俺と後輩と酒と 作:JOS
『人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない』とは、確か坂口安吾の堕落論で書かれてあったことだと覚えがある。そう、人間は生きている以上必ず落ちるのだ。堕落するのが人間だし、堕落しなければ人間は救われない。かの坂口安吾先生がそうおっしゃっているのだ。間違いないだろう。俺の人生のバイブルは安吾先生の堕落論と、太宰治の人間失格である。
いきなり何を言っているのか分からないって?
ようするに俺が酒におぼれて堕落をするのも、しょうがないと自己弁論している訳だ。漱石風に言うなら「美味い酒は飲まねば惜しい。少し飲めば飲み足りぬ。多く飲めば後が不快だ」ってな感じになる。目の前に美味い酒があるのだ。飲まなければ惜しいじゃないか。はい、そこアル中の考えとか言わない。そんなことは俺が十分に分かっている。それに俺がダメ人間であることも分かっている。
しかし、人間である以上、堕落は避けられない。堕落が避けられないとなると人間は皆、ダメ人間ではないだろうか? 堕落した人間は古今東西、ダメ人間と相場決まっている。だとすれば、別にダメ人間であることに劣等やら卑しさを感じる必要などこにもない。立派に見える人でもどうせその内堕ちるのだ。堕ちるスピードに速い遅いはあるにしても、どちらにしても時間の問題だ。そう考えれば人生楽だ。
さて、こんなにもみっともなく自己弁論した理由は既に分かっている事だと思う。そう、いつも通り調子に乗って飲みすぎて潰れて記憶を失っただけのことだ。でも、俺は悪くない。人間だから堕落するのはしょうがないし、もっと言えば俺にドンドン酒を注いでくる蟒蛇の後輩が悪いのだ。俺と同じペースいや、俺より先に色々と飲んでいたアイツは結局覚えている限りではニコニコと顔色も変えずに笑顔でグラスを開けていた。きっと、アイツの肝臓は何処かいかれているに違いない。で、なければアイツは人間ではない。
まぁ、そんな愚痴は置いておこう。今回の話は俺が酔いつぶれた次の日、目を覚ました時から始まる。
目を覚ました時にまず感じたのは激しい喉の渇きと、ひどい頭痛だった。語るまでもなく最悪の目覚めだ。そして、この頭の痛みは今まで人生において何度も繰り返してきたものだ。
――二日酔い。
酒飲みの宿命にして相棒は今日も今日とて俺のことを愛してくれているようだった。まったく要らない愛である。
パチパチと瞬きをしながら現状を確認する。コンディション、最悪。昨日の記憶、途中からなし。頭痛、酷い。ようするに何時もの二日酔いである。
――あぁ、酔いつぶれてそのまま床で寝たか。
視界には木目の天井がある。どことなく人の目に見える木目は、ここが寝室代わりにしている部屋ではなく居間の天井であることを示しているし、背中には固い感触がしっかりと感じられる。十中八九飲み潰れそのままバタンキューしたに違いがなかった。
――とりあえず、水でも飲むか。
鈍すぎる頭をフル回転させて、次の行動を決める。何をするにもまずはこの喉の渇きをどうにかしなければいけない。そう思い起き上がろうとした時だった。俺はその時になってようやく右腕の感覚がないことに気付いた。
――なっ!? コイツ何やってんだ!?
右手を見ればそこには伸ばした俺の右腕を枕にして寝ている馬鹿がいた。
色々とぶっとんだ状況に、一瞬にして目が覚めた。脳が痛みを忘れ、胃が吐き気を忘れ、そして喉が渇きを忘れた。
よく見れば、俺とソイツの上には一枚の薄い毛布が掛けられていた。押し入れに仕舞っておいた毛布だ。
――えーっと確か昨日はコイツと一緒に呑んで……。ビール、ウイスキー、ラム酒、日本酒……。とりあえず色々とチャンポンしたよな……。やべぇ記憶がない。
海馬をフル回転させて昨日何があったのかを思い出す。覚えていること言えば、ニコニコとひたすらに顔色が変わらないソイツに付き合って色々とチャンポンをしたことだけだった。どうして、こんな状況になったのかはさっぱりだ。
――普段だったら俺が床で寝てコイツは俺の寝室のベッドで寝ているはずなんだがな。
俺と後輩の二人で飲んで酔いつぶれた事何て、今までに数えるのも億劫なくらいにある。そして、そういう時は大抵弱い俺が先に潰れて寝ることがほとんどだ。そういう時はアイツは気を効かせて酔いつぶれている俺の上に適当に布団やら上着を被せて、本人は俺のベッドで寝ることが多かった。こうして二人並んで床で寝る何てことは今までに一回もなかった。
――あぁ、分かった。これは夢なんだ。
これは夢ではないだろか。きっと、俺はまだ寝ているに違いない。
そう思い、再び右に視線をやる。
「すぅ……すぅ」
