初日最後の授業が終わる同時に俺は席を立ち、真っ先に教室から出て保健室へと向かった。今日一日で感じた不快感とストレスは、普段感じるそれの何倍にもなっており、これ以上は限界だとお昼を過ぎたあたりから体が訴え続けていたのだ。周囲の視線に晒された状態では昼飯もろくに喉を通らず、深刻となってきた空腹感も現状に拍車を掛けていた。
駆け込んだ保健室では、おっとりとした雰囲気をした妙齢の女性が机に向かって何かを記入している途中だった。その女性──この保健室の先生は、突然現れた俺に最初こそ訝しむような目を向けていたが、事情を説明し終わる頃には「それは大変だったわね」と心底同情されるまでになった。その上で、少しベッドを貸してほしいという旨を伝えれば喜んで貸してくれたので、俺は放課後になってようやく安息の時を迎えることが出来たのである。
「はぁ~……」
柔らかなベッドに背中を預けながら溜め息を一つ。思っていた以上に大きくなったそれは、どうやら先生の方にも聞こえていたようで、やがてクスクスという小さな笑い声が返ってきた。なんというか、これは恥ずかしい。
そうしてベッドに横たわること数分、やけに熱い顔が元に戻る頃になると、張りつめていた緊張の糸もかなり弛んでいた。だが、そうなってくると頭に浮かんでくるのは今日一日の出来事である。授業の内容が難しいのはともかくとして、目下の問題は周りからの視線だ。鬱陶しいことこの上ないこれらにさっさと慣れてしまわなくては、ただでさえ居心地の悪い学園生活がもっと息苦しいものになってしまう。
「……こんな時、あいつらがいてくれたらな」
中学時代の数少ない友人の顔が頭を過り、思わずそんなことを呟いてしまう。五反田弾、御手洗数馬、そして凰鈴音。三人のうち誰か一人でもこの場にいたなら、どれだけ気が楽だったことか。千冬姉は家族だがここでは基本的に生徒と教師の関係である。家でいる時のように砕けて話すことすら出来ないだろう。
面識があるというだけで言えば箒もいるが、彼女とは六年間も離れていた間柄だ。何より、箒はあの中学時代を知らない。弱音を吐く相手としては少し弱かった。
「──あら、山田先生と織斑先生。どうかされましたか?」
「失礼します。織斑君がここにいると聞いてきたのですが……」
「ええ、今はベッドで休んでいますよ。慣れない環境ですから、なかなか辛かったみたいです」
不意に保健室の入口が開く音がして、続いて聞き覚えのある声が耳に届く。ベッドから体をお越してそちらに目をやれば、山田先生と千冬姉の姿が見えた。そして、そんな俺の存在に二人も気が付いたようだ。
「織斑、大丈夫か?」
「……正直、まだ参ってます」
「そうか……。あまり無理はするなよ」
千冬姉の言葉に俺は素直に頷く。千冬姉が心配してくれている、それだけ分かれば少しだけ心が楽になった。
「それで、一体どうしたんですか? 俺を探していたみたいですけど……」
「あっ、そうでした。これを織斑君に渡しておかなくちゃと思いまして。寮の部屋割りが決まりましたので、これがその部屋の鍵になります」
そう言って山田先生が差し出してきたのは、『1025』という番号の書かれた札とセットになった鍵である。このIS学園は全寮制のため、ここに通う生徒達は寮で生活することが義務づけられているのだ。だが、少し待ってほしい。
