ギコン、ドコン、と車輪の転がる音が辺りに響く。
「大丈夫?…銀牙。」
白い帽子を被って隣を歩く静香が、心配そうに覗き込んで来た。
俺は大げさに胸をはって、
「こんなの、いつもの鍛練に比べたら軽いもんさ。」
そう笑顔で答えると、静香は嬉しそうに微笑み返す。
陽の光の下で見る静香の笑顔は、いくつもの鮮やかな花がいっぺんに咲いたみたいに輝いて見える。
「ありがとう、銀牙。私、今すっごく楽しい。さっき、銀牙が言ってたこと、今なら、すごくよく解るわ。」
林の中、なだらかに見える地面を選びながら、俺たちは前進する。
樹々は鮮やかな黄緑色の若葉を柔らかくのばし、その枝葉の隙間からも、陽射しはきらきらと溢れている。
足元では、小さな花たちがこっそりと色を放っていて、静香はそれに気づく度に、嬉しそうにしゃがみこんでは覗き込んでいた。
城の中では到底味わうことのできない、芳しい風の香りや、こぼれ日の輝き。
それらを目の当たりにしたら、どうしたって心が弾む。
静香の喜んでいる様子にさえ、顔がにやけ気味になりながらも、俺はゆっくりとリアカーを引く。
これが俺の思いついた名案。
静香を乗せて運べる位の小さなリアカーを持参すること。
リアカーなら、荷物も載せられるし、座れるし、具合の悪くなった静香を、休ませることも運ぶこともできるはず。
確かに、この城の敷地を探検するのは、ひとりでもきっと楽しいだろう。
だけど、…静香も一緒の時ほどじゃない。
それは、絶対。
あの後、俺のお願いでズボンに履き替え、この秘密兵器を目の当たりにした彼女は、俺の手を取って、すごいすごい、とはしゃいだ。
でもすぐに、泣きそうな顔になり、
「でも、これを引っ張るのって、やっぱり…銀牙、だよね?大変じゃないの?」
静香なら、きっとそう言うと思った。
だから俺はすました顔で、
「これは、静香の具合が悪くなった時の為のものなんだ。
だから、静香が具合の悪くならないペースを守って歩いてくれれば、ただ転がすだけだもの、全然平気さ。
とにかくゆっくり、少しずつ進もう。」
すると、静香は何か心に決めたらしく、真顔で大きく頷く。
なんというか、それは頼もしい感じがして、そんな静香を見るのは初めてな気がする。
こんな表情だってできるじゃないか。
彼女の知らない一面が、またちょっとだけ見られて、俺は嬉しくなる。
そうして、準備を万端にした俺たちは出発した。
城の敷地は、俺の想像をはるかに超える代物だった。
当初の作戦では、とりあえず建物から東の方向へ一直線に進み、敷地の端まで行ったら、そこから敷地の外周にそびえる壁に沿って進むつもりだった。
そうすれば、なんとなくでもこの城の敷地の全体的な感覚が掴めるかと思ったから。
だが、甘かった。
城を東に出発し、どれだけ一直線に進んでも、敷地の端まで行き着けない。
城が見えなくなってしばらく進んでも、ひたすら明るい林の中だった。
道寺と外出する時は、いつも正面玄関から西へと向かう。
すると、城からあまり離れないうちに、見上げるほど高い石壁と、優美な曲線で縁取られた金属製の大きな門扉が現れ、そこから敷地の外へと出ることができた。
稀に車で出掛けることもあるが、その時もその門より出るのが常で、他にも出入口はあるのかもしれないが、まだ見たことはない。
そんな風に、城の西側は見慣れていたものだから、今回は東に進んでみたのだけれど、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。
静香の体調を考慮すると、城からあまり離れることは得策じゃない。
