peaceful days   作:楡野 透

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第11話

「何!」

「あの破片からよ!」

 魔導具の言葉に、彼は禍燐達の足元を睨みつけた。

 確かに、叩き割られた人形の破片から、ゆらゆらと陽炎のような黒い揺らぎが立ち昇って見える。

 たちまち、その揺らぎを中心とした黒い円が床に現れ、むく、と地面から闇が持ち上がった。

 折れ曲がった角と、骨めいた頭。

 ホラー特有の、瞳のない白い眼がこちらを覗き見、嬉しそうに細まる。

 次の瞬間、ぐん、とホラーの片腕がこちらの世界に伸び、上半身まで具現化した。

「く!」

 すぐ近くに立つ禍燐が、魅風を掴んだまま、もう片方の手で素早く魔導筆を握り、小鬼に向かって術を放つ。

 だが、そのホラーは瞬時に横へ飛び退き、その一撃をかわしながらこちらの世界にすっかり現れ出ると、そのまままっすぐ、標的へと飛びかかった。

 人形を壊され途方に暮れている、魅風へと。

 突然現れた黒く禍々しい小鬼は、一瞬だけ魅風の姿と重なり、消えた。

 それを見て、今度は禍燐が悲鳴を上げる。

「嘘、……嫌ぁ!」

 ホラーに憑依された途端、魅風は意識を失ったらしく、その場に膝から崩れ落ちかける。

 ショックに混乱しつつも、禍燐は掴んでいた彼女を離すこともできず、必死に倒れかかる彼女の身体を支えながら、

「こんなはずじゃ、こんなはずじゃ…。」

 苦しげな禍燐の呟きは、若い魔戒騎士にも届いているはずなのに、彼は迷う間もなく、すぐさま禍燐へ歩み寄ると彼女の肩を右手で掴み、魅風から引き剥がすように後方へと吹き飛ばした。

「な!」

 とっさに、両腕で頭を庇いながら踏ん張る体勢を取った禍燐は、それでも数メートルほど後ろに滑り、それをこらえきってから、彼に食って掛かった。

「何すんのよ!」

「そこにいろ!邪魔だ。」

 彼は倒れている魅風など見えていないかのように、陶器の欠片の傍らに片膝をつく。

 まずは、こいつの浄化だ。

 こいつの邪気を浄化し、ゲートを塞がなければ、倒すべき敵が増えてしまう。

 彼は陶器の欠片に魔戒剣を突き立て、溜まっていた邪気の塊を空中へと分離させる。

 ふわふわと邪気が宙に浮いたことを認めると、彼は瞬時にそれを双剣で切り裂いた。

 見た目は、陽炎のように頼りない揺らぎの塊だが、剣から伝わってくるその手応えは、ホラーを切り裂く時のそれと変わらないか、それ以上に重い。

 魔戒剣が邪気を浄化するための力を、彼から奪い、消費するせいだ。

 体力と気力をごそっと削がれ、魔戒騎士は一気に疲労するが、まだ眼の前には封滅すべきホラーがいる。

 床に倒れている魅風を視界にとらえたまま、彼はゆっくりと立ち上がった。

 その間も、乱れそうになる呼吸を静かに繰り返し、身体の回復を促す。

 改めて、魔戒剣を構える手に力をこめた。

 痛いくらいに、剣の柄を握り締める。

 ほどなくして、魅風は二人の視線を受けながら、よろよろと立ち上がった。

 ぼそぼそとした彼女の声が、廃屋に響く。

「あの子が、死んだの。…腕の中で、だんだん、息が弱くなって、動かなくなって、冷たくなって。…誰も、助けてくれなかった。…死ぬほど、泣き叫んだわ。……でも、男が言ったの。…『この先に、腕のいい魔戒法師がいれば、助かる。薬さえあれば、元気になる。』って。…気づいたら、私、子どもを抱いてた。……助けたかった。助けたかったのに!……何故、殺したぁ!」

