今日の夕刻。
俺はこの城の地下にある鍛練場にいた。
隠し扉から入るこの場所は、入る時にくぐる大きな扉と床以外、何も見えない。周りの壁も天井も、闇に溶けて見ることができないのだ。
俺は出入口の扉近くにある燭台に明かりを灯し、ここで鍛練をするようにしている。
外でもいいのだが、ここはとても静かで集中できるからだ。
とはいえ、まだまだ始めて日が浅い。
今日の分の鍛練すら終わらず、のろのろと続けていた時、道寺が歩み寄ってきた。
いつここへ入ってきたのか、彼にはいつも気配がない。
「姿勢が悪くなってきた。それでは意味がない。」
片足で立ち、ゆっくりとした動きで手足を動かすこの一連の動作は、驚くほど疲れる。疲れてくると、手足が痺れて、自分の体勢がどうなっているかも判らなくなってしまう。
俺は痛みと疲労でふらふらしながらも、眼差しを伏せ、
「…、ごめん。気をつけます。」
頭の上で、道寺が微かに息をもらしたのが聞こえ、
「…あと、どれほどかかる?」
「多分、一時間くらい。」
「終わったら、シャワーを浴びて、書斎へ来い。」
来た時同様、彼はさっさと消えた。
彼のタイムテーブルにはないはずの予定だ。
嫌な予感しかしない。
目の前が暗くなりながらも、身体を振り回すようにして今日の分を終わらせる。
どうしようもなく重たい身体と心を引きずり、なんとかシャワーを済ませると、クローゼットの一番手前にあったシャツとズボンを着て、道寺の書斎へ向かった。
軽くドアをノックすると、道寺の低い声が、入れ、と答える。
一体何事だろう。
不安で胸が苦しい。
息苦しくなって、深呼吸をしてから書斎へと足を踏み入れた。
薄暗い室内からは、古い紙の匂いと、蝋燭の燃える匂い、そして、かすかに香料のような不思議な匂いが、ぼんやりと漂ってくる。
見回せば、威圧的なほど整然と並び立つ、膨大な本。壁は全て本棚と化していて、ぐるりと書斎を取り囲んでいた。
部屋の奥に明かりがあるのをちらりと確かめてから、俺は丁寧な手つきで扉を閉め、恐る恐る明かりへと近づいて行く。
それはおのずと部屋の中央へ向かうことになり、同時に、今机に向かっている道寺の目の前に進み出ることにもなった。
静けさに満ちたこの書斎には、もうすっかり夜の帳が降りていた。
廊下を赤く照らしていた外の夕暮れの陽射しは、テラスを覆う厚手のカーテンに遮られて、その隙間からうっすらと滲むだけ。それもじきに本当の闇に消えてしまうだろう。
部屋の隅には、重さのある濃い闇がすでに澱んでおり、唯一それを抑えているのは、机の上に置かれている大きな燭台のみ。
太い蝋燭の先に灯された黄色い炎の下、道寺はペンを握ったままで顔を上げた。
鋭い目つきで俺の顔を見るなり、
「そこにかけて、待っていろ。」
道寺が視線で、傍らの二人掛けの長椅子を示す。
それは道寺の机と並ぶように、やはり部屋の中央へと向けられて置かれている。
この椅子はどうやら、静香のために置かれているものらしい。
俺がこの城に来て、まだ一週間ほどだというのに、彼女がここに腰掛けたり、寝そべったりしているのを、もう何度も見かけている。
俺は言われた通り、その布張りの長椅子に歩み寄ったが、ふと思いついて、座面を手のひらで軽く撫でてみた。
絹か何からしく、ひんやりと滑らかで、手触りがいい。
俺はにんまりとして、椅子に座った。
何だか偉くなった気分。
「上着を脱いで、身体を見せてみろ。」
がたりと椅子から立ち上がる音とともに、そんな道寺の声がして、俺は戸惑いながらもシャツを脱いだ。
何なんだ?一体。
道寺は俺の前にくると、片膝を着き、俺の胸の真ん中辺りに右の手のひらをつける。
