俺と後輩と酒と 作:JOS
そして、すみません。編集するつもりが削除してしまった……。
前半部分に変更はありません。
――はぁ、いい湯だ。
湯船につかり空を仰ぐ。視界にはヒノキで出来た高級感あふれる天井が半分、夏の夜空と呼ぶのにふさわしい満天の星空が半分。どちらも普段では中々お目に掛かれないものだ。聞こえるのは虫の声に、お湯が水面を叩く音だけ、東京に比べると雑踏の種類が全く違うここはいつ来ても昔のままだった。風流かな風流かな。
半露天風呂になってるここには俺を除くと誰もいない。あるのは大の大人でも三人は足を延ばして優につかれるであろう檜造りの湯船に、体を洗うためのシャワーが一ヶ所だけ。旅館にある貸切露天風呂。俺が今体を休めている場所はそこだった。温泉旅館と言えば大浴場も捨てがたいが、こちらも捨て難い。ここならば誰も来ない空間でゆっくりとお湯に浸かれるし、
――何と言ってもこれがある。
ゆっくりと体を起こすと、湯船の淵に置かれた缶を掴む。
――日本酒も捨てがたいが、まずはこれだな。
そして、そのまま口に運び一口。やはり、どこで飲んでもビールは上手い。そのまま再び浴槽の淵に頭を預け、力を抜く。気分的にはゆらゆらと湯船に浮かぶ海月の気分だ。ゆらゆらと温泉に浮かび力を抜く。湯の流れにただ体を任せる。目を閉じる。どこからか名も知れない虫の声が聞こえる、近くからお湯が水面を打つ音が聞こえる。昔の詩人に獨坐幽篁裏 彈琴復長嘯。深林人不知 明月來相照という句を詠んだ人間がいたと覚えがある。かの詩人と俗物の俺を比べるのは烏滸がましいが今の境地はこの歌と同じようなものではないかとふと思った。勿論、ここは竹藪ではないし、俺は琴を弾いている訳でも歌っている訳でもない。しかし、きっとかの詩人も今の俺と同じように竹藪で虫の声に耳を澄ませ、空を仰ぎ夏の星を数えたことも在ったはずだ。
――うん、もうそろそろ、か。
目をつぶりお湯に体を預けていた俺の耳にカラカラと引き戸を開ける音が聞こえてきた。後ろを振り向くまでもない。ここは今日と明日は貸し切り風呂だ。ならば、ここを訪れる人間は一人しかいない。お湯に漂いながら聞く。
「なんのために時間を決めたか分かってるのか?」
一応この貸し切り風呂に入るに当たって各自入れる時間を決めた。それは勿論風呂場で鉢合わせる事故を無くすためだ。
「えぇ、分かってますよ」
いつも通りのソプラノの声はどこかしら弾んでいる。顔を見なくてもわかるいつも通りニコニコと笑顔を浮かべているのだろう。
「先輩と一緒に温泉に入るためですよね?」
目を開けるとバスタオルを体に巻いて掛け湯をしている馬鹿がいた。
「……はぁ」
隠すことなく大きなため息を一つ。この光景も今まで何度見た事か。来る度にこうも鉢合わせればいい加減なれる。温泉に入るのに水着を着るということにも慣れてしまった。古来、温泉とは身を清めるために入ることも在ったそうだ。身を清めるためには勿論裸一貫であるべきなのだが、こればかりはしょうがない。何度言ってもこの馬鹿は風呂に突入してくるだろうし、二回目からは水着が必須になっていた。
「ため息とは酷いですね。先輩、こんなかわいい後輩と一緒に入れるんですよ、温泉」
「鏡見てこい、鏡」
俺の戯言は、
「うふふふふ、そこの鏡には美人しか映ってませんでしたが」
笑って受け流された。流石に長いこと付き合っていない。俺の扱いには慣れている。
後輩は優雅に笑いながら手に持っていた桶ともお盆ともとれる物を俺に差し出す。その中には徳利が三つと御猪口が二つ。どうやら例年通り一杯やろうというわけだ。
「気が利くな」
「うふふふふ、先輩のことならお見通しですよ」
「…………」
その声を無視して、また頭を湯船の淵に預けて空を仰ぐ。遥か彼方に夏の大三角形が見て取れた。
「さて、と」
隣から湯船に入る音が聞こえる。そして、とくとくと御猪口に酒を注ぐ音も聞こえてきた。少々名残惜しいが、重い頭を淵から上げ、体勢を正す。そして、後輩の方を向き、
