第1話
俺はその時、ため息を吐かずにはいられなかった。
人生でまだ、数回しかしたことがないっていうくらい、それはそれは深いため息を。
あんまりにもあんまりな現実に直面してしまい、目の前のダイニングテーブルに両手をつくと、がっくりとうなだれる。
本当に嫌だった。…今日だけは、本当に。
その為に、ここ数日、どれだけ頑張ったことか。
俺のあの、血のにじむような努力と根性は、結局何だったんだよ。
朝から晩まで、管轄領域内を、ぐるぐる、ぐるぐる。
神経を尖らせながら、しつこいくらい見回りして、少しでも邪気を感じるエレメントがあったら、即浄化。
また、外部からホラーが入ってきたらすぐに駆け付けらるようにと、いつもは使わない魔導具の探知感度を上げる界符なんかもフルに活用したりして、とにかく思いつく限りの予防線を張りまくり、なんとか今日の夕方まで何事もなかったというのに。
しかし、ついさっき城に戻って、何気なくテーブルの上へ視線を投げたら、一瞬怯んで、思わず呻く。
「…、マジかよ。」
赤い封筒の、例のあれ。
それが、当然のように置かれている光景に眩暈を覚える。
くそう…。
これが届いちゃ、…ダメだろう。
できるものなら、気づかない振り、見えない振りをしてしまいたかった。いや、いっそのこと、本物の不幸の手紙のように、その場で破り捨てて、なかったことにしてしまいたかった。
魔戒騎士としての悲しい性からか、それが本物であるか確認すべく真上から見下ろし、結局、あまりの忌々しさに、その赤の指令書を指で弾いてしまう。
封筒の角を人差し指で弾いたら、それはふわっと浮き上がり、回転しながら、テーブルの上を少しだけ滑った。
神官の奴、ひょっとして俺の誕生日まで把握してる、とか。
それでこんな、気の利きすぎた誕生日プレゼントをよこしたりしてんじゃねえだろうな。
っとに、どうしてこう、人が必ず嫌がるような真似ばっかするんだよ…。
魔法衣であるコートを脱ぐこともできず、がっかりと肩を落としてリビングに入ると、二人掛けのソファーに身体を投げ出す。
座面に寝転がり、仰向けになった顔を両腕で覆う。
苛立ちながらも落ち込んでしまい、むっつりとぶすくれていると、遠巻きにあった気配がゆっくりと近づいてきた。
俺はあわてて身を起こし、その人物を迎える。
アイボリーのワンピースをまとった彼女は、スカートの裾にあしらわれた小さな花柄の刺繍をふわふわと揺らしながら、足音も立てずに俺の傍らにやってくると、慎み深い所作で腰を下ろした。
本当に浅く腰掛けるだけの静香に、俺は内心首をかしげていたが、彼女は面差しを傾けるように俺の顔を覗き込むと、柔らかい微笑みを向けてきてくれた。
透き通るように美しい鳶色の瞳と、ほんのりと色づく瑞々しい花びらのような唇。
ひんやりとした白い肌に、それらはただでさえ際立つのに、ふんわりと包み込むような微笑を浮かべた彼女は、眩しいほど輝いて見え、俺はそれにこたえるように小さく微笑み返す。
いつもの通りに。
それにしても、今日はさらに彼女が眩しく見える気がするのは、ああ、そうか、ワンピースのせいだな。
少しタイトなシルエットのそのワンピースは、ほっそりとした彼女の身体のラインをとても綺麗に見せていた。袖は七分丈、スカートは長めなのだが、生地が軽いらしく、さっきも軽やかに揺れていたことを思い出す。緩やかなハート型の切れ込みがあるだけのシンプルな襟元に象徴されるように、過剰な装飾が殆ど見当たらないこのワンピースは、清楚な彼女の美しさを存分に引き立てていた。
しかし、今は少しずつ空気が冷めていく季節。
気づかないうちに、空いている首元や肩、腕を冷やしてしまわないよう、彼女は薄手のカーディガンを上に羽織っていて、その袖口からのびる華奢過ぎる腕や手は、まるで鈴蘭のように白く儚い。
「銀牙、」
名を呼ばれ、再び意識が彼女の微笑みをとらえる。
せっかくの静香の笑顔が少しだけ翳って見えるのは、きっと、俺がイラついていることを悲しんでいるからだろう。
そして彼女は、俺がなんでイラついているか、ちゃんと承知している。
静香は俺の苛立ちを優しくなでつけるような穏やかな声で、
「…そのお仕事が終わってから、ちゃんとお祝いしようね。…私、待ってるから。」
そう言って、彼女はすばやく身を寄せ、俺の頬に軽く唇を押し当てた。
……え?えぇ!