目印になりそうなものもなく、ひたすら同じ光景が続く林の中では、いつ、何の拍子で方向感覚が狂うかもわからない。
仕方なく、俺は作戦を変更する。
一度、城の見えるギリギリのところまで引き返し、城が見える距離を保ちながら、大きな弧を描くように、南へと向かうことにした。
とにかく、城を見失うことだけは絶対避けなくてはならない。
城の南側はかなり広い芝生区域。
それを横目に、俺達は鳥達の声が響く気持ちのいい林の中をひたすら進んだ。
しばらくして、俺の少し前を歩いていた静香が、突然黄色い声を上げた。
「銀牙!…水!、水が流れてる!」
弾けるような笑顔で振り向き、走り出しそうな勢いの静香に、俺は下からゆっくりと手のひらを差し出す。
「…え?」
何もない俺の手をしばし見下ろしてから、静香は俺の顔を見つめて首を傾げる。
不思議そうな彼女に、俺はにっこりと笑い返し、
「一緒に行くよ。危ないだろ?」
すると、静香はじんわりと微笑み、俺の手に自分の白い手を重ねてくれた。
痛々しいほど細い指をした、小さなその手を。
この城に来て、十日程経った頃だと思う。
俺はその時、道寺の息子である『銀牙』の名を授かり、魔戒騎士になる決意に、大いに盛り上がっているところだった。
それは、静香とずっと一緒にいられる、ということだし、道寺の望みも叶えられる。
俺は俺で、いつかくる、すべてをかけて戦うべき時の為に、自分の牙を磨くこともできる。
何だか全てがいい方向に向かっていて、俺って意外とラッキーな奴なのかな、とさえ思っていた。
だが、その朝、静香は朝食の時間になっても、姿を現さなかった。
彼女のいないまま、いつものように朝食を始めようとする道寺に、俺は戸惑う。
彼を凝視したまま動かないでいると、それに気づいた道寺は冷たい目で俺を見返し、
「しばらく、静香は来ない。理由は聞くな。」
それだけ言って、食事を始める。
正直、途方に暮れた。
そんなことって、あるか?
まだ日が浅いとは言え、俺達は家族になろうってんじゃないのか?
理由は聞くな、だって?
いや、家族なら、心配して当たり前だよな?
俺は意を決して、道寺に声をかける。
「父さん、今、静香は…。」
「問うな。」
視線すら上げない有様。
予想以上に、にべもない。
でも食い下がる。
「だって、今まで、そんなこと」
「お前にできることは、何もない。」
「そうじゃなくて、」
「銀牙。」
問答無用に諌めようとする、圧のかかった道寺の視線と声。
俺はそれらをはねのける為に、ガタッと勢いよく椅子から立ち上がり、彼を睨んで声を張った。
「俺が、おかしいの?!」
俺のこの気持ちが、道寺には解らないのかと思うと、ひどく悔しかった。
悔しくて、苛立った。
「この城に来てから、朝、ずっと一緒だった子が急にこなくなったのに、俺は心配したり、不安になったりしちゃいけないのかよ?」
叫んだと同時に、手元でガチャガチャと音がした。
分かってる。
立ち上がった時、テーブルについた俺の右手が、テーブルクロスに滑った。
きっと今、テーブルクロスはしわくちゃになっていて、綺麗に並べられていた銀のスプーンやフォークが無惨に転がっていることだろう。
そんな乱れたテーブルの上へ眼差しを落としている様子の道寺が、ひっそりとした口調で、
「静香は、そんなことは望んでおらん。」
「っ、当たり前だ!」
カッとなって、俺は怒鳴る。
そんなことは、わかってる!
あの子は、心配なんてかけたくないに決まってる。
でも、だからって俺が心配しないわけないだろ?
