俺と後輩と酒と 作:JOS
「おっ、いらっしゃい! 今月も待ってたよ」
曇りガラスが埋め込まれた引き戸を開けると、カウンター越しの板場に立っていた壮年の店主が右手を上げて笑顔で挨拶をしてきた。
「今月もお邪魔しますよ。親父さん」
一か月前と何も変わらない爽快な笑みを浮かべた店主に俺も手を上げて気軽に挨拶を返す。東京は二十三区。都心にあると言うのに駅から大分離れた場所に存在するこの店の名前は、『白樹子』。長年日本料理店で修業をしてきた店主が奥さんと一緒に始めたこの店は割烹料理店とまではないないが、それに近い落ち着いた雰囲気のある店だった。お酒の質も、種類も豊富。上物が飲めるこの店もまた俺が飲みに来る店の一つだ。
まぁ、もっともここの料理は大衆居酒屋と格が違うほど上手いが、値段もそれに見合って格が違う。俺の懐事情ではそう何度も足を運べる店ではなく、一か月に一度、給料日の後に訪れる自分への御褒美的な店というわけだ。
料理も上手く大衆にもあまり知られていないこの店にはたまに有名人も訪れるらしい。らしいと言うのは噂で聞いただけで俺は見たことがないからだ。大抵、そんな有名人やらビップな人間は奥の個室で飲んでいる。
「あら、待ってたわよ、お兄さん」
いらっしゃい、店主の声が聞こえたのか奥から女将さんが顔を出す。見た目三十後半といっても十分に通じる女将さんは、その実、夫である店主と同い年らしい。初めて聞いた時は驚愕したものだ。店主が歳をとって見えると言う意味ではない。女将さんの見た目が若すぎるのだ。実年齢より十は若く見える。
「今晩は女将さん。とりあえず、適当に何かつまみとビールをお願いできますか」
そう言って俺は勝手知ったる他人の店とばかりにカウンターの一角に腰を下ろす。月に一度とはいえ、この店を訪れた回数は数えきれない。いつも案内されて座る席は決まっている。
「はい、わかりました」
女将さんは笑顔でそう言うと俺の前におしぼりを置いた。
「今日は良い河豚が入ったから刺身でどうだい?」
カウンター越しに包丁で何かを捌いていた親父さんが言う。
――河豚か……。たまには贅沢もいいだろう。
どうせ、こんないい店に来るのは一か月に一度だけだ。それなのに金の勘定をするのはもったいない。親父さんが美味いというものを食って、好きな日本酒を飲む。ここはそう言う場所だ。
「じゃあ、お願いします」
「おっ、任せとけ」
店主は元気にそう言うと手慣れた動きで包丁を動かす。カウンターに座るとその洗練された動きを見ることが出来る。いつ見ても感嘆する包丁捌きで河豚が捌かれるのを見ながら、俺は店主と何気ない会話を交わすのだった。
「ごめんなさいね、お兄さん、今日はちょっと騒がしくて」
ビールと小付けを持ってきた女将さんが言う。カウンターには俺以外に誰もいないが、奥から少し声が聞こえる。座敷のある方向からだ。この店の奥には一部屋だけ座敷状の個室があった。わーわーきゃーきゃー聞こえる声は若い女性の団体のようだ。
「今日は誰か個室を使っているんですか?」
「えぇ、個室を貸し切りたいって要望があって」
「へぇ、そりゃ景気が良い話ですね。常連さんですか?」
最近は景気がよくなったとニュースで良く言っているが、それは上の人間だけの話だろう。俺の給料は全く上がりはしない。景気がいいと言うのはきっと何かの冗談に決まっている。
「えぇ、最近よく来てくれる子達よ」
「へぇーそうですか」
運ばれてきたビールを飲みながら相槌を打つ。一応聞いては見たものの、こういう店であまり別のお客さんのことを聞くのはNGだ。なので、この話は早々に終わらせることにする。
「何かおススメの日本酒ありますか?」
「うーん、お兄さんが好きな天狗舞と加賀鶴があったんだけど……」
女将さんはそう言うと言葉を詰まらせた。何だか含みある言い方だ。終わらせようとした話題が返ってきた。
それなりに長い付き合いになる女将さんは俺が好きな日本酒の銘柄を知っている。
