peaceful days   作:楡野 透

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第5話

 二日ほど経ち、静香の体調が安定したことを確認できた朝。

 軽めの朝食を摂らせた後、私は静香を抱き上げ、部屋を出た。

 顔の横にまで掲げ、いわゆる縦抱きの状態にすると、彼女の両腕がやんわりと私の首に掴まる。

 体調は回復しつつあるが、まだベッドから出ることを禁じなくてはならない。そんなことは、今までにも何回かあった。しかしその度に、静香はあまりにひどく落ち込むので、気分転換にと始めたのが、この散歩だった。

 今では、もうそろそろ完全回復だ、という暗黙の合図となりつつある。

 私と同じ目の高さになることは、彼女にとって楽しいことらしく、こうして抱き上げてやると、静香はいつも生き生きと瞳を輝かせ、満面の笑みで正面を見つめる。

 私はこの静香の表情が、格別に好ましい。

 真っ直ぐ挑むような、眼差しと微笑み。そこには、心の高揚と期待感が満ち溢れて見える。

 彼女のこの表情を目にする度、私もかつて、こんな風に未来を見つめることができたら、どんなに素敵だったろう、と思ってしまう。

 そんな彼女だったが、その第一声は、

「銀牙は?どこにいるの?」

 彼女は私に会うたび、彼に会いたがった。

「今は、鍛練場だ。」

「…まだ会えないの?」

 落胆の色を隠さない静香に、

「もう少しの辛抱だ。」

 そう答えながら、薄いブラケットでくるんだ静香と共に階段を降り、屋敷の外に出る。

水色の、眩しい青空。

 陽の光を浴びると、彼女はまるで花の精か何かのように、輝きを増す。少なくとも、私にはそう見える。

 私の足がまずどちらに踏み出すかで、彼女には今日のコースがすぐに判ってしまうらしい。

 屋敷から出てすぐ、弾んだ声で、

「広い花壇まで行って下さるのね?」

「ああ。」

 まだ気温が上がりきらない午前中の風は、ひんやりとして爽やかなものだ。

 私は静香の身体を冷やさないように、しっかりとブラケットにくるみ直し、庭を散策する。

 瞳に花の色が映り込むほど、彼女は生気を取り戻すようだった。

 初夏と呼ばれるこの時期、庭には明るい色の花々が咲きこぼれている。

 石楠花、紫陽花、撫子、アイリス、くちなし、カラー、ガーベラ、芍薬、等々。

 建物から少し離れたところにある、彼女が広い花壇と呼ぶ庭を一通り巡り、最後に白い花を房にして咲かせる木々の下に腰を降ろした。

 そこには、大きなベンチがあり、二人並んで座っても余裕がある。

「すっごく、いい香り…。」

 ベンチに座り直した静香が、うっとりと花を見上げる。

「針槐の花は、美しく、香り高い。香りが強すぎて嫌う者もいるくらいだ。」

 静香は私の言葉に首を傾げて、振り向く。

「はりえんじゅ?」

「この木の名だ。枝に、針のような刺がある。」

 彼女は再び木々を見上げる。

 緩やかな風は、甘い香りをゆったりと運んできて、私達を包む。

「少しは、元気が出たかな?」

 私が尋ねると、彼女はにっこりと笑い返し、

「はい、とっても。」

 静香の明るく元気な声に、私は秘かに安堵しながらも、気持ちを切り換え、表情を改める。

「静香、私はお前に…詫びなくてはならない。」

 雨風に傷みつつある木のベンチからそっと立つと、彼女の前に片膝をつき、頭を垂れる。

「私はお前の願いを叶えられなかった。…すまない。」

「私の、願い?」

 聞き返す彼女に面だけを上げ、

「お前が熱に苦しんでいる時、部屋に、銀牙を入れてしまった。」

 静香の表情が、ぴしりと凍える。

「え…、嘘…。」

「申し訳ない。」

 私は再び頭を下げる。

 言い訳をする気は毛頭ない。

 彼女にとって、銀牙がどれほど大きな存在であるか、私はそれなりに承知していた。

にもかかわらず、彼女が泣きながら訴えた願い、知られたくない、見られたくない、という願いを叶えてやれなかった。

 勿論、彼女の願いをただ軽んじた訳では決してなく、私には私の思惑があったが故のこと。

 けれどそんなことは、静香からしてみれば、関係のないことだ。

 私は、彼女の願いを充分理解した上で、明らかに裏切っている。

 怒られて当然なのだ。

 今までの経験からして、きっと、ぼろぼろに泣きながら怒るに違いない。

