peaceful days   作:楡野 透

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第3話

 俺は部屋に身体を滑り込ませると、急いで扉へ振り向き、両手で閉めてドアノブを押さえる。

 だが、どうやら道寺は、室内までは追いかけてくる気はないらしい。

 静香の部屋に入ったのは、これで二度目。

 一度目は、静香に招待されて、一緒におやつを食べながら、彼女のとっておきの宝物を見せてもらった時。

 いかにも女の子らしい、可愛らしいリボンとか、押し花、ボタンとかを広げて見せてくれた。

 でも一番は、道寺からもらったという硝子細工。

 大事そうに差し出された、静香の小さな手のひらには、さらに小さな硝子の靴がのっていた。

 うっすらとした淡いピンク色の硝子の靴は、窓からの午後の陽射しを映して、幻想的に輝き、見とれるほど綺麗だった。

「お父様はたまに、お土産だよ、って色々下さるの。今はこれが一番のお気に入り。」

 うふふ、と嬉しそうに笑う静香が可愛らしくて、俺もにっこりと笑う。

「いいなぁ、静香は。俺、そんなの、何も持ってないや。」

 以前いたところでは、何かを持っていると、それだけで騒ぎの種になる。

 親の形見ですら。

 本当に何も持っていなかった俺は、そういう意味でも身軽だった。

 すると、静香は何でもないことのように、

「私も、ここにくる前のものは、何もないのよ。だから、銀牙も今からでいいじゃない。」

 静香も俺と同じ、孤児だと聞いたのは、ついこの間。

 そして、ここにくる前のことは、あまりよく覚えていないらしい。

 静香は彼女のとっておきの宝物が入っているオルゴールの箱を再び覗き、何かをつまみ出すと、

「はい。」

 差し出されたものに、俺は無意識に手のひらを差し出してしまう。

 そこにのせられたものは、銀色のロザリオ。

 極細の十字架に、繊細な蔦が絡まって小さな花がいくつか咲いている図案が彫り込まれていた。

 今の俺の手でさえ、握り込めてしまうほど、小さく、軽い。

 新しいものではないらしく、全体的に丸みを帯びていて、柔らかい印象を受けた。

 細工、細かいし、なんか高そうな気がする。

 でも、静香が持っているくらいのものだしなぁ。

 受け取っていいものかどうか、一丁前に値踏みしながら自問していたら、

「それは、銀牙にあげる。お父様のお母様のものですって。」

 静香のなにげない台詞に、俺はぎょっとして、

「えっ、それじゃこれ、すっごく大事なものなんじゃない?」

 すると、静香はきょとんとした顔で、

「ええ、そうよ。」

 なんとなく思うのだが、静香は時々、完全に無意識に、俺の言いたいことや伝えたいことを、するっとかわしてしまうことがある、気がすごくする。

 今も、そう。

 自分が何を言ってるのか、本当にちゃんと解ってる?

