城に着いたのは、深夜。
とっくに寝静まっていると思っていたのに、誰かが起きている気配がした。
道寺のはずもない。
物音に耳を澄ましながら、明かりのこぼれているところを見つける。
まもなくたどり着いたところは、キッチンだった。
そっと覗けば、キッチンカウンターに向かっている静香の後ろ姿が見えた。
こんな時間まで起きていては、身体に障る。
そう言ってやりたいのに、彼女がハイネックのノースリーブで首元を隠していると気づくと、声が出なくなった。
彼女は緩く髪を結い上げ、エプロンまでして、何かを作っているらしい。
こっちの方にまで甘い匂いが漂ってきている。
こんな時間に、スイーツ作り?
薄いミントブルーのノースリーブに、キャラメル色のゆったりとしたガウチョパンツ、という服装は、静香を知る者からすれば少し珍しい出で立ちといえた。
キッチンの入口に背中を預け、コートのポケットに両手を突っ込み、しばし静香を眺める。
ちらり、ちらりと見える、彼女の真剣な横顔。
雪のように白い頬に、しどけなくほつれた焦げ茶の髪が、ゆらゆらとかかる様に見惚れる。
とは言え、手元は急いでいる風でもなく、ひとつひとつの動作はのんびりとしたペース。
どうにも気がついてもらえないようので、仕方なく彼女の背後に立ち、彼女の肩の上から覗くようにして、急に声をかけてみた。
「しーずか。」
「!、きゃっ」
声をかけた瞬間、びくっ、と彼女の背中が跳ねたのが見えて、思わずくすくすと笑ってしまう。
「ふふ、驚いた?」
静香は目を丸くして振り返り、
「銀牙…。」
「ただいま。」
にっこり笑いかけると、彼女は悲しげ、というより、どちらかというと恨めしそうな表情で俺を見上げ、
「お帰り、…って、どうしよう、これ…。」
見れば、静香の手元には、何かの生地を混ぜていたらしい、大きなボウルがあった。
「…あれ?…どうか、した?」
覗きながら尋ねてみたら、彼女はしょぼくれた声で、
「さっきの拍子で、分量が違っちゃったの…。ジンジャーブレッドのジンジャー、スプーン半分でいいのに、全部、落っこっちゃった…。」
肩を落としてボウルを見つめる彼女に、俺はあわてて、
「あ、と、…ごめん!」
拝むように手を合わせ、ぺこんと頭を下げると、静香はしばし上目遣いに俺を睨んでいたが、すぐに気持ちを奮い立たせるような声色で、
「とにかく、…すくい取れるだけ、すくってみるね。」
スプーンを片手に、真剣な面差しで、再びボウルを覗き込む静香を見守る。
生地が硬めだったのか、ことの他、回収作戦はうまくいったらしい。
「…よかった。これなら、大丈夫そう。」
作業を終えるなり、静香はそう呟き、嬉しそうに笑いかけてくる。
「後は、焼くだけだから、やっちゃうね。」
本当に、何事もなかったかのように明るく振る舞ってくれる静香に、胸が熱くなって、俺は素早く身体を寄せ、彼女の頬にキスをした。
ほんのりと赤く、柔らかい静香の頬に…。
「え…」
吐息のような静香の声。
彼女の手元を邪魔しないよう、そのまま彼女の頭を片腕で抱き込み、自分の胸に押しつける。
「銀、牙…?」
彼女の声は戸惑っていたが、俺は彼女の髪に頬を寄せる。
どうしようもなく、悲しかった。
胸が痛み、悲鳴をあげ、軋む。
だが、何て言ったらいい?
