peaceful days   作:楡野 透

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第6話

 静香の高熱は、三日続いた。

 幸いにも、その間、指令書が届くこともなく、管轄領域内の見回りの時以外は、静香に付きっきりで看病することができた。

 先の二日間は、静香に意識はなく、ひたすら苦しげな呼吸に苛まれるばかり。

 たちまち静香の体力は、極限まで削られ衰弱してしまうが、俺は見守るばかりで、結局、何もできない。

 想いの届かないもどかしさと、彼女が戻って来ない恐怖に、ただひたすら耐える。

 しかしそんな中でも、彼女は何かの拍子で、ふわりと意識を立ち戻らせることがあった。

 そんな時の静香は、必ず、頼りない視線をさ迷わせ、俺を見つけるなり、嬉しそうに微笑む。

 唇が微かに動いて、それは大抵同じ囁き。

 ありがと、銀牙…。

 それを見て、俺も微笑み返す。

 すると、彼女は安心したような顔を見せ、再び瞼を閉ざす。

 これが最後なんかじゃない。

 そう強く念じながら、俺は幾度となく、静香とこんなやりとりを繰り返した。

 そして、三日目の昼下がり。

 椅子に腰かけ、彼女のベッドの傍らから片時も離れなかった俺は、静香がようやく穏やかな眠りに落ち着いたのを見て、安堵の息を吐く。

 彼女の額に手を当てれば、やっと熱が通常まで下がったんだと体感できた。

 疲労の影が色濃く残る彼女の寝顔。まだ油断はできないが、もう熱にうなされてはいない。

 緊張が緩み、疲れを思い出した身体を、椅子の背もたれに預ける。

 そこでようやく、少しだけ開けておいた窓から、緩やかな風が静かに吹き込んでくるのを感じた。運ばれてきた、外の陽射しを含んだ軽やかな空気は、部屋にこもっていた嫌な陰りさえ、清涼な薄い影へと換えてくれる。

 なんとなく首を巡らせたら、ベッドから一番遠い窓のカーテンだけが揺れていた。

 ひらり、ゆらり、と今まで見たこともないくらい、優雅に膨らみ揺れる、白いレースのカーテン。

 その眩しいくらいの白さに、ゆっくりと瞼を閉じたら、ずるずるっと身体が重たくなった。

 膝を重ね、胸元で腕組みをすると、意識は早速、ふわふわと彷徨い始めてしまう。

 ぼやけてゆく意識が心地よくて、沈むように眠りに落ちていこうとした時だった。

 愉しげにひそやかな話し声が、俺の耳元をさわさわとくすぐった。

「…おはよう、静香。気分はいかが?」

 俺の胸元で魔導具が囁く。

 すると、

「ふふ、…シルヴァさん、…おはよう、ございます…」

 静香…。

 目が覚めたんだ…。

「良かった。峠は越えたみたいね。…これで絶狼もひと安心だわ。」

 柔らかい魔導具の響き。

 確かに、銀色の彼女の言う通りなので、思わず笑ってしまいそうになる。

 でも、もう少し、このまま聞いていてもいいか…。

 嵐はもう、過ぎ去ったんだし。

「…申し訳、ありません。…、また、熱なんか、出してしまって…。」

 沈んだ静香の声。

 静香が悲しい言葉を口にすると、俺はひたすら落ち着かなくなる。

 何もない、何も届かないところに、彼女をひとりにしている気がして、苛立ちに苦しくなる。

 だが、麗しい銀色の美女は、いつものように躊躇うこともなく、事の真意を質してしまう。

「あら、…本当にそう思っていて?…わざと、ではなかったの?」

 ベッドの方で、微かに息を飲む気配がした。

 人にあらざる貴婦人はどうやら、俺が目を覚ましていることに気づいていない、という『振り』をしているらしい。ひそひそと尋ねている内容は本来彼女にとって、どうでもいいことだ。銀色の魔導具は、どうやら俺に気を利かせているつもりらしかった。

