樹々の枝をくぐるようにして、暗い森の中を急ぐ女がいる。
前を見据え、息を切らせる彼女の、そのひたむきな表情を夕焼けの光が赤く染めつつあった。
歳の頃は、三十代くらい。
黒を基調とした民族衣装のような服をまとっており、その装飾様式は、知る者も少ない、闇に生きる者達独特のもの。
彼女は森の中を駆け進んでいたが、突如、目の前が開け、あわてて足を止める。
そこは切り立った崖。
視界を遮るものもなく、眼下に見えるのは、夕闇に霞む、とある街の景色。
乱れた息を整えながら、彼女は淡く色づく街の灯りを眺める。
この街なら、或いは…。
女は纏うローブの下にある、胸元のものをさも大事そうに抱え直すと、再び街へと急ぎ下る。
『あまり、猶予はない。』
男はそう言っていた。
早く、早く。
女は駆ける。
二時間程経ち、女は街の中にある、比較的大きな公園にいた。
夜の闇に沈んだ公園には、人影も少ない。
女は遊具や植木等が何もない、開けた場所を選ぶと、肩から下げていた荷物を足元に下ろした。
その薄汚れた布製の袋から、金属製の小さな鼎を取り出すと、その中に幾つかの天然石を転がす。
最後に界符を一枚のせて、鼎を地に置いた。
数歩下がり、女は懐から魔導筆を取り出すと、いったんそれを胸に止め、念を込めてから、するりと鼎に向かって円を描く。
筆の穂先に、白い小さな円法陣が宿り、女はそれを鼎に放った。
白い光は鋭く鼎に飛び、その内側に当たると軽く爆発して、天へと垂直に輝く光りの柱を出現させる。
光りでできたその白い柱は、一分程で何も残さず消えてしまったが、女はその様子に満足したらしく、片時も離そうとしない胸元の荷物を抱え直した。
さも、愛おしそうに。
しばらくして、女の元に人影が現れた。
まず、若い女がひとり。
纏う服の様式からして、同じ闇に生きる者であろうと判る。
歩くたび、漆黒のスカートが揺れ、その表面を覆う大胆なレース柄が鈍く浮かび上がる。また、裾にもレースでできた大きなフリルがあしらわれていて、彼女が地を蹴る度、そのほっそりとしたふくらはぎにぶつかり、撥ねて落ちる。
丈の短い黒革のジャケットには、首筋をすっぽりと覆うほどの大きくて高さのある襟があり、その襟先の片方には、色硝子でできた美しい珠が一粒、長い房飾りと共に下がっていた。
また、彼女はことのほか髪が長いらしく、頭の上の方で丸く結い上げられているが、それでもまだ余り、さらさらとした髪先は軽く肩口にかかるほどだ。
そして、その長い髪を美しく結い留めているのは、一本の簪(かんざし)。
耳の後ろ辺りに見える簪の飾り玉は、襟先に下がっている珠と全く同じ色と形をしており、揃い物とすぐに見てとれた。
珠の大きさは、鬼灯の実ほど。色はほぼ透明に近いが、微かに緑と紫が混じり合って見える。
どちらの珠にも、鮮やかな組紐からなる長い房が添えられていて、品の良い華やかさがあった。
姿勢の良い彼女の首筋で、簪から流れる房が、夜の風に優雅に映える。
彼女は光を放った存在を確信していたらしく、公園に佇む女の姿を認めるなり、ずんずんと歩み寄りながら、
「ふうん…、さっきの狼煙は貴女の仕業みたいね。」
若い、というより、幼いくらいの容貌である彼女は、屈託のない笑顔を女に向け、
「私は、見ての通りの同業者。魔戒法師の禍燐(Karinn)よ。どんな用件なのかしら?」
よく陽に焼けた小さな顔に、きらきらとした焦げ茶色の瞳、南天の実のように赤い唇が明るい笑みを浮かべている。
一方、光を放った女は、禍燐と名乗った少女に対し、丁寧に頭を垂れた。
「足を運んで下さり、ありがとうございます。私は魔戒法師の魅風(Mikaze)と申します。
先刻の狼煙は、確かに私の術。
是非とも、この街に根を張る、同じ生業の方にお願いしたいことがありまして。」
魅風と名乗った方の女が、面を伏せたままそう言い、静々と身を起そうとした時、
「そりゃまた、運のない。」
何の前触れもなく、闇の中から男の声が聞こえた。
