元老院から屋敷へ戻ったのは、辺りが闇に沈みかかった夕刻。
まもなく夕食を済ませ、銀牙と共にいつもの鍛練を終えると、私は書斎へと向かった。
今日の内に済ませておきたいことが、まだいくつか残っている。
だが、書斎の扉の前で、小さな人影が私を待ち構えていた。
心当たりのある私は、とりあえず書斎の錠を外し、パジャマ姿の彼女に、柔らかい手つきで室内へと誘う。
静香もまた、何も言わず私の指示に従ってくれた。
書斎を照らす大きな燭台は、部屋に誰かが踏み込むと同時に灯る。
暗がりを嫌がる静香は、この書斎が苦手だ。
昼間はともかく、夜はまず近づこうとしない。薬のような匂いも、実は駄目らしく、昼間この部屋にいる時は、扉を開け放している。
それに気づいてからは、静香が訪れる時には、できるだけ甘やかな花の香りが漂う香料の蓋を開けておくことにしている。
今も、彼女を招き入れ、長椅子へ腰かけるように示してから、その蓋を開けた。
それから、暖炉に火を入れる。
外は今年一番の大雪。
この地域一帯は、あまり雪の多いところではない。
そのため、静香は夕食の前の一時、窓に貼りつき、雪の降る様子をじっと眺めていた。
その時はまだ、うっすらとしか積もっていなかったと記憶しているが、雲の色といい、雪の状態といい、今晩はかなり積もるだろう。
ついさっきまで火の気のなかった書斎は、外と変わらない寒さなのだが、今、静香が腰かけている長椅子だけは違う。
子ども達専用のこの長椅子には、周りの温度に影響されず、一定の温度に包まれる仕掛けがされている。
多分、子ども達は気がついていない。
だが、静香のように、不意にやってくることがある彼らが体調を崩さない為に、こうした仕掛けは必要なものだと、最近は実感さえしている。
暖炉の火が安定し、書斎を少しずつ暖め始めたのを見届けてから、私は長椅子に歩み寄る。
見下ろせば、彼女は思いつめた表情で、膝の上においた自身の両手を固く握り合っていた。
もこもことした可愛らしい厚手のコートと、暖かそうなパジャマ、室内用のハーフブーツという、ほぼ完全防寒装備の静香を見て、何だか羨ましくなる。
魔戒騎士としてそういったことに耐性がつき過ぎて、ひどく鈍感になっていることに気づかされる。
緊張している静香から、少し間を空け、私はそっと長椅子に腰を下ろした。
丁度、視線の先には暖炉があり、何となく揺らめく炎を眺める。
「お父様…」
か細い静香の声が聞こえた。
「何だね。」
銀牙の時とは異なり、彼女には無言でいるような真似はしない。
「今日、何があったの?」
静香の声はわずかに震えていた。
やはりか、と私は眼差しを伏せる。
彼女は自分の手元を見下ろしたまま、
「あんな銀牙、初めてだった。いつも明るく笑ってた銀牙が、まるで、空っぽみたいだった…。」
静香は私達が城へ戻ると、すぐに出迎える。
今日も、いつものようにエントランスにて、
「お帰りなさい、お父様、…銀牙。」
にっこりと笑いかける静香に、私はいつもの通り小さく頷き、そのまま書斎へ向かう。
銀牙もいつもの通りなら、静香に向かって、にっこりと笑い返し、
「ただいま、静香。…あー、面倒だったー。」
いかにもつらかった、と言わんばかりに伸びをして見せる彼に、静香は笑って、
「ふふ、何が面倒だったの?」
「それがさぁ、…」
大抵こんな風に、銀牙は城から出られない静香を気づかい、会話を広げようとする。
そんな二人のやりとりを、いつも私は書斎のある二階へと続く階段を昇りながら、気取られることなく耳にしていた。
しかし、今日はいつもと微妙に違っていた。
「ただいま。」
そう笑い返すまでは一緒だったが、すぐに、
「ごめんね、静香。昨日夜更かししちゃって、今すごく眠たいんだ。少し寝てきてもいいかな?」
申し訳なさそうに尋ねる銀牙に、静香は、
「うん。私は大丈夫だけど、…夕食前に、起こしに行った方がいい?」
すると、彼はもう、一階にある自室に向かう廊下へ足を向けながら、
「ちゃんと自分で起きられるよ。」
そう明るく笑って、薄闇の漂い始めた廊下へと駆け去ってしまった。
静香は今日のそのやりとりを簡単に説明してから、
「その時は気づかなかったんだけど、……、何だか似てたの、今までの人達と。
ううん、本当は違うのよ、言い方とか態度とか、全然違うの。
銀牙は優しくて、いつもみたいだったし。
だけど、…私を避けてるって、何か判った。
銀牙だって、そういう気分の時もある、って思おうとしたんだけど、…。」
静香はそこで、声をつまらせる。
私は身動ぎもしないまま、正面の床を見つめる。
ぽつん、と静香の涙が落ちた。
