婚約を報告して、三ヶ月ほど経った頃。
道寺の思惑通り、俺の封滅したホラーの数が百に達した。
ほどなくして、試練も無事済ませることができ、魔導馬銀牙を得たものの、道寺が倒れてしまう。
「気にするな。」
感情もなく、道寺は呟く。
ベッドに身を横たえたまま、彼は何もない前方へ視線を流している。
生気のない、ひどく影の濃い横顔。
前々から道寺の持病が悪化していたのは、知っていた。
俺と静香は、道寺の身を案じ、再三、療養に専念してくれと頼んでいたのに、彼は頑固一徹、全く聞く耳を持ってはくれなかった。
「気にするよ!心配だってする!家族なんだから。」
俺は怒り、静香はただ悲しげに俯く。
彼女のそんな態度は、正直、俺の不安を掻き立てた。
道寺の寝室から、二人してリビングに降りた際、俺は彼女を呼び止める。
「静香。」
ふわり、と淡い花柄のスカートを揺らし、彼女は振り向く。
シンプルな白いブラウスに、背中にかかるくらい長い彼女の亜麻色の髪は軽やかに映えてみえる。
「どうしたの、銀牙。怖い顔をして…。」
明るい鳶色の瞳が、俺を映す。
淡い薄紅色をした唇は、かすかな笑みを浮かべていたが、やはり道寺の容態が気がかりなのか、伏せ気味な瞼には憂いの影が滲んでいた。
その儚げな美しさが恐くて、俺は笑みを浮かべることも忘れ、彼女の腕をそっと掴むと、
「静香は、大丈夫だよね?道寺みたいに、無理してないよね?」
多分、かなり真剣な表情で尋ねていたのだろう。
彼女は驚いたように、わずかに目を丸くしてから、小さく笑って、
「うん。私は、大丈夫。」
明るい微笑に、俺はひとまず安堵の息を吐く。
「なら、いいんだけど。…何か、さっきの静香、らしくない感じがしたから…。」
「らしくない…?」
怪訝そうに首を傾げてみせる彼女に対し、俺は傍らのサイドテーブルに視線を流しながら、
「道寺のこと、…怒らなかっただろ?」
いつもの静香なら、もっと悔しそうに怒るはず。
だが、さっきの彼女は、悲しいけれど、仕方がない、と諦めている様に見えた。
サイドテーブルには、抱えるほどの大きな花瓶が置かれていて、あふれんばかりに花が活けられている。
その中で、一際目を引くのは、比較的大きい、八重咲きの薔薇。
オレンジ色のグラデーションが可愛らしいその薔薇は、大量の花びらを内側に抱えていて、ずっしりと重そうに見える。多分、最後まで咲き切ることなく、しおれてしまうことだろう。品種改良の末とはいえ、不自然な花だ。
俺が冷たい目でその花を見つめていると、静香はその花達に歩み寄り、指先で優しく弄ぶ。
愛でるように花を撫でながら、彼女は、
「道寺が今どんな気持ちなのか、何となくわかる気がするの。」
胡蝶蘭の白い花びらを揺らしつつ、
「彼の持病は、私と同じ、治るものではないでしょ。
それなのに、病状が進んでしまって、…彼のことですもの、きっと後のことを心配したのだわ。
だから、残すべきものを銀牙に託し終わった今、…きっと、満足していると思う。」
悲しみに沈んだ表情で、静香は花達に微笑む。
だが俺は、誰もいない方へと吐き捨てる。
「そんなこと、命を削ってまですることじゃない!
俺は絶狼の称号を継いだんだ。魔導馬くらい、自力でだって何とかできたさ!それなのに…。」
あの、くそ道寺!
お節介もいいところだ…。
悔しさと、やりきれなさで、腹が立って仕方ない。
すると、静香は俺の腕に軽く掴んで、じっと見上げてきた。
潤んだ瞳から、涙はもう落ちそうになっていて、その悲しげな面差しに、息がつまる。
「ただ命を長引かせるばかりで、何も残せないよりも、命を削ってでも、銀牙に何かを残す方が、道寺には大事だったのよ。
銀牙だって、本当はわかってるでしょ?」
「わかってるさ!だから、悔しいんだ!…いつまでも、ガキ扱いしやがって…。俺はまだ、道寺に何も返してないんだ!なのに、勝手にさっさと死ぬ気なんだぞ!頭に来るだろ、普通さ…。」
喚き散らす俺に、静香は目を丸くしていたが、じんわりと微笑み、俺の前に立つ。
緩慢とした動作で、静香は俺の胸元に頬を寄せ、両腕を腰に回してきた。
温かく柔らかい彼女の気配が、ひたりと寄り添い、
「…そうね。銀牙の、言う通りだわ。…あの人は、いつも、意地悪ね。」
そう呟いて、静香は、はらはらと涙を落とした。
俺に抱きついたまま、どこか満たされた表情で泣く静香に、俺はまた不安になる。
彼女の両肩をつかむと、ゆっくりと引き剥がし、強い口調で言い放つ。
「静香は!、そんなこと、考えちゃ駄目だからな!」
「銀牙…」
よろめくように静香は顔を上げる。
俺は静香の肩を掴んでいた手で、今度は彼女の顔をとらえた。
傷がつくことすら恐れるような、柔らかな手つきで彼女の頬を両手で包む。
そっと上を向かせれば、彼女は泣き顔を見られたくないのか、眼差しを伏せ、俺から逃れようと弱々しく身をよじる。
俺の両手に自分の手を重ねて、優しく外そうとしてくるが、俺はそんなことは許さず、静香の瞳をまっすぐに見下ろしながら、
「二人とも、どうしてもっと、生きようとしないんだ。」
ハッとしたように、静香は俺を見上げる。
彼女の表情はまだ悲しみにとらわれたままだったが、俺は彼女の瞳を見据え、
「それに、静香は俺と共にあるって約束したはずだ。…勝手に死ぬことなんて考えたら、絶対許さないからな。」
言うだけ言って気が済んだ俺は、ふう、と息を吐く。
僅かに肩を下げ、眼差しを伏せると、目を丸くしたままの彼女の額に、こつと自分の額を当てる。
小さい頃はよくこうして、笑い合っていた。
昔はこれで、相手をより近くに感じることができて、嬉しくて、楽しくて、安心できた。
今は、届かない想いばかりで、もどかしくて仕方ない。
こうして、触れ合うほど近くにいるのに、彼女の気持ちを掴みきれていない気がして、不安でならない。
落ちていく気持ちを救い上げてくれたのは、やっぱり、静香だった。
自分がされているように、静香は俺の頬に両手を当て、じんわりと嬉しそうに囁く。
「うん。わかってる。わかっているわ。…銀牙、私の大切な人。私の、銀牙…。」
静香の微笑む気配に、俺もようやく微笑み返す。
そうして、この日以降、俺は当然のことながら、正式な絶狼継承者として指令をこなすようになっていく。