音が、してる。
遠い、のかな。
音、小さい。
同じリズムが、また。
繰り返し、聞こえる。
一体、…何だろ。
そう思って目を開け、まだはっきりしない頭で気がつく。
あれ、寝ちゃってたか、俺。
音が、また聞こえた。
弱いノックの音。
誰かがこの部屋のドアを叩いているらしい。
慌てて身体を起こそうとして、痛みに固まる。
いい加減に苛ついて、それを強引にねじ伏せ、時計に振り向いた。
木製の小鳥や木の葉のレリーフで飾られたメルヘンチックな壁掛け時計は、道寺ならもう休んでいる時間を指していた。
ならば、後はもうひとりしかいない。
早く動けないので、ベッドから降りる動作に入りながらも、とにかく返事だけはと、
「どう、ぞ。」
すると、ドアはゆっくりと開き、その隙間から、彼女の白い顔が覗き込んできた。
「入っても、いい?」
まさかこんな遅い時間にやってくるとは思っていなくて、俺は目を丸くしながら、
「う、うん。いいよ。」
筋肉痛でぎくしゃくとしながらも、俺は彼女を迎え入れる。
静香は寝着にカーディガン姿で現れ、明らかに泣きそうな顔をしていた。
そうだろうなぁ、と俺は内心苦笑する。
この家、というより、この城は広すぎて、夜は子供向けじゃない。
特に、廊下が駄目だった。
いわゆる調度品てやつなのだろうが、大きな絵画や彫刻があまり明るくない照明に照らされ、不気味この上ない。
度胸試しのコースにはもってこいかもしれないが、子供が生活する空間としてはどうかと思う。毎晩、トイレに行くのだって、一大決心なのだから。
そんな、静かな恐怖に満ちた暗闇の中を、静香はたったひとりでやってきたらしい。
ちなみに、道寺の寝室と静香の部屋は二階の東端で、俺の部屋は一階の東端にある。
だから、彼女の部屋は俺のこの部屋の真上辺りにあるのだが、訪ねてくるには、途中、暗い階段もあったろうし、道も長かったはずだ。
彼女は俺の部屋に入り、その明るさに包まれた途端、縮こまっていた首から力を抜いて、あー怖かったー、と心底安心したように笑った。
あ、やっと笑った。
見覚えのある、彼女のあどけない笑顔に再会できて、俺もつられて微笑む。
「どうしたの?何かあった?」
明るい調子で尋ねながら、二人してベッドに並んで腰掛ける。
しかし、静香はついさっき笑ったはずなのに、ベッドに座った時には、もう沈んだ表情になっていた。
その横顔に、俺はやっぱり、困惑するしかない。
彼女とは、出会ったあの時以来、まだ、まともに話をしていない。
今が、やっとの二度目。
三度の食事は、毎日、一緒に摂っているのだが、道寺の威圧感に負けて、いまだに話しかけることもままならない。
静香の方から声をかけてくれれば、まだチャンスはあるとも思ったが、見れば彼女も俺と同じような顔をしていた。
なら、食事以外の時間はというと、とにかく俺が鍛錬で忙しくてそれどころじゃない。
結局、一週間も同じ家にいたのに、俺達は一言も言葉を交わさず、今になってしまっていた。
そして、今夜の唐突な彼女の行動。
何か理由があるはずだと尋ねてみたものの、静香は俺の台詞に、小さく首を横に振り、
「違うの。…貴方が、いなくなっちゃうような気がして。」
「俺が?」
「うん。前の子も、その前も、……みんな、そうだったから。」
辛そうにうなだれる静香だったが、俺は彼女の台詞の意味するところに、倒れそうになる。
前の、子?
その前?
みんな?
…え?