それとこれとは、話が別だ。
手にしていたカップをゆっくりとテーブルに置き、どこか弱々しい口振りで、道寺は呟く。
「…わかって、言っているのか。」
まるで他人事のように感情が希薄な気がして、俺は思わず道寺に訴えた。
「静香は優しいから、いつもひとりで泣くんだ!だから、ひとりにしちゃ駄目なんだ!」
寂しくて苦しい、って俺の前で泣いたんだ。
いなくならないで、って、ぽろぽろ泣いたんだぞ。
だから、俺は、俺だけは、…いつだって、彼女の側にいなくちゃいけないんだ。
「約束したんだ、ひとりにしない、って。ずっと一緒にいられるように頑張る、って。
それなのに、今ここに静香がいない、っておかしいじゃないか。」
静香がいないなら、俺は約束を守るために、彼女を探す。
彼女が俺に面と向かって、もういい、って告げるまでは、俺は約束を守るために、どんな努力だってしなくちゃいけないんだ。
この間も、道寺や他の大人には言えなかった、寂しいって気持ちを、俺には打ち明けてくれた。
もしかしたら、俺にしか言えない事が、まだ他にもあるかもしれない。
だから、俺はどんな目にあっても、静香の側に行かなくちゃ。
「俺は、あの子を守らなきゃいけないんだろ?…全てから。なあ、…父さん!」
しゃがみ込んで、小さな水の流れを見下ろす彼女は、本当に楽しそうだ。
岩で囲まれた小さな泉には、まったく濁りのない水が溜まっていて、ゆらゆらと底の砂が絶え間なく踊って見える箇所がある。
湧き続ける水は、岩と岩の間から滲み出し、低い方へとひとつの流れを作っていて、さらさらと涼しげな音と共に、石でできた通り道をずっと先まで流れていた。
「濡れた石の上には、乗っちゃ駄目だよ。」
「わかってる!」
可愛らしいほどの流れの水面は、小さくても彼女の瞳に負けないくらい、きらきらと光を反射させていて、静香は近くに咲いている小さな花々を、摘んでは流れに落とした。
菫の紫や、ハコベやナズナの白、仏の座の赤紫、蛇苺の黄色などが、ぽつんと浮いては滑るように流れ去る。
草の上に腰を下ろして、爪先をかすめて遠ざかっていく花達をぼんやり見送っていると、静香が隣にやってきた。
白い大きな帽子をゆらめかせ、覗き込んでくる。
「銀牙、…疲れた?」
リアカーを引いている分、疲れているに違いない。
彼女の眼差しはそう心配していて、俺は首を横に振る。
「ううん。…だけど、ちょっと喉が渇いたから、おやつにする?」
おやつ、の言葉に、静香はびっくりした顔になり、
「え?銀牙、そんなものまで用意してきたの?」
「もっちろん。…と言いたいところだけど、本当は、テーブルの上の果物を取ってきちゃっただけ。」
「まあ。」
「あとは、クッキーを少し。水筒も、ちゃんと持ってきたんだ。」
俺は立ち上がると、リアカーの荷台に頭を突っ込み、袋から小さな包みと水筒を取り出す。
「クッキーまで!…銀牙ってすごい!」
はしゃぐ静香の膝の上に包みを広げ、俺は水筒の蓋に冷えた麦茶を注いだ。
「さあ、どうぞ。」
差し出された麦茶に気づくと、静香はじっと俺を見つめて、
「銀牙が先よ。あと、おやつは全部、半分こ。」
「…、いいの?」
甘いクッキーは静香のお気に入りなのに。
だけど彼女は明るく笑って、
「いいの!…私、外でクッキーを食べるの、初めて。それだけで、もう胸がどきどきなの。すっごく、素敵な気分よ。」
その時の静香の笑顔は、本当に嬉しそうだった。
忘れるなんてできないくらい、眩しく輝いて見えた。
道寺は席を立つと、肩越しに告げる。
「ついて来い。」
言われた通り、俺は道寺の背中を追った。
道寺の向かった先は、静香の部屋。
扉の前で、彼は俺に振り向くと、
「部屋には入るな。声もかけるな。私が出てくるまで、ここで待て。」
そして、数分後。
開いたままになっていた扉から、道寺は出てきた。