「お前、何やってんだ?」
疑問を呈した。
「何って? お酒の準備ですよ? はい、先輩。お疲れ様です」
何時ものようにマイペースに笑いながら彼女は透明の液体が入った御猪口をこちらに差し出す。何ともないような何時も通りの彼女に、
「あ、あぁ、ありがとう」
俺も押されて御猪口を受け取る。
「いや、じゃなくてだな……何でタオルを巻いたまま入ってるんだ?」
そう、今彼女はバスタオルを体に巻いたまま湯船に入っている。いや別に、この場合異性との混浴になるのだから体を隠すという意味でバスタオルを巻いて入るのは正解だ。しかし、彼女は毎度の如くこの温泉に入る時は俺と同じく水着で入っていた。だから、こうやってバスタオルを巻いたまま温泉に入って来たことに驚いたという訳だ。
「……? ちゃんと、女将さんからは許可を貰ってますよ?」
俺の質問の意図を分かっていないのか、彼女は首を可愛らしく傾げる。いや、この表情は俺の質問意図を分かったうえで恍けている顔だ。長年の付き合いだ、これくらいは分かる。
「いや、そう言う意味じゃ……」
「あぁ、なるほどあれですね。先輩はこのタオルの下が見たいということですね……うふふふふ」
彼女は怪しげに笑うと胸元のタオルの縛りを緩めようと手を動かす。
「どうせ、水着下に着てんだろ? 全く俺を揶揄おうなんて百年早いぞ」
彼女の魂胆は分かっている俺が慌てる様を見たいのだろう。しかし、そうはいかない。この手段は数年前、彼女と初めて温泉旅行に行ったときに俺が嵌められた手段だ。流石に数年越しとは言え、一度嵌った罠にもう一度嵌るほど俺は馬鹿ではない。
「だいたい、お前それは――」
――数年前に俺が嵌った奴だろ?
と、続くはずだった言葉は口から出なかった。気付いたのだ。彼女はいつも温泉に入る時は水着を着ている。その水着はいつも同じ、大学時代に一緒に買いにいった深緑のビキニだ。彼女のお気に入りのそれは、海にいくにしろ、プールに行くにしろ、この温泉で一緒に入る時にしろいつも身に着けていたものだった。
ビキニ型のその水着は、肩ひもがついている一般的なやつだ。チューブトップの水着とは違う。ということは幾ら体にバスタオルを巻いていようが、肩紐が見える筈だ。しかし、今の彼女を見るに肩紐どころかバスタオル以外何も見つからない。それどころかニコニコと笑いながらも彼女は顔を朱に染めてタオルをゆっくりと解こうとしている。この表情に嘘は見えない。
「分かった! 分かった! そのままでいいから、タオルを取るな!」
「先輩が言うならしょうがないですね」
俺の声をうけて彼女は止まった。その顔色はほんのりと赤かった。恥ずかしがるくらいなら揶揄わなければいいのに。
「ってか、お前水着はどうしたんだ?」
「忘れました。家に……」
あっけらかんと彼女は言うと、自らの御猪口にも日本酒を入れて俺へと差し出す。
――よく、言うよ。
前にも言ったが彼女は俺とは違い頭がいい。長年一緒にいるが、混浴と分かっていながら毎年持って来ている水着を忘れるなんて凡ミスをするとは思えない。しかし、それに突っ込んだら蛇が出そうなのでやめておく。藪を突いて棒が出るならまだしも、蛇やら鬼やらが出てきたらどうしようもない。
彼女に習い手に持っていた御猪口を彼女の方へと向ける。そして、中身を一飲み。
――あぁ、やっぱりこれがいい。
温泉に星空に日本酒、それと見てくれだけは最高の美人。極楽浄土とはきっとこのことを言うに違いない。あと、望むならばもう少しこの馬鹿な後輩が俺のことを先輩として敬ってくれたのならそれ以上の事はない。
それからしばらく酒の肴に会話に花を咲かせた。まぁ、会話と言っても普段俺の部屋にいる時と何ら変わりない雑談だ。つまり生きていく上で何の必要もない生産性皆無の話だ。
「そう言えば、先輩? 高校の同窓会の連絡来ましたか?」
何がそんな楽しいのか分からないが、いつもどおりニコニコと笑みを浮かべた後輩は御猪口の中身を飲み干しながら言う。