「…ちょっと待って。俺の前が、…いたの?」
動揺による混乱でくらくらとしながらも、俺がそう尋ねると、彼女は不思議そうに目を丸くし、軽い調子で、
「うん、いたよ。」
衝撃で、目がチカチカ。
なんとか気持ちを振り絞り、
「…みんな、って、…何人、くらい?」
たどたどしい俺の口振りなんて、静香は全然気にならないらしく、困ったように首を傾げ、
「うーん、…五人くらい、だと思う。貴方が六人目。」
…。マジかよ…。
額に手を当て、俺は唸る。
道寺のおっさん、…やってくれるぜ。
黙り込んでしまった俺の様子に、静香は慌てたらしく、泣きそうな声でもって、
「ご、ごめんなさい。私、言わない方がよかった?」
何も悪くない彼女が謝ってきたので、今度は俺が慌てて、
「キミが悪いんじゃないよ。ただ、ちょっとびっくりしちゃって。」
すると、静香はゆっくりと視線を下げ、膝の上の自分の両手をギュッと握ると、
「今までの人はね、貴方より歳が上の人ばかりだったの。
お父様に連れられて、ここへ来るんだけど、…でも、お父様、すっごく厳しいでしょ?…みんな、必死に頑張るんだけど、…いなくなっちゃう。
私も何かできればいいんだけど、…私がうろちょろすると、お父様も怒るし、みんなも…なんかイライラさせちゃうみたいで…。」
悲しげな静香の言葉に、俺は納得する。
だから、微笑みかけながら、
「それは、キミが悪い訳じゃないよ。前の奴らは、キミに八つ当たりしただけさ。父さんは、そうなることがわかってたから、怒ったんじゃないかな。」
あまり楽しい話題じゃないから、できるだけ明るい声で話す。
静香はわずかに首をかしげて、俺を見つめたまま、
「…八つ当たり?」
「うん。鍛練とかがうまくいかない、八つ当たり。だから、気にしなくていいよ。」
静香にはそう言ったが、本当は妬みだと、俺は思う。
道寺にしごかれっぱなしの自分と、無条件に愛され守られている静香。
妬みたくなる気持ちも解らないでもないが、だからと言って静香に当たっていい訳もない。
そして、そんなことを静香に言う必要もない。
大体、さっきの説明だって間違ってはいないんだ。だからそれでいい。
彼女は俺の言葉に納得したらしい。
「そうだったの、かな。…ちょっと悲しいけど。」
諦めのような笑みを浮かべ、静香は呟く。
そのしょんぼりとした様子に、俺は急いで、
「俺はそんなことしない。約束する。」
彼女をじっと見つめ、真剣な顔で訴える。
そんなことをするのは、男じゃない。
俺はそんな奴には絶対ならない。
静香は俺のそんな様子に驚いたのか、ちょっと目を丸くしてから、うっすらと微笑み、
「ありがとう。優しいのね。」
「そうかな?普通だよ。」
「ううん。…そんなことない。今までの人は、誰も私に優しくしなかったもの。」
そう言った途端、静香の目にうるうると涙が膨らんで、ぽろっとこぼれ落ちた。
「あの、静香、ちゃん?」
何て呼んだらいいのかわからず、戸惑いながらも、呼びかける。
慌てて涙を手で拭った後、静香は鼻の頭を赤くしたまま、懸命に話し出した。
「私ね、ずっとひとりな気がするの。
お父様は優しい時もあるけど、いつも一緒にいて下さる訳じゃない。
この家には他に何人か、大人の人がいるけど、いつも忙しそうで、お話もできない。
貴方の前にきた人たちは、毎日必死そうで、近寄ることもできなくて。
…、時々、とても寂しくて苦しくなるの。
どうして、ここは大人ばかりなんだろう、って。
どうして、私だけ…子供なんだろう、って。」
ずっと胸にしまっていた苦しみだったのだろう。
言葉とともに、また涙がぽろぽろとこぼれる。
静香は泣きながら、俺の服の袖を掴んで、
「初めて会った時、一緒に遊んだの、すごく楽しかった。
きっとお友達になれる、って思ったの。
お父様があの後来て、貴方を連れて帰る、って決めた時、私、とてもとても嬉しかったのよ。
もしかしたら、一緒にいてくれて、お友達になってくれて、いろんなことが楽しくなるんじゃないか、って。
でも、ここへ来たら、お父様がきっと厳しくなさる。
貴方はとても大変で、…ひどい目にあってしまって、…やっぱり、いなくなっちゃうかもしれない。
そう思ったら、私、なんとかしなくちゃ、って思って…。」
しくしくと泣く静香は、俺よりも幼く、弱々しく見えた。
今宵彼女がここへきたのは、これが理由だったんだ、と俺は納得する。