 そんな心配が先に立つから、俺は思わず、

「…、大事なものなのに、俺にあげちゃうの?」

 すると彼女は、弾けるような笑顔になって、

「うん!私、銀牙のこと、大好きだから。だから、私やお父様の大事なものを、持っていて欲しいの。」

 そう言って、にこにこと笑う静香に、俺は言葉が出なかった。

 なんだか、自分がひどく嫌な奴みたいで。

 あまりにも、静香が眩しくて。

 この子は、こんな風に人を信じられる子で、そんな彼女が、俺を大好きだから、俺をそんな風に信じてくれると言う。

 胸に、熱が灯る。

 なんて心地良い熱なんだろう。

 ただだるいばかりで、熱くも冷たくもなかった俺の身体に、初めて熱が灯った気がした。

「…もしかして、嫌いだった?…ペンダントとか、ロザリオとか。…男の子らしくない?」

 返事すらしない俺を、静香は心配そうに見つめている。

 それに気づくと、俺は激しく首を横に振って、

「全っ然、嫌いじゃないさ。

 自分で使うってことは、あんまり考えたことないけど、…すごく綺麗だし、二人の大事なものなんだろ?じゃ、俺も大事にする。」

 俺の言葉に、静香はまた惜しげもなく、輝くような笑顔をこぼす。

「本当?!よかった!ありがとう、銀牙!」

 俺は受け取っただけで、あげたのは彼女の方なのに、静香はすごく喜んでくれた。

 胸の中の熱が、またじわりと高まり、その温かさが俺を癒してくれる。

 手の中のロザリオを見つめ、大事にしなくちゃ、と素直に思える。

 俺の人生の中で、初めての大事なもの。

 今、そのロザリオは、俺の部屋の一番目立つところに飾ってある。そうすれば、二人はいつでも安心できるだろうと思って。

 それが一度目。

 ちょうど、静香の机が置かれている所より、少し手前に敷かれている柔らかな絨毯の上で、そんな話をしたばかり。

 なんだか、…すごく昔のことみたいだ。

 だが今回は、俺が勝手に押しかけてしまっている。

 あの時は、こんなことになるなんて、想像もしていなかった。

 ゆっくりと、身体を室内へと向け直し、眼差しを部屋の奥、ベッドの方へとのばしていく。

 ここから見える光景は、ついさっきと同じ。

 部屋の中は、窓を覆うレースのカーテンのおかげで、外からの光が半分くらいになっており、何もかもが暗く、灰色がかって見えた。

 にもかかわらず、部屋の空気は不快なほど暖かい。

 さっきはまずそれに驚いて、部屋にあったはずの暖炉を覗いた。炎こそ見えなかったが、炭化した薪には、いくらかまだちらちらと鈍い赤光が燻っていた。

 静香は、熱を出している…。

 もしかしたら、これでも彼女には寒いのかもしれない、と今なら解る。

 身動ぎもしないで立ち尽くせば、つまりがちだった自分の息がゆっくりと落ち着いてきて、部屋の静けさに耳が慣れてゆく。

 聞こえるのは、ただひとつ。

 

っは、っひ、っは、っ、は、っは、っ、っふ、っひ

 

 苦し気で、せわしない呼吸。

 あんまり速くて、聞いているだけで、追いつめられる。

 吐息にも似たその息づかいは、でも短い悲鳴の連続にも聞こえた。

 道寺の後ろから覗いた時、初めて耳にして、……背中が寒くなった。

 あれが、…静香の呼吸?

 まるで、無理矢理走らされて、今にも倒れそうな時みたいな息遣い。

 酸素が薄くて、足らなくて。

 吸った息を吐くこともできなくて。

 胸は大きく波打ち、腹筋は疲れ果て、重たく鋭い痛みが脇腹から消えなくて。

 喉は開いたまま乾き切り、息すら擦れるように痛んで。

 それでも身体は満たされず、止まらず、苦しさに意識は逃れることしか望まなくなってゆく。

 まさにそんな呼吸に聞こえた。

 だが……、あり得ない。

 そんな苦しみに、あの静香が、あの幼い静香が、…耐えられる訳がない。

 それが判っているのに、俺はどうしてやることもできない。

 彼女をその苦しさから解放してやりたいのに、その術がない。

 なんとかしなくちゃいけないのに。

 そうしないと、きっと、…きっと静香が、壊れてしまう…。

 壊れて、壊れて、……。

 気づかないうちに、俺は怯えていた。

 彼女の、苦しむ様子に。

 何もできない自分の無力さに。

 道寺の言いつけ通り、部屋の入り口で立ち尽くしていた時、俺は確かに呆然とするしかなかった。

 唐突に突きつけられた、理解も追いつかない、受け入れがたい現実に、圧倒されるので精一杯だった。

 けれど、改めて道寺から静香の容態を聞かされているうちに、俺は自身の間違いに気づいてしまう。

 そんな場合じゃなかったんだ、と駆け出したのに、道寺は阻みやがった。

 頑なな彼に向かって、懸命に訴えているうちに、俺は少しずつ、自分がどうしたいのか解った。

 強烈なだけだった気持ちが、次第にはっきりとした願いとなり、もう迷いはない。

 

っは、っ、っは、っは、っ、っふ、っは、っひ、っ

 

 俺はついさっきと同じように、彼女の息遣いに苦しくなりながらも、しかしついさっきと同じように、怯えて動けなくなりはしなかった。

 部屋の東側の奥に、大きなベッドが置かれているのは、初めて来た時と変わっていない。

 そして、その真ん中に、静香の姿はあった。

 額には、濡れたタオルの代わりに、白い湿布のようなものが貼られている。

 口元には、……多分、酸素マスク。

 透明なそれは、ここからでも判るくらいに、彼女の吐く息で白く明滅を繰り返している。

 それに繋がった細い透明なチューブとかが、本当に彼女は病人なんだ、と言い張っているみたいで、眉をひそめる。

 唇を噛み、拳を握り、俺はゆっくりと、ベッドに近づく。

 彼女の枕元に立つと、布団を被り過ぎて、まるで布団の隙間から顔を出しているような彼女が見えた。

 柔らかな枕に頭を沈め、仰向けでいる彼女の表情は、苦しそう、としか言い様がない。

 疲れきった顔も、歪んだ眉も、マスクの中で開きっぱなしの口も、ぎゅっと閉じられたままの眼も。

 彼女の全部が、苦しい、と訴えている。

 