「食事の時、…銀牙はね、私と目が合うといつも笑いかけてくれるの。
まるで、いたずらっ子みたいに。
私、それがとても好きだった。
銀牙に見られてる、ってことは、私はひとりじゃないんだ、って気がして、嬉しくて笑っちゃうの。
すると、銀牙もくすくす、って笑ってくれる。
そういうのが、すごく、好きだったのに。
…さっきは違ったの。
私に笑ってくれてるけど、私が見えてないみたいで…。
何度も銀牙の眼を覗いているうちに、……ひとりぼっちなのは、銀牙の方なんだって判って、……すごくすごく、悲しくなって、………。」
話しているうちに、彼女は自分の感情にのまれてしまったらしい。ぽろぽろと涙を落とすばかりで、言葉が続かない。
泣き崩れる静香の頭を撫でてやりたくて、手をのばすものの、触れることができない。
慰めることすらためらう自分に苛立ち、私は手を引く。
そんなことにも気づくことなく、静香は泣きながら、
「お父様、……一生のお願い、…今の銀牙を、他所にやらないで。何があったのかわかんないけど、今は嫌。
銀牙、…きっと、もっと悲しむわ。…銀牙は今、とても悲しいのよ。」
めそめそと泣く静香を見つめ、私は内心ため息を吐いた。
静香は泣かない子だと、ずっと思ってきた。
指令書によって、ひとり屋敷で留守番をさせることになっても、泣いて嫌がることもなかったのに。
彼女は銀牙がやってきてからというもの、喜怒哀楽がはっきりとしてきた気がする。
特に、銀牙が関わると、よく泣く。
私は長椅子から立ち上がり、ゆっくりと暖炉の前に立った。
赤々とした炎の中、薪がはぜて崩れる様を眺める。
(絶狼…)
胸元で、魔導具がこっそりと囁く。
(間に合わないかと思ったわ。)
間に合わない?
静香に気取られないよう、慎重に聞き返す。
(何の話だ?)
(窓から見えるかしら?坊や、今、外にいるのよ。)
(外?雪の中を、か?)
魔導具は理解できない、という口振りで、半ば呆れるように、
(ええ。理由はわからないけれど、そこから動かないの。命の灯火は、あと半分、てところね。)
彼女の言葉に、私は足早にバルコニーへ出るためのガラス戸へと歩み寄る。
訳のわからない静香は眼を丸くしたまま、突然の私の行動をただ見つめるばかりだ。
乱暴にカーテンを開けると、どのガラスもうっすらと結露しており、外を眺めることができない。
小さく舌打ちするなり、ガラス戸を開けて外に出、素早く後ろ手に閉める。
バルコニーにも雪は積もっていて、当然、石の手摺の上にも雪があったが、払い落すこともせず、そのまま片手をついて、軽く飛び乗った。
手摺の上は足場が悪いことこの上なかったが、特に問題はない。
すっくと立ち、遠くまで見通すように、辺りを見回す。
風はなく、ひたすら雪が地に降るばかり。
先刻の魔導具の言葉に従い、窓から見える範囲に視線を飛ばせば、屋敷の南側に広がるなだらかな雪の表に、ぼこぼこと崩された跡が一筋、南へと伸びている。
確信するなり、バルコニーから飛び降り、雪原に降り立つ。
いつの間にか、雪は膝下ほどまでの高さまで積もっていた。
銀牙の命の灯火は、あと半分。
すぐさま雪の中を駆け出す。
「シルヴァ、銀牙の近くに何かあるか?」
「いいえ。何の気配もないわ。ホラーはもちろん、人や獣、術、それ以外の何かすら、ない。」
「そうか。」
まだ雪は降り続いていて、顔に当たってひどく鬱陶しかったが、それほどかからず、銀牙の姿を見つけることができた。
夜の闇の中、彼はこちらに背を向け佇んでいる。
髪には雪が積もっていた。
長い時間、外にいたのだろうことは、それでも判った。
「銀牙。」
だが、彼は反応しない。
そんなことは、初めてだ。
彼はこれまで、少なくとも返事だけは返してきた。
「そこで何をしている?」
一応、尋ねてみるものの、銀牙は立ち尽くしたまま動かない。
気づけば、銀牙は上着すら着ていなかった。
不審に思い、歩み寄る。
俯き加減の銀牙に近づき、強引に彼を振り向かせようと、彼の肩に手をかけた瞬間、銀牙の身体が崩れ落ちた。
手応えもなく、雪に倒れかかる銀牙の身体をすくい上げ、胸に抱く。
手のひらで、雪のついたシャツの上から銀牙の肩を掴むが、生きているとは思えないほど冷たい。
顔色もひどく、呼吸も微かだ。
「銀牙!」
抱き上げた状態で、彼の身体を強く揺さぶってみるも、返事はない。
「絶狼、…大丈夫よ。彼のハートは、そんなにヤワじゃない。でも、早く温めてあげて。」
銀色の賢女が、そう優しく囁くのが聞こえ、私は銀牙を、胸にしっかりと抱え直す。
感情が大きく動きそうな感覚に戸惑い、私はそれに抗うように駆け出す。
明りの灯る、私の屋敷へと。