「俺の部屋、決まってないんじゃなかったんですか? 確か最初の一週間は自宅から通学してもらうって言われたんですけど」
「そうなんですけど、きっと織斑君は事情が事情なので……。何かそのあたりのこと、織斑君は聞いてますか?」
「いえ……全く何も。今、初めて知りました」
山田先生の問いに答えながら、内心では連絡の一つも寄越さなかった日本政府に悪態をつく。まさかいきなり寮生活が始まるなんて思いもしなかった。こっちはまだ荷造りを始めてすらいないというのに……。
「一先ず最低限の荷物として着替えと充電器は部屋に運んでおいた。他に何かあれば、また休日にでも取りに行ってくれ」
「あ、ありがとうございます、ち……織斑先生」
「弟のためだ、それくらいはやるさ」
ほんの僅かに口角を上げた千冬姉に、ふぅと安堵の息が溢れる。しかし本題はここからだ。IS学園での寮生活は事前に調べた限り、二人で一部屋を共有するのだとされていた筈。ならばそれを確かめない訳にはいかない。ベストはここが一人部屋の場合だが、果たしてどうなのか……。
「先生、ここの部屋は──」
「篠ノ之と同室だ。部屋割りを調整して一人部屋の用意もしているが、まだ目処が立っていなくてな……。悪いが一ヶ月から二ヶ月は相部屋になると思っていてくれ」
「い、一ヶ月から二ヶ月って……」
長い。想定していたよりもずっと長い期間、俺は箒と同じ部屋で過ごさなければならないらしい。少なくとも見知らぬ誰かと生活することに比べればましではあるが、さっきも言った通り箒とは六年間も離れていた疎遠な関係だ。それにいくら顔見知り同士だったとしても、同い年の異性が同じ空間にいては休まるものも休まらないに決まっている。それは俺だけでなく、箒も同じだろう。
本当に、ここに来てから嫌なことの連続だ。
「すみません、織斑君。部屋の準備が整い次第、すぐに移動してもらうことになると思うので、それまでは我慢してください……」
「……分かりました」
もうどうにでもなれ。そんな投げやりな気持ちと共に俺は溜め息をついた。
△▽△▽
「1025……1025……」
購買で買ってきたパンの入ったビニール袋を片手に、俺は山田先生に渡された鍵の示す部屋を探す。学生寮と言うからもっと小さい建物かと思っていたが、やたらと大きな造りと綺麗な内装は寮というよりホテルのようだ。この学園寮一つに一体どれだけの金をかけているのか、全く想像も出来ない。
そんなことを考えているうちに1023室、1024室と順に通り過ぎ、いよいよ1025室の前に辿り着いた。すぅと一度深呼吸をしてからノックを二回、そのまま少し待ってみるが……中から人が出てくる気配はなかった。
「うーん……どうするかな」
部屋の鍵は手元にあるが、このまま普通に入っていいものなのか。ここは俺の部屋でもあるが、同時に箒の部屋でもあるのだ。とはいえ、このまま突っ立っていては誰かがやって来た時に、また余計な騒ぎになる可能性もある。
部屋に入るべきか否か、悩んだ末に出した答えは前者だった。どうか何もありませんようにと祈りながら鍵を開けようとし──しかし、逆に閉まってしまったことに首を傾げる。つまり、この部屋の扉は最初から開いていたということになるのか……?