「ごめん、なさい。…そうなのかも、しれません。」

 痛々しい声で、静香は魔導具の言葉を認めてしまう。

 そう、さ…。わかってた…。

 俺だって、バカじゃない。

 静香はそうでなくても、自分のことを軽んじている節がある。

 そしてそれは、長く生きることができない、と幼い頃から聞かされてきたことに根差している気がしてならない。

「銀牙が、出て行って、…私、ずっと、考えていました。

 彼は何故、あんなこと、したのだろう、って。

 …知らないうちに、彼を、傷つける、ようなこと、ずっと、していたのかも、知れない。

 気づかない、うちに、彼は私を嫌い、憎むように、なっていたのかな、とか…。

 …他に、好きな人が、できて、私なんて、見るのも、忌々しい、ってこと、なのかな…、とか。

 考えるほど、彼が、帰ってこない、気がして、…動けなくて、眠れなくて、…。」

 いきなり長く話したせいで、静香の呼吸がゆっくりと、深く大きなものになっていく。

 だが、俺は身動きひとつできないでいた。

 いや、即反論しようとしたが、指一本、瞼すら動かない。

 何者の仕業かと殺気立った瞬間、

(待って、絶狼。まだよ。)

 魔導具の内なる声に、俺は抗うことをやめた。

 そして、内心、打ちひしがれる。

 静香がそんな風に考えているなんて、思ってもいなかった。

 俺が、静香を、嫌う?憎む?忌々しい?…あげく、他に好きな人?

 見当違いも甚だしい。

 だが、彼女は問答無用に、斬り殺されそうになったんだ。

 何も解らないまま、その理由を考えた時、心当たりが全くなくても、そんな極端なことを考えてしまうのは、仕方のないことのような気もする。

 それでも、疑われたことはショックだった。

「絶狼を疑ったの?静香。…らしくないわね。彼がそんな人ではないことは、貴女が一番よく知っているはずよ。」

 銀の貴婦人は、健気にも俺を庇うようなことを言ってくれている。

 彼女は事の真相を知っているひとりでもあるから、余計に俺や静香のことが心配なのかも知れない。

 息のつまりそうな沈黙の後、

「ごめん、なさい。…でも、私、彼を疑った、つもりは、ないんです。

 もし、私の思った、通りであったと、しても、…銀牙は、悪くない。

 きっと、私が至らなかった、から。

 それに、本当に、他に好きな人が、できたとしても、…そういう気持ちは、…自分でも、どうにもできない、ものだから…。」

 静香の言い分に、俺は目眩すら覚える。

 急に、自分が本当に好かれているのか、不安になる…。

 ……、好か、れ?

