歩みを止めず向かう先は、右手に伸びる通路の奥から二番目の部屋。左右の部屋に押し潰されたかのように間取りが狭いため、一時期は物置としてすら使われていなかった空白の場所。
その扉の前に剣造は立ち止まり、両手を一度強く握りしめてからいざドアノブを握りしめ、開いた。
初めに五感へ訴えてきたのは臭いだった。
鼻腔へ入り込む重くも揺れ動く香りは、線香が放つ独特なもの。もし浮ついていたならば、心を鎮めてしまうような空気を、部屋の中全体に作り出していた。
一歩足を踏み入れ扉を閉めると、そこは一つの異界。窓はなく、明かりは照明があるがつけていない。完全になくなった視覚情報を放棄。触覚と聴覚に神経を集中させる。記憶を頼りに手を差し伸ばし、触れたものの感触と音に目的の捜し物であることを確信しながら手慣れた動作で擦りつけた。
パッと灯されたのはマッチの明かり。隙間風もないことから揺れ動くことのない先端の火だが、燃え続けるには限度がある。心許ない弱々しい光源にいつまでも頼る訳にはいかないため、溶けかけではあるが安定感のあるローソクを灯した。
三つ明かりをつけたことで視界は確保され、身の回りの景色がハッキリと映る。
室内は廊下側から見る以上に狭く感じられる。中の広さが二畳程度しかないため圧迫感が酷い。扉を締めたことで外の空気とは隔絶され、むせ返るような香の匂いが尚の事重圧となってのしかかってくる。
左手には壁に押し付けるように真っ白なクロスのかかった重厚なテーブルが鎮座しており、その上には申し訳程度に置かれた花と写真が複数並べられていた。そしてその前には香炉が置かれており、燃え尽きた線香の残り香を周囲に残し続けている。
剣造は一度深呼吸をしてから足を二歩ほど前にだし、九十度左へ向き直る。姿勢を正し、生真面目を貼り付けたような顔のまま口を開いた。
「日に二度も来てすまない。驚いているかも知れないが少しだけいさせてくれ」
自分以外は存在しない空間で、見た目とは裏腹に力弱く呟く。
「どうやら少しナーバスになったようだ」
備えられた線香にローソクの火を移し、香炉に挿しながらゆっくりと写真立てに収められた顔を見ていく。
軽巡洋艦、神通。
駆逐艦、綾波。
駆逐艦、電。
まだ見た目若い。駆逐艦の艦娘に至っては小学生に近い見た目をしており、そのような者を前線に出していた事実が胸を抉るようだった。
「このことをお前が知ったら笑われそうだな。伊勢」
最後に置かれた写真。伊勢の香炉に線香の他にPEACEを挿しながら、薄い苦笑いを浮かべて漏らす。
ここは簡易的な仏間。
本来艦娘は船として扱われるため、このような場は認められていない。艦娘の死を弔うことは容認されているが、仏壇まで鎮守府に置くことは禁止とされている。死が隣にあるということは引きずり込まれる可能性もあるためだ。
そしてこれは剣造が破った唯一の軍規でもある。
「お前達には迷惑をかけてばかりだな。昔も今も」
帽子を取り、四名の写真に向かって頭を下げる。
「すまなかった。などと聞き飽きているかもしれないが、それでも聞いてくれ。お前達の死は俺の戦局の見誤りが原因だ。本当にすまない」
自分の犯した罪を、取られた帽子の下が剣造の全てを物語っていた。
七年前まで確かにあった頭髪は、現在一本たりとも生えてはいない。あの日を境に徐々に抜け落ちていった頭髪は、気付けば影も残さず消え去ってしまった。
軍部からは病気の可能性もあり診断させられたが、結果はストレスであることが判明している。そのようなこと診断されるまでもなく剣造自身わかっていたため、驚きもなくただありのままに受け入れた。これは一つの罰なのだと。
「だから見ていてほしい。お前達に。お前達だからこそ、この戦争を終わらせるその時まで。そして今尚戦い続けているあいつらを見守ってやってくれ」
三人は花のような笑顔を浮かべ、一人だけ澄ました顔の写真に向かって、思いと願いを告げる。
図々しいのは百も承知。だがそれで木曾達が無事に帰って来られるならば言うに越したことはない。その代償を自分が払わなければならないのならば喜んで支払おう。
――その前にお前達を過去として扱っている事自体、何か罰が下るやもしれないな。
戦争は未だ続いている。故に思い出とするにはまだ早すぎると剣造は捉えていた。なのに薄れていっていた自分の弱さを嘆き、叱咤する。
上に立つものが弱みを見せるなと。
「お前達を出しに使ったようですまないな」
ここに来て謝ってばっかりだなと苦笑いを再び浮かべてから帽子をかぶり、平静が保てていることを確認する。
もう大丈夫だと確信し、静かに歩みドアノブに手を伸ばしてから静止した。
「伊勢。お前は本当に死んだのか?」
肩越しに伊勢の写真に目をやりながら誰に言うでもなく虚空へ投げる。
しかし、答えが帰ってくることはない。そこには写真があるだけで、誰も事実を口にすることもない。
今になっても信じられないと、鼓動が大きく鳴り響く。
木曾の胸に下げられた指輪を思い出し、自分の想いを確かめる。
正直伊勢のことを好きかと言われてもまだわからない。もう四十に近い歳となっているが、恋愛経験などほぼ皆無なため確証とはなりえなかった。
ただ剣造自身が二つ思った事がある。
――伊勢。またお前の顔が見たい。声が聞きたい。
確かな気持ちがそこにはあった。草原の中ポツンと一つだけ、目を離した瞬間見失ってしまいそうな程慎ましい、それでいて確かに咲いている花のような
――……些か女々しくて口にはできそうもないな。
しかし剣造は自分の中にある感情に気付くこと無く、過去に引っ張られそうになるのをしっかり床に足をつけて踏ん張り、新たな覚悟と共に外へと出ていった。