俺と後輩と酒と 作:JOS
それはアブラゼミの声が一層強くなった真夏の日曜日の事だった。空は見事なまでの青空が覆い、太陽は手加減の三文字を忘却したかのように灼熱の日差しを地上へと降り注いでいた。大きな入道雲が窓の外から見えたが、それ以外に雲の一つも見辺りはしない。本日は晴天なり。
真夏の晴天の中で元気が良くなるのは、子供と蝉だけだというのは古今東西相場が決まっている。勿論、俺は子供でも蝉でもない。窓から見える晴天と、テレビのニュースで最高気温を聞くだけで、両手を上げて潔く降参した。今日はどこにも出かけるつもりもない。クーラーの効いた部屋で籠城を決め込むことにした。
誰が好き好んでこんなクソ炎天下の下に出ようと思うだろうか。吸血鬼でなくてもこの日光の下、活動したら焼け焦げるのではないか、窓から見える風景はそんなことを思い浮かばせるには十分すぎるほどの光景が広がっていた。
「いい天気ですね、先輩」
「全くもって天気が良すぎるのも問題だな。これじゃあ、表にも出れん」
「私も流石にこの炎天下の下で外出は……」
ソイツも同じ意見なのか、読みかけた本を一度机に置くと、苦い顔をしながら麦茶を一口含んだ。グラスに入っていた氷がカランと音をたてる。
最早言うまでもないとは思うが、俺たちが今いるのは例にも漏れず俺のボロアパートの一室だ。昨夜から泊りに来ていた後輩はどうやら何時もと同じように夜までは帰るつもりはないらしい。ちなみに彼女が持っている本は居間にある本棚に投げ込まれるように置いてあった斜陽だ。
「まぁ、元からあまり外出する気はなかったけどな……」
「たまの休日、のんびりしましょうよ」
うふふふふふ、そう言って何時もと同じように軽快にソイツは笑った。何がそこまで楽しいのか、それとも嬉しいのかさっぱりだが、やっぱり彼女には笑顔が良く似合う。
「そうだな。たまにはのんびりしますか」
彼女にそう返事をすると、本棚から適当に本を取り出した。ランダムに取り出したその本の表紙を見て笑みが零れる。『トリストラム シャンディ』。
――なるほど、暇つぶしにはもってこいの本だ。
適当なページを開き読み始める。それからしばらく会話が途切れた。
聞こえるのはペラペラとページを捲る音に、室内機の重低音、そして窓を締め切っているというのに聞こえる蝉の合唱。
時たま、麦茶を啜る音が聞こえるが、会話はない。でも、それは気まずい沈黙ではなかった。言うなれば心地の良い沈黙と言うべきだろうか。お互いに分かり合っているからこその沈黙。無理に会話をしようとしなくても、気を使うことをしなくてもいい、そんな間柄だからこそ生まれる静かな沈黙だった。
あれからどれくらいの時がたっただろうか。数分だったのか数十分だったのか詳しいことは分からないが、我が部屋にノックの音が響いた。続いてインタホーンの音が部屋に響く。
――ん? 新聞の勧誘か何か……。
覚えている限りでは誰か我が家を訪ねてくるような予定は入っていないはずだ。知り合いの可能性がないこともないが、新聞や宗教の勧誘なら面倒くさい。頭の中で簡単な計算式を思い描く。
そして出た結論は、
「「居留守使うか(使いましょう)」」
これだった。どうやら彼女も同じ意見らしく、見事に声が重なった。そのことが可笑しくなり目を合わせて二人そろって小さく噴き出す。
――ピンポーン。 コンコン。
再びインタホーンとノックが聞こえてくる。
「おじさーん、いますかー!? いなければ勝手に入りますよー!」
相変わらず居留守を決め込もうとしていた時だった。ドア越しに聞き慣れた声が聞こえてきた。元気ではつらつとした声は活発そうな印象を扉越しにでも与える。
――あぁ、彼女が来たのか……。
「ん? この声って……」
後輩もその声の主に心当たりがあるのか、読んでいた本から視線を上げた。
さて、このうるさいノックと忙しないチャイムの主が知り合いだと分かった。出なければいけないのは分かってはいるのだが、一度居留守を決め込むと決めてしまうと、人間動くのが億劫になってしまう。まるで体に受ける重力が三割増しになったの如く体は重かった。
――こういう時はっと。