『好き、なの、…銀牙。』

 彼女はあの時、涙と共にそう告げていた。

「…許す、というの?」

 魔導具が困惑気味に尋ねれば、静香は、ふふ、と笑って、少しだけ、はにかむような口調になり、

「私、…彼のことが、好き、なんですよ?どんな、我が儘だって、聞いてあげたい。

 私を、殺めたいなら、…それも、構わないもの。」

 すると、銀の貴婦人は納得したように、

「そう、だったわね。あの時、貴女は絶狼に、確かにそう言った。…その一言で、絶狼は正気に戻った。…あれほど私が止めるように訴えても、聞いてくれなかったのに。」

 拗ねた口振りの銀色の美女に、静香はのんびりとした口調で、

「正気に、戻った、…ですか?」

 問い返され、魔導具は沈んだ声色で頷く。

「ええ。…あの時、絶狼は正気ではなかったの。邪気に当てられていてね。

 そう言えば、帰ってきた絶狼に、何も尋ねなかったわね。…あんなことをされたら、普通、理由くらい尋ねそうなものだけど。」

 不思議そうな彼女の口振りに、静香は緩やかな笑みを滲ませた声で、

「理由なんて、…いりません。だって、あの時の、彼は、ちゃんと、銀牙でした。…間違いなく、…彼でしたから。」

 しかし、そんな静香の返答が、銀の貴婦人には、理解できなかったらしい。

 再度、確かめるように、

「貴女に剣を向けたのは、絶狼ではないわ。絶狼を蝕んでいた、邪気なのよ?」

 魔導具の言葉に、静香はしばし考えているようだったが、

「ごめん、なさい。うまく、言えなくて、…。

 でも、あの時、私の、目の前に、いたのは、間違いなく、銀牙、でした。…私には、それで、充分、なんです。…私の、全ては、彼のもの、ですから。」

 静香の呼吸が深く重たいものになってきて、銀色の美女はこれ以上の会話を諦めたらしい。

 悲しげに、素っ気なく言い捨てる。

「…私には、解らないわ。…」

 相手の返事を求めていない魔導具の呟きが、会話の終わりを告げていると思われた。

 しかし、

「あの、シルヴァさん…」

 思いがけず静香が言葉を繋いできたので、魔導具は躊躇いながらも、

「…何かしら?」

 すると静香は、おずおずとした様子で、

「…まだ、銀牙、…起きて、いません?」

 魔導具は、道具である以上、虚言は禁じられている。

 だが、シルヴァは人の世界に身を置いて長い。

「ふふ、…何?まだ何か、内緒話?」

 艶やかな声で楽しそうに聞き返せば、静香はつられたように、安らかに小さく笑んで、

「はい。…銀牙には、聞かれたく、ないんです。…こんな、時、なかなか、ないから。」

 すると魔導具は、軽やかな口振りで、

「あら、そんなことないわ。私だって、たまには女同士のおしゃべりを楽しみたいもの。今度私を、貴女の花園へ連れ出して頂戴な。絶狼ときたら、花と草の区別もつかないのよ。」

 銀色に輝く美女が溜め息混じりにそう告げると、静香はさも楽しそうにくすくすと笑った。

 静香の微笑が漣のようにゆっくりと辺りに溶けて無くなり、彼女の呼吸も落ち着きを取り戻した頃、静香は改めて切り出した。

「実は、お願いが、あるんです。」

 ベッドに横たわったままの静香に、まっすぐに見つめられ、魔導具は彼女の思いの真摯さを汲み取る。

 彼女は思慮深い、重さのある声で、

「…いいわ。でも、見ての通り、私はこんな姿。できることなら、いいのだけれど。」

 どこか謙虚な物言いに、静香はじんわりと口元を緩め、

「…お願い、っていうのは、…銀牙のこと、なんですけど、」

 彼女はそこで一度、躊躇いに視線をさ迷わせてから、再び銀色の美女を見上げ、

「……何があっても、……彼を、ひとりにしないで、あげて欲しいんです。」

 真剣な表情でそうお願いしてきた静香を、魔導具は神妙にしばし見つめ返していたが、

「言われるまでもなく、私はそのつもりよ。私と絶狼の間に、魂の契約が結ばれている以上、離れることはないわ。」

 貴女も知っているはず、と彼女は念を押すように答える。

 しかし静香は、少しだけ悲しげに微笑み、

「もし、道寺や、私が、いなくなっても、彼が…寂しくないように、…ひとりぼっちに、ならないように、…。」

「!、静香!」

 控えめな声のまま、銀色の彼女は鋭く諌める。

 しかし、静香はすがるような眼差しで、彼女を見つめたまま、言葉を続けた。

 明るい鳶色のはずの瞳に、暗い青の濁りを微かに浮かべ、

「怒らないで。…私は、見ての通り、あまり、賢くないから、…いつまた、こんな風に、なるかも知れない…。こんなこと、他の誰にも、頼めない。貴女にだって、本当は、…。」

 静香はそこで一度言葉を切ると、眼差しを伏せ、肩で大きな息を吐いた。

 それは、身体が求める呼吸の乱れではなく、感情を押し殺すための吐息。

 悲しげな瞳で、改めて見上げ、

「本当は、…シルヴァさんにだって、頼みたくない、んです…。私、すごい、…やきもち焼き、だから…。本当は、誰も、彼に近づけたく、ない。今、こうして、いたって、…シルヴァさんが、本当に、羨ましくて、……嫉妬に狂っちゃう、くらいなのに…。」

 涙で声を揺らめかせながら、静香はそう告白する。

 しかし、銀の貴婦人は戸惑うばかりだ。

 魔導具としての役割を果たす便宜上、自分は確かに常に絶狼と行動を共にしている。

 おかげで、歴代の絶狼のことは自分が誰よりも知っている、と自負できる。

 だが、それだけだ。

 嫉妬されるようなものではないし、筋合いでもない。

 それに、嫉妬されるほど歴代の絶狼と親しくなったこともなければ、彼女自身も、そんなことはそれほど望んでいない。

 何故なら、彼女が執着するのは、個人ではないから。

 彼女が執着してしまうのは、人がもつ強い、欲。

 いくら偉大なる錬金術によって、銀色に輝く精緻で美しい細工物にその身をやつし、むやみに人を食することを禁じられていても、彼女は今でもホラーであり、それはこれからも変わりない。そして、シルヴァの場合、そんな偉大なる錬金術をもってしても、忌まわしき本性をすっかり断ち切る、というわけにはいかなかったらしい。