子供の頃は天真爛漫だった彼女も、今ではすっかり、恥ずかしがり屋の照れ屋さん。
だから、そんなこと、今までしたことなかったのに!
びっくりしている俺を置き去りにしたまま、静香はもう廊下へ向かっていて、俺は急いで彼女の手を捕まえる。
そこで初めて、彼女の後ろ姿が目に入った。
三ツ編みした髪を輪の形にひっつめ、ミニ薔薇の髪飾りで留めている。彼女の亜麻色の髪に、白やピンク、クリーム等といった柔らかな色合いのミニ薔薇は、控えめに華やかで、とても彼女に似合っていた。
いつもより、力の入ったおめかし。
お祝いしようね、か…。
逃げ切ることのできなかった静香は、足を止めて俯くばかりで、ちっともこっちを向こうとしない。
そんな彼女の様子にちょっと視線を止め、それから彼女を背中からすばやく抱き締めた。
「!、きゃあ」
びっくりしている彼女の声に、俺はくすくす笑いながら、
「ありがと!静香。すっごく嬉しい!幸せ!」
俺の幸せが伝わるように、彼女の肩に両腕を回して、ぎゅっ、と抱き締める。
彼女のまとう微かに甘い香りや、すんなりとした抱き心地、儚げな横顔から耳元、首筋の白い肌…。
腕の中の彼女に眼差しを伏せた時、
「必ず、…帰ってきてね。」
白百合のように、ほっそりとした首で項垂れ、彼女は囁く。
心配で仕方ない、とその声は告げていて、俺は腕をとかずそのまま明るい声で、
「もちろん!帰ってくるに決まってるだろ?安心して、待ってて。」
なるべく普段通りに振る舞えば、静香はようやく俺の方へ首をかしげ、
「うん。…待ってる。」
振り絞るような、静香の微笑み。
やっぱり、魔戒騎士について、知られるべきじゃなかったか…。
管轄領域内の浄化をさぼらなければ、ゲートが開くなんてことはそうそうあるもんじゃない。また、よほどのことがない限り、指令書が届くこともない。
でもだからこそ、指令書が届くたび、静香はきっと不安に襲われているはず。
俺が絶狼である限り、彼女の心に平穏は訪れない…。
そんなことはわかっていたことだ。
だが、このままにもできない。
俺は腹をくくる。
彼女から腕をほどくと、
「ね、静香、ちょっといい?」
そう尋ねておきながら、俺は彼女の返事も聞かず、再び彼女の手をとって、てくてくと歩き出す。
訳のわからない彼女は、当然、
「銀牙?…何?どうしたの?」
「ふふ、いいから。」
俺はにこにこしながら、彼女を連れて地下へと潜る。
隠し扉から入る、一本の廊下。
長々と続くその廊下の突き当たりには、異様なほど大きく重厚な扉があり、ひどく威圧的な雰囲気でもって訪れる者を拒絶する。
しかし、俺は何の躊躇いもなく扉に手をかけ、静香を誘う。
「さあ、中へどうぞ。」
「え?でも、ここは…。」
静香が困惑するのも道理。
道寺は彼女に、決して踏み込むな、と立ち入りを禁じていたから。
なかなか入ろうとしない静香の肩を抱き寄せ、
「大丈夫。俺が一緒だろ?」
二人して、場内に足を踏み入れれば、肩を抱く腕に、彼女の緊張する様子が伝わってきた。
「…、銀牙、…ここって一体…。」
不安げに立ち尽くす彼女から離れ、俺は最寄りの燭台に火を灯しながら、
「驚いた?ここは、天井も壁も床も、果てがないらしいよ。だから絶対、この出入口を見失うな、って道寺からは言われてる……!」
振り向けば、静香は怯えるように、両腕で俺の左腕を抱え込んでいた。ぎゅうう、と俺の腕を胸に抱きしめながら、さも恐ろしそうに、奥へと続く深い闇を見つめている。
俺はしばしそのまま、何も言わず、何もせず、ただ静香を見つめた。
黙りこんでしまった俺に、静香はなかなか気づかなかったが、ふと俺を見上げ、
「……どうか、した?」
びくびくと怯えながら、彼女はそう言うのが精一杯だったらしい。
固い表情で、鳶色の瞳が下から必死そうに見上げてくる。
すると俺はにやりと笑って、
「そんなに強く、静香に抱き締められたの、初めてだなぁ、と思って。」
