ずっと待っていた、道寺の台詞。
身体のしんどさなんて、一瞬で飛んだ。
ていうか、それどころじゃない。
息をつめて、一気に、彼女の部屋の前まで駆ける。
言いたいことが、たくさんあった。
聞きたいことも、たくさんあって。
でも、何よりもまず、静香を見たかった。
彼女がこの世にいる。
それが一番大事なことだったから。
すばやく扉をノックし、静香の部屋に踏み込む。
彼女はベッドの真ん中に座り込んでいて、俺を見つけるなり、笑いかけてきた。
へなへな、と身体から力が抜ける。
と同時に、沸々と湧き上がる、いじけた不満。
くそ、…道寺の奴。
こんなに元気になってるなら、なんでもっと早い時期に会わせてくれなかったんだよ。
心の中で、ぶつくさ言いながら、ベッドに歩み寄る。
彼女の額にはまだ湿布が貼られていて、完全に熱が下がってはいないことが見てとれた。
それでも、確かに静香はここにいて、笑っている。
彼女の笑顔に心底安心した俺は、明るい声で、
「起きていて、大丈夫なの?」
静香は小さく頷く。
「うん。」
「よかっったぁ。」
満面の笑みがおさまらないまま、俺は静香のベッドの足元の方に腰掛け、身をひねるようにして彼女に話しかける。
「あのさ、静香、…」
だが、静香はすぐに泣きそうな顔になって、
「待って、銀牙。」
俺は困惑に眉をひそめる。
「…、何?」
彼女はすぐに眼差しを伏せ、つらそうな様子で謝ってきた。
「…ごめんなさい、銀牙。」
早くも涙を潤ませている静香に、俺は首を傾げる。
「何のこと?何かあったっけ?」
全然、心当たりがない。
大体、静香はずっとベッドにいたはず。
そんな謝るようなこと自体、できないんじゃ。
すると、下を向いたままの静香は、膝元の布団を両手できつく握り込みながら、おずおずと、
「病気、のこと、…内緒にしてて。」
「あー、…そのことかぁ。」
やっと判ったことが嬉しくて、つい明るい声を上げてしまう。
そう言われれば、そうだった。
この二日ばかりで、俺にはもうそんなこと、遠い昔のこと、…みたいなもんになっていた。
うなだれる彼女に、俺は、
「もうすっかり忘れてた」
「全然気にしてない」
声はもう出かかっていたのに、静香の様子を見て、喉が固まる。
彼女は顔を上げることなく、口をへの字にして、大粒の涙を惜しげもなくこぼしていた。
声を押し殺して泣く静香は、やっぱり、痛いほど苦しそうで、俺は途方に暮れる。
不意に、彼女は口元に笑みを浮かべると、手の甲で涙を拭って、
「…、見て、…びっくりした、でしょ?」
瞬間、記憶が蘇る。
あの、苦し気な静香の姿が、鮮明に。
「怖く、なかった?」
せっかく作った静香の明るい声は、もう無残に震えていた。
あのせわしない息遣いが、また聞こえてきた気がして、俺は眩む。
「怖かった、よね?…、死んじゃいそう、だった、でしょ。」
震える静香の声が、とうとうつまって、途切れる。
…確かに、彼女はこのベッドに倒れていて、死にそう、だった。
意識すらはっきりしないまま、胸元を拳で押さえ、苦悶の表情でひたすら耐えていた。
だが、もう、そんなことはどうでもいい。
思い出したくもない。
俺は悪夢を振り払うかのように、目をぎゅっと瞑ると、軽く頭を振ってから、にっこりと笑った。
できるだけ明るく、なんでもない様子で、
「いいよ、もう。…済んだことなんだしさ。」
しかし、静香は俺の言葉を耳にするなり、弾かれたように涙で濡れた顔を上げ、きつく俺を睨んだ。
「違うわ!…今までも、あったことなの。何回も。だから、これからも、……きっと、…。」
再び溢れた涙は、静香の声を飲み込んでしまう。
また、うなだれてしまった彼女の姿を目の前に、俺は思い出していた。
道寺の言葉を。
…根本的な治療は、恐らく、不可能だろう。…
…治らない、んだった。
これからも、…ああなる?
静香は、また…苦しむ?
あんな苦しみを、繰り返す?
……、ずっと?