 普段、魔導具としての役割を果たす分には、特に問題はない。

 しかし、指令の内容によっては、他の魔戒騎士や法師といった人間と関わらなくてはならない時だってある。

 彼女の場合、そんな風に誰かと接しているだけでも、やんわりと潜む本性をじわじわと煽られてしまう。

 そして、そんな風にゆっくりといたぶってくる飢えに、彼女は基本、抗わない。

 自分自身と戦うなんて、人じゃあるまいし。ナンセンス、この上ない。

 挙句、元来、主以外の人間にどう思われようとも、毛ほども気にならない。

 だからこそ、彼女は戯れる。

 対する人間に、あからさまな敵意、或いは主に対する執着や独占欲といった態度を露骨に振りかざすことで、それに振り回される彼等の暗い感情の揺らぎを、彼女はホラーとして密かに楽しむのだ。

 あくまで楽しんでいるだけなので、本気な訳ではない。

だが、人は彼女の扇情的な態度を真に受け、面白いほど感情を揺らめかせる。本気にしてしまう。

 そんなことをしているから、皮肉屋とか、気難しいとか、面倒臭いとか、言われてしまうのだろうが、彼女にはそれすらどうでもいい。下手をすれば、それすら快感となり得てしまう。

 絶狼となる者たちも、最初こそ面喰うが、次第に慣れた口振りでその場をうまくとりなすようになる。

 人に害を及ぼす訳でもない。シルヴァとは、そういうものなのだと。

 けれど、そんな彼女であっても、静香に対しては一応わきまえているつもりだった。

 何より、現在の絶狼である銀牙にとって、静香は命よりも大事な、生涯の伴侶。

 彼は、戦いの時以外は、呆れるほど静香のことばかり考えているし、静香といる時の彼が、どれほど優しい気持ちで満たされているか、ずっと目の当たりにしてきている。

 そんな彼女の感情をいたぶるような真似は得策ではないし、何より、シルヴァの感情がそれを不快だと認識していた。

 珍しく、魔導具は彼女を気に入っていたから。

 静香が嫉妬に狂う…。

 今の絶狼を知る限り、静香がそんな思いを抱える必要なんて、どこにもないのに。私が静香に嫉妬することは何度かあったけど、嫉妬されるなんて…、思ってもみなかったわ。気分は悪くないけど、嫉妬なんて……静香には、似合わない。今は、特に…。