扉の影から、室内の様子を窺っていた俺はきっと、混乱の極みのような顔をしていたに違いない。
道寺は立ち尽くす俺の前で、彼女の部屋の扉を静かに閉ざした。
身動きもとれなくなった俺を見下ろしてから、道寺はゆっくりと廊下の窓に歩み寄り、呟く。
「静香は生まれつき、身体が弱い。」
窓の外は、音のない雨に煙っていた。
灰色の空の下、温もりの感じられない、奇妙ほど明るい世界を、道寺は眺める。
「いつまで生きられるか、判らない。」
俺は立っているのが不思議なほど消耗していた。
ものすごく頭を使って考えていた気もするし、考えようとしているのにまるで麻痺しているみたいに、何も考えられてない気もした。
「静香の身体は、少しでも疲労すると発熱し、重篤化して、その度に内側から蝕ばまれていく。
薬はあくまで症状の緩和しかできない。
根本的な治療は、恐らく、不可能だろう。」
道寺の台詞は解りにくかったけど、最後の一文だけは、よく解った。
治らない、…って。
「静香は、…これからも、ずっと、あんな風になるの?」
からからに乾いた口で、ぼそぼそと尋ねる俺に、道寺は身体ごと振り返り、ゆっくりとした口調で答える。
「熱を出すと、ああなる。」
「父さんの薬でも、…駄目なんだ?」
「…ああ。」
「この間は、あんなに元気だったよ?」
ほんの数日前、彼女は泣いたり笑ったりの大騒ぎだった。
ごく普通の、元気な女の子にしか見えなかったのに。
すると、道寺は一呼吸置いてから、
「お前の、おかげだ。」
「…え?」
思わず、道寺を見上げる。
彼の瞳は、やはり穏やかだったが、それ以上に憂いに満ちていた。
「私も久し振りだった。あんなに楽しそうな静香を見たのは。」
寂しげな道寺の台詞に、俺は訳が解らなくなる。
俺のおかげで、楽しそうだった?
…久し振り?
俺はいつの間にか俯き、痛いほど拳を握りしめていた。
目の前が熱っぽくて、息がつまる。
…くそ!
「そんなのって、あるか?!」
たまらなくなって、俺は吐き出す。
でかい声で喚き散らす。
「…全部、これからだろ?!…なのに、なのに!」
いつまで生きられるか、だと!
「何で、そうなるんだよ!」
静香はまだ、何もしてないだろ。
ほんの、子供じゃないか。
生まれて、やっとちょこっと、泣いたり笑ったりしたくらいだろ。
なのに、もう、…死ぬっていうのか?
それも、今のままじゃ、…ひとりぼっちで。
思いついたら急に怖くなって、俺は怯えた声で道寺に問う。
彼を見上げ、瞬きもできないほど目を見開いて、
「今日、…じゃ、ないよね?今じゃ、ないよね?」
道寺のコートを掴む自分の手が、なんだかおかしい。
震えて、止まらない。
「熱が下がらなければ、…あるいは。」
道寺の言葉が絶望そのものに聞こえて、次の瞬間、俺は目の前の扉に手をのばしていた。
だが、がくん、と動きが止まり、身体が前に進まない。
驚いて振り返ると、道寺がもう片方の手首を掴んでいた。
「!、っ離せよっ!」
渾身の力をこめてもがいたが、道寺の手はびくともしない。
頭に血がのぼった俺は、道寺の手を振り払おうと暴れながら、やけくそに唸り叫ぶ。
「くっ!、離せっ!、離せってっ!…、っ、このっ、………おっさんっっ!」
だが、道寺はひたりとした、冷徹な声で、
「駄目だ。」
「!っ、…くそっ!、離せよっ!、…離せって言ってんだろっ!!」
なんとかして、道寺の手を引きはがそうとあがくが、道寺の手は外れるどころか、緩みもしない。
圧倒的な力の差に、俺は泣きそうに苛立つ。
掴まれた手を振り回して滅茶苦茶に暴れていると、次の瞬間、道寺はさらに強い力で俺の手首を掴み、乱暴にぐい、と引き上げた。
彼の鋭い目が、俺の顔に突きつけられた気がして、息をのむ。
道寺が押し殺した声で呟いた。
「静香に、頼まれたのだ。……、お前を、入れるな、と。」
…え?