「あったんだけどってことは……」
「実は、個室を使っているお客さんが凄く飲む人ばかりでね、天狗舞も加賀鶴も一升瓶ごとたのまれちゃって、それで既に空の瓶が返って来たわ」
「へぇ、それは凄い飲む人たちですね」
この店の個室はそこまで広くはない。詰めて座っても六人が精一杯だろう。多くても六人、もちろんそれよりも少ない可能性もある。そんな人数で一升瓶を二本も開けるとなると一人当たりそれなりに呑まないといけない。
「それに、加えてさっき久保田も頼まれちゃって」
女将さんは何気ない話をするように言うと、うふふふふふと上品に笑った。色気のある大人の笑みだ。
「三升って……」
「うふふふふふ、きっとそれも空で返ってくるわね」
三升ということは六人で飲んだとしても一人当たり、五合の計算だ。日本酒を五合、確かに飲める人には飲める量だろう。しかし、一般的に言って、日本酒五合は酔うには十分過ぎる。下手をすると泥酔する可能性もある量だ。
――へぇ、相当に飲む人達みたいだなぁ。
ビールを飲みながらそう思うの同時に、
――しっかし、加賀鶴に天狗舞、そして久保田か……羨ましい。
と僻みも心の中でつぶやく。加賀鶴に、天狗舞、そして久保田。どれも日本酒の中では有名な銘柄だ。知っている人も多いだろう。俺も大好きな銘柄だ。勿論言うまでもなく美味い。しかし、日本酒の美味さは値段に比例する。美味い酒は高いのが基本中の基本だ。そんな日本酒を三升も頼んだとなると、そのお客さんはお金に余裕のある人なのだろう。貧乏性の俺ではとても真似できない。いくら月に一度の贅沢だと言っても、それなりに上限があるのだ。
まぁ、考えてみればこんな店に頻繁にくるような人はお金に余裕がある人に決まっている。俺みたいに金もないのに半ば常連の様になっている人間なんていないのだろう。自分の中での疑問に自分自身で答えを出す。
「あいよ、お客さん。河豚の刺身だ。ついでにもう少ししたら天ぷらも上がるからね」
そんなつまらない考えをしながら、ビールを飲んでいた時だった。店主の渋い声とともに、目の前に一枚の皿が置かれた。綺麗に盛り付けられた河豚の刺身は見ただけで美味いと断定できるものだった。
「女将さん、とりあえず羅生門はある?」
「えぇ、ありますよ」
「じゃあ、羅生門を二合ほど、冷で」
「はい、分りました」
せっかく美味そうな河豚があるのだ。ここはビールではなく日本酒だろうと、女将さんに日本酒を注文する。俺的には加賀鶴あたりを飲みながら、ちびちび河豚を食べたかったのだが、ない物を強請ってもしょうがない。俺がもう少し早く来ればよかった話だし、今更それも嘆いたところでどうしようもない。それに羅生門も十分に美味しいお酒だ。
店の奥からはまだ楽しそうな声が聞こえる。どうやら、向こうは盛り上がっているようだ。何とも楽しそうで何よりである。
それからしばらく、店主の美味い河豚料理をつまみながら日本酒をチビチビと飲んでいた。やはり河豚には日本酒だと、ひとりで納得していた時だった。
――ちょっと、トイレでも行くか。
ふと、尿意を覚えて立ち上がる。立ち上がるついでに徳利の中身を猪口に移そうと思ったら、既に徳利の中身は殆どなかった。どうやらいつの間にか二合を飲み切っていたらしい。
――やっぱり、美味い酒は本当にすーっと飲めるなぁ。
「女将さん、とりあえず羅生門をもう一杯。今度は一合で」
女将に注文するとその足でトイレへと向かう。この店のトイレは俺が座っているカウンターから見ると奥にある。座敷へと続く廊下の手前にあるトイレへと向かい用をたして戻ろうとしたときだった。ふと座敷の扉が開きそこから人が出てきた。
「女将さーん、何か日本酒のお代わりくださーい」
それは若い小柄の女性だった。彼女は酔っているのか五、六メートルは離れている俺から見ても顔がゆでタコのように真っ赤だ。そりゃそうだ、何と言っても俺が知っている限りで日本酒を二升以上、下手をすれば三升を開けているのだ。それに俺が知らないだけで日本酒以外にも何か飲んでいる可能性がある。一般人なら普通に酔っぱらうだろう。