 嫌。どうして。ひどい。そんなのってない。

 それくらいのそしりは、仕方ない。

 それに、私は静香の心配が杞憂であったことを知っている。

 怒り狂う彼女が泣き疲れたところで、なだめ、励ませば、今回の件とて無事、落着するだろう。

 まずは、そしられなければ。

 私は覚悟を決め、神妙な面持ちで、それを待った。

 だが、予想は大きく外れてしまう。

「…だから、なの?」

 そう尋ねている静香の声は、無惨に震えていて、私は不審に思い、顔を上げる。

 彼女はブラケットの上から自分の両肩を抱くような格好で、私を見つめ、大粒の涙をぽろぽろ落とす。

「だから私、…銀牙に、嫌われちゃったの?だから、銀牙に会えないの?」

 思いもかけない静香の台詞に、私は狼狽える。

 言葉を選びきれず、しどろもどろになりながら、

「いや、…いいや、そうでは、ない。それはまた、…違うのだ。そうではなくて、…。」

 完全に不意を突かれ、たどたどしい口振りになった私に、胸元の彼女はくすくすと震えるばかり。

 シルヴァめ。笑いものにするとはまた、はしたない真似をする。

 私は内心、必死になって、

「違うのだ、静香。私が言いたかったのは、お前の夢のことだ。」

「夢…?」

 静香は驚いた表情で、目を丸くする。

 ぴたりと泣くことをやめた彼女に、私は幾分、落ち着きを取り戻すことができた。

 どうにも、彼女の涙には弱い。

 私は肩をわずかに下げ、片膝をついた体勢のまま、静香の濡れてしまった頬を右手で拭うと、

「お前は、銀牙の夢を見た、と言っていたな。側にきて、ここにいる、と言い、手を握った、と。」

 静香はこく、と頷く。

 陽射しに透けた亜麻色の髪が、ふわりと揺れる。

 濡れた睫毛よりも美しく輝く鳶色の瞳を眺めながら、私はゆっくりとした口調で、彼女に言い聞かせる。

「あれは、恐らく、夢ではない。」

「!、でも!」

 弾かれたように反論しようとする静香の口元に、私はぴんと立てた人差し指をそっと当て、声を封じる。

 また涙で揺らぎ始めた彼女の瞳を、まっすぐに見つめながら、

「慌てるな、静香。それは、きちんと銀牙本人に確かめなさい。…できるな。」

 静香はすがりつくような眼差しを向けてくるが、私はそれを跳ね返し、

「私は、今一度、お前に尋ねたいのだよ。」

 幼いお前に、本来なら尋ねるべきことではないのかも知れないが。

「静香、お前はまだ、生きたい、と望んでいるか?」

 静香は私の質問に、びくり、と震えてから、顔を俯かせた。

「お父様、私、…銀牙に、嫌われてないの?」

「それは、私が答えるべきことでは、…」

 しかし、静香は私に最後まで言わせず、ぱっと顔を上げると、

「私!…銀牙に嫌われたら、…生きていけない!」

 泣きそうな顔でそう訴える静香に、私は僅かに首を傾げ、

「静香、…銀牙は永遠には一緒にいられないのだよ。いずれ、離れ離れになるものなのだ。」

「お父様、…」

 弱々しい彼女の声は、とても落ち込んで聞こえた。

 多分、静香はわかっている。

 わかっていて、私に慰めを期待したのだろうが、私はあえて拒む。

 そんなぬるさは、今は不要。

 それくらい、静香の生は、覚悟のいる悲しい生だと、私には思えて仕方ない。

「ひどいことを言っていると思う。だが、とても大事なことなのだ。

 私は静香に、誰かのために生きることは、やめて欲しいのだよ。

 誰かのため、は、いつか、誰かのせい、になるかも知れない。

 特に静香のこれからには、他の人より、辛く苦しいことが多い可能性がある。

 もし、静香が、銀牙が悲しむから、死にたくない、と願ったとしても、この間のような苦しみを何回も繰り返すうちに、いつか、静香は銀牙のせいにするかも知れない。

 銀牙が悲しむせいで、自分は死ねない、と。」

 すると、静香は、怒りすら含んだ声で、

「そんなことないわ!私、銀牙のこと、大好きだもの!きっと、きっと、これからもずっと、大好きだもの!」

 彼女の強い感情は、私を喜ばせる。

 今はそれでいい。

 私の役目は、余計な知恵を吹き込む、卑しい蛇のようなもの。

 花の香りが漂う、さわやかな庭には似つかわしくないほど、感情のない口振りでもって、冷たく突き放す。

「なら尋ねる。

 お前は、銀牙が他の誰かと仲良くしていても、平気か?