 ひっそりと穏やかだった魅風の顔が、激しい憎しみの形相となり、二人を睨み付ける。

 その間にも、魅風の身体は、彼女の独り言と共に、メキ、パキ、と人ではなくなっていった。

 溶岩石のようにごつごつとした青黒い肌になっていき、骨格や筋肉が獣のごとく大きく変形して、発達していく。

 指や爪は凶悪なほど鋭くなって、最後に、魅風の顔が醜悪そのものに爛れ、歪み、ホラーのものとなる。

「魅風さん…、魅風さん!」

 それでも彼女の名を繰り返す禍燐の声が、あまりにもどかしげで悲痛であったため、思わずちらりと視線を走らせる。

 禍燐は魅風だったものをさも悔しそうに睨んだまま、ぽろぽろと泣いていた。

 幼い子供が溢れ出る感情そのままに泣きじゃくるかのように。

 若い魔戒騎士もまた、同じものを睨み付けながら、ふた振りの魔戒剣を順手に持ち直す。

「あんたには、助けてもらったからな、…俺も、あんたを助けるよ。」

 助けるつもりが、肩を抱えて走ってくれた魅風。

 肩に回された彼女の腕は、細くても、温かだった。

 きっと、いい母親になれただろうに。

 だが、彼は目つきを尖らせ、わずかに顎を引くと、すぐさま鎧を召喚し、銀河騎士、絶狼となった。

 眩しいほどの光りの中、青みを帯びた銀色の鎧をその身に纏いながら、彼は一瞬でホラーの懐まで踏み込む。

 その速さに反応できなかったのか、ホラーはただ、狼の面影を持つ鎧を眺めるばかり。

 それを勝機と見たのか、絶狼は神速を維持したまま、棒立ちで無防備なホラーの胴体を冷たく輝く一対の銀狼剣でもって左右に薙ぎ払った。

 びくり、とその身を震わせ、ホラーはのけ反る。

 一方、魔戒騎士はというと、十二分に封滅の手ごたえがあったのか、瞬時に鎧を解除し、鋭く背後のホラーへと振り返っていた。

 封滅をなしたホラーを何故か、唇を噛み、眉間に皺を寄せ、怖いくらいの目つきで睨みつけている。

 ホラーだったものは、しばしその場に立ち尽くしていたが、突然、その身から黒い霧を発し、すぐさま霧だけが天へと立ち昇るように消えた。

 後には、先刻の魅風の姿が残り、疲れ切った表情で魔戒騎士を見つける。

 魅風の目元に小さな笑みが滲んで、まもなく彼女の存在すべてが黒く崩れて消えた。

「絶狼…。」

 銀色の相棒の、労るような柔らかい響きに、彼は穏やかに笑う。

「平気さ。」

 手にしている魔戒剣で、いつの間にか床に転がっていた魅風の魔導筆を二つにし、それが塵となって浄化されたのを見届けてから、改めて禍燐に振り向いた。

 彼女に怪我はないらしく、たどたどしい手つきで目元を擦っている。

 それを認めてから、彼は立ち去ろうとするも、

「待って、絶狼。」

 彼の胸元にある銀の貴婦人が囁く。

「あの破片を、もう一度見たいの。」

 請われて、彼はゲートとなった、人形の破片が散る地面に片膝をつく。

 何度か魔導具の瞬きする音がして、

「やっぱり、……魔戒の者の気配が残っているわ。本当に微かだけど。そしてそれは、ホラーではない…。」

「ホラーじゃない?」

 訝しげに聞き返せば、

「ええ。さっきも一瞬だけ感じたの。これが砕けた、あの瞬間だけ。でも、すぐにどこかへ消えてしまった。」

 淡々とした魔導具の言葉に、彼は曲げた人差し指を顎に当て、しばし首をかしげてから、ぽつんと、

「追える?」

「無理ね。」

 彼女の返答に、彼は表情を緩め、立ち上がる。

「じゃ、再会するまでのお楽しみだな。」

 解放されたかのような彼に対し、魔導具はすかさず、

「でも、一体、何者の仕業かしら。」

 わざと興味をひくような彼女の言い回しに、彼はその面差しを陰らせると、胸元のそれを指につまみ、改めて向き合った。

 久しぶりに見る主の冥い瞳に、魔道具は自身のどこかで、かすかな畏怖と、その畏怖から生じる、とろけるように甘い愉悦を感じながら、先ほどと変わらない口振りのまま、

「用意周到な仕掛けなのに、目的が曖昧過ぎて、人が言うところの、……気味が悪い。」

