二日ほど経ち、静香の体調が安定したことを確認できた朝。
軽めの朝食を摂らせた後、私は静香を抱き上げ、部屋を出た。
顔の横にまで掲げ、いわゆる縦抱きの状態にすると、彼女の両腕がやんわりと私の首に掴まる。
体調は回復しつつあるが、まだベッドから出ることを禁じなくてはならない。そんなことは、今までにも何回かあった。しかしその度に、静香はあまりにひどく落ち込むので、気分転換にと始めたのが、この散歩だった。
今では、もうそろそろ完全回復だ、という暗黙の合図となりつつある。
私と同じ目の高さになることは、彼女にとって楽しいことらしく、こうして抱き上げてやると、静香はいつも生き生きと瞳を輝かせ、満面の笑みで正面を見つめる。
私はこの静香の表情が、格別に好ましい。
真っ直ぐ挑むような、眼差しと微笑み。そこには、心の高揚と期待感が満ち溢れて見える。
彼女のこの表情を目にする度、私もかつて、こんな風に未来を見つめることができたら、どんなに素敵だったろう、と思ってしまう。
そんな彼女だったが、その第一声は、
「銀牙は?どこにいるの?」
彼女は私に会うたび、彼に会いたがった。
「今は、鍛練場だ。」
「…まだ会えないの?」
落胆の色を隠さない静香に、
「もう少しの辛抱だ。」
そう答えながら、薄いブラケットでくるんだ静香と共に階段を降り、屋敷の外に出る。
水色の、眩しい青空。
陽の光を浴びると、彼女はまるで花の精か何かのように、輝きを増す。少なくとも、私にはそう見える。
私の足がまずどちらに踏み出すかで、彼女には今日のコースがすぐに判ってしまうらしい。
屋敷から出てすぐ、弾んだ声で、
「広い花壇まで行って下さるのね?」
「ああ。」
まだ気温が上がりきらない午前中の風は、ひんやりとして爽やかなものだ。
私は静香の身体を冷やさないように、しっかりとブラケットにくるみ直し、庭を散策する。
瞳に花の色が映り込むほど、彼女は生気を取り戻すようだった。
初夏と呼ばれるこの時期、庭には明るい色の花々が咲きこぼれている。
石楠花、紫陽花、撫子、アイリス、くちなし、カラー、ガーベラ、芍薬、等々。
建物から少し離れたところにある、彼女が広い花壇と呼ぶ庭を一通り巡り、最後に白い花を房にして咲かせる木々の下に腰を降ろした。
そこには、大きなベンチがあり、二人並んで座っても余裕がある。
「すっごく、いい香り…。」
ベンチに座り直した静香が、うっとりと花を見上げる。
「針槐の花は、美しく、香り高い。香りが強すぎて嫌う者もいるくらいだ。」
静香は私の言葉に首を傾げて、振り向く。
「はりえんじゅ?」
「この木の名だ。枝に、針のような刺がある。」
彼女は再び木々を見上げる。
緩やかな風は、甘い香りをゆったりと運んできて、私達を包む。
「少しは、元気が出たかな?」
私が尋ねると、彼女はにっこりと笑い返し、
「はい、とっても。」
静香の明るく元気な声に、私は秘かに安堵しながらも、気持ちを切り換え、表情を改める。
「静香、私はお前に…詫びなくてはならない。」
雨風に傷みつつある木のベンチからそっと立つと、彼女の前に片膝をつき、頭を垂れる。
「私はお前の願いを叶えられなかった。…すまない。」
「私の、願い?」
聞き返す彼女に面だけを上げ、
「お前が熱に苦しんでいる時、部屋に、銀牙を入れてしまった。」
静香の表情が、ぴしりと凍える。
「え…、嘘…。」
「申し訳ない。」
私は再び頭を下げる。
言い訳をする気は毛頭ない。
彼女にとって、銀牙がどれほど大きな存在であるか、私はそれなりに承知していた。
にもかかわらず、彼女が泣きながら訴えた願い、知られたくない、見られたくない、という願いを叶えてやれなかった。
勿論、彼女の願いをただ軽んじた訳では決してなく、私には私の思惑があったが故のこと。
けれどそんなことは、静香からしてみれば、関係のないことだ。
私は、彼女の願いを充分理解した上で、明らかに裏切っている。
怒られて当然なのだ。
今までの経験からして、きっと、ぼろぼろに泣きながら怒るに違いない。
嫌。どうして。ひどい。そんなのってない。
それくらいのそしりは、仕方ない。