 お前といるよりも楽しそうにしていても、平気か?

 お前を置いて、その者とどこかに去ってしまっても、…お前は、あの苦しみと戦って生きていけるか?」

 静香は私の言葉に、瞳から光を失い、ただはらはらと涙を落とす。

 我ながら、意地の悪い台詞だと思う。

 ようやく渇望していたものを得ることができた彼女に、もう、失う覚悟をしろ、とは。

 静香自身も言っていたが、彼女は生きようという強い意思を、ひとりでは維持できないところがある。

 私は今まで、それでもいいと思ってきた。

 彼女の苦しむ様を目の当たりにするほど、生に執着させることの方が残酷な気がして、諦めざるを得なかった。

 だが、銀牙の出現によって、状況は一変する。

 本当の笑顔を取り戻した静香は、やっと、これからという時間に目を向け始めたのだ。

「銀牙、…いなくなるの?」

 ぽろぽろと泣きながら、彼女は私に尋ねる。

「ずっと一緒にいるって、約束してくれたの…。ひとりにしない、って。…それでも、いなくなるの?」

 幼い二人がそんな約束を交わすのも、ごく自然なことだろう。

 だが、悲しいかな、私は厳しい現実を知ってしまった、年経た大人だ。

「そう、思っていた方がいい。」

 そこまで告げて、私はおもむろに立ち上がる。

「だがな、静香、」

 下を向いたまま揺れている、小さな亜麻色の頭を見下ろし、私はそっと撫でる。

 涙で濡れた眼差しが、私を見上げた。

 この鳶色の瞳から、まだ、輝きを失わせるわけにはいかない。

「…それは、今ではない。」

 私に言えることは、それくらいのこと。

 目を丸くして見上げている静香を再び抱き上げ、顔の横まで掲げる。

 まだこんなに、小さくて軽い。

 そして、私はそんな彼女を守る立場にある。

 だから、

「大丈夫だ、静香。お前たちが離れ離れになるのは、今ではない。

 私は銀牙を後継者として育て上げねばならない。

 少なくとも、その間は、奴はここにいる。」

 すると静香はおどおどと、

「本当に?…銀牙は、まだ、いてくれる?」

「奴がここを去りたい、と言わない限りはな。奴には後継者としての素質は十二分にあると、私は思っている。」

 私の言葉を聞くなり、彼女は声を高くして、

「本当に?!、銀牙をどこにもやらないのね?」

「今のところは、な。」

 断言を避けた返答であったのに、それでも、静香はようやく笑顔を浮かべ、心底安堵したらしい大きな息を吐く。

「よかったあ、…私、それが一番心配だったの。」

 心なしか、私の首に回された静香の腕に、力がこもった気がした。

 私は再び、ゆっくりと歩き出す。

 囁くような小声で、

「静香。」

「何?」

 彼女の明るく透明な声は、時折、私に無垢な圧をかけてくる。

 だが、私はそれを無視し、

「ひとつだけ、約束して欲しい。」

「…はい。」

 私の声色から何かを感じ取ったらしい静香の声が、僅かに強ばった。

 少しだけ迷ったが、私は一番簡単な言葉で告げることにする。

「つよくなって欲しい。」

「…つよく?」

 すぐ隣で、戸惑い気味に聞き返す彼女に、さらに続けて、

「私は、誰かのために生きることはやめろ、と言った。

 だが、つよくはなって欲しい。それは、誰かのために、でもいい。」

 案の定、彼女は眉を寄せ、困惑の色を浮かべる。

 私はできるだけ柔らかい口調で、ゆっくりと話すようにする。

「静香は銀牙のために生きてはならない。

 だが、銀牙のために、つよくなることはできる。」

「銀牙の、ため?」

 胸元の貴婦人の言う通り、静香は彼の名に過敏に反応してくる。

 知らず、笑んでしまいそうになるが、こらえて、

「そうだ。ついさっき尋ねただろう?銀牙がお前よりも他の誰かを選んでしまう時がきたら、静香はどうする?」

 たちまち顔色を無くし、怯えた声で、

「すごく、…怖いわ。耐えられないわ、きっと。」

「今のお前なら、そうだろう。だが、それは銀牙にとっては、困ることだろう?」

「…うん。」

 今の静香の胸のうちは、複雑な恐怖に混沌としていることだろう。

 私は彼女の思いを整然とする手助けをする。

「どうする?