女性はフラフラの足取りでこちらに向かって来る。手には一升瓶。右手鷲掴みしているそれは既に中身が入っていないらしい。これで決まった。女将の話が正しいならば彼女たちは既に三升飲んでいることになる。美味い酒をそれだけ飲めるなんて羨ましい。
まぁ、そんな僻みは置いておこう。それよりも気になることがあった。
――ん、あれは……。
近づいてくるごとにはっきりと顔が見えるようになってくる。少し茶色がかった髪はサイドで結ばれ、胸の辺りまで伸びていた。大きな目は酒の影響かトロンと目尻が下がっているがそれでも十分に愛嬌は感じられる。誰が見ても童顔だと言うであろう顔は美人というよりかは可愛いと言う言葉を思い浮かばせた。俺の後輩よりもパッと見で20cm近くは低いであろう身長と、童顔が合わさって成人しているようには見えない。鷲掴みされている一升瓶が酷くミスマッチだ。
成人しているようには見えないが、顔を真っ赤にそめ、手には一升瓶を鷲掴みしている彼女はフラフラとした足取りでこちらに近づいてくる。
――あれってもしかして……。
小柄で童顔。それだけでも十分にインパクトのある女性だが、それ以上に彼女には特徴的な物があった。ぱっと視界に入るだけで自己主張しているそれは、俺の後輩とは比べ物にならないほど立派なものだ。それは言うまでもなく、女性の象徴である胸である。
遠目でしかも服越しでもはっきりと分かる巨乳で、小柄で童顔、それに加えて酒飲み。これだけの特徴を上げれば恐らくほとんどの人が、彼女が誰だか分かるではないだろうか。
――そう、
「……片桐早苗?」
――彼女は俺の後輩と同じアイドルである、片桐早苗だった。
「ん? キミだれ?」
小さく呟いたつもりだった言葉が彼女の耳に届いたのか、もしくは届いていないのか、確かなことは分からないが、彼女は俺の前で立ちどまる。すると、いきなり俺の顔を覗き込むように自分の顔を近づけて、そうに聞いてきた。
真っ赤に染まった顔がいきなり視界一面に広がり、おまわず一歩距離を取る。
「いや、カウンターで飲んでる者ですけど……」
「ふーん、もしかしてキミ、お姉さんのファンだったりする」
相変わらず顔を真っ赤にした早苗が聞いてくる。
「え? どうしてですか?」
確かに俺は片桐早苗のファンだが、なぜそれがバレたのだろう。頭を捻ってその理由を探ろうしたが、全く思いつかない。
「さっき、私の名前呟いていたでしょ?」
一升瓶を持っていない左手の人差し指を顔の横でピンと伸ばし彼女は言う。童顔に一升瓶、それに酔っぱらって顔は真っ赤だと言うのに、その姿はやけに魅力的に感じられた。流石、一流アイドルと呼ばれるBランクアイドルだ。何をやっても絵になる。
「聞こえてましたか……すみません。あのスーパーアイドルの片桐さんがいきなり目の前に現れて動揺していました」
思わず口から出た言葉は本人に届いていたらしい。普通なら絶対に聞こえない声量だったと思うのだが、流石はトップアイドルだ。歌を歌ったりするとなると耳が良くないといけないのかもしれない。酒のせいで頭が回らず、絶対に間違っているであろう考えを俺がしていた時だった。
「ふむふむ、で、キミはお姉さんのファンなのかな?」
「えぇ、片桐早苗さんの大ファンです。今度の東京ドーム公演も頑張ってください!」
特段隠す事ではないので素直にファンであることを認め、応援の言葉を口にする。小生意気な後輩がアイドルをやっている関係で俺もそこそこにアイドルに詳しい。追っかけや、ファンクラブに入るほどではないにしても、それなりにかわいいなぁ、とか、いいなぁ、とか思う応援しているアイドルはいる。目の前の彼女はそんな俺の応援してるアイドルの中でも、三本の指に入るくらい好きなアイドルだ。正直、ここがこういう店でなかったらサインをお願いしたいくらいだ。
あぁ、あの後輩はどうだって?