それに、私は静香の心配が杞憂であったことを知っている。
怒り狂う彼女が泣き疲れたところで、なだめ、励ませば、今回の件とて無事、落着するだろう。
まずは、そしられなければ。
私は覚悟を決め、神妙な面持ちで、それを待った。
だが、予想は大きく外れてしまう。
「…だから、なの?」
そう尋ねている静香の声は、無惨に震えていて、私は不審に思い、顔を上げる。
彼女はブラケットの上から自分の両肩を抱くような格好で、私を見つめ、大粒の涙をぽろぽろ落とす。
「だから私、…銀牙に、嫌われちゃったの?だから、銀牙に会えないの?」
思いもかけない静香の台詞に、私は狼狽える。
言葉を選びきれず、しどろもどろになりながら、
「いや、…いいや、そうでは、ない。それはまた、…違うのだ。そうではなくて、…。」
完全に不意を突かれ、たどたどしい口振りになった私に、胸元の彼女はくすくすと震えるばかり。
シルヴァめ。笑いものにするとはまた、はしたない真似をする。
私は内心、必死になって、
「違うのだ、静香。私が言いたかったのは、お前の夢のことだ。」
「夢…?」
静香は驚いた表情で、目を丸くする。
ぴたりと泣くことをやめた彼女に、私は幾分、落ち着きを取り戻すことができた。
どうにも、彼女の涙には弱い。
私は肩をわずかに下げ、片膝をついた体勢のまま、静香の濡れてしまった頬を右手で拭うと、
「お前は、銀牙の夢を見た、と言っていたな。側にきて、ここにいる、と言い、手を握った、と。」
静香はこく、と頷く。
陽射しに透けた亜麻色の髪が、ふわりと揺れる。
濡れた睫毛よりも美しく輝く鳶色の瞳を眺めながら、私はゆっくりとした口調で、彼女に言い聞かせる。
「あれは、恐らく、夢ではない。」
「!、でも!」
弾かれたように反論しようとする静香の口元に、私はぴんと立てた人差し指をそっと当て、声を封じる。
また涙で揺らぎ始めた彼女の瞳を、まっすぐに見つめながら、
「慌てるな、静香。それは、きちんと銀牙本人に確かめなさい。…できるな。」
静香はすがりつくような眼差しを向けてくるが、私はそれを跳ね返し、
「私は、今一度、お前に尋ねたいのだよ。」
幼いお前に、本来なら尋ねるべきことではないのかも知れないが。
「静香、お前はまだ、生きたい、と望んでいるか?」
静香は私の質問に、びくり、と震えてから、顔を俯かせた。
「お父様、私、…銀牙に、嫌われてないの?」
「それは、私が答えるべきことでは、…」
しかし、静香は私に最後まで言わせず、ぱっと顔を上げると、
「私!…銀牙に嫌われたら、…生きていけない!」
泣きそうな顔でそう訴える静香に、私は僅かに首を傾げ、
「静香、…銀牙は永遠には一緒にいられないのだよ。いずれ、離れ離れになるものなのだ。」
「お父様、…」
弱々しい彼女の声は、とても落ち込んで聞こえた。
多分、静香はわかっている。
わかっていて、私に慰めを期待したのだろうが、私はあえて拒む。
そんなぬるさは、今は不要。
それくらい、静香の生は、覚悟のいる悲しい生だと、私には思えて仕方ない。
「ひどいことを言っていると思う。だが、とても大事なことなのだ。
私は静香に、誰かのために生きることは、やめて欲しいのだよ。
誰かのため、は、いつか、誰かのせい、になるかも知れない。
特に静香のこれからには、他の人より、辛く苦しいことが多い可能性がある。
もし、静香が、銀牙が悲しむから、死にたくない、と願ったとしても、この間のような苦しみを何回も繰り返すうちに、いつか、静香は銀牙のせいにするかも知れない。
銀牙が悲しむせいで、自分は死ねない、と。」
すると、静香は、怒りすら含んだ声で、
「そんなことないわ!私、銀牙のこと、大好きだもの!きっと、きっと、これからもずっと、大好きだもの!」
彼女の強い感情は、私を喜ばせる。
今はそれでいい。
私の役目は、余計な知恵を吹き込む、卑しい蛇のようなもの。
花の香りが漂う、さわやかな庭には似つかわしくないほど、感情のない口振りでもって、冷たく突き放す。
「なら尋ねる。
お前は、銀牙が他の誰かと仲良くしていても、平気か?