 行くな、と泣くか?…泣いて引き止めれば、嫌われるかもしれないが。

 なら、銀牙の幸せを願って、行くことを許してやれるか?…行かせてしまえば、お前はまたひとりで、あの苦しみと戦うことになる。」

 すると、静香は涙で潤んだ瞳を私に貼りつけ、

「お父様は、……意地悪だわ。」

 への字の口を尖らせる彼女だったが、私はさらりと視線を前方に流し、

「そうだな。だが、いつか、選ばなくてはならない時がくる。」

 断言されてしまった静香は、もう半べそになって、駄々をこねる。

「嫌よ、そんなの…。」

 甘えるように、私に額を擦り寄せてくる静香が可愛いらしくて、私は彼女の小さな背中を柔らかく、とんとんと叩く。

「だから、つよくなって欲しいのだよ。

 つよさとは、優しさと同じ時もある。

 今の静香は、まだ弱い。

 弱いから、銀牙がいなくなることを恐れている。

 つよくなれば、静香はもっと銀牙に優しくなれる。

 銀牙にとって、何がよいことなのか、幸せなのか、考えることができるようになるだろう。

 私の言うつよさとは、そういうものだ。」

 本当に銀牙のためを思うのであれば、静香は自分の苦しみを二の次にすることなど、造作もないだろう。

 元来、静香は優しい子だ。

 今はまだ幼く、自分の苦しみが圧倒的過ぎて、そこまで見えていない。

 このまま、銀牙に会わせてしまえば、もしかしたら、静香は苦しみの度に銀牙を縛りつけてしまうかもしれない。

 それでは、二人とも不幸になりかねない。

 まだ本気で心配している訳ではないが、気づくのに早すぎるということはないだろう。

 何より、これ以上静香が苦しむ原因を増やしたくなかった。

 そして、苦しみを乗り越えるための『つよさ』に気づいて欲しいと願う。

 しばらく黙ったままだった静香が、不意にぎゅっ、と腕の力を強めた。

 いつの間にか後ろを向いていた彼女は、私の耳の後ろ辺りに冷たい頬を寄せ、暗く沈んだ声で囁き始める。

「お父様……、私、ベッドの中で、いっぱい、いろんなことを考えたの。

 それでね、思ったんだけど、……銀牙を、本当に悲しませたくなかったら、…私は、生きようとしない方がいいと思うの。」

 私は眼差しだけを足元に落とす。

 静香は、さらに沈んだ声になり、

「私が生きようとすると、私はあの苦しい目に何度も合って、その度に、銀牙は悲しい顔をするでしょ?」

「……そう、だな。」

「何度も考えたの。そして、何度もそう思ったんだけど、でもね、…私、悪い子だから、どうしても諦めることができないの。

 やっぱり、…銀牙を、ずっと見ていたい。一緒にいたい。生きていたい、って思っちゃうの。

 そんな私って、……銀牙に、優しくない?」

 静香の声はもう泣いていて、私は強張りがちな彼女の身体を優しく抱き締めた。

「いいや。そんなことはない。お前は、とても優しい。

 だが、その考え方では、間違えてしまう。」

「え?」

 涙で頬を濡らしたまま、静香は身体を離して、私の顔を覗き込む。

 私は睨むのではなく、彼女をまっすぐに見つめながら、

「銀牙がそれで喜ぶとは、私には思えない。」

 私の台詞に、彼女はびくりと震え、俯く。

 先刻より強くなった陽射しの中、庭の小路をゆったりとした歩調でたどりながら、

「つよく、なりなさい、静香。

 お前の大好きな銀牙は、お前に何を望んでいる?

 それに、私は静香を悪い子とは思わない。生きているものが、生き続けようとするのは、当然のことだ。

 生きることに真剣な子は、悪い子ではないと思う。」

 確かに、静香の出した答えは、間違っていないところもある。

 だが、私はそんな答えは、認めない。

 自分の生を否定することは、辛く悲しいことだが、それでも生きようとすることからの逃避でしかない。

 静香に生きて欲しいと望む銀牙の気持ち、それを静香が信じるのにも、相当の勇気がいるだろう。

「静香、…急がなくていい。…ゆっくり、つよくなりなさい。…少なくとも、私はいつでも、側にいる。解らなくなったら、いつでも、話を聞こう。」

 震えるばかりで、声もない静香を私はしっかりと抱く。

 ざわざわという、風が草木を煽る音が、急に耳に飛び込んできた。

 針槐の甘い香りと、その終わりかけの白い小さな花が、風に乗って私達の背中を叩く。

 私は周りの草花が、風に逆らうことなく揺れ惑う様を眺めながら、悠々と屋敷の中

へと戻って行った。

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