その夜、俺と箒は昨日同様、お互いに各々のベッドに座って向かい合っていた。異性と同じ部屋にいるという状況にはまだ慣れないが、それでも昨日に比べればずっと落ち着いていられる。そういう点で見れば、まだ箒の方が居心地は悪そうだった。単にこれから話をするにあたって緊張しているだけかもしれないが。
「……とりあえず、箒はお前が転校してから今に至るまで、俺が何をしてたかを聞きたいんだよな?」
「う、うむ。そうだ……」
「一応断っておくけど、全然楽しい話じゃないぞ? はっきり言って、お前の性格からして胸糞悪くなるぞ」
「……どういうことだ?」
俺の言葉にやや固い面持ちから一変して怪訝な表情となる箒。俺は手元のお茶を一口煽り、口の中を湿らせた。
「そのまんまの意味だよ。お前、いじめとか陰口とか昔から嫌いだっただろ?」
「当たり前だ。そんな陰湿な行いはあまりに卑怯ではないか。許される筈……が……」
そこで箒ははっとなって俺の方を見つめた。その目は信じられないとでも言わんばかりに大きく見開かれている。やがて、「まさか……」と震える声が彼女の口から溢れた。
そして俺は、それを肯定する。
「だから言ってるんだ。全然楽しい話じゃないぞって」
「馬鹿な……!? 何故だ!? どういうことだ一夏!? 説明しろ!」
「落ち着けよ箒。それを今から話すんだからさ」
立ち上がってこちらに詰め寄ってくる箒を落ち着かせ、なんとかもう一度ベッドに座らせる。やはり話すのは早まっただろうか、そんな思いが今更になって頭に浮かんだ。
だが、もし話そうとすらしなかった場合、間違いなく俺は箒に愛想を尽かされていたことだろう。女子しかおらず、この先三年間を過ごさねばならない学園で唯一になるかもしれない知己と、語りたくない過去を秘匿すること、どちらを選ぶかと言われれば前者以外にない。
「……箒、お前は今日俺に言ったよな。お前は変わったって」
覚悟を決め、目の前の箒を見据えた俺は、やがてゆっくりと口を開いた。
「その通りだよ。昔と比べて、俺は変わった。変わらざるを得なかった。甘い夢や望みは捨てるしかない、俺はそれを思い知ったんだ」
今でもはっきりと思い出せる。いや、忘れたくとも忘れることなど出来やしない。疎外感と自己嫌悪に悩み続けた中学生活、その始まりとなったであろう言葉は、俺の脳裏に焼き付いて消えてくれないのだ。
「始まりは中学の剣道部に入部して少し経った頃だった。入部して初めての公式戦で、俺は大した結果も残せずに敗北したんだ。箒の剣道場がなくなってから素振りくらいしか出来てなかったし、結構なブランクがあったんだと思う。それで、試合を終えて皆の所に戻った時に聞こえたんだ──織斑君って千冬様の弟なのに弱いよね、って」
当時、千冬姉はISの世界大会、モンド・グロッソの第二回大会を間近に控えており、多くの人々から連覇を期待されていた。また、第一回大会の時に見せた鮮やかな剣捌きや凛とした雰囲気から、ファンの数も既に現在に匹敵する程度には存在していた。俺にあの言葉を言った女子生徒も、そんなファンの一人だったのだろう。
「最初は気にならなかった。誰が何を言おうが関係ないって、周りになんて全然構わなかった。けど……すぐに消えると思ってた陰口は、千冬姉が活躍する度に大きくなっていったんだ。弱い、期待外れ、出来損ない、そんな言葉を部活以外でも毎日のように吐かれたよ」
「そ、それはおかしいだろう! いくら一夏が千冬さんの弟であろうと、お前はお前で、千冬さんは千冬さんの筈だ! 何故、そんな目に合う必要がある……」
声高に叫び、肩を震わせて俯く箒。そう言ってくれる彼女の優しさが、とても嬉しかった。