っは、っ、っは、っは、っ、っふ、っは、っひ、っ

 

 せわしないほどの速さの呼吸なのに、息のたびに、胸が反っては沈み、いちいち肩が大きく上下する。

 こんな速さで、こんな深い呼吸を続けていたら、どんな人間だってあっという間にクタクタになってしまう。

 だが、彼女は必死に繰り返していた。

 苦しさに追い立てられ、休むことも許されず、静香はひたすら、狂暴な呼吸が引き起こしている残酷な仕打ちに耐えていた。

 俺は彼女の傍らに立ち、よろよろとした動きで、なんとかベッドに両手をつく。

 恐る恐る、肩で大きく息を吐いてみる。

 それでも、今にも膝がくずれそうだ。

 …、いつからだ?

 いつから、こんななんだ?

 昨日の夜、おやすみなさい、って言った時は、こんなじゃなかった…。

 もう何時間、こんなのが続いてるんだ?

 …、静香。

 静香はずっと、戦っていたの?

 こんな苦しみと。

 この部屋で。

 ひとりで。

 …、ひとりで。

 くそ!

 そんなに、俺は頼りないか?

 こんな時くらい、甘えろよ!

 道寺と二人で、俺をのけ者にしやがって。

 俺達は家族になるんだろ?

 なのに、こんな大事なことを俺に内緒にしようとするなんて。

 沸き上がった悔しさは、しかし、今の静香の様子に、あっという間にしぼんでしまった。

 苦しそうな静香の横顔をぼんやりと見つめる。

 ……。

 どうして、だろう。

 どうして、こんなことになってるんだろう。

 俺の知っている静香は、こんなじゃない。

 俺の知っている静香は、楽しそうに笑っていたり、ぽろぽろと泣いたり、…その瞳に俺を映して、名を繰り返したり。

『銀牙、…銀牙、…銀牙、』

 ……。

 ……。

 …静香。

 …、お願いだよ、静香。

 俺は、…君との約束を、守りたい。

 ずっと一緒だ、って。

 ひとりにしない、って。

 だから、俺が今ここにいることを許してよ。

 これからも、静香がどんなに苦しそうな時でも、側にいさせてよ。

 だって、…道寺の言っていたことが本当だったら、……。

 このままじゃ、…。

 このままじゃ、静香は…。

 ぞくっ、と自分の想像の恐ろしさに震える。

 駄目だ!

 そんなの、絶対!