二人が弾かれたように振り向くと、丁度、長身の男が悠然とした足取りでこちらへ歩いてくるところが目に入る。
黒い戦闘服に、黒のロングコートを羽織った三十代くらいの男が、まだ十歳にも満たないであろう少年の手を引いてやってくる。
「俺は魔戒騎士、ジキルという者。こいつは、息子のウルだ。」
父の視線に促され、少年は手をつないだまま、ぺこん、と頭を下げた。白っぽい簡素なシャツに目立った汚れはなく、また、長めの髪はさらさらとしていて、比較的清潔そうな身なりをしている。加えて、線の細い面差しや白い頬などは、まるで少女のように頼りない。
ジキルは二人のもとへ合流すると、意思の強そうな眉を困惑気味に寄せ、
「先程の光を見て来たものの、いかんせん、ここへは着いたばかりの流れ者。ここの管轄の騎士にも、まだ会っちゃいない。
それでも、話によっては、できることもあるかもしれないが、…どうする?」
首を傾げるようにして、彼は魅風に振り向く。
その視線を受け、魅風はわずかに戸惑ったものの、おずおずと禍燐へと向き直った。
魔戒騎士もそれに倣い、禍燐へと向く。
そして、ウルも。
なんとなく集まってしまった三人の視線に、禍燐はびっくりした顔になったが、すぐさま申し訳なさそうな、小さな声で、
「え、と、ごめん。あたしも、この街には来たばっかりなんだ。だから、役に立てるかどうかは、ちょっと…、わかんない。」
そう言いながら、彼女は顎に当てていた人差し指で、ぽりぽりと口元をかいていたが、でもまあ、とため息混じりに呟いた後、あどけない笑顔に戻り、
「時間だけはあるんだよね、あたし。」
そんな彼女を見て、ジキルはにやりと笑い、禍燐とジキルは、改めて魅風へと顔を向ける。
二人の人の好い様子に、魅風はにっこりと笑って、深々と頭を下げた。
魅風の話は、至極簡単だった。
「この子の薬が欲しいのです。」
ずっと胸に抱いていたそれに、彼女は優しく笑いかける。
赤子の病は珍しいものらしく、薬もなかなか手に入らないらしい。
「ヴァランカスの、実、とか、は?」
おっかなびっくりな禍燐の問いに、魅風は弱々しく首を横に振る。
「私は故あって里を飛び出した身。蓄えでもあれば、実を買い取ることも、探しに行く人手を雇うこともできたでしょうが…。」
悲しいほど現実的な彼女の返答に、禍燐は腕組みをしたまま、うんうんと深く頷く。
「そうだよねぇ。実は高価な代物だし、だからって、赤ちゃん連れて、独りで魔戒の森に乗り込む、って訳にもねえ…。」
自分で言いだしたことだったが、その返答もまた予想通りのものであったらしい。
禍燐が溜め息混じりに納得して見せれば、魅風は物憂げに長い睫毛を伏せ、
「噂で、この街には、錬金術に長けた、闇に身を置く者がいる、と聞きまして…。
もしかしたら、この子に効く薬を調合してもらえるかと…。」
「それで、この街に根づく魔戒法師あたりに来て欲しかった訳ね。」
禍燐はますます納得する。
一方、最初からつまらなさそうに唇を曲げて魅風の話を聞いていたジキルはというと、その内容をすべて理解するなり、
「用件は解った。
だが、できることはないらしい。
せいぜい、ここの管轄の騎士に会うことがあれば、貴女のことを言付けするくらいだろう。
それでよろしいか?」
できることがない以上、深入りする気もない。
そんな態度の魔戒騎士であったが、それでも魅風は丁寧に頭を下げ、
「はい。ありがとうございます。」
「ならば、自分はこれで。縁があれば、またいずれ。」
ジキルは再びウルの手を取ると、来た時と同様に、足音もなく夜の何処かへと消えて行った。
「さて、どうする?魅風さん。さっきも言ったけど、時間だけはあるんだ、あたし。同業を探すなら、手伝うけど。」
禍燐が笑顔でそう言うと、魅風は力強く頷き、
「ぜひ、お願い致します。」
「うん。頑張る。」
輝くような禍燐の笑顔は、しかしすぐに消え失せ、鋭い眼差しが街へと向けられる。
「…なんか、変、なのよね、この感じ。」
そう呟く禍燐の面差しには、今度は冷たい愉悦の微笑が浮かんでいた。