「え?、あ!」
言われて彼女は、俺の腕を容赦なくパッと放り出した。
と思いきや、ハッとしてまた、ひし、としがみつく。
………。
やっぱり怖い、らしい。
こらえきれない口元の笑みを空いている方の手で押さえながら、
「静香、面白過ぎ…。」
すると彼女は懸命そうに訴える。
「お、面白くないわよ!…だって、果てがないって聞いたら、それだけで奥に引っ張られる感じがするのに、……あの闇…、まるで生き物みたい。知らないうちにここまで来て、一瞬のうちに、私を飲み込んでしまうような気がして…。」
ゆるゆると眼差しを下げながら、彼女はそう呟く。
そして再び確かめるように、奥に広がるただひたすらな闇に視線を向けながら、
「……よくわからないけど、ここの闇は、まるで意志でもあるみたいで、……とても怖いわ。」
苦しげに眉を寄せ、小さく身を丸めるようにして、俺の腕にすがりついている静香は、本当に怯えている様だった。
少し考えてから、俺は寄り添う彼女を連れて、もう少しだけ奥に進む。
おずおずとした足取りの静香と、ほんのわずかだけ前へ進んでから、
「ごめん、ちょっとだけ離して。すぐ済むから。」
不安そうな彼女をその場に残し、また数歩前進したところで、俺は魔戒剣を両手に下げた。
すぐさま、剣先で頭上に円を描き、絶狼の鎧を召喚する。
まだ数回しか目にしたことのない絶狼の輝きに、静香は目を瞠る。
俺は魔戒剣を手放し、中空に佇む絶狼を完全な姿にして、静香の隣に戻った。
出入口に背を向けている俺達を、絶狼は少し高いところから見下ろしている。
静香は緊張した面持ちで、そんな絶狼を見上げていた。
「これなら、怖くないだろ?」
明るい調子で彼女に声をかければ、静香はびくと振り向いた。
「…え?」
まだ少し怯えている様子の彼女に、俺はにっこりと笑いかけ、
「これで、闇はここまでこれない。絶狼の輝きに、闇は決して勝てやしないんだ。絶狼は、静香を闇から守ってくれてる。」
俺の言葉に、静香は不意を突かれた表情になり、改めて絶狼を見上げた。
白銀の狼は、うっすらと自ら白い輝きを放って、俺や静香を照らしている。
絶狼の、憤怒の表情は繊細なほど極めて緻密に形作られているが、胴や四肢は大胆かつ頑強なフォルムから形成されている。
傷ひとつない銀色の鎧から滑り落ちるその輝きは、静謐で、冷徹で、神々しい。
「とても、綺麗なのね…、絶狼の鎧って。…、他の鎧もこんなに輝いているの?」
静香の問いに、俺は正直に、
「俺にもよくわからない。
だが、道寺から聞いた話だと、絶狼はどの鎧と並び立っても、一際輝いて見えるらしい。
それでも一番は、黄金騎士、牙狼。」
「黄金、なのね。」
「最強の魔戒騎士だからね。色々、別格らしいよ。まだ会ったことも、見たこともないけど、……俺より強いかもね。」
そう笑いかけたら、静香は楽しそうに、くすくすと笑い返してくれた。
亜麻色の前髪がふわりと揺れ、その下から、柔らかい彼女の笑顔がこぼれる。
俺は息をひとつ吐き、静香を見下ろす。
そして、右手を天に掲げた。
絶狼の鎧から白い光がひとつ、掲げている手の内に飛び込んで来て、ひと振りの剣に戻る。
それを逆手に持ち直すと、コートの裾を軽く捌き、静香の前に片膝をついた。
目を丸くして見下ろす静香に、俺は面を上げ、両の手のひらに刃の部分を恭しく載せて、彼女の右手に向かって柄を差し出す。
そして、飾らない、本当の声で、
「静香、…俺は静香の魔戒騎士でありたい。君だけの魔戒騎士に。君は、俺の願いを許してくれるか。」
以前にも行った儀式。
あの時は、二人きりだったが、今はシルヴァも、絶狼もいる。
静香は自分の身体の前で、両手の指を絡め、少し恥ずかしそうに頬を淡く染めた。
それでも嬉しそうに笑って、
「もちろんよ、銀牙。…誰ひとり許さなくても、私だけは、貴方のどんな願いも許すわ。」
静香の返答も、あの時と同じ。