立っている者は親でも使え、座っているなら後輩を使えという訳で、愛しき後輩に目線で合図を送れば、ソイツはいつも通り飄々とした態度で麦茶を飲んでいた。どうやら俺の思惑通りに動くのは嫌らしい。何とも可愛げのない奴だ。
――こうなったらしょうがない、か。
覚悟を決めて渋々立ち上がり、玄関の鍵を開けようとした時だった。
ガチャリというありふれた開錠音が聞こえたと思ったら、扉が開けられた。
「なんだ! おじさんやっぱりいるじゃないですかっ!」
扉の先、眩しい日差しに目がくらみそうになるくらい光り輝く場所に一人の少女が立っていた。鍔の広い麦わら帽子に淡い色の夏物のワンピースを着た少女は勝手知ったる他人の家とばかりに俺の部屋と一歩侵入すると玄関の鍵を閉めた。
「お久しぶりです、おじさん!」
右手にキーケースを持った彼女は麦わら帽子を取るなり、はつらつとした笑顔を見せる。編み込まれた青みがかった黒髪がサラリと揺れた。
――そう言えばコイツも俺の部屋の合鍵もってたっけ……。
幾何かの昔、根気に負けて彼女に合鍵を渡したことを思い出した。
「久しぶりだな、百合子。とりあえず、上がっていけ」
天真爛漫、純粋無垢、そんな四字熟語を思い浮かばせるこの少女の名前は七尾百合子。俺との関係性はいたって単純、ただの親戚だ。親戚といっても姪っ子ではない。だから、彼女にとって俺は叔父さんには当たらないのだが、彼女は俺の事をおじさんと呼んでいる。まぁ、思えば俺も今年で二十五歳になる。十五歳の百合子からすると十歳も年上はおじさんになるのかもしれない。
俺も別に呼ばれ方にはこだわっていない為とくに苦言を呈す訳ではなく、いつの間にかおじさん呼びが定着していた。まぁ、三十まではお兄さんと呼んでほしかった気がしないでもないが、これは言ってもしょうがない。
「はい、お久しぶりです。あぁ、そうだ。まず、この前お借りした本をお返しますね」
彼女はそう言うと肩から下げていた白いトートバッグから一冊の単行本を取り出して俺に差し出す。
彼女はときたま俺の部屋を訪れることがある。その時は大抵遊びに連れて行かされたり、買い物に付き合わされたり振り回されることがほとんどだ。そんな彼女は家に帰る時にいつも俺の部屋にある本を数冊借りて帰る。本棚に投げ入れている本は一度は目を通したものなので、別にどれを借りて行こうが構わない俺は、適当に本をもっていってもらうことが常だった。
七尾百合子は自他ともに認める読書好きだ。俺もそのことは重々に承知なのでウチの部屋にある本なら好きに持っていくように言っていた。
彼女がこの間何の本を持って行ったのか俺は知らない為、何気ない気持ちで差し出された本を受け取る。
――ロリータ。
表紙には大きくそう書かれてあった。
「いやー、今まで食わず嫌いしていたんですが、面白かったです。ハンバートハンバートの歪んだ愛が、繊細な詩的な文体で書かれてあってとても満足です!」
彼女は靴も脱ぐ気配がないまま力強くそう言った。彼女の読書熱は凄い。ただ、凄すぎて一度火が着くと周りのものが見えなくなる時がある。図書室の暴走特急とは百合子の友人が付けたあだ名だと聞いたが、上手いことつけたなぁと感心に似た納得を覚えた。
「そうか、それは良かった」
ロリータという小説は純粋に文学作品として読んで面白い。俺も好きな作品の一つなのだが、それを俺の部屋から百合子が自宅に持って帰ったと彼女の両親が知ったらどう思うだろうか。
――いや、考えるな。考えたら負けだ。
ろくでもないことになりそうなので、頭を左右に振ってそのことを消去する。
「でも、日本語が所々おかしかったように感じてしまって残念でした。どうしても、違う言語ですのでしょうがないといえばしょうがないんですけどね……。おじさん、もしかして、原作とか持ってないですか? ロリータ」
「あ、あぁ、持ってるよ」
「本当ですか! では、今日はそれを貸して下さい!」
「あ、あぁ確か本棚の右下辺りにあったはずだから、適当に帰る時にもっていきなよ」
ぐいぐいと勢いよく食いついてくる百合子に気圧されるように一歩後退する。さすが、図書室の暴走列車、その異名は伊達ではない。
「ま、まぁ、とりあえず上がりなよ。麦茶位ならあるし」
「そうですね。外は暑かったので涼ませてもらいます……ん?」
彼女はここに来てようやく靴を脱ごうと視線を足元に落とした。