意味すら解らなくて、 戸惑いのまま、道寺を見返す。
彼は眼光鋭く、俺を見下ろしているのに、その瞳は揺れもせず凪いでいた。
重たく滴る様な声が響く。
「あの子の、望みなのだ。…、許せ。」
毎日、夕食の後、私は静香に体温を測ることを課していた。
発熱は夜の方が顕著であったし、夕食の後であればすぐに薬を飲ませることもできる。
「少し、高いな。…あまり、いい傾向とは言えない。」
昨夜も、静香から計測後の体温計を受け取り、私はその値を見てため息を吐いた。
「薬を飲んで、もう休みなさい。」
私の言葉に、静香は頬を膨らませ、目を三角にする。
「お風呂は?駄目?」
「駄目だ。」
「…入りたいなぁ。汗、かいたもの。汗臭いの、やだなぁ。」
口を尖らせて文句を言う彼女に、私は首を傾げた。
そんなこと、今まで言ったことなどあったろうか。
少なくとも、私に聞き覚えはないのだが…。
…、今まで?
そこで気づく。
少し、複雑な気持ちで。
「そんなことで、嫌ったりはしないと思うが?」
あの少年は。
私がじっと見つめていると、聡明な静香は私の言わんとしていることにすぐさま気づいたらしい。
みるみる、顔を赤く染め、
「な!、お、お父様、なんで…」
慌てふためくのは、肯定しているも同じ。
そう、それとなく教えてやるのが親切というものなのだろうが、悲しいことに、私は野暮が服を着ているような男。
そして、これ以上、彼女を辱しめる気もさらさらないので、すかさず、
「さあ、おしゃべりは終わりだ。身体は拭けばよいだろう。まずは薬をお飲み。」
柔らかい声で促せば、渋々ではあったが、静香は薬を飲んでくれた。
その間に、私は部屋に湯を運び込むと、それで絞ったタオルで彼女を拭ってやる。
身体全体を一通り拭いてから、彼女はベッドに入る準備をし、さほど時間もかからず、静香はベッドに潜り込んだ。
彼女がひとりで眠るには、少し広すぎるベッドだったが、静香は大人しく真ん中で横になる。
それを見届け、私は部屋の明かりを落とすと、彼女の枕元に歩み寄った。
ベッドの両サイドの床には、すでに、小さなスタンドがフットライトの代わりに灯されている。白百合の形をしたそのライトシェードは、ぼんやりと柔らかく光って、部屋はそれほど暗くならない。
怖がりな彼女は、このくらいでないといけないらしい。
私はベッドの傍らに立つと、ベッドの中の彼女を覗き込むように屈み、その小さな顔や髪を、手のひらで優しく撫でてやる。
彼女が少しでも安心して、眠りにつけますように。
少しでも心穏やかな夢に包まれますように。
祈りは、いつのまにか、こんな就寝の儀式となっていた。
愛らしい少女は、私の手の下で、じんわりと微笑みながら瞼を下ろす。
「お父様…」
「何だね?」
「今日の夜、…熱、高くなっちゃうかな?」
「かも、知れないな。」
そう答えたが、私には判っていた。
今晩の熱は、多分、厳しいものになるだろう、と。
あの少年と出会ってからというもの、静香はずっと、軽い興奮状態にある。
そして、私があの少年をどうするつもりなのか、という不安に、精神的に振り回されてしまってもいた。
ゆらゆらと心が落ち着かない日々が続き、やっと数日前、少年が本当に『銀牙』となることで、静香はようやく不安から解放されたのだが。
今も続いている軽い興奮状態からの、蓄積された疲労。
少年のことが心配で、張りつめていた不安や緊張からの疲労。
それらが、不安から解放されて気の緩んだ彼女に、いっぺんに襲い掛かろうとしている。
多分、静香自身も、何か予感めいた不安を感じたのだろう。
先程の台詞が私にはそう聞こえ、
「だが、薬も飲んだし、充分身体を休めれば、大したことにはならないかもしれない。」
嘘のつけない私の、これが精一杯。