 銀の貴婦人は、ゆっくりと瞬きをしてから、穏やかな表情で静香を見下ろした。

そこで気づく。

 思いつめた表情の静香が、さっきから、誰を見上げているのか。

 椅子に腰掛け、うたた寝している魔導具の主を、彼女はひび割れそうな瞳で切なげに見つめていた。

 わずかに睫毛が震え、はらりと涙がこぼれる。

「私だって、本当は、……シルヴァさんみたいに、ずっと、彼の胸元にいたい。……ずっと、銀牙と一緒にいたい、のに…。」

 静香はそう囁きながら、悔しそうに眼を細め、こらえきれなくなった涙をはらはらと落とす。

 銀色の賢女は、やっと思い当たり、息を飲む。

 静香には、時間がないのだ。

 ずっと、そう言われてきたのだ。

 今回の熱で、それはまた確実に縮んだはず…。

 魔導具には、悠久とも呼べるほどの時間があるのに。

 …ずっと、一緒にいたい。

 銀の貴婦人には、願う必要すらないごく当たり前のことが、静香にとっては、狂おしいほどの、願い。

「静香、……泣かないで。」

 銀色に輝く魔導具は、自分でも知らぬうちに、そう呟いていた。

 恐らく静香は、高熱によって精神的にも激しく消耗していたのだろう。

 いつもなら、胸の内にそっと秘めておけたはずの悲しみや望みを、感情のうねりのまま溢れさせてしまったに違いない。

 しかし、体力が残っていないせいか、泣き続けることもできず、彼女は先刻よりずっと小さくなってしまった声で、

「だけど……」

 気づけば、静香の右手は、自身の首元に触れていた。

 指先で包帯に触れながら、静香はまだ涙に濡れている瞳を力なく閉ざすと、ゆらゆらと眠りに沈んでいってしまう。

 彼女が規則的な呼吸を繰り返していることを聴覚で確認してから、銀牙はようやく目を開けた。

 魔導具の拘束が解けたのは、ついさっき。

 拘束といっても、元々、本気で抗えばいつでも解けるような代物。強制力など皆無に等しい、簡易的な術だったが。

「絶狼…」

 戸惑った様子の魔導具に、銀牙は何も言わない。

 ただ、緩慢な仕草で、彼女へと指を伸ばし、爪が当たらないよう注意しながら、静香の頬を柔らかく撫でる。

 無視されているこの状態に、銀色の美女は何か言おうとしたが、次の瞬間、口を噤んだ。

 彼女の視界の中、彼の頬や顎から、ぽつ、ぽつ、と何かが落ちてきたことに気づいたから。

 初めて見る光景に、一瞬、何事かと見上げ、魔導具はまだ落ち続けるそれが何であるか判ると、もう声をかけようとはしなかった。

 無理もない、と彼女もまた、ため息混じりに目を閉じる。

 静香は、理由もなしに殺しにかかった彼を責めないばかりか、何一つ質すことなく笑って許した。

 あげく、そんなことをされた直後だというのに、彼女の口からこぼれる言葉は全て、銀牙を想い慕うものばかり。

『お願い、寂しくないように、ひとりぼっちにしないであげて。』

『でも、誰も近づかせたくない。』

『ずっと、一緒にいたい…。』

 混乱と矛盾を素直に抱える、静香の本当の想いのかけらたち。

 偶然の成り行きとはいえ、彼はそれらを知ってしまった。

 穏やかで優しいばかりの静香が、本当は思いもかけないほど強く、自分を求めていた。

 そして静香は、そんな自分自身を、きっと悲しんでいる…。

 なのに、今の絶狼は、どうすることもできない。

 嬉しい、と素直に喜ぶことすらできない…。

 自身の油断が招いた失態。

 彼女に剣を向け、傷つけ、悲しませ、彼女に許されていたはずの限られた時間さえ、奪った…。

 銀牙は、決して許さないだろう。

 静香はとっくに許しているのに。

 …今の私は、何も見ていないし、何も聞いていない、ことにしておきましょ。

 それが、彼にとって、優しさ、になれば、いいのだけれど。

 静寂の中、二人がそうしていたのは、ほんのひと時。

 不意に、小さな息を胸に吸い込み、ぴたりと止める。

 身体に力をこめ、覚醒を促すと、す、と表情が改まる。

 黒曜の双眸に強い光が宿れば、もう、いつもの銀牙だった。

 彼は指先で軽く魔導具をつまみ上げると、穏やかに囁く。

「サンキュ、シルヴァ。」

「でも、…絶狼、」

 何か言いたげな彼女に、俺はゆっくりと、

「静香のことは、俺に任せて。」

「だけど、…」

 心配そうに食い下がる銀色の相棒に、俺は再度、

「大丈夫さ。」

 いつも通りの明るい声でそう告げれば、魔導具は大人しく従う。

「……わかったわ。」

 彼女が沈黙したところで、俺は眠る静香を見つめる。

 彼女の首につけてしまった傷の具合が気にかかるが、今は眠りを妨げない方がいいだろう。

 何度か包帯を交換したが、傷を目にする度、血の気が引く。

 白く華奢な彼女の首に、何度も斬られたような、数本の赤い線。

 幸い、どの傷も深くはないので、痕が残る心配はないが、…その恐怖は、彼女の心に深い傷を負わせたかもしれない…。

 身体を前に倒し、己の両膝に肘をつくと、指を組んだ両手を眉間に当て、腹の底から、大きく息を吐いた。

 落ち込まない訳には、いかなかった。

 そして、考える。

 一番いい方法を。

 

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