雪が降っている。
俺はただ前だけを睨んで歩く。
夜の闇と、雪の白しかない世界。
風もなく、音もない。
俺はずんずんと進む。
灯りは持たないで来た。
雪の白さでぼんやりと明るいから、必要ないだろうと思った。
だんだんと、身体から熱が奪われる。
気持ちよかったのは、ほんの一時。すぐに寒さに身体が強ばり始める。
上着も着て来なかったんだから、当たり前だよな。
手足から少しずつ感覚が失われていく。
それでも、俺は歩き続ける。
はらはらと降り続く、白い氷のかけら。
ちょっとずつ、俺にも積もり始めている。
でも、気にしない。
気にならない。
俺は、冷えたかった。
冷えて、冷たくなって、自分の胸の内も凍りつかせてやりたかった。
元老院から帰る魔戒道の中、俺たちしかいないこの空間に踏み込むなり、俺は道寺の背中に尋ねた。
「父さん、あいつらのこと、最初から気がついてたよね?」
目の前で道寺がホラーを封滅した直後、俺はちょっとした興奮状態にあった。ホラーを見たのも初めてだったし、道寺が封滅するところを見たのも初めてだったから。
だが、それもほんの一時だけ。
その後、駆け付けた魔戒法師達と道寺が何やら話し込み、なかなか終わらないでいるのを傍らでぽつんと待っているうちに、その前に降りかかった、あの理不尽な出来事の記憶と感情がゆっくりと戻ってきて、道寺の勝利の余韻など、どこかへ押し流されてしまった。
ひとつおかしいと思うと、疑惑は数珠つなぎに生まれてきて、すぐにでも道寺に質さずにはいられなくなっていた。
声は道寺に届いているはずなのに、彼の背中はいつも通り、俺の少し前を行くだけ。
いつの間にか、俺はそれにすら苛立っていた。
道寺の無言は、肯定。
わからなくて、さらに叫ぶ。
「歳上の奴ら、三人に絡まれたんだぞ!押さえつけられて、…目を切り裂かれそうになった!…滅茶苦茶、怖かったんだぞ!」
どうして、という疑念が胸の中で沸き上がって止まらない。
理性では、きっと道寺には彼なりの思惑があったんだろう、と思えているのに、頭の中が熱い赤に染まってしまって、一向に冷めず、ますます猛る。
だが、道寺は振り向かない。
高ぶる感情をうまくいなすことも、逃がすこともできず、あまりの苦しさに、立ち止まって俯く。しかし、押さえようとしている感情はますます膨らみ、今にも爆発しそうになって、俺は力まかせに拳を握り込む。
けれど、道寺は振り返りもしないで先へと進んで行く。
それが答えだと、思いたくなかった。
そんな答え、くそくらえだ。
「父さんは、何を望んでたんだよ?!…俺って、一体、何なんだよ?!」
叫んだ瞬間、自分が何を望んでいたのかがはっきりと解り、もう、破れかぶれに泣きたくなった。
自分に失望する。
なら、もう失望されてる、きっと。
悔しくて、目の前が涙で揺らぐ。
何故、自分がこんな目に合わなくちゃならない?
俺は何も悪くない。
悪くないのに。
悪いのは、あいつらなのに。
八つ当たりだと分かっていながらも、苛立ちの矛先をあいつらに向ける。
「あいつら、ほっとくのか!それでいい、って本当に思ってんのかよ?!」
狭い魔戒道の中、俺の声は必要以上に響き渡る。
道寺の背中がひたり、と止まった。
「!」
まさか、本当に止まるとは思っていなくて、俺は道寺を凝視する。
「あの者たちのことは、然るべきところへ任せた。」
振り返りもせずそう告げて、彼はまた歩き出す。
俺は呆気にとられた。
それだけ?
マジで、そんだけ?
あんなことされて、それだけで納得しろと?
年下のガキひとり相手だぞ?
三人がかりだったんだぞ?
卑劣にも程があるだろ?
それとも、あれが、…あんなひどいことが、当たり前だっていうのか?
魔戒騎士が生きる、『闇』の世界では。
俺は、何も知らないまま、そんな世界に足を踏み込んじまったってことなのか?
絶狼の輝きに魅せられただけで頑張ろうとしちまった、俺がバカだったってのか?