「箒の奴……なんて不用心な……」
思わずそんな言葉が溢れるが、気を取り直して今度こそ部屋へと入る。
部屋の中は外同様、数ある寮の一室とは思えない程豪華なものだった。まず目を引くのは二つ並んだ大きなベッド。その他にも机や椅子、タンスといった家具も置かれている。試しに手前のベッドの上に座ってみるが、その時にした柔らかな感触は間違いなく高級品のそれだ。きっとよく眠れることだろう。
「これで一人部屋だったなら文句なしなんだがなぁ……」
「ん? 誰かいるのか?」
突然、奥の方から声が聞こえた。トイレからか浴室からかは定かではないが、完全に一人だと思っていた俺は、思わぬ事態に完全に動きを止めてしまう。そして──、
「こんな格好ですまないな。私は篠ノ之箒、一年間よろし……く……?」
現れた箒はその体にバスタオルを一枚巻いただけの、なんとも無防備な姿だった。先程までシャワーでも浴びていたのだろう、その肌はうっすらと赤く染まっている。そしてその肌の上を水滴がつぅっと滑るように伝っていった。
ベッドの上に座る俺を見た箒はきょとんとしていた。だがそれも最初の数秒だけで、それからはトマトのように顔を真っ赤にしてわなわなと震え始めた。俺はそんな彼女から「ひっ……!」と短い悲鳴を上げてすぐ目を逸らし、急いで背中を向ける。心臓の鼓動がうるさいくらいにバクバクしていた。
「い、一夏……!? な、何故お前がここにいるっ!?」
「い、いや、俺も、ここの部屋なんだが──」
ここの部屋、そう言った途端に後ろの箒から凄まじい殺気が飛ばされる。まずい! そう告げる本能に従い、頭を庇うように手を出した俺は──直後に右腕を襲った激痛に崩れ、その場に踞った。
「痛っ!? っ……ぁぁぁぁ……!」
痛い。長袖の制服の上からとはいえ、かなり強い衝撃だった。多分折れてまではいない筈だが……この痺れるような感覚は当分続くだろう。ズキズキと痛い右腕を庇うように押さえる。
踞りながら必死になって頭を上げると、そこにはまだ赤い顔で竹刀を握る箒がいた。ギロリと俺を睨むように鋭い眼光を向けてくる。
「お、お前が、私の同居人だというのか!?」
「……一応、な。あぁもう、痛ぇなぁ……」
「ど、どういうつもりだ!? 男女七歳にして同衾せず、だぞ!」
「俺だって望んでこうなったんじゃない。学園やら政府やらの指示でやむを得なくなんだよ。悪いけど一ヶ月から二ヶ月は同室だそうだ」
早口で捲し立てる箒の問いに答えつつ、落としていたビニール袋を拾う。勿論、右手は痺れたままなので左手でだ。俺はフラフラとその場に立ち上がると、くるりと踵を返して出口へと向かう。
「おい一夏! どこへ行く気だ!」
「どこか人のいない所。一時間くらいしたら戻るから、それまでに着替えくらいはしといてくれ」
それと、と俺はドアノブに手を伸ばしながら付け加える。その際、箒の手にある竹刀を僅かに一瞥した。
「
その一言に箒は何かを言おうとして言葉を詰まらせた。そんな彼女を置いて、俺は部屋を出る。
廊下には先程と違ってラフな格好をした女子達がちらほらしており、部屋から出てきた俺を見てワイワイと騒ぎ始めた。そのうちの何人かがこちらに声を掛けてくるが、適当な返事をして早足でそそくさと退散させてもらう。実のところ、空腹が限界に近いのだ。
「……落ち着いて飯の一つも食えないのか、この学園は」
溜め息と共に愚痴を溢しつつ、人気のない静かな場所を求めて足を動かす。食堂に行かず、わざわざ購買でパンを買った理由がこれだ。昼間のような、周りからの視線と絶え間なく話し掛けてくる生徒達のせいでまともに食事も出来なかった、なんてことになるのはもうごめんである。
「(それにしても……変わったな、箒)」
六年ぶりに再会した知己を思い出し、内心でそうぼやく。昔から気の難しいところがあったのは知っているが、しかしいきなり暴力を振るうような性格ではなかった筈だ。先程もまさか竹刀を振るわれるとは思わなかった。やはり、時間は人を変えるということなのだろう。
尤も、変わり果てたという意味では俺の方こそなのだが。
とりあえず二度と竹刀で叩かれないようにしよう。未だに痛む右腕を撫でながら、俺はそう心に決めた。
一応次の話で触れる予定ですが、少しだけ。
箒が変わったと言う一夏ですが、逆に箒からすれば一夏も変わっている訳です。思い出ではかっこよかった幼馴染みが、再会した時点で変に理屈っぽくなっていれば、その差異に戸惑ったりもしてしまうでしょう。
まぁ、何が言いたいかっていうと箒アンチはしないよってことです。