だが、俺は言葉を繋げる。
あの時は言えなかった、その続きを。
まっすぐに静香の瞳を見つめ、
「静香、…このまま聞いて欲しい。
今日は、俺達の、十六歳の誕生日だ。だが、今回、俺は何もいらない。祝わなくてもいい。
そのかわり、尋ねたいことがある。」
真剣な表情で告げれば、静香はその表情をかすかに強張らせ、神妙な面差しで小さく頷いて見せた。
俺は尋ねる。
「俺は静香に、この身を捧げる。受け取ってくれるか?」
静香の息を飲む気配がした。
軽く口元を引き締め、静香は軽く絡めた指先を自身の胸元にあてがうと、
「…、はい。」
彼女は小さく頷く。
俺は再び、
「俺は静香に、力を捧げる。俺の持つ、魔戒騎士の力、絶狼の力、全てを。受け取ってくれるか?」
悪いな、絶狼。
でも、ここまで引っくるめて、俺は俺。お前を継ぐ者なんだ。付き合ってもらうぜ。
静香は戸惑いながらも、やはり頷く。
「最後に、俺は静香に、心を捧げる。受け取ってくれるか?」
静香は口を固く結んで、俺を見下ろしたまま、動かない。
俺もまた、彼女の瞳を見つめたまま、動けない。
しばらくして、静香は何故かちらりと絶狼を見上げてから、眼差しを伏せ、悲し気に小さく首を横に振った。
「駄目よ、銀牙。……こんなの、おかしい。」
振り払うように呟くと、静香は口元を押さえ、くるりと身を翻してその場から離れようとしたが、闇に満たされたこの空間に行き場などある訳もなく、立ち止まってしまう。
俺は片膝をついたまま、彼女の背中を眺めた。
それから、捧げるべき相手のいなくなった刃に視線を落とす。
褪せるはずのない、魔戒剣の輝き。
俺は緩く笑うと、そのひと振りをコートの中へとしまった。
ゆっくりと立ち上がり、こっそり、息を吐く。
そして、まだ背中を向けたままの彼女に歩み寄りながら、
「ごめんな、静香。…その、困らせるつもりはなかったんだ。」
動かない静香の肩に手をのばそうとして、でももう、その手を置くことにもためらってしまう自分に気づく。
すぐさま振り払うように、明るい声を作りながら、
「静香、…気にしないで。俺も気にしないからさ。」
必死に、何でもない素振りで話しかけているのに、彼女は返事もしない。
さすがに不審に思い、緩慢な歩みで彼女の前へ回り込んでみた。
「静香?」
俯いている彼女は口元と胸を手のひらで押さえ、必死に何かを考えているようだった。
そして、俺が視界に入った途端、ついと面差しが上がる。
まっすぐな彼女の瞳にとらわれ、俺はそれに浮かぶ色を見極めようと覗く。
何か思いついたらしい、静香の小さな声が唇からこぼれた。
「やっと、…解ったわ。」
「え?」
反射的に聞き返すと、彼女は少し自信のなさそうな、弱さの残る口振りで、
「前の時も、何か変な感じがしたんだけど、何が変なのか、あの時は解らなかった。でも、今は解った気がする。」
笑みもなく、ひたむきさばかりが滲む静香に、俺の方が面食らう。
何からどう尋ねたらよいものかと途方に暮れていると、彼女は仕切り直すように肩で大きく息を吐いた。
それから、ちょっとだけ恥ずかしそうに笑って見せてから、すぐにまた、笑みのない思いつめた顔になり、
「ね、銀牙…、私、さっきの銀牙の質問に、はい、って頷いてしまったけれど、それはきっと、間違っていると思うの。」
笑みを消し、そう言い切った彼女の瞳には、ひときわ強い輝きが宿っていて、俺はその強さに圧される。
静香はいつになく凛とした響きの口調でもって、
「貴方は、魔戒騎士。守りし者。
だから、その身も、力も、人々をホラーから守る為にあるべきものでしょ。
なのに、私、受け取ろうとしてしまった。…本当に、ごめんなさい。」
至極真面目な態度で、静香は深く頭を下げる。
呆気にとられる俺より、胸元の貴婦人の方が先に反応した。
微かな、瞬きの音が連なる。
…、くそ、シルヴァまで…。