お前といるよりも楽しそうにしていても、平気か?
お前を置いて、その者とどこかに去ってしまっても、…お前は、あの苦しみと戦って生きていけるか?」
静香は私の言葉に、瞳から光を失い、ただはらはらと涙を落とす。
我ながら、意地の悪い台詞だと思う。
ようやく渇望していたものを得ることができた彼女に、もう、失う覚悟をしろ、とは。
静香自身も言っていたが、彼女は生きようという強い意思を、ひとりでは維持できないところがある。
私は今まで、それでもいいと思ってきた。
彼女の苦しむ様を目の当たりにするほど、生に執着させることの方が残酷な気がして、諦めざるを得なかった。
だが、銀牙の出現によって、状況は一変する。
本当の笑顔を取り戻した静香は、やっと、これからという時間に目を向け始めたのだ。
「銀牙、…いなくなるの?」
ぽろぽろと泣きながら、彼女は私に尋ねる。
「ずっと一緒にいるって、約束してくれたの…。ひとりにしない、って。…それでも、いなくなるの?」
幼い二人がそんな約束を交わすのも、ごく自然なことだろう。
だが、悲しいかな、私は厳しい現実を知ってしまった、年経た大人だ。
「そう、思っていた方がいい。」
そこまで告げて、私はおもむろに立ち上がる。
「だがな、静香、」
下を向いたまま揺れている、小さな亜麻色の頭を見下ろし、私はそっと撫でる。
涙で濡れた眼差しが、私を見上げた。
この鳶色の瞳から、まだ、輝きを失わせるわけにはいかない。
「…それは、今ではない。」
私に言えることは、それくらいのこと。
目を丸くして見上げている静香を再び抱き上げ、顔の横まで掲げる。
まだこんなに、小さくて軽い。
そして、私はそんな彼女を守る立場にある。
だから、
「大丈夫だ、静香。お前たちが離れ離れになるのは、今ではない。
私は銀牙を後継者として育て上げねばならない。
少なくとも、その間は、奴はここにいる。」
すると静香はおどおどと、
「本当に?…銀牙は、まだ、いてくれる?」
「奴がここを去りたい、と言わない限りはな。奴には後継者としての素質は十二分にあると、私は思っている。」
私の言葉を聞くなり、彼女は声を高くして、
「本当に?!、銀牙をどこにもやらないのね?」
「今のところは、な。」
断言を避けた返答であったのに、それでも、静香はようやく笑顔を浮かべ、心底安堵したらしい大きな息を吐く。
「よかったあ、…私、それが一番心配だったの。」
心なしか、私の首に回された静香の腕に、力がこもった気がした。
私は再び、ゆっくりと歩き出す。
囁くような小声で、
「静香。」
「何?」
彼女の明るく透明な声は、時折、私に無垢な圧をかけてくる。
だが、私はそれを無視し、
「ひとつだけ、約束して欲しい。」
「…はい。」
私の声色から何かを感じ取ったらしい静香の声が、僅かに強ばった。
少しだけ迷ったが、私は一番簡単な言葉で告げることにする。
「つよくなって欲しい。」
「…つよく?」
すぐ隣で、戸惑い気味に聞き返す彼女に、さらに続けて、
「私は、誰かのために生きることはやめろ、と言った。
だが、つよくはなって欲しい。それは、誰かのために、でもいい。」
案の定、彼女は眉を寄せ、困惑の色を浮かべる。
私はできるだけ柔らかい口調で、ゆっくりと話すようにする。
「静香は銀牙のために生きてはならない。
だが、銀牙のために、つよくなることはできる。」
「銀牙の、ため?」
胸元の貴婦人の言う通り、静香は彼の名に過敏に反応してくる。
知らず、笑んでしまいそうになるが、こらえて、
「そうだ。ついさっき尋ねただろう?銀牙がお前よりも他の誰かを選んでしまう時がきたら、静香はどうする?」
たちまち顔色を無くし、怯えた声で、
「すごく、…怖いわ。耐えられないわ、きっと。」
「今のお前なら、そうだろう。だが、それは銀牙にとっては、困ることだろう?」
「…うん。」
今の静香の胸のうちは、複雑な恐怖に混沌としていることだろう。
私は彼女の思いを整然とする手助けをする。
「どうする?