悪いのは、俺なのに…。
しばらく、静香はされるがままだったが、おずおずと言いにくそうに、
「銀牙、…後、少しだから。お願い…。」
そう言われて、俺はそっと彼女を解放する。
静香はにっこりと俺に微笑みかけると、てきぱきと手を動かし、生地を流し込んだ金属製の型をオーブンに入れた。
「これで、後は焼けるのを待つだけ。銀牙は、何か飲む?それとも、シャワーでも浴びてくる?」
楽しそうに弾む、静香の声。
だが、俺は小さく首を横に振り、
「いや、…俺はここにいる。」
意外な返答だったのか、彼女は不思議そうに首をかしげ、
「そう…。じゃ、何か食べる?お腹、空いてるでしょ。」
あくまでも明るく振る舞い続ける彼女に、俺は小さく笑って、傍らのオーブンをトントンと指先でノックした。
「これでいいよ。焼きたてを食べてみたいから。…焼き上がりまで、どれくらいかかる?」
「大体、一時間弱くらいよ。」
そう答えながら、静香はシンクの中を片付け始める。
彼女の様子を眺めていた俺は黒革のグローブをこっそりと外し、シンクの中で水に濡れ始めた彼女の手に、自分の手を重ねて軽く握った。
びっくりしたように振り向く静香に、俺は囁くような小声で、
「俺が、やるよ。静香は休んでいて。」
穏やかな笑みを浮かべ、彼女の瞳を覗く。
見慣れた鳶色の瞳は、光をゆらめかせながらも、確かに俺を映している。
彼女の唇が何か言いたげに震え、でも、じんわりと微笑んで、
「ありがとう。…じゃ、…お願い、しちゃおうかな。」
後退りながらシンクから離れる静香に、俺は手早く脱いだ魔法衣を羽織らせる。
「預かってて。」
「…うん。」
彼女は幼子のように頷くと、魔法衣に腕を通し、襟元を押さえた。そして、コートごと自身を抱き締め、うっとりと呟く。
「あったかい…。」
シンクの中には、少し汚れた道具が幾つかあるだけで、大した手間もなく片付いてしまった。
まだ、焼き上がるまで時間がある。
できることのなくなった俺は、オーブンの正面に立つ。
コートを着た彼女は、オーブンのある箇所のすぐ隣のキッチンカウンターに、背中から寄りかかっていた。自身を両腕で抱き締め、下を向いたまま動かない。
言葉なんて、ひとつも思い浮かばなかったが、それでも何か言おうと息を吸った時、静香がぽつんと言った。
「帰って、…来ないかと思った。」
ふ、と俺の顎が上がる。
静香は顔を伏せたまま、感情のない声色で、
「銀牙、…もう、帰って来なくて、…もう、会えないかと、思った。」
そう言われて、俺は途方に暮れる。
彼女の考えを否定する言葉は、いくらでもある。
しかし、どんなにそれを積み重ねたところで、説得力はかけらもない。
そう思われても仕方ないことをしたんだ、と改めて思い知る。
静寂の中、静香の声は、ただでさえひどくたどたどしく聞こえた。
投げつけるつもりで握っていた礫(つぶて)を、いつの間にか緩んでしまった指の間から、ぽろぽろとこぼすかのように、彼女は力なく、胸のうちを言葉にする。
「出て行く銀牙の背中がちらっと見えて、…そうしたら、なんだか、時がとまったみたいに、なっちゃって。」
彼女はどんな時でも、俺を責めようとはしない。
そんなことはずっと前から知っていて、知った時から、彼女の痛みは俺の痛みとなった。
そして、今、苦しいほど痛い。
感情を殺している静香からは、痛みと諦めばかりが伝わってくる。
「悲しいんだけど、空っぽになりすぎて、…涙も出なくて。
変な感じだった。
落ち着かなくて、ふわふわして、息もうまくできなくて。
自分の身体が、私を置いてどこかへいってしまったみたいに、感覚が消えたみたいになって。
しばらく、銀牙のベッドに寝転がっていたんだけど、…カバーを汚しちゃったりしたから、綺麗なものと取り替えて。
自分の部屋に戻っても、何もできなくて。
一日、机の前に座って、ずっと時計を見てた。
そしたらまた夜になって、…眠れないなら、お菓子でも作ろう、と思って。
甘い匂いに包まれて、ぼんやりしてたら、…銀牙がいた。」
そこまで言って、静香は大きな息を吐く。
カウンターに寄りかかっているのに、それでも彼女の身体が傾く。
見ていられなくて、腕をのばす。
「静香、…もういい。もう、休んで。」
支えるように彼女の左腕を掴めば、静香は首をもたげ、やっとの様子で俺を見上げた。
「銀牙…。」
俺を映したまま動かない、鳶色の瞳は息をのむほど潤んでいて、たちまち溢れた。
膨らんでいた涙が、はらはらっとこぼれ、頬を伝う。
きつく閉じられていた、いつもよりも赤みの増した唇がわななき、
「好き、なの、…銀牙。」
彼女の右手がよろめきながら持ち上がり、その痛々しいほど細い指で、俺の胸元のシャツに、きゅ、と爪を立てる。
そこで力尽きたらしく、静香は緩慢に崩れ、項垂れながら、肩で息をし始めた。
やっと俺は、静香が自分で立たなくていいように、彼女を腰周りで軽く抱え上げ、しっかりと胸に抱き締める。
「私はまだ、…許されて、いるの?」
嗚咽を押し殺す不自然な呼吸の合間に、静香のそんな囁きが聞こえ、俺はそっと答える。
「静香は何も悪くない。だから、安心して休んで。」
すでに意識が途切れ始めている彼女を、これ以上傷つけないように、俺は優しく抱き上げて歩き出す。
熱に蝕まれ始めている彼女を抱え、ゆっくりと進む城の廊下は、どうしようもなく暗く感じた。