ゆるゆると頭を上げた静香は、それでも視線は足元に落としたまま、
「私には、許すことしかできないわ。許して欲しいと銀牙が望むなら、どんな願いだって許してみせる。
だけど、銀牙のその身と力は、受け取ってはいけないの。私が受け取れるのは、多分…」
「多分?」
言い淀む静香の背中を押すように聞き返せば、彼女は苦しそうに、
「…貴方の、心だけ。」
しかし彼女はそう答えた瞬間、素早く俺に身を寄せると、コートの上から俺の腕を軽く掴み、下から仰ぎ見た。
大きく見開かれた明るい茶色の瞳が、ふわりと近づき、
「ごめんなさい!でも、間違っては、いけないことだから。」
不意を突かれるほどの強い口調。
でも、その直後、かすかに開いたままの唇が震え、小さく囁く。
「銀牙には、間違って欲しくないから。」
そうして、静香は俺を見上げたまま、唇を結んだ。
涙で潤んだ悲し気な瞳が、じっと俺を見つめて、動かない。
そんな彼女の様子に、俺も動くことができない。
腕に感じる、静香の小さな手。
その重さ、その感触。
彼女に気取られないよう、慎重に彼女を支える。
そんな中、懸命に覗く俺の瞳に、静香は何を見たのか、ふいに、ちょっとだけ唇を歪ませたかと思うと、今度は感情のまま声を乱して、
「私だって、考えなかったわけではないのよ。
銀牙の全てを受け取って、みんな私のものだ、って言い張って、…二度と戦いに行っては駄目と約束させてしまおうか、とも思ったわ。本当にそうできたら、……どんなにいいだろうって…。」
言いながら、静香の声は細く掠れ、その瞳はさらに潤んで揺らめく。
そんな脆そうな眼差しを隠すかのように、彼女は力なく視線を斜めに落としながら、ぼそぼそと、
「だけど、…銀牙は、望んで魔戒騎士になったのだもの。その為に、死ぬほど頑張ってきたのだもの。…邪魔なんて、しては駄目よね…。」
俺のコートから、静香の手が離れて行く。細い指が俺から離れ、力なく下がる。
「それに、銀牙だって、ひとりで絶狼になった訳じゃない。道寺の願いもある。
銀牙には、果たすべき責務があるもの。
それは、守りし者としての使命を全うすることで、果たせるものでしょ。
銀牙は、特に強い魔戒騎士だと思うから、きっと、たくさんの命を守ることができるわ…。」
そう語る静香は、ひどく複雑そうな表情をしていた。
強い魔戒騎士は、確かに多くの命を守れる。
しかし、それ故、危険で無謀な指令が回ってくる確率も高くなる。
頼られていると言えば、聞こえはいいが、実際は…。
だが、それも覚悟の上で、俺は魔戒騎士となったんだ。
静香はそれに気づいている。気づいているからこそ、痛みを隠すような微笑みを浮かべ、
「だから、もし、…銀牙が私に、心を差し出してくれると言うのなら、私は、…銀牙が、心置きなく戦いに臨めるように、後悔しないくらいの戦いができるように、…私はすべてをかけて、貴方の心を守るわ。
貴方の心と共に、貴方の帰りをここで待ってる。
私には、それくらいしか、…きっと、できない。」
弱々しい眼差しを上げ、静香は俺を見つめる。
「それでは、…駄目?」
今にも泣きそうな静香。
俺は彼女に、にっこりと笑う。
そして再び、彼女に片膝をついて、彼女の左手を優しくすくい上げた。
細すぎる静香の指先に、微かに唇を落とし、
「静香の、望むままに。」
冷たい、彼女の指先。
それは唇を落とした瞬間、ふる、と震えた。指先ですら、肌はなめらかで心地好く、ひどく離れ難い。
なのに、突然、静香の指は俺の手をぎゅっと握り込んで、ぐいっと引っ張った。
されるがまま、彼女の前に立ち上がった俺に、静香は嬉しそうに笑う。
「駄目よ、銀牙。私なんかに、頭を垂れては。貴方は、誇り高き魔戒騎士、絶狼、なのよ?」
繋いだ手を解くこともなく、くすくすと笑う静香に、俺は仕方なく、少し威圧的な声で、
「静香、だからだろ。」
だが、彼女はきょとんとした顔で首を傾げる。
