ミステリー小説の一場面
あにさま?兄様
「更華さん私は来海重悟ではないんですよ」
構いませんとも、例え兄様が兄様でなくともどうしようもなく兄様は兄様なのですから。だから、であらば、それならば
「全てはどうしようもない程取るに足らない些事でしか無いのです、兄様」
じぃと此方を見つめる彼女、瞳の色が薄い緑色なのだとそんな所で私は初めて気づきました。
「兄様、貴方はお義母様の事をハッキリと死んだと申しました」
「私はそんな事を言いましたかね?更華さん」
「えぇ間違い無く」
「偉く自信のある言い方だ」
「ありますとも、兄様の事でしたら赤子の時分から全て知っていますし理解しております」
「少し前に出会ったばかりでしょう僕らは」
「そうでしたっけ?」
「そうですとも、それに私の方が年上です」
うふふ、ともあれ
「兄様は言いました、であらば問題は死体の処理です。お義父様は大層使用人達から嫌われて居たとの事ですから使用人達の力を借りたとも考えにくいでしょう、金銭でもって口を封じるには事業に失敗した後ですから色々不都合があります、更にはです、お義父様は生まれつき脚が悪く杖が手放せなかったと言いますしお独りで成人女性の死体を処理するのは不可能と考えて問題ないでしょう」
であらば、であらばぁー?
何と表現すれば良いのでしょうか、酷く熱の籠った視線で私を見詰める薄緑。グツグツと音が聞こえてきそうなそれは一体何が込められて居るのか、山の向こうへと夕日が沈もうとしていました。
しん、と日が完全に隠れるとともに青と紫を混ぜたような薄暗さに部屋が包まれます、私はもう裁かれるだけでした、俎上の鯉と言っても良いでしょう。なのにそこで彼女は急に口を噤むのです、そうしてただゆっくりと私の胸を立てた指で押すのです。
「ただ兄様の力になりたいだけなんです」
赤らんだ柔らかそうな頬が拗ねた様に尖らせた唇に引っ張られている、上目遣いで私を見詰める潤んだ瞳は僅かに揺れていて。
「兄様?兄様は悪くありません」
私は正直であるという選択をしました。甘かった、間違いだった
「…抗えなかった」
「お義父様にですか?現実にですか?」
どちらに?現実だろう、あの時点で父が逮捕されていれば事業を整理し使用人や従業員にしかるべき金銭を渡す事すら出来なかった筈だ。
「…抗えなかったんだ」
吐き出した心に耐え切れず私は膝を突きました、どうしろと言うんですか、どうしたら良かったんですか?
「えぇ、そうです兄様、些事はどうあれ貴方は抗えなかった。それでいいじゃ無いですか?」
何もかも心配しないで下さい、私が隠してしまいますから。私が兄様の生涯を良きものにしてのけますから、だから
「兄様はただ、兄様であれば良いのです」
そうして慈愛に満ちた表情で彼女は私の頭を包み込む様に抱きしめるのです、私のような罪人がどうしてそれに抗えるでしょうか、そうして彼女の胸に縋りつき涙を流そうとした時、ふと私は考えてしまったのです。彼女の言う所の兄様では無い私は一体どうなるのか、彼女は私を一体どうするつもりなのか。
私はどう足掻いても来海重悟ではありませんから、来海重悟になれと求めて来る彼女の願いには絶対に応える事が出来ません。そんな簡単な事すら失念してしまう程、私は狼狽しておりました。
「更華さん?私は来海重悟ではありません、来海重悟では無いんです」
彼女の手が私の後頭部と首に伸び、再度私の顔を自身の腹部へ押し付けるようにして視線を遮ります。
あにさま?あにさまがあにさまで無い事などどうでも良い事なのです、私はあにさまを愛していて、それは私にとってはとっても大事で大事で大事な事なのに、なのにあにさまは私があにさまを愛せる筈が無いと言うから、私が伽藍洞で人の心など判る筈も無い等と酷い事を仰るから、私の事を捨てたり何てするから、私にはあにさましか無いのに、私はあにさまの事だけを考えて毎日を生きているのに、そんな事は、そんな事は、そんな事は
「そんなことは絶対に許してはならない事なのです、私が人間であるために、私が人間である事を取り戻す為に」
ぎりぎりと彼女の手が私の首と頭を締め付けます、一体彼女の人形の様な身体のどこからこんな力が出て来るのか、こうも愛らしい人がここまで憎悪の込められた声を出す事が出来るのか、誰が、誰が、こんなにも彼女を傷付けたのか。
私は自身の哀れで矮小な人生すら忘れ、彼女小さな身体をぎゅうと抱きしめ返したのでした。彼女の殺意や呪詛や、それに類する【の様なもの】全てから彼女の、更華さんの身体を遮る様に精一杯抱きしめ返したのでした。無駄でした
一体どこの世界に頭の中から逃げる方法があるというのでしょうか。