peaceful days   作:楡野 透

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第6話

 ずっと待っていた、道寺の台詞。

 身体のしんどさなんて、一瞬で飛んだ。

 ていうか、それどころじゃない。

 息をつめて、一気に、彼女の部屋の前まで駆ける。

 言いたいことが、たくさんあった。

 聞きたいことも、たくさんあって。

 でも、何よりもまず、静香を見たかった。

 彼女がこの世にいる。

 それが一番大事なことだったから。

 すばやく扉をノックし、静香の部屋に踏み込む。

 彼女はベッドの真ん中に座り込んでいて、俺を見つけるなり、笑いかけてきた。

 へなへな、と身体から力が抜ける。

 と同時に、沸々と湧き上がる、いじけた不満。

 くそ、…道寺の奴。

 こんなに元気になってるなら、なんでもっと早い時期に会わせてくれなかったんだよ。

 心の中で、ぶつくさ言いながら、ベッドに歩み寄る。

 彼女の額にはまだ湿布が貼られていて、完全に熱が下がってはいないことが見てとれた。

 それでも、確かに静香はここにいて、笑っている。

 彼女の笑顔に心底安心した俺は、明るい声で、

「起きていて、大丈夫なの?」

 静香は小さく頷く。

「うん。」

「よかっったぁ。」

 満面の笑みがおさまらないまま、俺は静香のベッドの足元の方に腰掛け、身をひねるようにして彼女に話しかける。

「あのさ、静香、…」

 だが、静香はすぐに泣きそうな顔になって、

「待って、銀牙。」

 俺は困惑に眉をひそめる。

「…、何?」

 彼女はすぐに眼差しを伏せ、つらそうな様子で謝ってきた。

「…ごめんなさい、銀牙。」

 早くも涙を潤ませている静香に、俺は首を傾げる。

「何のこと?何かあったっけ?」

 全然、心当たりがない。

 大体、静香はずっとベッドにいたはず。

 そんな謝るようなこと自体、できないんじゃ。

 すると、下を向いたままの静香は、膝元の布団を両手できつく握り込みながら、おずおずと、

「病気、のこと、…内緒にしてて。」

「あー、…そのことかぁ。」

 やっと判ったことが嬉しくて、つい明るい声を上げてしまう。

 そう言われれば、そうだった。

 この二日ばかりで、俺にはもうそんなこと、遠い昔のこと、…みたいなもんになっていた。

 うなだれる彼女に、俺は、

「もうすっかり忘れてた」

「全然気にしてない」

 声はもう出かかっていたのに、静香の様子を見て、喉が固まる。

 彼女は顔を上げることなく、口をへの字にして、大粒の涙を惜しげもなくこぼしていた。

 声を押し殺して泣く静香は、やっぱり、痛いほど苦しそうで、俺は途方に暮れる。

 不意に、彼女は口元に笑みを浮かべると、手の甲で涙を拭って、

「…、見て、…びっくりした、でしょ?」

 瞬間、記憶が蘇る。

 あの、苦し気な静香の姿が、鮮明に。

「怖く、なかった?」

 せっかく作った静香の明るい声は、もう無残に震えていた。

 あのせわしない息遣いが、また聞こえてきた気がして、俺は眩む。

「怖かった、よね?…、死んじゃいそう、だった、でしょ。」

 震える静香の声が、とうとうつまって、途切れる。

 …確かに、彼女はこのベッドに倒れていて、死にそう、だった。

 意識すらはっきりしないまま、胸元を拳で押さえ、苦悶の表情でひたすら耐えていた。

 だが、もう、そんなことはどうでもいい。

 思い出したくもない。

 俺は悪夢を振り払うかのように、目をぎゅっと瞑ると、軽く頭を振ってから、にっこりと笑った。

 できるだけ明るく、なんでもない様子で、

「いいよ、もう。…済んだことなんだしさ。」

 しかし、静香は俺の言葉を耳にするなり、弾かれたように涙で濡れた顔を上げ、きつく俺を睨んだ。

「違うわ!…今までも、あったことなの。何回も。だから、これからも、……きっと、…。」

 再び溢れた涙は、静香の声を飲み込んでしまう。

 また、うなだれてしまった彼女の姿を目の前に、俺は思い出していた。

 道寺の言葉を。

 …根本的な治療は、恐らく、不可能だろう。…

 …治らない、んだった。

 これからも、…ああなる?

 静香は、また…苦しむ?

 あんな苦しみを、繰り返す?

 ……、ずっと?