行くな、と泣くか?…泣いて引き止めれば、嫌われるかもしれないが。
なら、銀牙の幸せを願って、行くことを許してやれるか?…行かせてしまえば、お前はまたひとりで、あの苦しみと戦うことになる。」
すると、静香は涙で潤んだ瞳を私に貼りつけ、
「お父様は、……意地悪だわ。」
への字の口を尖らせる彼女だったが、私はさらりと視線を前方に流し、
「そうだな。だが、いつか、選ばなくてはならない時がくる。」
断言されてしまった静香は、もう半べそになって、駄々をこねる。
「嫌よ、そんなの…。」
甘えるように、私に額を擦り寄せてくる静香が可愛いらしくて、私は彼女の小さな背中を柔らかく、とんとんと叩く。
「だから、つよくなって欲しいのだよ。
つよさとは、優しさと同じ時もある。
今の静香は、まだ弱い。
弱いから、銀牙がいなくなることを恐れている。
つよくなれば、静香はもっと銀牙に優しくなれる。
銀牙にとって、何がよいことなのか、幸せなのか、考えることができるようになるだろう。
私の言うつよさとは、そういうものだ。」
本当に銀牙のためを思うのであれば、静香は自分の苦しみを二の次にすることなど、造作もないだろう。
元来、静香は優しい子だ。
今はまだ幼く、自分の苦しみが圧倒的過ぎて、そこまで見えていない。
このまま、銀牙に会わせてしまえば、もしかしたら、静香は苦しみの度に銀牙を縛りつけてしまうかもしれない。
それでは、二人とも不幸になりかねない。
まだ本気で心配している訳ではないが、気づくのに早すぎるということはないだろう。
何より、これ以上静香が苦しむ原因を増やしたくなかった。
そして、苦しみを乗り越えるための『つよさ』に気づいて欲しいと願う。
しばらく黙ったままだった静香が、不意にぎゅっ、と腕の力を強めた。
いつの間にか後ろを向いていた彼女は、私の耳の後ろ辺りに冷たい頬を寄せ、暗く沈んだ声で囁き始める。
「お父様……、私、ベッドの中で、いっぱい、いろんなことを考えたの。
それでね、思ったんだけど、……銀牙を、本当に悲しませたくなかったら、…私は、生きようとしない方がいいと思うの。」
私は眼差しだけを足元に落とす。
静香は、さらに沈んだ声になり、
「私が生きようとすると、私はあの苦しい目に何度も合って、その度に、銀牙は悲しい顔をするでしょ?」
「……そう、だな。」
「何度も考えたの。そして、何度もそう思ったんだけど、でもね、…私、悪い子だから、どうしても諦めることができないの。
やっぱり、…銀牙を、ずっと見ていたい。一緒にいたい。生きていたい、って思っちゃうの。
そんな私って、……銀牙に、優しくない?」
静香の声はもう泣いていて、私は強張りがちな彼女の身体を優しく抱き締めた。
「いいや。そんなことはない。お前は、とても優しい。
だが、その考え方では、間違えてしまう。」
「え?」
涙で頬を濡らしたまま、静香は身体を離して、私の顔を覗き込む。
私は睨むのではなく、彼女をまっすぐに見つめながら、
「銀牙がそれで喜ぶとは、私には思えない。」
私の台詞に、彼女はびくりと震え、俯く。
先刻より強くなった陽射しの中、庭の小路をゆったりとした歩調でたどりながら、
「つよく、なりなさい、静香。
お前の大好きな銀牙は、お前に何を望んでいる?
それに、私は静香を悪い子とは思わない。生きているものが、生き続けようとするのは、当然のことだ。
生きることに真剣な子は、悪い子ではないと思う。」
確かに、静香の出した答えは、間違っていないところもある。
だが、私はそんな答えは、認めない。
自分の生を否定することは、辛く悲しいことだが、それでも生きようとすることからの逃避でしかない。
静香に生きて欲しいと望む銀牙の気持ち、それを静香が信じるのにも、相当の勇気がいるだろう。
「静香、…急がなくていい。…ゆっくり、つよくなりなさい。…少なくとも、私はいつでも、側にいる。解らなくなったら、いつでも、話を聞こう。」
震えるばかりで、声もない静香を私はしっかりと抱く。
ざわざわという、風が草木を煽る音が、急に耳に飛び込んできた。
針槐の甘い香りと、その終わりかけの白い小さな花が、風に乗って私達の背中を叩く。
私は周りの草花が、風に逆らうことなく揺れ惑う様を眺めながら、悠々と屋敷の中
へと戻って行った。