「銀牙っ!銀牙っ!、しっかりして!」
ひどく焦っている、悲鳴のような静香の声で、我に返る。
途端に、頭と背中に、衝撃の余韻が痛みとなって響いた。
「痛ゥ…。」
思わず呻くと、静香の心配そうな顔が覗き込んできた。
「大丈夫?どこ?どこが痛いの?怪我しちゃった?」
もう泣き顔になっている静香が見えて、俺は内心、渋い顔だ。
ま、ずーい。
うっかり呻いちゃった。
俺は身体を捻るようにして起き上がる。
「あー、びっくりしたぁ。」
「銀牙!」
安心したように笑う静香に、俺は目をぱちくりさせながら、
「俺、気、失ってた?」
「…ううん。でも、苦しそうに唸って、なかなか起きなかったから。…本当に、大丈夫?痛いところない?」
静香はまた痛ましげな顔になって、俺のあちこちをきょろきょろと見回す。
身体の下側になったところが痛むのは仕方ない。後は、…意外と大丈夫みたいだ。
そう思って頭に手をやったら、
「わ!痛ェ。」
「え?」
衝撃的な痛みに、おそるおそるもう一度頭を撫でてみる。
「……、うっわ、たんこぶ、……マジかよぉ。」
頭の後ろに、ぽこっと腫れて膨らんだところがある。
あまりに情けない名誉の負傷にがっかりしていると、静香の手が同じところを優しく辿ってくれた。
「本当、…腫れてる…。」
ひんやりとした彼女の手が心地よい。
すると、静香は大真面目な顔で、ちちんぷいぷい、と唱え始める。
え……、マジ?
反射的に、きょろきょろと周りを見て、誰もいないことに安堵する俺。
さすがに、ちょっと恥ずかしい。
「…、痛いの、飛んでった?」
おまじないを唱えてから、静香はまた心配そうに尋ねて来る。
……やっぱり、マジか。
気持ちは嬉しいけど、俺はもうたんこぶから離れたい。
おまじないのお返しに、彼女の髪をそっと撫でながら、にっこりと笑う。
「もう、平気。静香の方は?どこも怪我してない?」
「うん。私、思いきり、銀牙の上に乗っかっちゃったみたい…。本当に、ごめんね。」
しょぼん、としおれる静香を見て、俺は笑う。
「ふふ、よかった、静香が無事で。まさか、あのタイミングで蜂がくるとは思わなかった。」
すると、急に静香は青くなって、辺りを見回す。
「そうよ!蜂!…もういないわよね?…すっごく、怖かったんだから!」
俺も一応耳をすませてみる。
あの独特な羽音は、もう聞こえてこない。
「助かったみたいだね。」
立ち上がりながらそう言い、地面に転がったままだった袋に歩み寄る。
拾い上げて振り向けば、静香は立ちあがって俺を待ってくれていた。
静香のそういうところ、大好き。
ようやくにして、俺達は並んで、待望の花畑に足を踏み入れることができた。
静香は最初、花を踏むのをためらっていたが、すぐに諦めた。
花の密集した箇所が多過ぎて、避けようがないと観念したらしく、悩んだ末、彼女は爪先で歩くことで妥協したらしい。
俺は一足先に、花畑の真ん中にたどり着くと、敷物を広げ、どかりと座った。
「静香も、一度座ろう。」
呼ばれた彼女も、まもなく俺の隣に腰を下ろす。
俺達は本当に花に囲まれていた。
白、黄色、オレンジ、赤、紫、青…、それと、様々な緑色。
溢れんばかりの陽射しを受けているせいか、あまり大きくない花達なのに、緑の葉に負けないくらい鮮やかに咲き乱れ、明るく輝いて見える。
「静香、右手。」
袋から水筒を取り出しながらそう言うと、静香は困った顔で、
「え…」
「手。出して。」
わざとちょっと怖い顔でそう迫ると、彼女はおずおずと手を出した。
「!、……静香!」
俺も油断していた。
出発する時は丁度良かった長袖も、途中から暑いくらいになっていて、彼女がいつの間にか袖を捲り上げていたことに、気づかないでいた。
そして、さっきのダイブ。
俺の首に抱きついたまではよかったけど、背中にまでまわった彼女の右手は、俺の下側になってしまったらしい。
見れば、手の甲から肘の方までの広い範囲に、擦り傷を負ってしまっていた。
傷はひどく、赤く腫れ上がり、熱を持ち始めている。特に傷が深い箇所からは、血が滲んでひと筋流れていた。
変に右手を隠すから、怪我だろうとは思っていたけど、まさかこんなにひどいなんて……。
「……、ごめんなさい。」
しょんぼりと謝る静香に、俺は怒ろうとした気持ちを引っ込める。
「とにかく、傷を洗おう。」
水筒の水で傷を洗うが、やはりしみるらしく、静香は泣きそうな顔で口を固く閉じたまま、しばし動かなくなった。
後は、まだ使わないでいたタオルで傷口を軽く押さえ、
「このまま、触らないで。」
「うん。」
頷いてから、静香はおそるおそる自分の擦り傷を眺める。
多分、さっきまで怖くて見られなかったのだろう。
「ごめん、静香。…俺、大丈夫、って言ったのに、こんなひどい怪我させちゃうなんて。」
あまりの申し訳なさに、俺はうなだれて謝罪する。
彼女の痛々しい傷は、正直、ショックだった。
さっきまでの楽しさなんか、全部吹っ飛んで、来なければよかった、とか、こんなこと思いつかなければよかった、とか、今すぐ帰ってちゃんと手当てしなくちゃ、とか、とにかく、俺はなんてバカなんだ、って思いが膨らみまくって泣きそうになる。