静香は俯いたまま、弱々しく震える声で語り出す。
「私、銀牙に知られたくなかったの。…、あんな風になるの、見られたくなかった。
きっと、怖がると、思ったから。」
彼女の言葉は、とても切実な響きを持っていて、俺は何も言えない。
「怖がられるのも、…嫌がられるのも、…見たくなかった。」
静香の悲しみが、痛い。
俺だって、もし彼女と同じ立場だったら、きっとそう思う。
そんな風に、孤独になんか、なりたくない。
そんなの、…最低だ。
「でもね、夢を見たの。」
今までとは少し違う声色に、俺はいつのまにか床に落としていた視線を上げた。
静香はベッドの上を見つめ、微かに笑っていた。
「銀牙がね、」
いきなり、名を口にされて、俺はふ、と顎が上がる。
しかし、彼女は気づいていないのか、そのままの姿勢で、
「ここに来てくれてね、側にいるよ、って、手を握ってくれたの。
すっごくすっごく、嬉しかった。
なんて、いい夢なんだろう、……嬉しすぎて、わあわあ、泣きたいくらいだった。」
そう呟く静香は、うっすらと頬が赤く上気していて、青白い顔にやっと血の気が戻る。
滲むように微笑んだ彼女だったが、すぐに、悪さを告白するような勢いで、
「それでね、…どうせ夢なんだし、もっと甘えちゃえ、って私、銀牙の手を、ずっと掴まえて離さなかったの。」
静香はくすくすと楽しそうに笑ったが、その笑みはゆっくりと薄れ、ベッドを見つめる瞳から、また光が失い始める。
「…夢だから、…夢だと思ったから、できたの。」
まだわずかに笑みを含んだ声は、どこか照れているようで、可愛いらしく聞こえる。
でも、伝わってくるのは悲しみばかりだ。
「本当な訳ない、ってどこかで思ってた。だからすごく素直に、銀牙にすがりつけたの。
……夢じゃないのに、そんなことしたら、……嫌がられるに決まってるもの…。」
諦めきった声だった。
どんなに望んでも願っても、それは届かないことをはじめから知っている声。
いや、静香のことだから、そんなことを誰に望んだところで、迷惑に違いない、嫌われるに違いないと先回りしているのだろう。
周りの大人逹に迷惑をかけたくなくて、懸命に大人になろうとしていた、静香らしい必死さ。
…、なら、出番だな。
俺はにんまりと笑って、そんな静香に、ようやく口を挟むことができた。
「夢じゃないよ、それ。俺だよ。」
思い切りあっけらかんと、明るい声で言い切る。
「え……」
微かな驚きの声と共に、静香はやっと顔を上げてくれた。彼女の潤んだ瞳が、わずかに丸くなっている。
俺はなんだかおかしくなって、くすくすと笑いながら、
「静香は本当に泣き虫だなぁ。泣かなくたっていいだろ?
それじゃあ、俺も謝るよ。
本当は父さんに止められたんだけど、俺、この部屋に無理矢理飛び込んじゃったんだ。
父さんは、そんなこと、静香は望んでない、って言ったんだけど、……俺には信じられなくてさ。」
俺はにこにこしながら、自分のしたことを、動きの止まっている彼女に告げる。
「確かに、最初見た時はびっくりした。何も聞いてなかったし、あんまり、静香が…苦しそうで。
だけど、…ほっとけないだろ?
すっごく苦しそうなのに、ひとりぼっちなんて、…寂し過ぎるよ。
だから、一緒にいた。
ここにいるよ、って声をかけて、手を握ってた。……、勝手なことして、ごめん!」
俺はぺこん、と頭を下げる。
だが、何の反応もない。
不審に思い、顔を上げれば、彼女はさっきと同じに、固まったままだった。
いや、見開いたまま、瞬きも忘れている瞳から、ぽろぽろっと涙が落ちる。
「静香?!」
いつもとは違う泣き方に、俺は戸惑う。
驚いた表情のまま、静香は微動だにせず、
「…本当に、銀牙、だったの?」
「う、うん。」
様子のおかしい静香に、俺はぎこちなく頷く。
なんだか、幽霊みたいな、たどたどしい喋り方。
すぐに、
「夢、じゃ、なくて?」
「…うん、俺だよ。」
「怖く、…なかったの?」
ちっとも表情の変わらない彼女に、幾分余裕を取り戻した俺は、思い切り楽しそうな明るい笑みを彼女に向けて、
「静香こそ、…ひとりで怖くなかったの?」
そう言ったら、静香の涙は、ぽろぽろぽろぽろ、止まらなくなった。
今度は、俺の方がびっくりして固まる。
青くなって動けなくなった俺をその瞳に映したまま、静香は両手で口元を隠し、はらはらと涙をこぼし続ける。
鳶色の瞳や、白い頬、ぱっちりとした睫毛が、きらきらと涙で光って、見たこともないくらい綺麗な泣き顔に、俺は息を飲む。
不意に、彼女は笑った。
「ありがとう、…銀牙。」
眩しいほどの笑顔で、静香はそっと、優しく囁く。
「本当はね、…すごく、…すごく、怖かったの。……苦しくて、寂しくて、…誰も助けてくれなくて、…このまま、ひとりで、死んじゃうんじゃないかって…。」
あの時の苦しさをこらえるように、静香はゆっくりとした瞬きをする。
「あの時、銀牙の声が聞こえた気がして、……頑張って、手をのばしたの。
それを銀牙がつかまえてくれた時、私、嬉しくて泣いてた。
嬉しくて、嬉しくて、手を離せなかった。
私、初めて、…死にたくない、って思ったのよ。」
あまりのことに、俺は茫然とする。
そんなつもりじゃなかった。
いや、確かにある程度は、そんなつもりだった。
だけど、そこまでわかって、やったことじゃない。
静香は、……俺がまだ知らないような辛さや苦しみを、もう何度も経験してきているんだ、と改めて思う。
思って、行き場のない苛立ちが胸に沸き上がる。
……どう見たって、俺より弱いに決まってるのに。
どうして静香ばっかり、そんな目に合わなきゃならないんだ?