 静香は俯いたまま、弱々しく震える声で語り出す。

「私、銀牙に知られたくなかったの。…、あんな風になるの、見られたくなかった。

きっと、怖がると、思ったから。」

 彼女の言葉は、とても切実な響きを持っていて、俺は何も言えない。

「怖がられるのも、…嫌がられるのも、…見たくなかった。」

 静香の悲しみが、痛い。

 俺だって、もし彼女と同じ立場だったら、きっとそう思う。

 そんな風に、孤独になんか、なりたくない。

 そんなの、…最低だ。

「でもね、夢を見たの。」

 今までとは少し違う声色に、俺はいつのまにか床に落としていた視線を上げた。

 静香はベッドの上を見つめ、微かに笑っていた。

「銀牙がね、」

 いきなり、名を口にされて、俺はふ、と顎が上がる。

 しかし、彼女は気づいていないのか、そのままの姿勢で、

「ここに来てくれてね、側にいるよ、って、手を握ってくれたの。

 すっごくすっごく、嬉しかった。

 なんて、いい夢なんだろう、……嬉しすぎて、わあわあ、泣きたいくらいだった。」

 そう呟く静香は、うっすらと頬が赤く上気していて、青白い顔にやっと血の気が戻る。

 滲むように微笑んだ彼女だったが、すぐに、悪さを告白するような勢いで、

「それでね、…どうせ夢なんだし、もっと甘えちゃえ、って私、銀牙の手を、ずっと掴まえて離さなかったの。」

 静香はくすくすと楽しそうに笑ったが、その笑みはゆっくりと薄れ、ベッドを見つめる瞳から、また光が失い始める。

「…夢だから、…夢だと思ったから、できたの。」

 まだわずかに笑みを含んだ声は、どこか照れているようで、可愛いらしく聞こえる。

 でも、伝わってくるのは悲しみばかりだ。

「本当な訳ない、ってどこかで思ってた。だからすごく素直に、銀牙にすがりつけたの。

……夢じゃないのに、そんなことしたら、……嫌がられるに決まってるもの…。」

 諦めきった声だった。

 どんなに望んでも願っても、それは届かないことをはじめから知っている声。

 いや、静香のことだから、そんなことを誰に望んだところで、迷惑に違いない、嫌われるに違いないと先回りしているのだろう。

 周りの大人逹に迷惑をかけたくなくて、懸命に大人になろうとしていた、静香らしい必死さ。

 …、なら、出番だな。

 俺はにんまりと笑って、そんな静香に、ようやく口を挟むことができた。

「夢じゃないよ、それ。俺だよ。」

 思い切りあっけらかんと、明るい声で言い切る。

「え……」

 微かな驚きの声と共に、静香はやっと顔を上げてくれた。彼女の潤んだ瞳が、わずかに丸くなっている。

 俺はなんだかおかしくなって、くすくすと笑いながら、

「静香は本当に泣き虫だなぁ。泣かなくたっていいだろ?

 それじゃあ、俺も謝るよ。

 本当は父さんに止められたんだけど、俺、この部屋に無理矢理飛び込んじゃったんだ。

 父さんは、そんなこと、静香は望んでない、って言ったんだけど、……俺には信じられなくてさ。」

 俺はにこにこしながら、自分のしたことを、動きの止まっている彼女に告げる。

「確かに、最初見た時はびっくりした。何も聞いてなかったし、あんまり、静香が…苦しそうで。

 だけど、…ほっとけないだろ?

