あれほど酷い高熱と激しい呼吸に苛まれたのにも関わらず、静香は奇跡的に力尽きることはなかった。
銀牙が部屋に飛び込んだ、その日の昼過ぎには、静香の容態は危機を脱していて、私は目を丸くする。
そんな私に、絶狼の美しい相棒は嬉しそうな声で、
「ほら、…ごらんなさい。やっぱり、私は正しかったわ。」
「…そうらしいな。」
やんわりと同意しながら、静香のベッドの傍らで、両腕を頭の下に敷いて眠っている銀牙を見下ろす。
…、起こさず運んだ方が、手間は少ないな。
一方、静香はというと、痙攣気味だった呼吸が、目に見えて緩やかになっており、落ち着いて眠っていた。
とはいえ、まだ油断はできない。水分と栄養を補給させなくては。
消耗が激しく、顔色は疲労のせいか青い陰に沈んで見える。
額の湿布に、微冷の界符を貼り直すと、その指で静香の頬をいたわるように撫でた。
私のそんな仕草に触発されたのか、魔導具の彼女が大層可愛らしい声色で呟く。
「ふふ、なんだか不思議。この子たちを見ていると、…なぜか手を貸してあげたくなるの。魂の契約もしていないのに。」
私は静香のベッドを整え、銀牙を起こさぬよう、抱き上げながら、
「それはお前が、更なる高次の存在になろうと…」
しかし、彼女は私の返答を遮るように、ざらついた不機嫌な声を被せてきた。
「そうかしら?…本当に、そう思っている?」
やれやれ。
彼女の満足する返答は、こちらではなかったらしい。
熟睡しているのか、全く起きる気配のない銀牙を抱え、私たちは静香の部屋を後にする。
もうひとつの返答を彼女に告げながら。
「…名は体を表す。お前は、冠するその名を本性として、見事に体現しつつあるのだ、…銀の貴婦人、シルヴァよ。」
鍛練が終わり、床にのびている銀牙に、
「静香が、お前と話したい、と言っているんだが。」
そう告げてみたら、次の瞬間、呆気にとられるほどのスタートダッシュ。
いや、どちらかと言うと、フライング、だろうか。
私の言葉に返事すらせず、あっという間に姿を消した銀牙に、私のよき理解者は、くすりと笑った。
「元気な坊やだこと。」
確かに、面白い男だ。
そして、安堵する。
私の娘をあれほど慕ってくれていることに。
だからこそ、なのだろう。
静香が今、生きているのは。
「お父、様…」
高熱が治まり、激しい呼吸も落ち着いたその日の夕刻。
多少強引だったが、私は静香に軽い食事を摂らせた。
そしてまた薬を与え、休ませる。
静香の身体はまだ、衰弱と疲労でよろよろとしていたが、それでも彼女は懸命に私の要求に応えてくれた。
ベッドに戻り、布団を被ると、彼女はそっと目を閉じる。
私は疲れている彼女の眠りを邪魔しないよう、静静と部屋を出ようとした。
「お父、様…」
緩やかにはなったとはいえ、まだ彼女の息づかいは、肩が揺れるくらいには重く深い。
呼び止められて、私は静香に改めて近づき、顔を寄せる。
「何だね?」
彼女は自分の呼吸に抗わず、逆に合わせるようにして、
「怒ら、ないで、ね…。」
私が頷いて見せると、彼女は安心したらしく、ふふっ、と笑ってから、
「私、…銀牙の、夢を、見たの。」
緩慢と紡がれる静香の言葉は、ふわり、ふわり、と吐息に乗って届く。
「銀牙が、来てね、ここに、いるって、…、側に、いるって、言って、手を、握って、くれたの。」
彼女はそこで、深呼吸を繰り返した。
私は彼女の傍らに腰を下ろし、
「時間はある。ゆっくりでいい。」
彼女は小さく頷き、息が静まるのをじっと待ってから、
「私ね、死にたく、ないって、……初めて、思っちゃ、た。」
そう語る静香は、少しだけ困っていて、でもとても嬉しそうに笑っていた。