第一、今の静香に精度の高い予想など無意味。いたずらに不安を煽るばかりで、何の解決にもなりはしない。
どんなに希薄な根拠であろうとも、正しい事実を告げて、彼女の精神的な安定を図る。
父親として、そう望むことは間違っていないはずだ。
しかし不安げなままの静香は、布団を口元まで引っ張り上げ、じっと私を見つめながら、
「お父様、お願いがあるの。」
「何だね。」
「…銀牙には、知られたくないの。」
ひたむきで、ひそやかな声だった。
静香はこっそりと涙で瞳を潤ませながら、
「きっと、知ったら心配するもの。」
「それは、…そうだが。」
しかし、私には彼女のお願いを聞き届けられる自信はなかった。
先程も言ったが、とても悲しいことに、私は野暮が服を着ているような男。
嘘で器用に相手をかわしたり、いなしたりなど、逆立ちしたってできることではない。
たとえ無理矢理、勇気を奮い立たせ、懸命に嘘でたばかることに挑んだとしても、あの少年が相手では分が悪過ぎる。
彼は感性が鋭く、頭が良すぎる。
私の拙い嘘では、鼻先で笑われてしまうことくらい、火を見るよりも明らかだ。
それに、もし彼に嘘が露見し、本当のことを知られてしまったら、きっと彼は、私を許しはしないだろう。
だが、静香はさらに続ける。
「それにね、」
しかし、銀牙は吼えた。
「っざけんなっ!」
まるで、牙を剥く獣のように、彼は私を睨み付ける。
「静香が何て言ったか知らないけどなぁ、…あんな状態なんだぞ!…誰だって、誰かに側にいて欲しいって思うに決まってんだろうが!」
いつもの穏やかな彼からは想像もつかないほど、猛々しく叫ぶ。
私は胸中では、彼を理解しつつも、
「誰が側についていたところで、何もできやしない。何より、静香は見られたくないと望んでいるのだ、…お前にだけは。」
「きっと、…怖がられちゃうと思うの。」
そう囁きながら、彼女が布団をさらに引っ張り上げたのは、多分、目元に膨らんでいた涙が、とうとうこぼれ落ちたからだろう。
彼女のわずかな声の震えなど、私はそ知らぬ振りで、
「怖がる?」
優しく首を傾げて見せるが、静香は布団の影で大きく息をしてから、
「私だったら、怖くて、…近寄りたくない、って思うから。…だから、お願い、銀牙には、内緒にして…。」
愛しい娘は、痛々しい声で私に願う。
「そんなの聞けるか!」
それでも、銀牙は抗う。
「銀牙!…、静香を追いつめるな。」
私はもがく銀牙の腕を引きつけ、部屋の扉から距離をとろうとする。
力であれ技であれ、私には勝てないことが身に染みている銀牙は、私の目をまっすぐに見つめて、
「違うだろ!…俺達は家族になるんだ!どんな時だって、一緒にいるんだ!何でわからないんだよ!…、父さん!」
もどかしげな銀牙の叫びに、私の心が初めて揺らいだ。
…、家族、か。
彼の黒曜石のような双眸は悔しげに歪んでいるが、それは彼の深い思いやり故。
私の心に、迷いの影がよぎる。
その時。
ヒュッ、という微かに空気を裂く妙な音がして、私は咄嗟に、彼を掴んでいたその手で銀牙を突き飛ばした。
すぐさま辺りの気配を探るが、何もない。
静香のいる部屋の扉に、背中から叩きつけられた銀牙は、さらに訳がわからず固まっていたが、
「今よ、坊や!」
魔導具の鋭い声に我に返ると、すぐさま背後の部屋に飛び込む。
一瞬の出来事に、私は呆然とするしかなかった。
しばしの静寂。
胸元で彼女がさも楽しそうに、くすくすと笑い出す。
おかげで、ようやく私も得心する。
落胆気味に肩の力を抜くと、彼女に囁いた。
「シルヴァ…、今のはお前の『吐息』だな。」
彼女はその小さくも魅力的な唇から、圧力をかけた空気の塊を、息のように吹き飛ばすことができる。
圧力の加減次第で、貫通力は自在。高圧にすれば弾丸のように飛ばして攻撃することもできるし、低圧なら、今のように、ただのフェイク、威嚇音でしかないようにもできる。