 すっごく苦しそうなのに、ひとりぼっちなんて、…寂し過ぎるよ。

 だから、一緒にいた。

 ここにいるよ、って声をかけて、手を握ってた。……、勝手なことして、ごめん!」

 俺はぺこん、と頭を下げる。

 だが、何の反応もない。

 不審に思い、顔を上げれば、彼女はさっきと同じに、固まったままだった。

 いや、見開いたまま、瞬きも忘れている瞳から、ぽろぽろっと涙が落ちる。

「静香?!」

 いつもとは違う泣き方に、俺は戸惑う。

 驚いた表情のまま、静香は微動だにせず、

「…本当に、銀牙、だったの?」

「う、うん。」

 様子のおかしい静香に、俺はぎこちなく頷く。

 なんだか、幽霊みたいな、たどたどしい喋り方。

 すぐに、

「夢、じゃ、なくて?」

「…うん、俺だよ。」

「怖く、…なかったの?」

 ちっとも表情の変わらない彼女に、幾分余裕を取り戻した俺は、思い切り楽しそうな明るい笑みを彼女に向けて、

「静香こそ、…ひとりで怖くなかったの?」

 そう言ったら、静香の涙は、ぽろぽろぽろぽろ、止まらなくなった。

 今度は、俺の方がびっくりして固まる。

 青くなって動けなくなった俺をその瞳に映したまま、静香は両手で口元を隠し、はらはらと涙をこぼし続ける。

 鳶色の瞳や、白い頬、ぱっちりとした睫毛が、きらきらと涙で光って、見たこともないくらい綺麗な泣き顔に、俺は息を飲む。

 不意に、彼女は笑った。

「ありがとう、…銀牙。」

 眩しいほどの笑顔で、静香はそっと、優しく囁く。

「本当はね、…すごく、…すごく、怖かったの。……苦しくて、寂しくて、…誰も助けてくれなくて、…このまま、ひとりで、死んじゃうんじゃないかって…。」

 あの時の苦しさをこらえるように、静香はゆっくりとした瞬きをする。

「あの時、銀牙の声が聞こえた気がして、……頑張って、手をのばしたの。

 それを銀牙がつかまえてくれた時、私、嬉しくて泣いてた。

 嬉しくて、嬉しくて、手を離せなかった。

 私、初めて、…死にたくない、って思ったのよ。」

 あまりのことに、俺は茫然とする。

 そんなつもりじゃなかった。

 いや、確かにある程度は、そんなつもりだった。

 だけど、そこまでわかって、やったことじゃない。

 静香は、……俺がまだ知らないような辛さや苦しみを、もう何度も経験してきているんだ、と改めて思う。

 思って、行き場のない苛立ちが胸に沸き上がる。

 ……どう見たって、俺より弱いに決まってるのに。

 どうして静香ばっかり、そんな目に合わなきゃならないんだ?

 こんな、泣いてばかりで、言いたいことも言えない、言えても遠慮がちにしか言えないような彼女ばっかりが、どうして…。

 俺があまりの理不尽さにひとり憤慨していると、静香が口を開いた。

 ゆっくりと眼差しを伏せると、静香は涙を手で拭いながら、

「ごめんね、銀牙…。あの時、私、思わず、…我が儘、言っちゃったよね。……行かないで、…って。」

「!」

「手を離さないで、行かないで、なんて、…ひどいよね。…まるで、逃がさない、みたい、だったよね。ごめんね、…ごめんね、銀牙。」

 うっく、ひっく、といつものように泣き出した静香は、まるで俺が何か言うのを遮りたいかのように、いそいで言葉を繋げる。

「でも、…でもね、銀牙、…お願い、……嫌いに、ならないで…。嫌に、ならないで……。」

 彼女の願いに、息がつまった。

 まるで、胸を切り裂かれたみたいな衝撃と、痛み。

 咄嗟に、俺は右手で自分の胸の辺りを掴んで押さえる。

 痛んで、悔しくて、…目つきが尖る。

 しかし、静香はそのまま、うっくうっくと目元を袖でこすりながら、俺に訴え続けた。

「……ひとりに、しないで。……ひとりは、怖いの…。怖いのは、もう、嫌…。」

 俺は唇を噛む。

 静香はまだ、俺を信頼してないのか?

 まだ、素直に信じてくれてないのか?

 …、いや、これは静香の優しさなんだ。

 これは静香からの最終確認。

 今なら、まだ間に合う。

 今なら、お互いに小さな傷と痛みだけで、以前の距離に戻れる。

 少なくとも、自分は諦めがつく。

 そう言ってるつもりだろ?

 …嘘つきな奴。

 静香はもう小さな傷や痛みじゃすまないはず。

 本当の望みを口にしたんだ。

 それは静香にとって、一大決心なこと。

 拒まれたら、絶対、大泣きの大洪水のくせに。

 …心は、裂けて、きっと元に戻らないくらいの傷になるに決まってる。

 もうそれくらい、信じてるから、…だから、本当の望みを口にしたんだろ?

 なのに、まだ、相手の心配して、引き返せるよ、なんて…。

 俺はずるずるとベッドの上を膝で進み、静香の前まで行った。

 そして、彼女の両手を取ると、そっと顔から引き離す。

 涙でぐしゃぐしゃな静香の顔に、俺はにっこりと笑って、

「判ったよ、静香。だから、安心して。」

 しかし、静香はきょとんとしたまま動かない。

 俺はちょっと困って、今度は笑みよりも、まっすぐ静香を見つめ、ゆっくりと告げる。

「だから、ひとりにしない、って。ずっと一緒にいる。……そう約束しただろ?」

「……銀、牙、?」

 話し方を忘れてしまったみたいな静香を、俺はいたわるように笑んで、

「だから静香も、具合が悪くなったら、絶対言うこと。内緒にされたら、一緒にいてやれないだろ?」

 だが、静香はまだ信じられないという様子で目をぱちくりさせ、

「…嘘。」

「いーえ、本当。」

 すかさずそう言ったのに、静香はあがくように、

「でも、だって、」

「じゃ……嘘に、する?」

 意地悪く俺が口を尖らすと、彼女はあわてて、

「嫌!…、いいの?、信じちゃうよ。」

 また瞳が潤んできた静香に、俺はやっと安心し、目一杯の笑顔で、

「うん!信じて!」

 

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