幼い頃と変わらず、あどけなく可愛いらしくて、……腹が立つ。
しかし、俺の手を掴んでいた彼女の指が緩んで離れていきそうになり、今度は俺が力をこめる。
「?、銀牙…?」
不思議そうに首をかしげて見上げてくる静香に、俺はとうとう敗北する。
僅かに眉をしかめ、困った笑みを浮かべると、
「実はね、静香……俺、静香の銀牙になりたかったんだ。」
「私の?、銀牙?」
困惑気味の彼女に、苦く笑いながら、
「そ。俺の何もかも全部が、静香のものなんだ、って知って欲しかった。
まさか、魔戒騎士としての身体と力を返品されるとはね。思いもしなかった。」
幾分拗ねた言いぐさになってしまった俺に、静香はたちまち眼を三角にする。
「返品、じゃないわ!銀牙の魔戒騎士としての力は、私なんかが受け取っていいものじゃないもの!」
「俺が望んでも?」
睨むように見据えてしまい、静香の顔に痛みの影が走る。
内心、自分に舌打ちし、俺はなるべく声を和らげて、
「静香の言い分も、解るよ。
魔戒騎士の力、絶狼の力は、人以上の力。それも、暗黒の力だ。
だけど、俺からすれば、それだって俺が自分の力で勝ち取ったもののひとつに過ぎないんだ。
だから、差し出せる。」
どうしても強い口調になってしまい、静香は追いつめられたように俯く。
俺は手を離し、下を向く静香にそっと告げる。
「俺の、魔戒騎士としての力全てを、静香のものとしてくれれば、俺は静香から、身体と力を借りて戦うことになる。
そうなれば、絶対に死ねないし、必ず生きて帰らなくちゃいけない。……静香の元へ。」
静香はゆるゆると顔を上げる。
幼い頃のような、弱々しい儚げな眼差しで俺を見つめ、再度、
「私の、元へ?本当に?」
「もちろん。だって、俺は静香のもの、だろ?」
くったくなく笑いかければ、彼女はやっぱり嬉しそうに微笑み、
「…解ったわ。私も、銀牙の望む通りにする。銀牙は、間違わないもの。」
そして、静香は俺の顔を覗きながら、たどたどしく囁く。
「受け取るわ、貴方の差し出す全てを。…私のもの、銀牙…。」
俺はにっこりと笑って、ふわと彼女に身を寄せ、胸に抱く。
「そ。静香の、銀牙だ。」
柔らかく抱き締めれば、彼女は、ふ、と息を吐いて、身体の強ばりを解く。
支えて欲しい、と言われている気がして心地好い。
全部委ねられている柔らかさが、愛しい。
これでいい。
これだけで充分だ…。
それなのに、静香が腕の中で囁く。
「ねえ、銀牙。私にも、聞いて。私は、…誰のものか。」
じゃれるような、楽しげな静香の声に、俺は苦く笑ってしまう。
それでも、少しだけ身構え、俺は彼女の望む通り、改めて尋ねる。
「静香は、…誰のものなの?」
すると、彼女は少しだけ俺から身体を離し、顔を上げ、ゆっくりと微笑む。
亜麻色の前髪が揺れ、悪戯っぽい楽しげな瞳がきらりと輝く。
あどけない薄紅色の唇に柔らかい笑みが広がり、
「知らなかったの?銀牙。…私はずっと前から、銀牙のものだったのよ。」
瞬間、俺の胸に熱が灯る。
頬をほんのり赤く染め、そう答えた静香は、清楚なのにどこか艶やかで、知らず乱される。
彼女は両の手のひらを俺の胸にそっと当てると、その上から額を当てた姿勢になり、
「ふふ、……やっと、伝えられた。すごく、嬉しい…。」
はにかむような静香の囁きに、心が痺れる。
腕の中の彼女全てに陶然となり、俺は身体全体で静香を強く抱き締めた。
「銀牙、…私の銀牙、どうか無事で…。」
胸元で聞こえる、彼女の震える声に、
「ああ。俺は、これからも静香を守る。だから、必ずここに帰ってくる。必ずだ。」
そして、俺はついさっき、これだけで十分だ、と諦めたはずの願いを、静香に告げてしまう。
心のどこかではまだ、理性がブレーキをかけていた。
それはいけないことだと。
けれど、今感じている静香の全てに、もう抗うことができなかった。
彼女の耳元へ、さらに潜めた声を寄せ、