「このヒール……もしかして」
ようやくここにきて百合子は後輩の存在に気付いたらしい。靴を脱いで部屋に入って来た百合子に対して後輩は麦茶を片手にヒラヒラと笑顔で手を振った。俺と付き合いの長い後輩も百合子のことは当然知っている。顔を合わすのも両手両足の指の数を合わせても足りないくらいには顔を見合わせている。
「――高垣……楓」
「はーい、百合子ちゃん。お久しぶりです」
天真爛漫、純粋無垢、そんな四字熟語が当てはまり大抵の人間と仲良くやっているであろう百合子といつも飄々として笑みを絶やさないウチの後輩との相性は何故かは分からないが悪い。実際には百合子が何故かウチの後輩に突っかかっている。理由は知らん。知ろうとも思わん。ちなみにウチの後輩はというと可愛い妹が出来たかのように彼女に対しては何時も飄々した笑みで接している。要するに完全に往なしているのだ。
――とりあえず、百合子の麦茶でも用意するか。
どうせ、何時もの如く部屋に入るなりぼそぼそと何かよく分からん言い合いをするのは分かっているため、部屋に入っていく百合子の背中を見送ったあと、部屋に戻るついでに冷蔵庫から冷えたジョッキを取り出し麦茶を注ぐ。
『なんでまたいるんですか、楓さん!? 今どき押しかけ女房ですか? 流行らないし、おじさんも迷惑だから止めたほうが良いと思います!』
『うふふふふふふ、百合子ちゃん、先輩が迷惑だなんて言いましたか? それに貴方は先輩の親戚で貴方こそ、私にどうこう言える立場じゃないのでは? 血が少しでも繋がっているのは事実でしょう?』
『大丈夫です。古今東西愛さえあれば、後はどうにでもなるんです! ほら、このロリータだって連れ子だとは言え、娘と父の愛の話ですし、かのシェイクスピアのリア王だって! バリバリの近親相姦です! 文学の世界では当たり前の話です!』
――やっぱりいつも通りか。
百合子が部屋に入るなりボソボソ声が聞こえてきた。俺には何を言っているのかほとんど聞き取れないし、俺も聞き耳を立てるようなことをする人間ではない。どうせ聞いてもロクでもないことばかりだろうし、それならば聞かない方が幾分もましだ。藪をつついて蛇を出す趣味はない。
『それ両方悲劇だけど……』
『くっ……。でも、愛は全てを凌駕するんです! 悲劇は革命により、大団円になるんです! 私は確信したい! 人間は恋と革命のために生まれてきたのだ!』
『斜陽ね。百合子ちゃん、やっぱりすごい本を読んでいるのね、うふふふふふふ』
『えぇ、本を読むとその分知識と言葉が広がりますから、“The limits of my language mean the limits of my world”と言った言語学者もいます』
『ヴィトゲンシュタインね……。言語の限界が我々の世界の限界である。語りえぬことについては沈黙をせざるを得ない』
『えぇ、だから私は自分の世界を広げるために本を読みます……まぁ、ほとんどおじさんの受け売りですが……えへへへ』
『うふふふふ、やっぱり百合子ちゃんは可愛いわ……よし、今日は先輩と三人で好きな本の話をしましょう』
『本当ですか! やった!』
――百合子もきたとなると絶対に騒がしくなるからなぁ……。もういっそ今日は飲むか。
麦茶の入ったジョッキを運ぶついでに冷蔵庫の中から缶ビールを二本ほど取り出すとトボトボと部屋へと帰るのだった。
アル中の作者による解説
純客観……かみ砕いて言うと第三者目線でとか、客観的といった意味……多分。
前回の話で楓さんが思い出していた夏目漱石の作品である草枕の一文
『茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭が斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも咏まれる』
は
『有体なる己れを忘れつくして純客観に目をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ』
と続きます。客観的と書いても良かったのですが、どうせならとこの純客観という言葉を使用させていただきました。分りにくくてすみません。そして間違っていたらすみません。
次回予告。
温泉回or海
多分。