温度のない、かさついた手の感触。
ますます訳が解らなくなったところで、道寺が手をひき、呟いた。
「随分と、身体が腫れている。真面目にやっているな。もう、服を着ていい。」
何をどうしたのか、今の仕草で、彼は俺の身体の状態が解ったらしい。
とりあえず服を着ると、それを待っていたかのように、今度は小さなグラスを差し出される。
高さが俺の人差し指の長さほどしかない、本当に小さなグラスのくせに、それでも繊細なカットが施されていて、蝋燭の光りでさえキラキラと輝く。
「飲め。」
受け取って、中味を覗く。
ほとんど水にしか見えない。
でも、水な訳がなく、俺は匂いを嗅いでみる。
僅かに甘い香りがして、誘われるように口元に運び、一気にあおった。
味がどうこうというより、ひどく冷たく感じた。
舌や喉が冷えてピリピリとする。
空になったグラスは、いつの間にか道寺の手に戻っていて、彼は一度俺から離れると、空手で戻り、俺の隣に腰を下ろした。
何だか、変な感じだ。
こうして道寺と二人きりで部屋にいるのは、これで二回目。
最初は、この城へ初めて来た夜。
やはりこの書斎で、
「お前は今日から、私の息子だ。私のことは義父(ちち)と呼べ。お前は銀牙と名乗るがいい。」
そう言われた。
俺は、はい、と小さく返事をしたものの、なんだか納得できなかった。
父親、ってそういうもの?
俺の名前、ってそういうもの?
俺にとって、彼を父と呼ぶことや自分の名前が変わること自体は、大したことじゃない。
だけど何かが引っ掛った。
今、俺の中にしかない、これまでの俺という記憶が、頼りなくうやむやになって消えてしまう予感のようなもの。なくしたら、俺が消えてしまう、そんな漠然とした不安。
それが、大切なもの、なんて言い切れやしないけど、なくなっていいものと思いたくはない。
俯く俺の表情から何を読み取ったのか、道寺は続けて、
「私のことを今すぐ父親だと思えとは言わない。
お前は私の息子としてここにいるのだから、呼び方としてそうなる、というだけだ。
銀牙という名前も、ここでは使わなくていい。」
言われた時は、よく意味が解らなかった。
だが、道寺の外出に同行した際、他の魔戒騎士や魔戒法師(その時は全然判らなかったが)に、そう紹介した方が面倒が少ないというのは、見ているうちに判った。
名というよりも、そういう立場、ということらしい。
先方も、おおよその事情を察しているのか、そう紹介されれば何も言わない。
城の中でも、俺に話しかけるのは常に道寺であり、銀牙という名前を与えられても、使う機会すら、まだなかった。
なんだか肩透かしにあった気分でもあったし、今までの自分が命拾いした気もした。
結局、初日以来、二人きりになることはあっても、会話らしい会話はしていない。
呼びつけた道寺が、一体どんなつもりなのか判らず、俺は恐る恐る隣の様子を窺おうとしたが、それを阻むように、
「お前に、幾つか確認しておきたいことがある。」
道寺は見惚れるほど完璧な姿勢で正面を見据えたまま、そう告げてきて、俺は慌てて正面を向き、はい、と返事をした。
二人で並んで座っているのに、二人とも正面を向いて話すなんて、やっぱり変。
正面には何もなくて、ただ床に年代物の豪奢そうな絨毯が敷かれてあるだけなのに。
居心地が悪くて、視線をあちこちに向けていたら、道寺が低い声で、
「お前は、極めて真面目に私の言うことを聞いてくれている。
その身体を見れば、それは明らかだ。
だが、お前はこの生活がこれからずっと、死ぬまで続く、としたら、…耐えられるか?」
意味が解らず、俺は目をぱちぱちさせた。
…、死ぬまで?