 何となく彼女の言わんとしていることに気づき、彼は表情を引き締め、今回の事象を言葉にし、口に出して並べてみた。

「魅風さんが子どもだと思い込んでいたのは、人形だった。人形の中には、邪気と、何かが封印されていた。」

「封印はかなり巧妙なものよ。私の眼を欺くなんて。」

 銀色の美女が、不機嫌な声で口を挟む。

 彼は小さく笑ってから、

「人形が壊れると、邪気が解放され、ゲートが開く。出てきたホラーは、子どもを壊され憎しみと悲しみでいっぱいの魅風さんに憑依する。

 でも、…変だな。

 人形が壊れない限り、魅風さんは人でいられた。

 魅風さんをホラーにしたかっただけの仕掛けだったのかさえ、わからない。

 あげく、そんないつ発動するか解らない仕掛けに、意味なんてあるか?」

 首をひねる彼に、魔導具は艶やかな声色で、さらりと、

「遊戯(あそび)、だったんじゃない?」

 遊戯、…だと?

 若き魔戒騎士は、美しい相棒のその言いぐさに、がっくりと肩を落として、天を仰いだ。

「勘弁してくれ、……そんなことして遊ぶような奴が、俺の管轄に干渉してきてるなんて、…考えただけでも、憂鬱になる。」

 やり方が悪質過ぎて、人を弄ぶ、という言葉では表現しきれないほどの黒い悪意を感じる。

 よほど、己れの力に自信があるのだろう。

 そして、奴は確かに相当の強者に違いない。

 戦闘に関しての強さは未知だが、少なくとも術の巧みさは、並々ならぬものを感じる。

 敵、なんだろうが、できれば出会いたくない。

「でなかったら、あの小娘も仕掛けの一部だったのかも知れないわ。どう見ても、トリガー(引き金)だったわよ。」

 彼女の言う、小娘、とは、恐らく禍燐のことだろう。

 禍燐を魅風の元へと誘導した者がいれば、禍燐もまた仕掛けの一部に組み込まれていた可能性は高い。

 魔戒騎士は静かに振り向き、魔戒法師の少女に眼を向けた。

 いつからか、彼女は彼をまっすぐに見つめていて、彼と目が合うなり、

「…、仕掛け、って何?…あたしが、トリガー?」

 まだ涙の滲む眼で尋ねてくる禍燐に、彼は少し考えてから、

「魅風さんとは、今日初めて知り合った、って聞いたけど、本当?」

 すると、禍燐は何故か苦そうに微笑みながら、ゆっくりと立ち上がる。

 土埃まみれになってしまっていたスカートを、弱々しい素振りで叩きながら、

「ええ、本当よ。出会って、知り合ったのは、今日。……、でも、あたしはずっと、彼女を探していたの。」

 禍燐は重たそうなため息を、身体全体で吐き出すと、下を向いたまま悲しげに笑った。

 顔を上げることもなく、不自然に、ブーツの踵で地を蹴りながら、彼に歩み寄る。

「魅風さんは、…あたしと同じ里の人間。

 本当だったら、義理の姉、になるはずの人だったの。

 里でも、若いのに腕のいい法師で有名でさ、みんなも、あたしも、憧れてた。

 だから、魅風さんはあたしのことなんて、知らなくて当たり前。

 でも、あたしは魅風さんがお義姉さんになってくれるかもしれない、って聞いて、すごく嬉しかったのに、…あの馬鹿兄貴、土壇場で、他の女と…。

 魅風さんは、すぐにひとりで里を出て行った。…お腹に子どもがいたなんて知らなかった。……、私、助けになりたくて、ずっと探していたのに。」

 語りながら、再びぽろぽろと泣く禍燐の言葉に、彼はやっと合点がいく。

 魅風に対する禍燐の態度は、確かに、知り合ったばかりのそれではなかった。

 少しでも、力になりたい。

 そんな思いが溢れていて、逆にあらぬ疑いをかけたくなるほどだった。

 彼は感情を押し殺し、重ねて尋ねる。

「禍燐さんが魅風さんを探していると知っている人物って、いる?」

「ううん、いない。誰にも言わないで来たし、誰にも話してない。誰かに話したの、今が初めて。」

「出会ったのが今日、っていうのも、偶然?」

「うん。」

 ますます解らない、と彼は険しい表情になる。

 禍燐は確かに引き金だったが、仕掛けた奴は彼女を引き金と決めていた訳ではないらしい。

 引き金は、誰でも良かった。

 そして、発動も、いつでも良かった?