ずんずんと離れて行こうとする黒い背中を追いながら、必死に問いかける。
「あんな、…あんな卑怯な奴らでも、魔戒騎士の見習いになれるのか?」
返事はない。
苛立ちを煽られ、俺はさらに声を張り、
「あいつら、変に手慣れてた。きっと、これが初めてじゃないんだ。あんなひどいこと、何度も繰り返せるなんて、人じゃない!」
やはり、道寺は何も言わない。
何も、…何も、だ。
悔しくて腹立ちまぎれに、
「あんな奴ら、……あのまま、ホラーに喰われてしまえばよかったんだ!」
自棄になって叫んだら、次の瞬間、道寺に襟元を掴まれていた。
右手一本で吊り上げられ、俺は驚きに目を見開いたまま、道寺を見上げる。
彼は眉間に皺を寄せ、鋭い目をさらに尖らせて、低すぎる声で言い放つ。
「人の死を望むなど、魔戒騎士にあるまじきこと。人としても愚劣極まりない。違うか?」
どんなに眼光を鋭くさせても、灰色がかったその瞳だけは、いつも穏やかに凪いでいた。
しかし今、その瞳が強い光を宿し、俺を貫かんばかりに見据えている。
本気で、怒らせてしまった。
言い過ぎた、という自覚はあった。いくら自棄とはいえ、言っていいこととそうでないことくらい、解っているつもりだったのに。
ごめんなさい。
謝罪の言葉は、喉まで出かかっていたのに、意地で噛み潰した。
自分の目にナイフの刃がぴたりとあてがわれた、あの恐ろしい冷たさが脳裏に甦る。
思い出して、恐怖にぞくと背中が震えた。
あんなことができる奴らは、人間じゃない。
人だなんて、認めない。
俺や静香、道寺と同じだなんて、絶対に思えない。
必死になって、俺は道寺を睨み返す。
だが、道寺はふいに吊り上げていた手を緩め、俺を解放した。
地に足が着いたものの、俺は眉をひそめ、困惑の眼差しで道寺を見つめる。
彼は俺を一瞥すると、足首より長いコートの裾を軽やかに捌き、再び城へと歩き出す。
「な、…、父さん!」
なんだか、俺から逃げているようにも思えてきて、悲鳴のように叫んだ。
再度、道寺の足が止まる。
彼は首を捻るようにして、
「魔戒騎士とは、守りし者。例え、背中に庇った人々に殺されようとも、人を守れ。」
そう告げた道寺の眼は、肩越しであっても、鋭く、まっすぐ、俺を射抜いた。
俺は雷にでも撃たれたみたいに動けない。
暗い魔戒道の闇に溶けていく道寺の背中を、俺はぼんやりと眺めていた。
俺は振り切りたくて、駆け出す。
雪は靴よりも高く積もっていて、俺の邪魔をする。
靴もズボンも、次第に雪に濡れて重たくなり、べしゃべしゃと気持ち悪い。
それでも、無理矢理走る。
美しくなめらかな雪原を、ざばざばと蹴散らす。
一度振り返ったら、俺の歩いた通りに、雪ががしゃがしゃと崩れていて、何だか笑えた。
少しだけ楽しくなって、また、前進する。
………。
このまま、どこまで進めるだろう。
痛みを通り越して、手足の感覚はもうない。肘や膝も勝手に震えて、うまく動かない。顔で溶けた雪が冷えて、また氷り始めている気がする。まだ何とか熱が残っているのは、もう胸や腹くらいか…。
それでも、先へ進もうとする俺って、一体何なんだ?
先には、……何もないのに。
……。
とうとう、足が止まった。
前を眺める。
闇も、雪も、とても綺麗だ。
俺にはちっとも優しくないけど。
………。
どうして助けてくれなかったんだろう。
あのまま、目を切り裂かれていたら、今頃、どうなっていただろう。
どうして俺は、そんなことを考えているんだろう。
俺は、……秘かに、望んでいた。
道寺に。
認めて欲しかった。
助けて欲しかった。
だけど、俺の代わりは、いくらでもいる。
わかってる、つもりだったのに。
今日の出来事は、それをこれでもかと突き付けてきた。
無関心な、道寺の背中。
いつまでも、俺に近づくことを許さない、彼の背中。
わかっていても、それは悲しいことに違いなくて、…そんな自分にがっかりした。
自分をそんな奴だと思ってなかった。
全然、平気。
気にしてない。
そう思って、いたかったのに。
自分をそんな弱い奴だと、思いたくなかった。
でも、弱い、奴だったんだ…。
弱くちゃ駄目なのに。
俺は強くなくちゃ駄目なのに。
「魔戒騎士とは、守りし者。例え、背中に庇った人々に殺されようとも、人を守れ。」
背中に庇った人々に殺されても、か…。
逆を言えば、自分を殺しにかかるような奴らでも、背中で庇え、ってことだよな…。
道寺は俺にそれを求めている。
だけど、今の俺には、多分、できない。
俺に関心のない道寺に、腹を立て、悔しがり、悲しむような俺には…。
俺を襲ったあいつらを、死ねばよかった、と呪った俺には…。
……。
……、もう、戻らなくちゃ。
戻るべきだとわかってるんだけど。
……、帰り方がわからない。
あそこへ、昨日までいたあの場所へ、どうしたら帰れるのか、わからない。
あの背中も、どうやって追いかけたらいいか、わからなくなった。
それなのに、このまま戻ったところで、俺に何ができる?
何を目指せる?
………。
そんな自分に、これ以上失望して欲しくないし、そんなの、見たくない。
この雪の上に倒れてしまえば楽なのに、何故か、それもできないでいる。
……、まだ、立っていられる。
空を見上げたら、雪が黒く見えて、びっくりした。
全然、綺麗じゃないんだ…。
目の前には不思議な光景。
深い灰色の雲が一面に広がり、無数の黒い雪が、まるで灰のように、はらはらと降り散る。
嫌いじゃない、こんな風景。
顎を引き、立ったまま、瞼を閉じる。
こんな感覚も、悪くない。
……、悪くない。