だけが取り柄だからな」
九月とは違い気温もグッと低くなったとニュースで言っていた。窓の外に見える通行人も長袖のパーカーやセーターなどの秋仕様を身に纏っていた。
「俺から電話するのが珍しいって? まぁ、ちょっと色々あってな。実は会社の方から長期の出張を言い渡されてな少しばかり県外に行くんだよ」
「あぁ、期間か? 恐らく二か月以内だと思う。心配しなくてもシンデレラガールを決める総選挙とライブは見る予定だから……」
「おう、今年こそは念願のシンデレラガールになれればいいな」
「あぁ、場所? 暫くホテルを転々とする感じだから何も言えないな。まぁ、落ち着いたら連絡するよ。あぁ、それといきなりの出張だったから部屋の整理が出来て無くてな、冷蔵庫に色々と酒が入っているから要るなら持って帰っていいぞ。じゃあ風邪に気を付けろよ」
そう言って一方的に電話を切る。そして、大きく息を吐くと再び空を見る。バケツ一杯の青色のペンキを巨大な用紙に思いっきりぶちまけてその上からホースで水を掛けて伸ばしたようなさっぱりとした青空が広がっていた。
何だか少しだけやる気が出てきた。再び携帯を操作して電話を掛ける。今度も三コール目に相手が出た。
「よぉ、百合子元気か?」
「そうか、そうかそれは良かった。受験前だし体調には気をつけろよ。まぁいいや、要件だけどな。俺、実は海外転勤が決まってな。しばらくしたらあのアパートから引っ越すんだよ」
「え? 聞いてないって? そりゃ今言ったからな。それで、もしも欲しい本があるのなら好きなだけくれてやるから持って行っていいぞ。どうせ、残ったら古本屋に卸すだけだしな」
「転勤先? あぁ、まだ色々と候補があって決まってないんだよな。決まったら連絡するよ」
「あぁ、暫く手続きやら仕事の引継ぎやらで家に帰れないから会える機会はないと思うぞ、多分」
「あぁ、もう駄々をこねるな。それじゃあ忙しいから切るぞ」
そう言ってまたもや一方的に通話を切ると返信が掛かってくる前に携帯の電源を落とす。
再び見上げた空には一本飛行機雲が澄んだ青いキャンパスに彩を加えていた。本日は晴天なり。