「あぁ、あれか。来てるよ、何故か大勢から電話で誘われてる」
後輩の御猪口に日本酒を注ぎながら応える。
普段なら同窓会の案内なんてハガキが一通届くだけだ。そのハガキも何時もはポストの中でチラシに埋もれて期限を過ぎて発掘される事がほとんどだ。勿論今までに一度もいったことはない。しかし、今年は例年と違った。何故か同級生やら先輩やら後輩やらからメールなり電話なりで誘われる。その勢いは普段は全くならず、その実電卓とメモ帳代わりになっていた携帯がようやく存在意義を果たそうと躍起になっていると思えるほどだった。
「そうですか……。先輩は参加されないんですか?」
「参加しねーよ。そんな柄じゃないし……」
別に高校の奴らが嫌いなわけではない。仲のいい奴らもいたし、虐められていた訳でもない。でも、わざわざ同窓会の為だけに地元に帰るのが嫌なだけだ。もう既に俺はあの土地には何の縁もゆかりもない。
「そうですか」
「お前はどうするの? どうせ、いつものことだから誘われてんだろ?」
今更言うまでもないが高垣楓は国民的アイドルだ。そんな彼女は高校の同窓会は勿論のこと、文化祭なんかでも招待されることが多い。勿論、それは大学でも同じだった。高田馬場のカリスマモデルと呼ばれていた時から彼女は学内では有名だった。まぁ、雑誌の表紙を飾るようなモデルだったのだ話題になるのも頷ける。
「えぇ、お声はかかりましたが……やっぱりやめておきます」
少しだけ空白があった言葉に何処か引っ掛かりを覚える。
「……お前まさか同窓会の幹事の奴らに何か言ってないよな?」
「うふふふふふ……。ただ、私は“先輩が出るのなら”私も出ると返事をさせていただいただけですよ」
――やられた……。
御猪口の中身を飲み干しながらそう思った。今頃になってやけに同窓会の誘いのメールやら電話が多いと思ったらやっぱりこれだったか。アイツらは俺に会いたいのではなく高垣楓に会いたいのだ。俺が来れば高垣楓が来ると言うことは、逆を言えば俺が来なければ高垣楓も来ないということになる。だからこそ、あそこまで必死なのだ。
――あいつらの事だ。絶対にあきらめないだろうしなぁ……。
はぁ、と一つため息をつき、後輩が注いでくれた日本酒を仰ぐ。
「そういうことね。分かった分かった。たまには地元に帰りますか」
墓参りにも暫く帰っていないし、たまにゃ線香でも上げないと罰でもあたりそうだ。
「あら、先輩、気が変わったんですか? なら、私も良い返事が出来そうです」
いけしゃあしゃあと宣う後輩を半目で睨む。俺の視線に気づいていないのか、それともあえて受け流しているかは分からないが、彼女はニコニコと笑いながらさらに続ける。
「先輩、その時は是非我が家に泊まっていって下さい。泊まる場所もないでしょうし」
「いや、流石にそれはお前のおじさんとおばさんに――」
それは流石に不味いので断ろうとしたが、
「――大丈夫です。父にも母にもすでに了承は得ています。二人とも楽しみにしていましたよ。先輩と会えるのを」
退路はしっかりと封じられてしまっていた。完全なまでのシャットアウトだ。この可愛げのない後輩だけなら兎も角、彼女の両親にはある一節で非常にお世話になった。頭の上がらない存在だ。そんな人たちから是非と言われれば俺は首を縦に振る他ない。
――それにしても“すでに”了承は得てますね……。
きっと、彼女は同窓会の案内が届いた時からこうなることを見通して返事をしていたのだろう。先ほどのまでの俺の思考と行動は彼女の手のひらの上だったらしい。そう考えるとやっぱり俺は頭の方でも一生彼女に勝てないと実感する。何とも可愛げのない後輩である。
「あぁ、分かった。おじさんとおばさんに宜しく伝えておいてくれ」
「はい」
俺の完敗宣言に彼女は満足げに頷くと、俺の御猪口に日本酒を注ぎながら話題を変えた。
「そう言えば、残念でしたね。百合子ちゃん来れなくて」