「死ぬ、まで?」
びっくりした顔で道寺の横顔を見つめる。
しかし、道寺は表情を凍てつかせたまま、
「そうだ。私の言う通りに、何年も何十年も、死ぬまで鍛練を続ける生活に、お前は耐えられるか?」
俺は途方に暮れる。
そんな先のこと、解る訳がない。
…、でも。
「…、父さんは?父さんは、いつから鍛練してるの?」
俺の問いかけに、道寺はちらりと俺に視線を走らせてから、
「私は、六つの時からだ。」
六。
今の俺も、確か六。
「じゃ、父さんは六歳の時からず―っと、鍛練してきてるんだ?」
「…そうだ。」
「じゃあ、僕もそうする。」
俺はそう言って、道寺に笑う。
道寺は困惑したらしい。
戸惑うように、視線をやや床に下げ、
「…、いいのか、それで。」
けれど俺は迷うことなく、頷く。
「うん。父さんみたいに強くなれるかも知れないなら、いいよ。」
初めて道寺の振るう剣を目の当たりにしたのは、今はもう魔戒騎士ではない男が構える道場を、二人で訪れた時だった。
元々、道寺は全くの別件で訪ねたらしいのだが、道場主が是非とも見習い生達の勉強の為に、と少し強引に、彼を稽古の場に引っ張り出したのだ。
困惑気味の道寺の隣で、同行していた俺は目を輝かせる。
引き取られた翌日から、道寺の鍛錬に付き合わされたり、毎日の鍛練メニューを突きつけられたりして、とにかく道寺には日々、身体を鍛えることばかりを求められていた。
そして、その合間を縫うようにして、道寺はよく外出し、それに俺はいつも同行させられ、同席させられた。
目の前で交わされる大人達の会話なんて、ほとんどが意味不明で退屈極まりない。
ひたすら行儀よく座る拷問に耐えながら、それでもなんとなく聞き齧ってしまった内容からすると、どうやら道寺は相手よりも大抵、身分が高いらしくて、結構強い武人であるらしい。
だが、実際に彼が剣を振るったところは、まだ見ていない。
彼がどれくらい強いのか、やっと見ることができる。
道場主は早速、闘技場の周りに見習い生達を集め、事の次第を話し始めた。
俺と道寺は、その傍らで話が終わるのを待つ。
丸い闘技場を抱えるようにして建てられているこの道場は、窓も最小限しかなく、二階が寮として使われているらしいが、あまり住みやすいとは思えない。
以前いた施設よりも、さらに暗く息苦しい感じがする。
ふと道寺を見上げれば、彼は闘技場の中央に冷たい視線を落としていた。
道場主の唐突な話に、困惑したのは見習い生達も同じだったらしく、道場内はしばしざわめき、すぐには鎮まろうとしない。
だがそれも、木刀を握った者が闘技場の中央へと進み出れば、空気は一変する。
恐らく、道場主が指名したのであろう、十代後半ほどの歳若い若者が、右手に木刀を下げて闘技場の中央に立った。
それに応じるように、道寺が彼の前へ出る。
いつの間にか、道寺は彼より短い木刀を、両手にひと振りずつ下げていた。
俺は他の奴らをかき分けて、最前列を陣取り、事の成り行きを見守る。
周りのざわめきが、すう、と消えた。
その時、ぽん、と肩に手を置かれて、俺は死ぬほどびっくりした。
反射的に見上げたら、道場主がにやりと笑っている。
「もしかして、初めてか?あの人が戦うところを見るのは。」
彼の囁きに、こく、と頷きそうになって、慌てて、はい、と答える。
すると彼は、何故か得意そうな顔になって、
「よく見とけよ。こんな時でないと、ゆっくり見られやしないからな。」
こんな時?