確かにあの馬鹿もアイドルだが、アイツの場合は付き合いが長く、今でも日常的に見ていることもあってアイドルという感覚が全くしない。そもそもアイドルとはテレビの中やステージ越しに見ることでその可愛さやカリスマ性に惹かれるものである。そこには一種の神秘的な物が宿っていると言っても良い。日常では絶対に手の届かない高嶺の花だからこそアイドルに惹かれ、応援するのだ。誰がTシャツ下着姿で自分の部屋をうろつく奴にアイドル性を感じるというのだ。神秘性の欠片もない。
確かに高垣楓は国民的アイドルである。それはもう疑問の余地がない端然とした事実である。しかし、俺は昔から彼女の事を知っているせいか、彼女にカリスマ性やら神秘性を感じることが出来なかった。
片桐早苗と高垣楓、この両者どちらがよりアイドルだろうか、そんな疑問を投げかけられたとき、多くの人は悩みながらも高垣楓を選ぶだろう。俺の贔屓目を抜きにしても高垣楓は片桐早苗よりも有名なアイドルだからだ。
しかし、俺がこの質問を第三者から受けたのなら一にも二にもなく片桐早苗と即答する。俺にとって高垣楓はどこまで言っても小生意気な後輩であり、妹のような存在だ。勿論サインを貰うなら片桐早苗一択である。アイツのサインなんて貰ったところで薪にもなりゃしない。
まぁこれは言うまでもないかもしれないが、だからと言って別に彼女のことを応援していない訳ではない。長年の腐れ縁として、先輩として、そして友人として俺は高垣楓を応援している。
「ほほー素直で大変よろしい! お姉さんキミのこと気に入っちゃったよ」
「片桐さんに気に入ってってもらえるなんて、光栄です。でも、よく僕の呟きが聞こえましたね」
「あぁ、あれ、聞こえてないよ」
彼女はあっけカランにそう言った。
「……え?」
「口が動いたのが見えたから適当に鎌をかけただけだよ。目が合った時に瞳が揺れてたし、その後の動きからしても私の事を知っているのは確定。後はもしかして、と思って遊び半分で言ってみただけだよ」
私、これでも元警官なんだ、彼女はそう言って笑った。ウチの後輩と同じくよく笑う人である。上機嫌に笑うその姿を見ていると何だかこちらまで嬉しくなってくる。
「それにしても、キミみたいな可愛い子が私のファンかぁ! お姉さんもまだまだ捨てたもんじゃないね」
そう言って早苗さんは一升瓶を握っていない左手で俺の肩を上機嫌にバシバシ叩く。言動といい行動といいそして表情といいその全てが彼女が酔っぱらいであることを示していた。ちなみに、俺の身長は後輩よりも五センチ以上は高く百八十センチ近いし、声も低い。視力が悪いため、目つきも悪く、小生意気な後輩曰く、「先輩はあれですね、ちょっと色々と勘違いしたヤンキーの様な顔ですね」と、昔評された様な奴だ。
素面の人間に可愛いだなんて言われたことは今までに記憶にないし、これ先の人生でもないだろう。
「そうだ、キミ今日は一人?」
俺の肩を数回たたいた後、満足したのか早苗さんは動きを止めると、ふと思いついたように切り出した。
「えぇ、そうですけど」
「何飲んでんの?」
「羅生門ですけど」
「そっかそっか!」
俺の答えを聞き、彼女は満足そうにうんうんと大きく頷いた。
――何だか嫌な予感がする。
俺は酔ってこんな風に何かを思いついたような顔をする人間を知っている。そして、こんな顔をする人間が思いついたこと何ていうのは往々にしてろくでもないことだと言うことも知っている。言うまでもなくあの後輩から学んだことだ。そして、それは人生において分りたくもないことでもあった。
