魔戒騎士の使命を果たすということは、想像以上に精神的な消耗を強いられるものらしい。
もちろん、そういったことも、多少は道寺から伝え聞いてはいた。
だが、厳しい内容の指令が続くうちに、気にも止めなくなり、忘れていった。
辛いと思い始めてしまえば、何だって辛くなってしまう。
そう思って、ただ虚勢を張るばかりではなかったか、と問われれば、そうだったのかもしれない。
それでも、傍目には以前と変わらなく見えていたと思うし、結構うまく立ち回れているという自負もあった。
しかし程なくして、いつもの自分らしく軽い足取りで城に戻り、魔法衣と魔導具を自室に置いてシャワーを浴びていると、不意に、自分の内側に仄かな闇を感じるようになった。
艶やかに光る、黒い絹糸のようなものが、すごい速さで俺の意識に蔓延(はびこ)っていく感覚。
糸は針のように鋭く、俺の精神を突き刺し、貫き、雁字絡めにして、じわりじわりと気がつかないくらいの血をこっそりと滴らせる。
まるで芽吹いた種が土に根を張り巡らせてゆくかのように、音もなく、気配もなく、けれど確実に俺の精神を侵食し続け、ようやくそのダメージが自覚できるほどとなった、ということらしい。
一体、いつからなんだ、と唇を噛む。
最初、ホラーの仕業かとも思ったが、糸から邪気らしきものは感じられない。
そもそも、他者の意図らしき気配すらない。
だが、よくないものであることだけはわかった。
剣士として、それは断ち切らなければならないことはわかっているのだが、それは俺の深い部分にも根を張り巡らせていて、自分ごと斬りたくなる。
正直、誰にも相談したくなかった。
これくらいのこと、ひとりで何とかできなくてどうする?
そう思うほど、黒い糸はますます勢いをつけて俺を縛り、締め付ける。
「蝕まれて、いるな。」
日に一度、それと、指令をこなした後は必ず、道寺の元へ顔を出す。
その時は、指令終了の報告の為、彼の寝室を訪れたのだが、ベッドに横になったまま本を開いていた道寺は、歩み寄る俺を一瞥するなり、そう言った。
そして、再び本を眺めながら、相変わらずの感情の乏しい口調で、
「ホラーを倒せば、わずかずつだが、生身にも邪気が溜まる。言ったはずだ。」
「どうすればいい。前回は、試練を終えたら、浄化されていた。」
ベッドの傍らに立つ俺に、道寺は古紙から目を上げることなく、淡々と対処法を説明し、最後に、
「それでも駄目だったら、…静香にでも、泣きつけ。」
「…、は?」
一瞬、意味が解らなかった。
聞き返しているのに、道寺は素知らぬふりで、さらりと本のページを繰る。
…、今、静香って…。
静香?
どうして、ここで、…静香?
全く話す気がない道寺に、俺は即、諦める。
仕方なく、彼の寝室を後にすると、今度は気難しい相棒の方へと尋ねてみた。
「どういうこと?シルヴァ。」
「何のことかしら?」
銀色の輝きをまとう魔導具が、冷たい声色で、質問を質問で返してきた。
二人して、俺をからかってやがるな。
そう直感し、それが癇に障った俺は思わず足を止め、胸元の彼女を指でつまみ上げると、睨むようにして問い質してしまう。
「お前は今、誰の魂を喰って、ここにいるんだ?」
低い声で唸ると、彼女はちょっとだけ怯んだ後、
「怒らないでよ、絶狼。」
らしくない彼女の弱々しい台詞に、俺も自身のらしくない態度に気づく。
なんでこんなことに、こんなにイラついてんだろ。
気を取り直すように、俺はそれでも少し固い声で、
「…邪気のこと、解っていたのか?」
すると彼女は口振りを改め、僅かに憂いの滲む語り口でもって、
「正直に言うわ。今の絶狼は、邪気の影響が半分。後の半分は、精神力の問題。貴方は、絶狼の称号を継ぐには、まだ少しだけ幼いのよ。」
「何?」
さらに声を低めて聞き返せば、麗しき魔女はすぐさま、
「大の大人ですら、擦りきれ、闇落ちすることもある、魔戒騎士の暗黒面。絶狼は今、鎧の持つ暗黒の力にも、苛まれている状態なの。精神的に成熟していない絶狼の負担は、今、肌で感じている通りよ。
だけど、道寺は絶狼を信じている。絶狼さえしっかりしていれば、きっと乗り越えられるわ。そうでなければ、対処法を教えるより早く、絶狼から魔戒剣を取り返しているはずよ。」
確かに、そうかもしれない。
道寺はまだ、俺を見限ってはいない。
自室に戻り、魔導具を外すと、どっと疲れて、ベッドに倒れた。
「駄目よ、絶狼。静香に嫌われるわよ、シャワーぐらい浴びなさい。」
解っていることを指摘され、余計に苛つき、思わず憎まれ口を返さずにはいられない。