俺が怪訝そうに首を傾げたのを見て、男は何故か小さく息を吐いた。
そして、俺の肩を掴む手に力がこもり、
「始めるぞ。」
俺は慌てて、闘技場へと振り向く。
ピリピリとした緊張感が満ちる中、見習い生が正眼に構え、道寺はゆったりと右だけを構える。
男が声を張った。
「始め!」
声と共に、道寺が動いたと思ったら、もう相手は吹き飛んでいた。
正直、…鳥肌が立った。
こんなの、見たことない。
息苦しくて、体温が狂う。
血が、熱い。
「次!」
道場主の厳しい声が、見習い生達を煽る。
声で我に返ったのか、見物していた彼らが、今度は我先にと道寺に挑んでゆく。
戦い方なんてひとつも知らない俺でも、道寺が強いのはよく判った。
木刀による手合わせだったが、誰よりも早く、誰よりも強く、道寺は相手に打ち込む。
一対一は勿論、三人同時に相手にしても、結果は同じだった。
相手より短い剣なのに、相手より小さい動きなのに、道寺の剣は相手を叩き、相手の剣は道寺にかすりもしない。
「練習生では、相手にもなりませんなぁ。」
道場主が俺の隣で苦く笑う。
すると、道場主のすぐ後ろにいた若者がまたひとり、道寺の前に進み出た。
彼の両手には、道寺と同じ短い二本の木刀。
道寺に対し、若者は控えめなお辞儀を済ませるなり、木刀を逆手に構えた。
道寺は順手のまま、やはり構える。
「始め!」
先制は、若者の方だった。
鋭い踏み込みの後、打撃音が連なって響く。カカカッ、という乾いた木同士がぶつかり合う時特有の、少し高い音が途切れない。
刀が短い分、どうしても接近戦になるのだろう。
まして双方が二刀流だと、切り返しが速すぎて、まるで殴り合っているかのよう。
凄まじく高速な斬撃の応酬に、俺は息もできないで、食い入るように目を凝らす。
しかし道寺はというと、いつもと何も変わらない様子で、若者の攻撃を受け流していた。
焦れた若者が大振りになった瞬間、道寺は相手の視界から消えるように、腰を深く落とし膝をつく。
あ、と声をあげる暇もなく、道寺は地を滑るように、くるりと身を翻し、彼の足を大きく払う。
「!」
体勢を崩された若者がよろめくと、道寺はもうすでに立っていて、彼の胸を木刀ではなく拳で、とん、と押した。
ハッとした顔の若者に、道寺は無表情のまま、
「そんなに、振り回すな。」
茫然とする彼に、道寺は小さく頭を下げると、俺の前に戻ってきた。
汗もなく、呼吸すら乱れていない道寺の後ろで、少し前に倒された見習い生達がよろめき立っている姿が目に入る。
あー、立ってる。
ひどい怪我はさせてないんだ。ちゃんと手加減してたのか。
また目を丸くしている俺の隣で、道寺は道場主に対し怖いくらい鋭い目を向け、
「用は足りたはずだ。もう帰る。」
道場主はいずまいを正し、礼を尽くした深いお辞儀を彼に向けた。
「御指導、厚く御礼申し上げる。…やっぱり、小太刀は貴方が一番だな。見とれたよ。」
感心する彼に、道寺は片眉を上げると、さも不機嫌そうな声色で、
「…世辞など無用だ。今度、茶に付き合え。では。」
「そこは、茶より、酒だろ、酒。」
呆れた声が道寺の背中をからかうが、彼は気にすることなく歩み去る。
俺はまだドキドキしながら、彼に続いた。
道寺は、強い。
そして、この人は、俺の父さん。
何だか嬉しくて、俺はしばらくひとり笑っていた。
あの時から、俺にとって道寺は、素直に尊敬できる人物となった。
その道寺が今までやってきたこと、そして今もやっていることを、俺にも求めるというのなら、応えたいし、やってみたい。
しかし、
「お前は、将来、何か、…やりたい仕事等はないのか?」
何故か道寺は必死そうに尋ねてくる。
俺は首を傾げて、考えながら答えた。
「うーん、…やりたい仕事か…。やりたい仕事、っていうより、…俺は強くなりたいな。」
「強く?」