「まぁ、しょうがないだろ。アイツも高校受験で大変だろうし。それに――」
最後の最後まで百合子は来る気だったようだが、流石に高校受験を理由に両親に止められた。まぁ、アイツもこの後輩に似て頭はいい。だから、一日や二日勉強をサボった所で落ちる筈はないのだが、それを言うと無理をしてでもついて来ようとするのが目に見えていた。そのため、黙って彼女の家まで強制送還した。
「それに、なんですか? 先輩」
「いや、アイツの場合若くて元気がいいからな。温泉に一緒にくるならやっぱり落ち着いたお前みたいなやつの方がいい」
長いこと湯につかり飲んでいたからだろうか、自分では気付かないうちに酔っぱらっていたらしい。普段では口に出さないような事までが滑らかに口から出た。後から思い返せばここで自分の酩酊具合に気付くべきだったのだろうが、夏の夜空と、湧き出る出湯にすっかりとあてられ、俺は酔っているということに自分自身で気付いていなかった。
「でも、百合子ちゃんは可愛いですし、先輩も可愛い女の子と来たかったのでは?」
彼女のその言葉に、
「何言ってんだ? お前の方が可愛いし、綺麗だろうに。俺も男だし、純粋に美人と温泉に入れれば嬉しいよ」
俺は、ただ何も考えずに御猪口の中身を空にしながら、そう応えた。
何の戸惑いも躊躇もなく、そんな言葉が滑らかに出た。平生では素面でも酩酊してでも出ない言葉がすっと出た。何度も言う様にきっと俺は中てられていたのだろう。夜空に浮かぶ星空に、頬を撫でる夏風に、水面を叩くお湯の音に、そして何よりも国民的アイドルとしてではなく、ただの女性としての高垣楓の魅力に……。
――あ。
気付いた時には言葉は既に出終っていた。
――こりゃ明日から揶揄われるなぁ……。
そんなことを思いながら、横を見れば。
「…………」
顔を真っ赤にさせながら御猪口をもって硬直している後輩がいた。
――何をやってんだコイツ?
俺が首を傾げて悩むこと数秒。ようやく復活したと見える後輩は、
「セ、セ、先輩! 私、新しいお酒持ってきますね!」
そういきなり宣言すると脱兎の如く勢いよく立ち上がった。ここで少し前のやりとりを思い出して欲しい。彼女は温泉に入るなり、俺をからかう為体に巻いたタオルを少し緩めている。それは今も変わらずだ。
そんな彼女がタオルの事を気にせずに、これまた勢いよく立ち上がればどうなるか?
「―――へっ?」
平生では聞けないような間抜けた声が彼女の口から出た。
答えは単純に明快。タオルが取れるである。バチャンと勢いよく立ち上がった後輩だが、体に巻いたタオルのほうは勢いに耐え切れず未だにお湯の中。主をなくした白い塊が水を吸って底に沈んでいた。
つまり今の彼女は完全に生まれたままの姿である。
そんな彼女と俺の視線が交差する。
「セ、先輩っ!?!?」
思い出してほしい、彼女は俺の部屋で普段から下着が見えるような格好でウロウロしているし、酷い時にはTシャツ下着姿の時すらある。彼女は間違いなく俺のことを男としては見ていない。だから俺に全裸を見られたところでどうとも思っていないのだ。
まぁ、彼女が俺のことをどう思っていようが彼女は黙っていれば立派な美女だ。俺だって美人の裸が見れれば嬉しいことには変わりない。眼福眼福。
――しばらく、見ないうちに立派になったなぁ。眼福眼福。
と彼女の体を見ながら思っていた俺に声が掛かる。
「…………」
視線が合って数舜、彼女はフリーズしたまま動かない。そして、固まったまま段々と赤くなる顔と肌。陶器のような透明感を持った白い肌は熟れたトマトの様に真っ赤に染まっていく。そして、段々と黒目の動きが怪しくなっていき、
「きゅ――」
「きゅ?」
――きゅってなんだ?
そう続くはずだった俺の言葉はここで途切れた。理由は単純、
「きゅー」
目の前の後輩が目を回しながらお湯の中につっこんだからだ。
「おい、何やってんだお前――って、おい、大丈夫か! しっかりしろ!」
彼女の気が戻ったのは俺が部屋に運び込んで一時間後のことだった。