「だって、銀牙が、側に、いるって、言って、くれた、時、す、ごく、嬉しかっ、た……、けど、私が、いなく、なったら、…きっと、悲しむ、よね。…だから、……、まだ、死にたく、ない、って…。」
「そうか…。」
懸命に語る静香の顔が、心なしか赤くなってきている気がして、私は彼女の頬を手のひらで柔らかく撫で、熱を奪う。
幾分楽になるのか、静香はうっすらと笑むと、まだ伝えたいことがあるらしく、ふう、と息を吸い込み、
「それで、ね、私、…握って、くれた、手を、ずっと、離さな、かったの。……、離したら、また、ひとりに、な、ちゃう。…私が、死んじゃう、みたいな、気がして、…。」
そこまで言って、静香は再び荒れてきた呼吸に専念する。
私は彼女の髪を撫で付けてやりながら、
「静香、…まだ話すのは、疲れるだろう。他に何か、伝えたいことはあるかな?」
すると、静香は今まで見たことがないような、強い光を宿した瞳で私を見つめた。
「お父、様、…私、まだ、死にたく、ない。」
瞬きを忘れたように、私を見つめ続ける彼女の目から、不意に涙がこぼれた。
「我が儘、かな?…私。望んでは、駄目?」
無反応な父親に、彼女は不安を感じたのだろう、私は素早く、
「いいや。そうではない。…、少し、…。」
口にしそうになった言葉は、今にふさわしくない気がして、首を傾げる彼女に、私は微笑む。
「わかった。お前が本当にそう望むのなら、私も尽力しよう。
手立てがない訳ではなかったのだが、……それは多少の苦痛を伴う。
お前に生きる覚悟がないのに、徒に苦痛を与え、望まない生を引き延ばすことに、私は躊躇っていたのだよ。」
静香はうっすらと微笑んだまま、
「…よく、わかんない、けど、…頑張れば、いい?」
幼くあどけない静香の言葉に、私は僅かに微笑み、
「そうだな。…頑張れば、いい。」
曖昧でいい加減な台詞、この上ない。
だが、静香は嬉しそうに笑って、
「ありがと、お父、様…。」
そう言って、ようやく瞼を閉じた。
彼女が眠りに落ちたのを見届けてから、私は彼女の部屋を後にする。
そのまま隣の書斎に入れば、すぐに、
「絶狼、…本当に、静香は助かるの?」
待ちきれない様子で、魔導具の彼女は私に問いかける。
不安そうな声に対し、私は燭台の下にある自分の机に向かいながら、事実だけを告げた。
「治すことはできない、が、死を遠ざける手立てはある。」
「…どういうことなの?」
「薬で少しずつ、静香の身体を作りかえる。…時間はかかるし、副作用もあるだろう。だが、必要なのは根気だ。静香なら、きっと、耐えられる。」
願望を断言するなど、いつ以来のことか。
それはもう、願望ではなく、決意だから、か。
シルヴァが私の高揚を感じ取ったのか、後押しするように、ゆっくりと弾んだ声で、
「今まで貴方が培ってきた知識が、役に立つわね。」
「…まだ、わからんよ。」
私はあえて、自身の感情にブレーキをかける。
大きな感情の波は、判断を誤る要因のひとつ。
常に冷静であれ。
たとえそれを、野暮、とそしられても、死にはしない。
「私の微々たる知識など、私自身にすら、大して役に立たなかった。…当てにならないどころか、むしろ、学び直さなくてはならない。」
これから何が必要になるのか、すでに私の思考は薬の知識や調合の方へと飛び始めてしまう。
しかし、不意に聞こえた彼女の声は、ことの外、小さく寥々としていた。
「絶狼…、私は貴方も、静香も、救われて欲しいわ。だから、無理はしないで。」
いたわりの言葉を私に向けてくれるのは、唯一、彼女のみ。
改めて私は彼女の存在に救われ、癒される。
「シルヴァ…、最愛なる絶狼の片割れ。……感謝する。」