「だからさ、今回の指令を終えて帰ってきたら、…道寺に言ってもいい?…静香をお嫁さんにしたい、って。」
前から決めていたことではあった。
十六歳になった時、静香の隣に誰もいなかったなら。
どうか俺の隣にいて欲しい。
いや、俺と共にあって欲しい。
これまでずっとそうだったように、これから先もずっと。
そう、伝えよう、と。
迷いは、ずっとあった。
俺は絶狼の称号を継ぐ者となるために、道寺に引き取られたガキ。
魔戒騎士となった暁には、常に闇に身をおき、人知れずホラーを狩ることで、守りし者としての使命を果たさなければならない。
息をつく暇もなく、戦いに明け暮れることになる。
いつ、命を落とすかもわからない。
そんな俺が、静香を望んでいいのだろうか。
今だって、指令の度に彼女は胸を痛めている。
それなら、せめてこのまま家族として彼女を見守っていく方が…、彼女に相応しい男と彼女が幸せになっていくのを見守っていく方が…、本当に彼女の幸せを願うのであれば、…正しい気がする…。
「バカヤロ!こんなところで、くたばる気か!」
仲間の屍に気を取られ、魔獣の攻撃を食らいそうになった俺を、その男は殴りかかりそうな勢いで怒鳴りつけた。
「てめえには、帰りを待ってる女がいんだろうが!女を、泣かすなっ!」
壮年の男は手練れだったが、さっき俺を庇ったせいで片腕から血を滴らせている。
それを横目で一瞥してから、俺は二振りの魔戒剣を構え直し、咆哮を上げて暴れ狂う魔獣を睨み付けた。
「そんなつもりは、まだないよ。」
戦いの中、仲間を殺され、自分も怪我を負い、男はぴりぴりと気が立っていたらしく、それで余計に俺の言葉が癇に触ったようだった。
俺の隣で同様に剣を構えつつ、男は魔獣を睨みながら、
「まだぁ?戦場じゃ、まだもくそもねえ!てめえの都合なんざ、関係ねえんだ!生きようとしない奴から、死ぬんだよ!」
言われて、納得した。
静香を諦めた方がいいんじゃないのか。
そんな迷いを抱えた途端、俺の剣から何かが消えた。
生と死のせめぎ合いの中で、生き延びるために必要なもの。
その時、思い知った。
彼女を悲しませたくない。
何より、生きて帰り、もう一度彼女に微笑んでもらいたい。
…ただ、会いたい。
そんな願いが、俺をどんな死地からも救ってきたのだ、と。
戦いから戻った俺を、静香はいつも不安そうに潤んだ瞳で見つける。
姿をとらえても、まだ安心できない、という風に身体を強ばらせ、彼女はすがりつくような眼差しで、ただただ俺を見つめる。
だからゆっくりと彼女の前に立ち、できるだけ穏やかに笑って、
「ただいま、静香。」
そう言った途端、彼女の鳶色の瞳は眩しいほどの輝きを取り戻す。
そして、花が咲きこぼれるような笑顔で俺を見上げて、嬉しそうに甘く返してくれる。
「お帰りなさい…、銀牙。」
静香の微笑みは、もう明るく無邪気なだけじゃなく、まるで透き通るような輝きを放ちながら、包み込むように優しく俺を迎えてくれる。
よかった…。
また、静香が笑ってくれた。
嬉しくて、心が震える。
そんなやりとりが、気づけば俺の全てになっていた。
俺では彼女を幸せにできないのだろうか。
彼女の幸せの為にも、家族でいた方がいいのだろうか。
俺は静香を諦めなくちゃいけないのか。
そんな迷いを抱えただけで、無意識のうちに生きようともしなくなるくらい、俺は静香を求めている。
彼女が側にいてくれないなら、生きて帰る必要なんかない。
静香を諦めるということは、生きる目的を失うということ。
いつの間にか、俺はそんな奴になってしまっていたらしい。
十六歳になった今、静香の隣には、誰もいない。
俺は決意する。
俺は絶対、死なない。
どんなに絶望的な状況の中に放り込まれたとしても、俺は静香のすべてを守るために、決して死んではならない。
必ず生きて、静香の元へ帰ってくる。
それなら、迷う必要もなくなる。
静香に相応しい男?