こんな、泣いてばかりで、言いたいことも言えない、言えても遠慮がちにしか言えないような彼女ばっかりが、どうして…。
俺があまりの理不尽さにひとり憤慨していると、静香が口を開いた。
ゆっくりと眼差しを伏せると、静香は涙を手で拭いながら、
「ごめんね、銀牙…。あの時、私、思わず、…我が儘、言っちゃったよね。……行かないで、…って。」
「!」
「手を離さないで、行かないで、なんて、…ひどいよね。…まるで、逃がさない、みたい、だったよね。ごめんね、…ごめんね、銀牙。」
うっく、ひっく、といつものように泣き出した静香は、まるで俺が何か言うのを遮りたいかのように、いそいで言葉を繋げる。
「でも、…でもね、銀牙、…お願い、……嫌いに、ならないで…。嫌に、ならないで……。」
彼女の願いに、息がつまった。
まるで、胸を切り裂かれたみたいな衝撃と、痛み。
咄嗟に、俺は右手で自分の胸の辺りを掴んで押さえる。
痛んで、悔しくて、…目つきが尖る。
しかし、静香はそのまま、うっくうっくと目元を袖でこすりながら、俺に訴え続けた。
「……ひとりに、しないで。……ひとりは、怖いの…。怖いのは、もう、嫌…。」
俺は唇を噛む。
静香はまだ、俺を信頼してないのか?
まだ、素直に信じてくれてないのか?
…、いや、これは静香の優しさなんだ。
これは静香からの最終確認。
今なら、まだ間に合う。
今なら、お互いに小さな傷と痛みだけで、以前の距離に戻れる。
少なくとも、自分は諦めがつく。
そう言ってるつもりだろ?
…嘘つきな奴。
静香はもう小さな傷や痛みじゃすまないはず。
本当の望みを口にしたんだ。
それは静香にとって、一大決心なこと。
拒まれたら、絶対、大泣きの大洪水のくせに。
…心は、裂けて、きっと元に戻らないくらいの傷になるに決まってる。
もうそれくらい、信じてるから、…だから、本当の望みを口にしたんだろ?
なのに、まだ、相手の心配して、引き返せるよ、なんて…。
俺はずるずるとベッドの上を膝で進み、静香の前まで行った。
そして、彼女の両手を取ると、そっと顔から引き離す。
涙でぐしゃぐしゃな静香の顔に、俺はにっこりと笑って、
「判ったよ、静香。だから、安心して。」
しかし、静香はきょとんとしたまま動かない。
俺はちょっと困って、今度は笑みよりも、まっすぐ静香を見つめ、ゆっくりと告げる。
「だから、ひとりにしない、って。ずっと一緒にいる。……そう約束しただろ?」
「……銀、牙、?」
話し方を忘れてしまったみたいな静香を、俺はいたわるように笑んで、
「だから静香も、具合が悪くなったら、絶対言うこと。内緒にされたら、一緒にいてやれないだろ?」
だが、静香はまだ信じられないという様子で目をぱちくりさせ、
「…嘘。」
「いーえ、本当。」
すかさずそう言ったのに、静香はあがくように、
「でも、だって、」
「じゃ……嘘に、する?」
意地悪く俺が口を尖らすと、彼女はあわてて、
「嫌!…、いいの?、信じちゃうよ。」
また瞳が潤んできた静香に、俺はやっと安心し、目一杯の笑顔で、
「うん!信じて!」