今日だって、結局、静香に怖い思いをさせたり、痛い思いをさせている。
どうしてこうも、うまくいかないんだろう。
悔しくて、痛いほど爪を握り込む。
くそ…。
周りの花達すら、憎々しい…。
こいつらがこんなにたくさん、綺麗に咲いてたりしなかったら、ここまでひどいことに だってならなかったのに。
理屈にすらなっていない怒りを、あとどこへ向けたらいいか探していると、ふと、何かが髪に触れた気がした。
くるっと静香に振り向けば、彼女は傷のない左手で、俺の頭を撫でていた。
する、する、と静香の手が俺の髪を撫で下ろす。
優しい微笑みを浮かべて。
「私は、怪我したのが銀牙じゃなくて、よかった、って思ってるわ。」
彼女は俺の髪から手を離すと、さらににっこりと笑って、
「私ね、いっつも銀牙に何かして、もらってる気がするの。
笑ってもらって、話してもらって、時にはこうして、連れ出してもらって、…、ずっと、もらってばっかり。
お返ししたいのに、何も思いつかなくて。
私が怪我をして、それで銀牙が助かったのなら、私、ちょっと嬉し…。」
「嫌だ!!」
思わず遮る。
「…銀牙?」
いきなり鋭く否定されて、静香は目を丸くし俺を見つめる。
彼女のびっくりした顔に、
「俺はそんなの嫌だ!静香に怪我させるくらいなら、こんなところ、二度と来ない!」
俺の強い言葉に、静香はきゅっと口元を強ばらせる。
言わずには、いられなかった。
そんな風に思われているなんて、俺には耐えられなくて、そのままの勢いで、ただ視線だけは足元の花達に逃がしながら、
「俺は自由に、いつだって、どこにでも行ける。
でも、静香は違うだろ。
俺は静香に、もっといろんなこと、見たり聞いたりしてもらって、もっと楽しい思いをいっぱいして欲しかったのに。
なのに、こんな怪我させてちゃ、意味がないよ!」
静香の生活を見ていると、本当に切ない気持ちになる。
毎日毎日、城の中にいて、ほとんど変化がない日々を、ただただ繰り返している。
まるで、温室の鉢植えの花みたいだ。
まだ花ならいい。
何も考えたり、感じたりしないから。
だけど、静香なんだ。
心があるんだ。
俺なら、とっくに気がおかしくなってる。
道寺だって、本当はこのままでいいとは思ってない。それも最近、わかってきた。
何とかしたかったんだ。
自分に何かできないか、ずっと考えていた。
だけど、こんなことになるなんて。
俺はやっぱり、バカなガキのままだ。
「ありがとう、銀牙。すごく、嬉しい。」
静香はそっと言った。
あんまり優しい言い方だったから、俺は驚く。
振り向けば、彼女の瞳が揺らめいて見えた気がして、思わず目が釘付けになってしまう。
「私のこと、すごく真面目に、心配してくれてるのね。」
彼女はそこで一度、息をし直した。
彼女の動作ひとつひとつに、白い帽子が揺らめく。
「銀牙が心配していることは、何となくわかるわ。
私が城に閉じ込められて、息がつまってるんじゃないか、ってことでしょ?」
静香の楽しそうな口振りに、俺は不意に確信が持てなくなる。
「そう、だけど、…違うの?」
すると、彼女は満面の笑みを向けてきて、
「うふふ、…違うわ。」
「ええっ?」
呆気にとられている俺に微笑み、静香は手の届くところに咲いていた薄紫のデイジーに眼を落とすと、それを指先で優しく撫でながら、
「それは、銀牙がくる前の私。あの頃は、ずっと寂しくて、楽しいことなんて、ひとつもなかった。本当に毎日が檻の中に思えていたわ。………だけど、今は、全然。」
楽しさがこらえきれない様子で、静香は俺に振り向き、笑いかける。
「うふふ、……銀牙が来てくれて、何もかもが変わったわ。……、私が思っていたより、ずっとよ。
何より、私が変わったの。
ひとりじゃない、ってだけで、私ってこんなに変われるんだ、ってびっくりしてる。」
「静香が、変わったの?」
確かめるように繰り返すと、静香は眼差しを伏せ、自分の身体を正面へ向け直した。
そして、改めて元気な声でもって、
「うん。私、……お父様と、お話しできるようになったもの。」
「?、前は話せなかったの?」
俺の問いに、彼女は再び、うん、と小さく頷いてから、今度はもう少し落ち着いた声色で、
「優しくして下さるのよ、とても。
でも、何も言えなかった。
なんだか、何を言っても、私の我が儘な気がして。
そうして、何でも諦めるようになったら、私から話しかけることなんて、なくなっちゃった。」
うつ向き加減になると、静香の表情は帽子の広いつばに隠れてしまう。
俺は身動ぎもせず、ただ黙って彼女を待った。
話す声がわずかに沈んで聞こえたのは、きっと静香も、本当はそんなことを望んでいた訳ではなかったからだろう。
二人は側で見ていて、うまく噛み合ってない印象はあっても、互いに嫌っている風には見えなかった。
ふわっ、と帽子が空を仰ぎ、静香はまた元気な声になって、
「だけど、銀牙が来てからは、私、お父様にたくさんお願いするようになったわ。
あの時もそうよ。誕生日の時だって。」
「ああ、あの時か。」
そう言われて、思い出す。