浄化の儀式は、丸一日かかった。
生身の浄化は、さして時間はかからなかったが、念のため、鎧の浄化も依頼したせいで、本当に一日かかってしまった。
俺の駆け込んだ先は、ある馴染みの魔戒法師の住まい。
多忙な人であるため、ここにいるかどうかは賭けだったが、幸いにも叩いた戸は開いてくれた。
押しかけたその時には何も言わなかった彼女だったが、去り際になって口を開いた。
ほっそりとした白い指で、小さな杯を煽るなり、
「それで、…どうする?」
古ぼけたテーブルの向こうに腰かけている彼女が、ことりと杯を置く。
楚々とした美しい面差しに、皮肉っぽい笑み。
二十代後半くらいとおぼしき彼女だったが、出会った頃と少しも変わっていない。
剣を振るう天女のごとく、鮮やかで瑞々しい美しさと、丁寧に研ぎこまれた刃のような鋭さが混然としている。
何かと白い仮面で隠されることの多い切れ長の眼とともに、そう質されてしまい、俺は仕方なく疲れた笑みを向けて、諸手を上げるしかなかった。
「…お手上げさ。とりあえず、浄化はしたけど、これからどうしたもんか…。」
すると彼女は胸元で腕組みし、黒曜石の瞳で俺を見据えたまま、
「単純に、邪気が溜まる前に浄化を繰り返す、というのも、ひとつの手さ。
ただ、お前のホラーを封滅するペースは、ちと尋常ではない。それさえ頭にあれば、さして問題なかろう。
それ以外で邪気に抗おうというのなら、基本的に、方法は二つ。精神力を上げるか、絶えず癒すか。」
台詞と同時に、女の右手が持ち上がり、人差し指と中指がぴんと立つ。
その拍子に、孔雀石から削り出した極めて細身のブレスレット達が、彼女の右手首でしゃらと鳴った。闇のように黒い深緑の石に、烏の羽根が帯びる光沢のような光がちらちらと過る。
「それって具体的に、どうするんだ?」
一応確認してみようと尋ねてみれば、彼女は杯に酒を注ぎながら、当たり前のように、
「精神力を上げるなら、真理に近づけ。」
「真理に、近づけ?」
あまりの訳の解らなさに、俺は首を捻る。
全然、説明になってやしない。
だが、彼女は朱鷺色の唇でにやりと笑うと、
「一番手っ取り早いのは、…子を生せ。」
「はああ?」
頭に何かが浮かぶより早く、声が出た。
何言ってんのか、マジで全っ然解んない。
「え?…、何言ってんの?」
多分、不愉快を通り越して、苛立ちさえあらわにした声で聞き返したと思うが、彼女は道寺と変わらないくらい感情のない口振りで、
「子を生すこと、すなわち、男女の仲を知ることは、綺麗事ではない。光も闇も内包する、本質的な問題をはらんでおる。ひどく個人的でありながら、人として共通かつ普遍的でもある行為だ。
そういった真理に近づくことは、騎士であれ、法師であれ、自身の精神に大きく影響する。
ガキではいられなくなるくらいにはな。」
そこで彼女はちらりと俺を盗み見、ふと眼差しを伏せる。
ひとつ、息をし直してから、
「ガキであるということは、ある意味、穢れがなく、無垢であるということ。
お前は、魔導馬を得た時、自身の闇や弱さと対峙したはずだ。
だが、他者と育む愛情の先にある闇や穢れを、お前はまだ知らぬ。ガキでは知り得ない闇が、悲しいかな、この世界にはあるのだよ。
まあ、知らぬままでも、打ち勝つことはできる。ガキにはガキの強さがある。
だがそれでは、撃ち破るばかりで、解りはしない。
そんなやり方は、お前の流儀ではないだろう。
ならば、今のお前の状態を打開する手立てとしては、それほど悪くないと思うが。」
斬り込むような眼差しでそんなことを言い続ける彼女に、俺はくるりと背を向けた。
「幻、滅。」
これでもか、というくらい落胆した声で言ってやる。
「まさか、貴女がそんなことを言うとはな。」
がっかりし過ぎて、裏切られたとさえ思える。
「自分の都合だけで、そんな真似はしたくないね。」
実際、気分が悪くて、早くここから離れたいくらいだった。
俺がそんな真似できる相手は、静香ただひとり、と彼女は知っているくせに。
そして、その静香を俺がどれだけ大切に思っているか、それだって知っているくせに。
まるで静香を利用しろと言わんばかりの彼女の言い方に、もはや怒りと嫌悪しかなかった。
「次の浄化は、他を当たる。もう、ここには…」
早く離れたくて、立ち去りながら告げる俺の背中に、彼女の呆れ果てた声が被さってきた。
「誰が、己の都合だけでしろと言った?」
言われて、俺は声をつまらせる。
その拍子に振り向いてしまった俺に、彼女はゆっくりと頬杖から身を起こした。
そして再び胸元で腕組みすると、意地の悪い笑みを深くし、幾分声を低めて言った。
「儂は心を棚上げしてまで、そうせいと言った覚えはないぞ、凉邑。心の添わぬそんな行為は、愚の骨頂。
これまでのお前と静香姫を知っているからこそ、何かしら得られるだろう、と思ったまでのことだ。」
返す言葉もない俺に、彼女は突き放すような強い口調で、
「お前は当分、ガキでおれ。ガキのまま、絶狼の闇を捩じ伏せ、邪気に抗え。称号持ちは伊達ではあるまい。浄化なら、いくらでも手を貸してやるわ。」
叱るような口振りでそう言い切ると、彼女はしばし、俺をじっと見つめた。
威圧されているようで、内心たじろぐ。
しかし、彼女は今度はゆっくりと、落ち着いた陰りのない笑みを浮かべ、
「そういうお前だからこそ、手を貸したくなるというもの。悪い気はせんよ。…ただ、あまり姫を泣かすなよ。」
彼女は、静香が怒る時も悲しい時も、嬉しい時ですら、よく泣くことを知っていて、こんなことを言っているんだ、と気づく。
だが、ここへ来る直前の出来事が脳裏を掠め、俺は胸に走った痛みを無視し、穏やかに微笑み返しながら、
「心外だな、……って言いたいところだけど、俺、静香の泣き顔も、結構好きなんだよね。」
上目遣いにそう告げれば、彼女は口を尖らせ、
「たわけが。ならば、用も済んだのだ、疾く去れ。」
彼女の弾くような軽口に、俺は肩をすくめて見せると振り切るようにコートを翻す。
しかしすぐさま、
「凉邑、」
「ん?」
肩越しに聞き返すと、彼女はまっすぐに俺を見据え、
「お前が、…いつまでもガキでおれぬように、姫君もまた、いつまでも姫君ではおれぬ。闇も穢れもある、人、女なのだ。忘れるなよ。」
「…ああ。」
彼女の言葉に小さく頷くと、俺はこの魔戒と人の世の狭間から抜け出るべく、歪んだ通路を戻る。
ようやく、帰れる…。
胸に淀む息を小さく吐き出し、ゆっくりと歩き出す。
彼女の元へと。