「皆が皆、箒みたいな考えだったら良かったんだけどな。とにかく、最初は強がって耐えてた俺も、だんだんキツくなっていって……反発して大事になったこともあったし、あとは学校を休んだり、部活にも行かないようになっていった。それで、そんな中で始まったのが、第二回のモンド・グロッソだった」
「第二回……千冬さんが棄権したあれか」
ポツリと呟いた箒に俺は頷く。
第二回モンド・グロッソ、その単語を聞けば誰もが連想する一つの事柄がある。
すなわち、決勝戦における優勝候補、織斑千冬の謎の棄権だ。
圧倒的なまでの実力で快勝を重ね、連覇間違いなしと言われていた千冬姉は、しかし決勝戦の会場に姿を現すことはなく、棄権となったのである。
このあまりに不可解な出来事には世界中の多くの人々が困惑した。一時は日本と対戦相手であるイタリアとの間に、なんらかの取引が行われていたのではとも言われた程だ。当然、日本でも大きな騒ぎとなり、連日ニュースのトップを飾ったりもした。この謎をめぐって様々な専門家や組織が調査に乗り出したが、その真相は未だに明らかになっていない──というのが、世間一般での認識だ。
だが、その真相はあまりにも単純で、あまりにも呆気ない。
「……俺なんだ」
「何……?」
「千冬姉が棄権した原因は、俺が会場で誘拐されたからなんだ。千冬姉は誘拐された俺を助けるために……試合を放棄したんだよ」
そう、俺は千冬姉が決勝戦に出場する直前に誘拐され、人気のない倉庫のような場所に連れ去られたのだ。そこに放置され、やがて現れた千冬姉に助けられたのだが、その時に千冬姉が決勝戦を棄権していたと知ったのは、病院で身体検査を受けている最中のことだった。
あの時の衝撃と絶望を、俺は忘れることはないだろう。俺さえ誘拐されていなければ千冬姉はきっと決勝戦に勝利し、栄光ある連覇を成し遂げていた筈だったのだ。千冬姉の顔に泥を塗ったのが他でもない自分だと悟った瞬間、俺はまるで足元が崩れていくかのような感覚に襲われたのを今でも覚えている。
「それは……本当なのか……?」
「本当だよ。政府の偉い人に口止めされてることだから、他の人には秘密なんだけど……箒には、話しておいた方がいいと思って」
俺はそこで一度大きく息をついた。
「……俺さ、ずっと千冬姉の背中を見てきたんだ。両親がいない俺にとって千冬姉だけが家族で、親みたいなものだった。だから、小さい頃からずっと憧れてて……いつかあんな風に、誰かを守れるくらい強くなれたらって思ってたんだ……」
「一夏……」
だが、それは子供の抱く幻想だった。いくら追い掛けてもその隣に立つことは叶わず、手を伸ばしてもあの背中には触れることすら出来ない。俺と千冬姉では、何もかもが違っていたのだ。
「……モンド・グロッソが終わってからの俺は、本当にただ生きてるだけだった。俺のせいで千冬姉は優勝を逃したってことが頭を離れなくて、ずっと自分さえいなければって思いながら過ごしてた」
あの頃の俺は自責の念と後悔に駆られ、完全に参ってしまっていた。それこそ日常生活に支障を来すくらいにである。食事は喉を通らず夜は眠れない、そんな日々が何ヵ月も続いた。
更にそこへ押し寄せたのは、何故千冬姉が棄権したのかを問い詰めようとするファンの生徒達だ。普段からの罵倒嘲笑の嵐に尋問が加わったことで、気が狂いそうになったことも多々あった。鈴と弾、数馬の三人がいなければ果たしてどうなっていたことか。
そして中学二年の春、唐突に訪れた『あの日』を境に、俺を俺たらしめていたなけなしの理想は、粉々に砕け散ることになる。
織斑一夏という存在、その全てが完膚なきまでに否定され、俺は自分が何者なのかも見失ったのだ。
△▽△▽
話を終えてから、部屋の中には沈黙が漂っていた。俺も箒も、黙り込んで無言を貫いている。