「うん。本当に強い奴、っていうのになりたい。力だけじゃなくて、心も強い、本当に強い奴。」
すると、道寺は俺の目を覗くようにして、
「お前は、強さとは何か、知っているのか?」
道寺の真剣な表情に怯んで、声がつまりそうになる。
だから、なるべく正直に答えることにした。
「ううん。まだよくわかんない。だけど、守りたいものを守れたら、カッコいいな、って思って。」
「お前にはあるのか?守りたいものが。」
「…、それもまだ、だけど。…、ごめん、俺、まだ、何もないみたいだ。」
いつの間にか、俺は道寺に問い詰められていて、しかも最後までうまく答えられず、素直に謝る。
道寺は尋ねている間、じっとこちらを見下ろしていたが、俺が行き詰まって謝ると、息をもらして前へ向き直った。
俺のせいで会話が途切れてしまった気がして、なんだか落ち着かない。
落ち込みながらも、俺は足元の絨毯の柄を目でたどって、道寺の言葉を待った。
時計の秒針の音や、蝋燭の芯が焦げる音が、こんなにはっきりと聞こえる。
ふいに、
「あと、もうひとつだけ、お前に尋ねる。」
俺は何だか疲れて、下を向いたまま、はい、と頷く。
道寺は一呼吸置いてから切り出した。
「静香のことだ。」
急に身近な話題になった気がして、俺はひょい、と道寺の顔を見上げる。
彼は俺の方を見ることなく、正面の虚空を見つめて、
「前にも言った通り、私の息子には、彼女を守ってもらう。命はもちろん、その身も、心も、全力で守れ。」
「…、何から守ればいいの?」
「すべてからだ。」
道寺は毅然と言い放つ。
俺はしばらく何も言えなかった。
何て言ったらいいのだろう。
疑問はたくさんある。
だけど、今、答えを求められているのは俺の方だ。
黙ったままの俺に、彼はさらにこんなことを言う。
「もし、お前の一番大事な人間が静香でなかったとしても、お前が一番に守るべきは静香なのだ。
そんなことに、お前は納得できるか?」
道寺にとって静香が特別なのは、出会ったその時から知っている。
理由は、今もってわからない。
親バカ、はこの際、論外。
道寺は、逆はあっても親バカなタイプじゃない。
親バカだったら、人に任せやしないだろうし、大体、今のほったらかしな静香の状況と矛盾する。
ただ、見ていて二人の間に流れる空気は、何事ひどく遠慮がちで、よそよそしい。
だから、二人が血の繋がった本当の親子かどうか、いまいち確信が持てずにいる。
もし、血の繋がりのない、俺と同じ養子であるなら、何故道寺は静香にそこまでするのか。
だが、今は聞けない。
訳がわからなくても、俺が頷くかどうか試してるんだ。
もちろん、静香のことは嫌いじゃない。多分、逆だ。
だけど、今の彼女に俺なんていらないように見える。
ここにきてから、まだまともに話もできていないが、彼女はそれを何とも思っていない素振りだ。
ならなんで、施設で迎えにきた道寺をあんなに怖がったりしたんだろう。
俺の後ろに隠れるように立ち、怯えるような顔で、涙まで浮かべていた静香。
それでも、逃げようとする訳でもなく、俺の服を遠慮がちにつまんで、頼るような目で見つめてきたもんだから、つい、いつものガキどものお守りと同じ感覚で、大丈夫、なんてあやしつけてしまった。
そうしたら、彼女は本当に安心したかのように笑ってくれた。
…、なら、それでいいか。
また、静香が泣きそうになったら、俺が前に出て安心させればいい。
彼女は、笑ってる方がいい。
とにかく、泣かしちゃダメだ。
「わかったよ、父さん。静香を一番に守るよ。」
俺は受け入れる。
もしこの先、予想外なことが起きて、うまくいかなくなったら、それはその時考えよう。
俺の返事を耳にし、再び見下ろす道寺に、俺はにっこりと笑った。
笑っている自分に、俺は満足する。
うん、意外となんとかなってる気がする。