静香のことは、この城に来てからずっと、気にかけていた。
だって、いつ見かけても、彼女はひとりだったから。
でも、平気そうだった。
そう見えた。
道寺の部屋で、本を読んだり、絵を描いたりしているのを見かけた時も、そう。
いつでも堂々としていて、表情も穏やかだったし、何事も自由に楽しんでいる、そんな余裕すら感じた。
一緒に遊んだ時は、大きな声をあげて、花が咲きこぼれるような鮮やかさで笑っていたのに、ここでは一変して、大人びた印象ばかりを受け、俺はちょっとだけ困惑した。
ただ、一度だけ、そうじゃない彼女を見かけたことがある。
彼女が花咲く庭を歩いていた時だ。
せっかく、オレンジや黄色といった明るい色彩の花たちに囲まれているというのに、静香はピンと背筋を伸ばし、何かに耐えているような厳しい表情をしていた。
弱々しいのではなく、強く拒むような面差しの彼女。
それは、俺の知っている彼女と、ますますかけ離れて見え、静香は弱いのか強いのか、よくわからなくなった。
考えてみれば、この城に住んでいるのは、道寺、静香、俺の三人だけ。
後は毎日通ってくる、仕事に忠実な執事達。
みんな、男。
この城には、静香以外、女がひとりもいなかった。
挙げ句、俺の見る限り、道寺以外の人間が、彼女に声をかけているところを見たことがない。
もしかしたら、誰も彼女に話しかけないのは、道寺から、わきまえろ、と言われているからかもしれない。
また、彼女が誰にも話しかけないのは、道寺から、はしたないことだと諌められているからかもしれない。
三人で摂る食事の時でさえ、彼女からは一言も話さない。
道寺から話しかけられて、彼女は初めて口を開く。
だが、彼は必要なことしか口にしない男だったから、大抵は重苦しい沈黙の中、彼女はまるで幽霊のようにそこにいるだけだった。
初めは心配で、目を配ったりしていたが、平気そうな態度でなかったのは、あの庭の時くらいのもので、後はまた元通りの平気そうな態度。
おっかない顔することもあるけど、慣れて平気そうだし、ここではこれが当たり前なのかな、と俺は勝手にそう思い始めていた。
勝手にそう思って、そのうち自分のことで精一杯になって、彼女のことを気にかけることもなくなって…。
今、目の前で、苦しい、とぽろぽろ泣かれるまで、俺は気づきもしなかった。
…、そうか。
あれは演じていたのか。
道寺や他の大人達に、心配をかけないように、迷惑にならないように、懸命に平気なふりをしていたんだ。
…、そうだ、静香は強くなんかない。
一緒に遊んだあの時も、蛙にだって、蟷螂にだって、泣きそうになっていたじゃないか。
そんな静香だもの、ちょっと怖い夢を見て目を覚ました夜だって、きっと誰にも何も言わず、ベッドの中で泣いたりしてたに決まってる。
俺がここにきた後にも、そんなことがあったかも知れない。
そう思い当って、俺は自分に苛立つ。
同じ子供なのに、解ってあげられなかった。
少なくとも静香だけは、他の誰でもない、俺がここへ来ることを望んでくれていたのに。
なのに、俺は…バカなガキで、何も解らないでいた。
情けなくて、申し訳なくて、いつの間にか握りしめていた拳が、かすかに震える。
「ごめん。俺、そんなに辛かったの、…全然、気がつかなかった。」
言わずにはいられなかった、謝罪と懺悔。
俺が言いたくて言っただけ。
静香はきっとこんな言葉、ちっとも望んじゃいないんだ。
だから、できるだけ優しい笑顔で、
「でも、もう大丈夫だよ。もう、ひとりにはしない。俺は、いなくならないよ。」
すると静香はハッとした顔で、俺に振り向く。
泣いてぼろぼろの彼女の顔に、俺はくすっ、と笑って、
「だから泣かないで。」
しかし静香は小さく首を横に振って、
「でも、…ここにいたら、お父様にまたつらい目に合わされちゃうのよ。」
優しい彼女は、今度は、自分の孤独よりも、俺の大変さの方を優先しようとする。
心配そうな目で見つめてくる静香が嬉しくて、俺はさらにくすくすと笑って、
「確かに、父さんの鍛練はものすごく大変だけど、…だからって、出ていかないよ。
だって、俺、『銀牙』なんだもの。」
すると静香は驚いた顔で聞き返す。
「…『ぎんが』、って?」
「父さんの息子の名前さ。俺は、『銀牙』になる、って決めたんだ。」
俺は胸を張って、そう言った。