相変わらずそこには馬鹿がいた。幸せそうなソイツは悩み何て微塵もないような柔らかな笑みを浮かべていた。こうして口を開かなければ可愛い奴である。
やはり曲がり曲がってもカリスマアイドル。顔は非常に整っている。まるで完成された人形のような美しさに陶器のような透明感のある白い肌。口を開けば馬鹿なことをいう奴だが、こうして黙って寝ている顔を見ていると彼女が選ばれた存在であることを実感する。古代ギリシャの芸術は端粛を根源としているらしい。俺が思うに端粛とは今の彼女のことを言うのではないか。それほどまでに彼女は美という一文字を体現した女性だった。まぁ、つけあがるため本人には死んでも言ってはやらないが。
「ぅん……」
彼女がそう小さく唸ると更に体を俺の方に寄せてきた。俺の胸元にまるで猫の様に顔を埋める。
彼女が動いた時に毛布の隙間から彼女の体が見えた。昨日と同じく薄いTシャツに、ホットパンツ。どうやら、一晩の間違いはなかったようだ。薄々は分かっていたが、確信が持てたことで安堵の息を漏らす。
彼女は美人だ。いくら俺が彼女を肉欲の対象として見てなくても万が一のことは十分にありえる。そして、もしもその万が一があったのなら俺は首を括らないといけない。よりにもよって、後輩、しかも半ば妹のように思っているコイツに手を出したとなれば俺は羞恥で生きてはいけない。人間いくら酒に飲まれても絶対にやってはいけないことがあるのだ。それをやってしまえばその瞬間にソイツは人間ではなくなる。ただの獣だ。
「ぅん……すぅ」
さらに彼女は体を上下させる。足は完全に俺の右足に絡みつき、顔は懐に埋め、右腕は体に抱き着くように回されていた。
――ん?
彼女の動きに違和感を感じる。
――コイツまさか。
「おい、お前起きてるだろ?」
出た言葉は思っていた以上に低かった。どうやら酒焼けしていたらしい。
「…………」
「隠しても無駄だぞ」
顔は見えないが首筋が赤くなった彼女に止めを刺す。
「うふふふふふ、やっぱり先輩にはばれてしまいましたか」
彼女はそう笑うと顔を俺の懐から上にあげた。翡翠と紺碧色のオッドアイが俺を写す。その顔は先ほどと同じように幸せそうだ。
「ったく何でこんな真似したんだよ。心臓が止まるかと思ったぞ。こっちとりゃ昨日の記憶ないんだから」
「あら、先輩。まさか昨日私を傷物にしたのを忘れたと……」
「つまらん冗談はやめろ。お互いに衣服の乱れはないのにどうやって事をやったって言うんだよ」
「むー、分かってましたか、楓さん残念です」
何が気に食わないのかは分からないがそう言ってソイツは頬を膨らませた。
「俺は安堵してるけどな」
「ねぇ、先輩……」
そう言った彼女の声色は普段よりも数段は低かった。
「ん?」
「馬鹿にしないで私のお願いを聞いてくれないですか?」
「とりあえず、言ってみろ」
それからしばらく沈黙が支配した。聞こえるのはエアコンの動く音に、窓を閉めているというのに聞こえる蝉しぐれだけだ。
一体、どれくらいの時間がたっただろうか。
一分いや、二分、もしかして十分かも知れない。そのどれでもなく本当は数秒の可能性もあった。ともかく、いくばくかの空白の後彼女はゆっくりと口を開いた。
「もう少し……もう少しだけ、このままではいけませんか?」
そう呟いた彼女の言葉は何故か分からないが俺の心中に響いた。
――高垣楓。
言うまでもなく彼女は国民的アイドルだ。テレビをつければ見かけない日はないし。話題に上がらない日もない。常に彼女は注目されている。常に誰かに見られている。そんな彼女の苦痛はいかばかりだろうか……。
そんなことを考える。きっと、常人の俺には考えもつかないような苦労をしているに違いない。
「悪いがそれは出来ないな」
「……そうですか」
俺の言葉に彼女はただそう言った。
――何泣きそうな顔してんだよ。
「俺は今、もーれつに喉が渇いている。水を非常に呑みたい。水を飲んだ後は今日は予定がないから右腕は空いてるかもな」
そう白々しく言った俺を見て、彼女は、
「そうですか、やっぱり先輩は優しいです」
そう言って笑った。その笑みはどこまでも自然で、だからこそ美しく、俺はただただ言葉を失った。
――語りえぬものに関しては沈黙せざるを得ない。
かのヴィトゲンシュタインはこう言った。つまり、俺の今の状況はそういうことだ。今の彼女の表情を表現する言葉を俺は持たない。
そして、俺が水をたらふく飲んで居間に戻ると彼女は言った。
「ねぇ、先輩。私は来年で25です」
「あぁ、知ってる」
「先輩の予想はあたりませんでしたね」
「…………」
「約束は守って貰いますよ」
そのセリフに俺は、
「…………あぁ」
ただそう返すのが精一杯だった。