そういえば、こんな風に自分のことを誰かに話したのは初めてかもしれない。気分はまだ暗いが、隠し事を続けることへの後ろめたさを覚えずに済むのだと思えば、少しだけ心が軽くなったような気もする。ただ、問題はこれを聞いた箒が何を思うのかだ。
「……一つ、聞かせてくれ。お前は、千冬さんを恨んでいるのか?」
「恨んで? ……そんなこと、ある訳ないだろ」
「なっ……!? 何故だ!? 言い方は悪いが、お前がそんな目に遭った原因は千冬さんなのだろう! お前は、一片の恨みや怒りも覚えないというのか……?」
首を傾げていた俺は、必死の形相になった箒の言葉を聞いてようやく納得した。だが、そんなことは万が一にもあり得ない。
「……千冬姉はまだ自分が学生だった頃から、俺の世話をしてくれていたんだ。色々やりたいことだってあった筈なのに、それでも俺と一緒にいてくれた。俺が色々言われるようになったのも、元はと言えば千冬姉みたいになれなかった俺の自業自得だ。だから……俺が千冬姉を恨むなんてことは、絶対にあり得ない」
俺はそう断言出来た。千冬姉の足枷たる俺にあの人を恨む資格はない。いっそのこと、恨まれてもおかしくないくらいだ。俺がいたからこそ千冬姉はこれまでに様々な苦労をして、その果てにモンド・グロッソでの優勝を逃したのだから。
「(むしろ俺を責めて、恨んでくれていたなら楽だったのにな……)」
千冬姉が俺を恨んでくれていたなら、千冬姉が俺なんていなければと思ってくれていたなら、俺は今すぐにでも喜んでいなくなってやるだろう。千冬姉にこれ以上迷惑を掛けずに済み、かつ周りからの重圧より解放されるのだ。誰の不利益にもならない。
だが……千冬姉はそれを望まないことを俺は知っている。どんなに俺が愚図で出来損ないでも、あの人は俺を唯一の家族として大切に思ってくれているのだ。それこそ、モンド・グロッソ優勝という栄光よりも俺を選んでくれる程には。
俺がいなくなれば千冬姉は悲しむだろう。俺は千冬姉を悲しませたくなんてない。あの人が辛い思いをすることに比べれば、現状なんていくらでも耐えられる。例え周囲からどれだけ蔑まれ、憎まれ、嘲笑われようと。
「……なぁ、箒。俺からも一ついいか?」
「な、なんだ?」
俺から何かを尋ねられるとは思っていなかったのか、顔を上げた箒はきょとんとしていた。
「なんで俺のことをこんなに聞いたんだ? 普通、そんなに気にするようなもんでもないと思うんだけど……」
昼頃から抱いていたちょっとした疑問、それを口にした途端、箒は顔を赤くして酷く狼狽し始めた。目を宙に泳がせ、「あー」とか「えー」とか言葉になっていない声を上げている。これはもしや、聞いてはいけないことだったのではなかろうか……?
「えっと……いや……それはだな……」
「お、おう、それは?」
「お……お前と私が幼馴染みだからだっ! 六年ぶりに再会した幼馴染みが変わっていれば、何があったのかくらい気になるだろう! それだけで、別に他意はないっ!」
早口で一気に言い切った箒はそのまま凄まじい速度で布団に潜り込んでしまった。彼女が布団に潜る際、僅かに見えた耳は真っ赤になっており、時折声にならない呻き声のようなものが、盛り上がった布団の内側より聞こえる。
箒が俺に言った幼馴染みだからという理由は、きっと間違いではないのだろう。だが、それは恐らく本当の理由ではない。もっと別の何かがある気がするのだ。いつか箒の口から本心を聞ける日が来れば、俺はそう思いながら部屋の灯りを落とした。
「おやすみ、箒」
「……あぁ、おやすみ」
実はこの話、当初考えてたものより少し書き直したものでして。
書き直す前の分では途中の辺りで一夏が、「なんで俺を責めないんだ……? なんで俺がいなければって言ってくれないんだ!?」とか、「ずっと、いなくなりたいと思ってた……」とか言ってまして。お前はファフナーの一騎かと。