「父さんが、頑張れ、って言ったの、初めて聞いたんだ。」
素直に頑張ろう、って思えた。
ずっと道寺の背中しか見えずにいたのが、やっと俺に気づいて振り返ってくれたような気がした。
「だから、俺は銀牙になって、絶狼になる。」
しかし、
「…ゼロ?って、何?」
どうやら静香は道寺から何も聞かされていないらしい。
小鳥のように首を傾げる静香に、俺はやっぱりくすくす笑って、
「とにかく、俺はいなくならないから。安心して、寝ていいよ。」
しかし、彼女は眉をハの字にして心細そうに、
「…明日も、ちゃんといる?」
なかなか信用してくれない彼女に、俺は緩やかに笑う。
「いるよ。それに、明日は鍛練はお休みだってさ。だから、一日キミに付き合うよ。」
どうせ筋肉痛でまともに動けやしないし、したいことがある訳でもない。
鈍感ヤローだったお詫びもかねて、俺は軽い気持ちで言ってみた。
だが、静香は俺の言葉を耳にするなり、飛び上がる。
嬉しそうに目を大きく見開き、胸の前で両手の指を組むと、
「本当?!本当に?!」
身を乗り出して聞き返してくる彼女に、俺は少しびっくりしながらも、うん、と頷くと、弾けるような笑顔で一瞬だけの万歳をした。
「やったぁ!すっごく嬉しい! 」
あまりの喜びように、こっちまで嬉しくなる。
…今、解った。
俺は静香の笑顔を見ると、すっごく嬉しくて、もっともっと笑顔にしてあげたくなるんだ。
ベッドで軽く弾んだ彼女は、すぐさま俺を覗きこんで、
「じゃあ、…一緒におやつを食べたりしてくれる?」
「う、うん。」
「トランプとか、オセロとかもしてくれる?」
「…うん。」
「ずっとずっと、一緒にいて、お喋りしてくれる?」
「うん!」
俺は必死に笑いをこらえて、ただひたすら頷く。
なのに、彼女は感極まったようにほんのり赤くなったほっぺたを手で押さえて、
「どうしよう、私、嬉し過ぎて今からドキドキしてる。もう、寝なくちゃいけないのに。」
喜びながら困っている静香を見て、彼女の今までを思う。
彼女の願いは、ささやかなものばかり。
そんなことすら、ここでは叶わなかったのか。
「…やだ、ごめん。」
急に静香が目をこすった。
兎のように赤い目で、彼女は下を向いて笑う。
「嬉しいのよ。…嬉しくて。」
涙が滲んでしまったことが、彼女はちょっと恥ずかしかったらしい。
俺なんかでこんなに喜ぶ彼女が、俺には痛々しくさえ感じる。
…、何かしてやりたい。
もっと、彼女が喜んでくれるようなことを。
「ね、…静香、ちゃん。」
どうしても、ぎこちなく呼ぶ羽目になってしまうが、彼女は気にすることなく、明るい笑顔で、
「ん?なあに?」
「どうせ眠れないなら、いろいろ教えてくれないかな。キミのこととか、父さんのこととか。」
「私のこと?」
「うん。だって俺たち、これから家族になるんだから。
今までどうしてきたのか、キミのことが聞きたいし、俺のことも聞いて欲しい。」
俺たちは、まだそんなこともしていない。
静香は俺の顔をじっと見つめてから、
「…そうね。私も聞いて欲しいかも。」
「よかった。」
「じゃ、銀牙、くん、から話して。」
静香もまた、ぎくしゃくとした口調で、俺の名を呼ぶ。
くん付けは、やめてくれ。
くすぐった過ぎる。
俺は照れくさいのを笑ってごまかしながら、
「くく、…銀牙でいいよ。俺も、銀牙、って呼ばれるのに、慣れなくちゃならないしさ。」
しかし、彼女はまだ抵抗があるらしく、しばらく考えてから、
「…じゃ、練習していい?」
「う、うん。」
彼女の申し出に頷いてはみたものの、…練習?って何だろ?
すると静香は、ちょっとだけ照れながらも、真っ正面から俺の目を覗いてきた。
どきりとしながらも、俺も彼女の瞳から眼を離せない。
「銀牙、…銀牙、…銀牙、…銀牙、…銀牙。」
ゆっくりと言い聞かせるように、静香は頷きながら、俺の名前を繰り返した。
…、そうだ、俺の名は銀牙。
言い終わって、静香はほっとした笑みを浮かべた。
「もう、大丈夫。銀牙。」
…なるほど。
「じゃ、俺も練習したい。」
「うふ、…いいわよ。」
俺も静香の真似をして、じっと彼女を見つめながら、
「静香、…静香、…静香、…静香、…静香。」
この子は、静香。
本当は寂しがりやの静香。
言い終わるなり、俺はにっこりと笑って、
「俺、ずっと一緒にいられるように頑張るから。静香。」
急にそう言われて、彼女は目を丸くしたが、すぐに満面の笑みで、うん!、と頷いた。
結局、その後は二人して俺のベッドに潜り込み、いろんな話をした。
気がついたら、二人して眠っていて、朝食の時間になっても起きてこない俺たちを見に来た道寺に、
「…いくら休みだからといっても、食事くらいは摂れ。」
真っ当に叱られてしまい、俺達は二人して、ごめんなさいをする。
静香はまだ寝ぼけている様子だったが、着替えるために自分の部屋へと戻っていき、俺は自分の身体に驚く。
「あれ?…あれ、何でだ?」
部屋を出て行こうとしていた道寺が、俺の声に足を止める。
訳が解らず困惑する俺に、道寺は首だけで振り返り、
「“スノーテイル”」
「え?」
「昨日の飲ませた薬は、スノーテイルという魔戒の薬草を使ったものだ。身体の炎症している部分だけを冷やす。…今日は、ゆっくり休め。」
それだけ告げると、道寺は後ろ手にドアを閉めて出て行った。
あ、…あの冷たかったヤツか。
ようやく思い当たって、俺はくすくす笑ってしまう。
飲んだ時は毒か薬かも判らなくて、相当ビビって飲んだのに。
すっかり痛みの抜けた身体で、思い切り伸びをする。
あー、すっきり。
あー、楽ちん。
痛くない身体って、こんなに軽いんだ。
「銀牙ー、もう着替えたー?」
ドアの向こうから、静香の呼ぶ声が聞こえた。
「ま、まだー。ちょっと待ってて。」
慌ててベッドから飛び降りる。
何だか今日も忙しいらしい。
でも、今日からの忙しさは、昨日までのとは、きっと全然違うはずだ。
だって、こんなに楽しい気分。
さて、廊下に待たせているお姫様がむくれないうちに部屋から出なくちゃ。
俺は素早く着替えて部屋を飛び出す。
それが、俺が本当に『銀牙』になった日の始まりだった。