「う、る、さ、い。…駄目、眠くて。ちょっとだけ、…寝かせろ、よ…。」
確かに、俺は疲れていた。
道寺から対処法を聞き、明日にはなんとかなる。
そんな気の緩みもあったかもしれない。
すぐさま俺は眠りに落ち、目が覚めた時には、信じられない光景に絶句する。
「…、絶狼?…」
急に聞こえた、シルヴァの弱々しい声。
眼下には、ベッドに横たわっている静香の、眠るように穏やかな表情。
俺は彼女の両側に膝をつき、真上から彼女を見下ろしていた。
思考が止まるほどの混乱に支配されたのは、事はそれだけではなかったから。
俺の右手は、あろうことか、彼女の髪を荒々しく鷲掴んで、彼女を軽くのけ反らせており、そして、俺の左手はさらに驚くことに、差し出すように露わになった彼女の細い首へ、魔戒剣の刃を押し当てていた。
何より鮮烈に目に入ったのは、飛び散った、小さな赤。
枕やベッドを包む真っ白なシーツ、それと彼女の白磁のように白い首元を彩るように、赤い点が散っている。
微かに漂っているのは、確かに血の匂い。
……、な、んだ、これ…。
そんな有様を食い入るように見下ろしたまま、考えることもできないうちに、ぴっ、とまた静香の首に、赤い線が走り、朱が散った。
魔戒剣はソウルメタル製。
鎧ほどでないにしても、刃に触れれば、皮膚は裂ける。
首を赤く染めながら、それでも静香は抗おうともしない。
剣を薙ぎ払えば、静香は間違いなく絶命する、という状態で、俺は我に返ったらしい。
「静香!」
びっくりして身体から力を抜けば、途端に、静香は小さな咳を繰り返した。
あわててベッドから飛び下り、俺はサイドテーブルに置いたシルヴァを引ったくるように掴むと、振り向くことなく部屋を飛び出す。
「絶狼?!」
魔導具のよろめくような呼び掛けに、俺は駆けながら唸る。
「甘かった!…猶予なんてなかったんだ!今すぐ浄化に向かう。」
まさか、こんなことになるなんて。
よりによって、静香を手にかけそうになるなんて。
血を滴らせた静香の姿を思い返すだけで、体温さえ不安定になる。
赤く熱い感情が自身の内側で暴れ、視界も指先も、ちりちりと焦げるようだ。
階段すらもどかしくて、俺は手摺に手をかけ、二階の吹き抜けから身を踊らせると、一階のエントランスへ着地し、そのまま玄関ドアに手を伸ばす。
しかし、そこで鋭い殺気を感じ、瞬時に一歩退いた。
直後、足のあったところには、小さな投げナイフが突き刺さる。
振り返れば、道寺が二階から見下ろしていた。
低く、冷徹な声で、
「取り乱すな、銀牙。」
「しかし!」
「闇落ちしたいか。」
強く重たい声で、彼は押さえつけてくる。
だが、
「そうならない為に!」
俺は急ぎたかった。
自分で自分を制御できないでいるらしいこの現状に、恐怖すら感じていた。
それなのに、道寺は自分を止めようとしている。
どうして道寺がそんなことをするのか。
どうしてこの不安を道寺は解ってくれないのか。
もどかしくて、怒りすら覚え、俺がぎろりと彼を睨み上げた瞬間、
「…急くな!」
道寺の鋭い台詞を耳にした途端、俺は自分の焦りから解放された。
彼の言霊が、俺の感情の昂ぶりを断ち斬ったのだと気づく。
知らないうちに息さえつめていて、俺は肩で息をする。
そして改めて、道寺は本物の剣士なのだと痛感した。
「父さん…」
安堵と落胆で、道寺を見上げる。
自分でも情けないくらい、力ない声。
ようやくにして、本来の自分に戻ったと感じる。
しかし、見下ろす道寺は普段と変わらない、淡泊な口調で、
「必要なのは、強靭な意志だ。乱れれば、余計に蝕まれる。」
「そうよ。…大丈夫。今の絶狼は正気よ。」
手につかんだままだった美しい魔導具が、迷いを断つように穏やかに響いた。
「冷静であれば、よい。」
最後にそう言い、道寺はくるりと背を向けると視界から消えた。
やれやれ…、俺はまだまだ未熟なガキ、ってことか。
さっきまでの自分が、どれほどみっともない有り様だったか思い知り、内心自嘲する。
俺は相棒を胸元に納めると、再びドアに手をかけた。
「いいの?…静香をあのままにして。」
意外そうな彼女の声に、俺は手を止め、小さく笑う。
「ああ。今のまま近寄りたくないんだ。」
「そう…、絶狼がそれでいいのなら。」
冷たい輝きを放つ賢女は、憂いを帯びた声で囁く。
恐らく彼女は、静香の傷を心配しているのだろう。
だが、今の俺にはそんな資格すらない。
玄関ドアを押し開け、俺は飛び出す。
まだ夜の明けきれていない、朝焼けに濁る闇の中、時を惜しむように駆けて急ぐ。
道寺の忠告通り、ひどく冷静に…。