私が質すと、彼女はあっさりと認めた。
「ええ。坊やを行かせた方が面白そうだったものだから。」
面白そう、とはまた、ひどく女性的に無責任な。
「私が静香に怒られる。」
わざと不機嫌な声で、彼女にこの件の責任の所在をアピールしてみる。
お前のせいで。
という一言は、面と向かっては言えない。
女性にそんなことは、私にはできない。
だが、彼女は艶やかな声色で思わせ振りに、
「あら、わかってないのね、絶狼。」
微かな瞬きの音と共に、銀色の麗しき女性は、もったいぶった口振りで、私に語りかけてくれる。
「静香は坊やに首ったけよ。そして、坊やも、きっと。
だから、あの二人は引き離してはいけないの。邪魔をした方が、よほど恨まれるわよ。」
私を嘲るようでもあったが、何故か彼女が二人のことを優しく喜んでいる気がして、私は仕方なく、静香に怒られることを覚悟する。
二人のいる部屋の扉を見つめたまま動こうとしない私に、魔導具は訝しげに囁く。
「……絶狼?」
私はこういう時の彼女の声を、大層気に入っている。
いつもは高慢そのものであるのに、こういう時だけ、不安げで頼りなく、そしてうっとりするほど優しい声で、私を求める。
この上なく甘美だ、と私が密かに彼女に屈する瞬間。
今、まさにその声を耳にし、私は満足して、
「邪魔をしたつもりは、ないのだがな。」
すると、彼女はさらりと笑って頷く。
「ふふ、そうね。邪魔というより、愛娘のささやかな願いを叶えようとしただけ、ですものね。」
心地よく先回る魔導具の言葉を内心楽しみながら、さも心外であるかのように苦々しい口振りで、
「全くだ。だが、結果はこの通り。…貴婦人の気紛れまでは、私にも予測できんよ。」
だが、胸元の彼女は、そんな私の言など全く意に介さない。
逆に、私を見透かすような含み笑いをにじませ、
「まあ。そんなことを言って。…私には解っていてよ、絶狼。」
彼女はそこで一度言葉を切り、控えめな声に改めると、わざとゆっくりとした物言いで語る。
「貴方が本当に静香の願いを叶えたかったのなら、彼女の部屋に錠を下ろし、朝食のタイミングで、彼女はもう城にはいない、と坊やにシラを切れば済んだ話。
あげく、貴方は静香に気づかれないように、わざと坊やに彼女の様子を見せた。
…私には、坊やをけしかけているようにしか見えなかったのだけれど。」
魔導具の、探るような低い声。
私は、私の企みをきちんと言い当てた胸元の女性を、素直に称賛する。
「お前のその賢さに、私はどれほど救われているだろうな。」
だが、彼女の声は華やぐことはなかった。
逆に、憂いに曇った口振りで、
「貴方に褒めてもらえたのは嬉しいけれど、私に解るのはそこまで。
そうまでしておきながら、貴方は結局、静香の願い通り、坊やを行かせまいとしたわ。」
銀色の輝きを放つ魔導具の指摘に、私は何も言わない。
私の静けさに、彼女は数回瞬きをしてから、諦めに沈んだ声でもって、
「貴方が坊やに、何を期待したのか、あるいは何を試したのか。…その真意までは、残念ながら、私には解りそうにないわ。
……貴方の言う、私の気紛れもまた、…本当に正しかったのかどうかさえも、ね…。」
彼女の鬱寂とした声色と不安げな台詞に、私は胸元へ指先をのばさずにはいられない。
彼女の小さな顎を、指先で愛でながら、
「その繊細さ、ホラーであるのが不思議なほどだよ。
さすがは、絶狼の称号と共にあり、絶狼に愛され続ける女だ。」
思いつく最上級の賛辞を彼女に送った後、私も彼女を見習い、比較的本当の心情を吐露する。
「正しかったのか否かは、あの二人がこれから示すだろう。
…私はただ、二人を信じてみたい、その誘惑に負けてみたくなったのだよ。…もちろん、父親としての務めを放棄することなく、な。」