道寺はじっと俺を見つめた。
長く、長くそうした後、
「お前は、…何故、受け入れる?私の言い分など、戯わ言だと、何故はねつけない?受け入れたところで、お前に一体、何の得があると言うのだ?」
道寺の苛立ちの滲んだ口振りに、俺は口をとがらせる。
「得?、…は考えてないよ。
ずっと鍛練することは、強くなれるかも知れないし、静香、さん?のことは、嫌いじゃないから、そんなに無理なことじゃないしさ。
これでも、俺は俺なりに考えて、頷いてるんだ。
それに、望んでるのは父さんの方だろ。俺がヤダ、って言ったら、父さんが困るんじゃないのか?」
すごく無理してる、って訳じゃないけど、頑張らないでできるほど簡単なことでもない。
一応努力してるのは、道寺の為でもあるのに、そんな言い方はないじゃないか。
なのに、道寺は淡白に、
「お前が嫌だと言ったら、また別の者を探すだけだ。」
代わりはいる、みたいに言われて、俺はカチンときてしまい、
「なら俺でいいじゃないか。俺は嫌だと言ってない。言わない。」
何か変だ。
道寺が、ああしろこうしろ、と言っていることに、俺はちゃんと応えているはずだ。
したら、今度は、何故ちゃんと応えるんだ、と彼は苛立っているように見える。
でも、俺がヤダ、できない、とか言うなら、別の奴を探す、って言うし。
てことは、俺がどう答えても、道寺には気に入らない、ってことだ。
…。
…、何だ。
俺は、やっと気づく。
「もしかして、…俺のこと、嫌い?嫌いになった?」
それなら判る。
さっきの意地悪質問とか、訳のわかんない煮え切らない態度とか。
何だ…。
「何だよ…。言ってくれればいいじゃないか…。」
合点はいったものの、どっと疲れて、俺は背もたれにどかりと寄りかかった。
がくりと首が前に折れて、うつむく。
結構、頑張ったんだけど、やっぱり駄目か…。
みるみるうちに、喉がひきつり、目の前が揺らいで、涙が落ちた。
くそ!
ちくしょう!
…おっさんのバカ!嘘つき!
…へらへらしてたって、やっぱり駄目なものは駄目じゃないか。
身体を丸めるように足を引き寄せ、長椅子の上で膝を抱える。
もう見捨てられるんだ、と俺は諦め、諦めついでに気がすむまで泣いてやれ、道寺がなだめようものなら泣き喚いてやる、と決めた時だった。
「もう、観念してあげたらどう?絶狼。正直、見ていられないわ。」
聞こえたのは、女の声。
俺はびっくりして顔を上げる。
部屋には、俺と道寺しかいないはず。
きょろきょろと姿を探すが、やはり見当たらない。
訳がわからず、怯えるように道寺を見上げた時だった。
「ここよ、坊や。」
「え、…あ!」
道寺の胸元にある銀のペンダント。
少し大振りなそのペンダントトップは、正面を向いた狼の顔をモチーフにしているのだが、何故か狼の開いた口から、女性の美しい口元が覗いている。
以前から、不思議な形のペンダントだと思っていたが、その口元が、声と同時に動いた気がした。
「え?…本当に、喋ってる?」
確かに、喋り出しそうな程、精巧な細工物だが、…多分、そういう問題じゃない、よな。
「シルヴァ、…許可なく話すな。」
呆れた声で道寺が言うと、シルヴァと呼ばれた彼女は、かち、という微かな音を立てて瞬きし、
「ごめんなさい、絶狼。でも、とりあえずは、もういいでしょう?このままじゃ、貴方が嫌われてしまうわ。」
少し低めの落ち着いた声が、柔らかく艶やかな口振りで、道寺をやんわりと諭しているらしい。
彼女の台詞に、わずかに眉をひそめた道寺だったが、
「…、そんなことは些末なことだ。」
吐き捨てるような彼の声は、小さく冷たい。
だが、シルヴァはあっけなく一蹴する。
「それは嘘。…貴方は坊やに救われている。だからこそ、ためらっている。
でも、絶狼、…貴方の目的は何?坊やは何故ここにいるのかしら?」
道寺は何も言い返さない。