そんな奴、いる訳ない。
どんな奴が来たって、俺は微塵も信用しない。
俺以上に、静香を大切にできる奴なんか、いるはずない。
だから、静香は誰にも渡さない。渡すもんか。
後は、彼女がそう望んでくれれば…。
俺の台詞に、びく、と静香の身体が強ばったのが判る。
俺は自分の胸に彼女を押しつけるように、さらに抱く。
不安なんかなかったはずなのに、気づけば、腕を緩めることができない。
苦しい静けさは、ほんの一時。
聞き取れないくらい小さな声が、胸元で聞こえた。
「本当に、…私で、いいの?」
静香の言葉を耳にするなり、一瞬にして、身体中に熱が巡る。
やった!
やっと、だ。
体温が上がり過ぎて、身体がふわふわする。
自分の鼓動がバカみたいにうるさくて、笑いがとまらない。
嬉しい。
嬉し過ぎて、わけわかんない。
ただひたすら、彼女を抱き締め、抑えきれない嬉しさが零れる声で、
「静香以外、考えられないよ。」
そう答えれば、彼女は、
「嬉しい…。本当に…。」
そっと魔法衣を握り込む彼女の手が、たまらなく、いとおしかった。
ささやかな安堵と、身体すら吹き飛びそうなほどの喜び。
誰にも渡したくない。
早く、自分のものだと周りに認めてもらいたい。
相手を疑う気持ちからではなく、ひたすら求める気持ちが抑え切れないでいた。
彼女が名を呼び、微笑んでくれる。
それだけで、どんなに辛いことも悲しいことも、乗り越えることができる。
そんな彼女が、今、本当に腕の中にいる。
そして、これからも共にいてくれる、と約束してくれた。
もう、失うことなんて考えられない。
彼女を奪うものがあれば、何者であろうと、俺は絶対に許さない。
どんなことをしても、必ず取り返してやる。
何より、静香は俺でいいと言ってくれた。
受け入れてくれた。
選んでくれた。
望んでくれたから。
「俺は、静香を守る魔戒騎士になる。静香だけは、どんなことをしても、必ず守るよ。」
明るく微笑む、静香。
綺麗で、可愛い、静香。
儚く弱々しい、静香。
そっと名を呼んでくれる、静香。
「銀牙…。」
誰よりも優しい、俺の最愛の女(ひと)…。
幸い、指令は特徴の知れたホラーを討伐せよ、という至極単純な代物であったため、その日のうちに終わらせることができた。
夜、城へ戻った俺は、静香とともに、道寺へ婚約を報告する。
ベッドに横たわったままの道寺は眉ひとつ動かさず、
「至極、当然だな。」
すると、銀色の魔導具が呆れた口振りで、
「あんなに、やきもきしたの、初めて。焦れったい、ったらなかったわ。立会人なんて、二度と御免よ。」
俺と静香は顔を見合せ、思わず笑ってしまう。
「悪かったよ、シルヴァ。でも、二度はないよ。」
そう言うと、貴婦人は俺の胸元で、
「そう願いたいわ。ね、静香。」
「はい、シルヴァさん。」
言われて、静香は彼女に明るく笑う。
その明るさに、シルヴァは小さく息を吐いて、
「絶狼の一番になれないのは残念だけど、静香になら、譲りがいもあるわ。絶狼に悪い虫がつかないように、私が目を光らせておくわね。」
「うふふ、はい。」
女同士の会話に割り込む勇気もなく、俺は苦く笑うしかない。
何となく恋人同士みたいなだけであったのが、ようやく生涯の伴侶と明言することができた。
そして、この頃から、道寺はゆっくりと死の床に沈みつつあったように思う。