 俺は青冷めて、静香を凝視した。

 …、死なない。

 静香は、死なない。

 そんな簡単に、人は死なない。

 大丈夫さ、きっと。

 そう思い込もうとした時だった。

「!」

 突然、静香が咳き込む。

 速まる呼吸が、彼女の体力を削り過ぎて、もう、呼吸のタイミングすら、うまく保てなくなっているらしい。

 引きつった表情で背中を丸めながら、手は咄嗟にマスクをむしり取り、彼女は、こん、こんと弱い咳をする。

 咳は弱くても、彼女を襲う苦しみは尋常ではないらしく、静香は痛みから身体を守るように、ベッドの上で丸く縮こまる。

「静香っ!、静香っ!」

 急変した彼女の様子に、俺は自身の血の気が引くのを自覚しながら、思わず叫ぶ。

 だが、彼女はすぐにまた、あのせわしない息遣いに支配され、気を失うように身体から力を抜いた。

 俺は身を乗り出すようにして、拾い上げたマスクを彼女の口元に翳しながら、静香に訴える。

 彼女は見られたくないとか言ったらしいが、そんなの、今はもう、どうでもいい。

「静香っ!、…俺、ここにいるから!側にいるから!」

 俺の声に、彼女は何の反応もしない。

 届かない、し、応えられない、んだろう。

 でも、いい。

 俺はもう、ここから動かない。

 もう、ひとりにしないんだ。

 自己満足だろうけど、そう腹をくくった俺は、ようやく自分が安定したことを自覚する。

 今さらな自分に、少し呆れながら。

「っ、っ、ぎ、っが、っ、っは、っ。」

「!!」

 激しい息の合間に、それは確かに聞こえて、俺は食い入るように彼女を見下ろす。

「静香っ!」

 すると、彼女は虚ろな瞳のまま、緩やかに首を巡らす。

「っ、っは、ぎ、っ、っが、っは、っ、どこっ、っ。」

 静香の白く細い手が壊れかけているみたいに、たどたどしく宙に伸ばされ、俺は素早く彼女のその手を握った。

 ひやりとした小さな手は、たちまちくたりと意思をなくす。

「いる!、ここにいるよ!」

 やはり、彼女は何も返してこない。

 意識がない、のか。

 痛くないくらいに加減しながら、俺は彼女の手を強く握る。

 気づいてよ、静香。

 すると、彼女がまた、やっと聞こえるくらいの小声で、

「っは、っぎ、がっ、っいか、っ、っな、っいで、っは、っはっ。」

 いか、な、いで、…だと?

 俺は息をつめ、目を見開く。

 喚き散らしたいのを、なんとかこらえる。

 君は、そんな、…そんな当たり前な事を、ここまで追いつめられないと、言えないっていうのか?!

 唐突に、道寺の台詞が蘇る。

『部屋に入れないのは、静香の望み』

『見られたくないのだ、お前には。』

『いかないで』

 二人の言葉に、俺はやっと思い当たる。

 と同時に、めらめらと揺らいだ炎は、怒りと悔しさ。

 二人して、…ふざけやがって!

 俺がこんな状態の静香を見て、逃げ出すような奴だとでも、思ったのかよ!

 そりゃあ、…最初はビビったさ。

 あんまり静香が苦しそうで、彼女が死んでしまうんじゃないか、って。

 だけど、…多分、一番怖いのは、静香なんだ。

 こんなところで、ひとりぼっちで、死にそうなほど苦しい、静香が一番辛いんだ。

 それに気がついてしまえば、ビビってる場合なんかじゃない。

 それに、俺には守らなきゃいけない約束がある。

 俺が守りたいと願う、彼女との約束が。

 すぐにまた意識が薄れてしまったらしい静香を見て、俺は彼女を起こさないように手の力を緩める。

 ……あ。

 いつのまにか彼女の手は、弱々しくも俺の手を握り返していた。

 指先がわずかに丸まって、俺の手に引っかかっていることに、今ようやく気づく。

「静香…。」

 行かないで…。

 依然として苦しみに耐え続けている彼女の横顔。

 優しくベッドに下ろしても、彼女の手は、そうしてしばらく俺を離さずにいた。

 …、何だよ、これ。

 ………。

 俺が励ましに来たってのに…。

 しかし、俺にはその手が、この上なく、自分の命なんかよりもずっと、大切なものに思えた。

 この弱く儚い手が、……。

 不意に目の前がゆらめいて、俺は慌てたが、幸い、…誰も見ちゃいない。

 よろめくように、俺はベッドの傍らに両膝をつくと、静香のその手を両手で包むように握り、祈るような姿勢で額に当てる。

 想いが深まり、瞳を閉ざす。

 彼女の息遣いは、依然として少しも休まない。

 俺はひたすら、願う。

 …、静香。

 こんな苦しみに負けるな。

 俺たちはまだ、やってないことも、やんなきゃいけないことも、いっぱいあるだろ?

 …とりあえず、目が覚めたら、俺は静香の願いを聞くよ。

 まずは、どこでも行かない、だろ?

 それから?

 他には?

 何でも叶えてやるから。

 だから、……。

 死ぬな。

 ………。

 俺はこれからも、見ていたい。

 隣で笑う、君を見ていたい。

 俺に向けてくれる、君の感情すべてが、俺には本当に大切で、……失いたく、ない。

 だから、…どうか…。

 どうか…。

 ………。

 ………。

 ………。

 ………、でも。

 でも、もし、…道寺の言っていたことが、本当になってしまって…。

 もし、こんなに頑張ってる静香が、このまま、…。

 ……助からなかったら。

 その時は、………。

 俺は力いっぱい唇を噛む。

 痛くて、痛すぎて、感覚がなくなって、血の味がしても、ぎりりと噛み続ける。

 こんなに苦しんでる静香が、結局助からないなんて…。

 そんなふざけた世界、俺は、……いらない。未練もない。

 だから、……。

 ………。

 俺ぐらいは、側にいてやりたい………。

 ………。

 静香……。

 静香……。

 俺は、君と共に。

 

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