「羅生門を飲んでいるとは、キミ中々いける口だねぇ……」
彼女はそこで口端をニヤリと上げた。
――あぁ、これは……。
そして、彼女は予想通り爆弾を投下する。
「よし、じゃあ今日は特別だ。お姉さんたちと一緒に呑もう!」
そう言うと彼女は俺の返事も聞かずに腕を取る。避ける暇もなかった。電光石火の早業だ。
「え!? ちょっと、片桐さん!?」
「片桐さんなんて堅苦しい! お姉さんのことは早苗ちゃんと呼びたまえ! ささ、靴を脱いで上がって上がって!」
動揺する俺を他所に彼女はどんどんと足を進める。俺の右腕を掴む力は女性にしては強い。流石は元警察官である。
片桐早苗は酔ったら酷い、そんな都市伝説めいた噂がある。俺は話半分で信じてはいなかったが、これをみて確信した。あの噂は真であると。火のない所に煙は立たぬとはよく言ったものだ。
「ちょっとそれはまずいですって! 俺みたいなよく分からない人間がいきなりやって来たら向こうも迷惑でしょ!」
「大丈夫! 大丈夫! みんな相当飲んで酔っ払ってるから、笑顔でOKしてくれるわよ!」
「そんな訳ないですよ!」
「早苗さんがOKって言ってるんだからOKよ。私の事を信用しなさい」
全くもって信用できないことを言いながら彼女は足を個室へと進める。俺と彼女の身長差は30センチ近くはある。小柄な彼女の体のどこにそんな力があるのだろう、そう思わずにはいられないほどの力で彼女は半ば引きずるように俺を引っ張る。
「で、でも……」
「それにしても君はラッキーだね! 今日の飲み会のメンバーは私と同業者ばかりだし、それに何と言ってもあの――」
彼女がそこまで口にした時だった。個室の襖が開けられ、そこから一人の人物が出てきた。
「あ、早苗さん遅いですよ」
聞き慣れた声だった。聞き間違える筈もない声だ。
「私、思ったのですが、日本酒を御猪口でちょこちょこと飲むのもいいですけど」
ソイツは早苗さんに引っ張られている俺の事に気づいていないのか、さらに続ける。
「次はビールをあびーるほど飲みたいと。ですので、次はビールを飲みましょう。たまにの休暇、羽がのびーる思いをしないと。うふふ……」
ソイツはそう言うと笑う。顔を見なくても声色で分かる。どうやら彼女は酔っているらしい。そして何とも反応に困ることを言う奴だ。
「おっ、噂をすれば何とかって奴かな。キミも知っていると思うけど、今日の飲み会にはあの高垣楓もいるんだよ! いやーラッキーだねぇ」
ようやく足が止まった早苗さんは自慢気にそう言った。鏡を見なくても分かる。今の俺の表情はきっと何とも言えない微妙な顔になっていることだろう。
「ん? そちらの方は?」
その時になってようやくアイツは俺の事に気付いたらしい。
「あぁ、新しい飲み仲間だ。カウンターで飲んでいたらしい私のファンだ!」
半ば押し出されるような形でソイツの前に立つ。
翡翠色と紺碧色をした双眼と目が合った。
「……え?」
小さく音を吐き、いつも通り涼し気な笑みをしていたソイツの時が止まった。
――とりあえず、何か言わないとな。
「や、やぁ……」
ぎこちない笑みを浮かべて右手を上げておく。ソイツは未だに時が止まっているのか微動だにしない。まるで電源が落ちた電化製品のようにソイツは身動きをしなかった。
――えーっと、こういう時って何を言えば良いんだ? よう、とでも気軽に挨拶しておくか?