それも彼女は承知の上だったらしく、笑みの滲む、しかしどこか冷めた物言いで、さらに、
「貴方のそういう人間らしいところ、私は嫌いじゃないわ。
だけど、坊やは貴方が思うほど子供じゃないみたいよ。」
「お前は、認めると?」
憮然とした道寺の問いに、シルヴァはさも、わきまえている風に、さらりと、
「…少なくとも、今の段階で、坊やを不適合と判断する理由は見当たらなくてよ?」
俺には二人の会話が何のことだかよく解らなかったが、道寺はそれ以上彼女に言葉を返さなかった。
何となく宙ぶらりんになっていた俺に、道寺は顔を向け直し、ゆっくりと話し出す。
「私の後を継ぐ、ということは、世間でいう後を継ぐ、ということと、少し意味合いが違う。
だからこそどうしても、後継ぎと決めることに慎重になってしまう。
お前を試すような真似ばかりするのは、そのせいだ。
…間違いたくないのだ、お互いのためにもな。」
そう語る道寺の表情は、いつもよりもさらに、暗く重たい。
なんだか、俺が道寺を苛めている気がして、どうしたらいいか解らない。
おもむろに、道寺は椅子から立ち上がり、絨毯の真ん中まで進んだ。
いつの間にか抜いていた二振りの剣を両手に下げた状態で、刃を十字に重ねる。
そのまま両腕を頭の上に掲げ、くるりと手首を返し、剣先で虚空に輪を描いた。
輪は、そのまま光の輪になり、二つの輪が重なった形で、内側から白く眩しい光が溢れた。
「!」
その光の中から、いくつもの小さな光が飛び出してくる。
それらは道寺の目の前に集まって、形を成し、道寺が剣を手離すことで完成した。
道寺が俺に振り向いて告げる。
「私がお前に継いでもらいたいものだ。銀牙騎士『絶狼』という称号と共に。」
「これは、…鎧?」
人の形を成しているが、頭部に狼の面影を持つ鎧なんて、聞いたこともない。
しかし道寺は、小さく頷く。
俺はこの鎧が放つ輝きから目を離すことができずにいたが、不意に聞こえた言葉に思わず聞き返す。
「…、銀牙?」
「そうだ。お前には、私以上にこの鎧にふさわしい男になってもらいたい。だからこその、銀牙、だ。」
俺は吸い寄せられるように、鎧の前に立つ。
雄々しくも、綺麗だった。
夜の闇の中、白く輝いて見える。
顔は、鼻に皺を寄せて牙を剝く、憤怒の表情の狼。
恐ろしいはずなのに、いつまでも見ていたい、と本気で願う。
「触れてはならん。」
「え?」
道寺が阻むように、俺と鎧との間に半身を差し入れている。
言われて初めて、俺は鎧に指をのばしかけていたことに気づいた。
「これはソウルメタルと呼ばれる物質でできている。普通の人間には、力が強すぎて害を成す代物だ。触れるだけで、肌が裂け、血を噴く。」
「こんなに綺麗なのに…」
触れないなんて、ちょっと残念。
それでも俺は鎧から離れることができず、食い入るように見上げ続ける。
「…気に入ったか?」
道寺の問いに、俺は戸惑い、言葉を選ぶ。
気に入った、なんて、とても言えなかった。
こんなに猛々しく神々しい鎧に、そんな気安い言葉は相応しくない。少なくとも、それくらい俺は圧倒されていた。
しばらく考え、出てきた台詞は、
「…本当に、俺がこれを継げるの?」
本当に、いつの日かこれを道寺から受け取ることができるの?
多分今までの人生の中で、一番真剣な顔をしていたと思う。
道寺は初めて会った時のように、膝を折り、俺と視線を合わせて向き合う。
やっぱり、道寺の瞳は穏やかだ。
「それはお前の努力次第だ。私は、…お前がこの鎧に認められるよう、あらゆる手を尽くそう。」
初めて聞く、道寺の親しげな言葉。
だから自分でもびっくりするほど弾んだ声で、
「父さんが?!」
道寺の右手が俺の肩を優しく掴む。
「…ああ。だから、お前も覚悟を決めろ。どんなに困難な茨の道であろうと、絶狼を継ぐ、と。」