この数分の間に予想もしていなかったことが立て続けに起こって半ばショートしている脳を動かす。
いや、それよりもだ。
「えーっと、とりあえず、さっきの親父ギャグはどうかと思うぞ……」
口から出た言葉はそれだった。とりあえず、あの何とも反応に困る親父ギャグには突っ込みを入れておかないといけない。酒の好みも、酔った絡みもオッサン臭いと言うのにその実、絶対零度の親父ギャグまでかますようになってしまっていたとは……。こりゃ、本格的に嫁の貰い手がつかなくなるぞ。
「え……え? ……え」
ようやく機能を回復させたらしい彼女は目に見えて動揺していた。あたふたと目をうごかして、口はまるで酸欠の池の鯉の如くパクパクさせている。
そして、状況を把握したのか段々と赤くなっていく彼女の顔。
「何でここに先輩が!? え? なんで……さっきの聞かれた!?」
いつも飄々した表情を浮かべている彼女からは想像もできない狼狽え方をしている。いつもとは違う一面を見れて何だか嬉しくなった。後でこのネタでからかってやろうと思う。いつもからかわれているのだ少しくらい意趣返しをしても罰は当たるまい。
未だに顔を真っ赤にしている彼女は急にぶつくさと何かを考えるように呟く。何て言っているのか全部は分からなかったが、「先輩は……泥酔……記憶が…………。明日は……」とか何とか言っていた気がする。その呟きが終わると、真っ赤にしていた顔の何かを振り払うかのようにぶんぶんと首を振った。
そして、彼女は再び、俺と目を合わせた。何故か、その視線は覚悟を決めた武士の如く一本の芯が瞳の奥に見えた。何だかその気迫に押されてしまう。
「先輩っ!」
「はい!」
決意を決めた様な彼女の言葉はやけに力強く思わず敬語になった。本能的と言うべきか、気が付いた時には背筋まで伸ばしていた。
「今日は一緒にたらふく飲みましょう!」
「は?」
思わず、そんなことを口に出した俺は何も悪くない。悪いのは急にとんでもないことを言い出した目の前の馬鹿が悪い。何言ってるんだこの馬鹿は……、そんな目つきをしていたであろう俺を前に当の本人は何も気にする様子もなく、
「だから、今日はたらふく飲みましょう! 一緒に! 早苗さんに誘われたんですよね! 私も賛成です! きっと、皆も賛成してくれます! だから、一緒に呑みましょう!」
「いやいやだから、それはまずいって!」
「大丈夫です、大丈夫! 女将さんには後で言っておきますから、みんなで飲みましょう! もちろん、ここは楓さんのおごりです。美味しい日本酒も沢山ありますから」
さぁさぁ、と彼女は俺の手をとり部屋の中へ引っ張り込もうとする。さきほどとは違いやけに動きがハキハキしている。
「おい、待てって」
この部屋に入ったら終わりが、何故か本能が警鐘を鳴らす。この部屋に入ってしまったが最後、湯水のように酒を飲まされてしまう気がする。そして、それは恐らく間違ってはいないだろう。
踏みとどまろうと足を踏ん張った時だった。背中を押された。
「へぇー、キミ、楓ちゃんの知り合いだったんだぁ」
「いや、知り合いって言うかコイツの先輩っていうか……」
踏ん張っているはずなのにずるずると足が進む。流石は警察官だ。
「キミがあの噂の先輩君だったなんてね」
背中越しにケラケラと笑い声が聞こえた。
「ちょっと噂って――?」
気になったことを聞こうとしたその時だった。
「先輩! さぁ、今日は飲みますよ!」
俺は抵抗虚しく、座敷の中に連れ込まれたのだった。
ちなみに次の日に起きた時には何故か自宅の寝室で寝ており、昨日の記憶が朧げでほとんどなかったとだけ記しておこう。一体昨日何があったというのか……。知っている奴がいたら是非とも教えてほしいものだ。