 いい加減過ぎる。

 目的すら、はっきりしない。

 一体何の為の仕掛けなんだ?

 それとも、この仕掛けはまだ途中なのか?

 魔戒騎士は、推測に過ぎないが、と前置きしてから、先刻まで魔導具と話していた内容を、禍燐に伝えた。

 人形を壊すことが、この仕掛けの引き金だったと解ると、彼女はその場に崩れ落ちる。

「あたしが、殺したも同じね。」

 力なく禍燐が呟き、彼はすぐさま否定する。

「違うさ。誰かが魅風さんにホラーを憑依させる目的で、人形を渡したんだ。そいつが悪いに決まってる。」

 彼の言葉に、禍燐は獣のように唸った。

「あたし、許さないわ。絶対!」

 燃え上がるような禍燐の感情を目の当たりにし、

「憎むな。闇に堕ちる気か。」

 だが、彼女は鋭く振り向き、

「あたしは闇に怯まない!必ず敵を見つけ、仇を討つ!」

 禍燐の猛々しい悲しみは誰にも止められるものではないと解ると、彼は眼差しを伏せた。

 そして、重たく沈んだ声で、

「解った。…もし、闇に堕ちたあんたと出会うことがあったら、あんたもこの剣で封滅してやる。」

 彼女はその言葉に、しばし目を丸くしていたが、

「…それっていわゆる、優しくない優しさ、ってヤツよね?」

 改めて確認され、彼はにやりと笑う。

 すると、禍燐はがっかりと肩を落とし、

「嬉しくないなぁ。女の子には嫌われるよ、普通に。」

 しかし、彼は肩をすくめるばかりで、反論すらしない。

 禍燐はさらに何か言いかけたが、魔導具の声の方が早かった。

「絶狼、指令書よ。足元。」

 二人が見下ろせば、砕けた人形の欠片に、見慣れた赤い封書が斜めに差されていた。

 魔戒騎士は身をかがめ、指令書を手にすると、早速魔導火にかざして内容を確認する。

 それは、先刻禍燐が封滅し損なったホラーを改めて今宵の内に封滅せよ、というものだった。

「もしかして、逃げられたのか?」

 振り向くなり、眉をひそめて尋ねてくる彼に、禍燐は声を高くして反論する。

「失礼ね!あたしが、……逃げたの。」

 あっという間に、その語尾は小さくなり、最後は聞き取れないほど。

 そんな魔戒法師の返答を聞き、魔戒騎士は再び、ただ黙って天を仰ぐ。

 言葉にならないほどの落胆、を態度で示す彼に、禍燐は懸命に訴える。

「結構頑張って、弱らせたんだよ、これでも!…片腕、吹き飛ばしたまではよかったんだけど、……あとひと息のところで、界符も法力も底をついちゃって、打つ手がなくなっちゃったの。だから、……痛み分けよ!」

 不機嫌そうに言い切ると、禍燐は、ぷいとそっぽを向いた。

 だが、次の瞬間、 

「ふざけるな!」

 魔戒騎士のあまりに強く鋭い声に、禍燐はびくりと震え、青ざめた顔で振り返る。

 一方、彼はまるで敵でも見るかのように彼女を睨みつけながら、

「弱ったホラーが次、何をするか、……そんなことも解らないのか!」

 彼の吐き捨てるような強い言葉に、禍燐はハッと息を飲む。

 傷つき弱ったホラーは、当然、傷を癒そうと、回復するための力を求めるだろう。

 奴らの力の源は、人の命。

 下手をすれば、今この瞬間も、どこかで幾人もの命を喰い散らかしているかもしれない…。

「…、ごめん、なさい。」

 素直に非を認め、禍燐は肩を落とすと、弱々しい声で謝罪する。

 項垂れてしまった若い魔戒法師に、彼はやれやれとため息を吐いた。

 こいつの師は、そんなことも教えていないのか…。

 そう言えば、勝手に里を飛び出してきたと言っていた。

 何もかも、半人前なのかもしれない。

 だが、彼は彼女の心配をそこで打ち切り、自分に下された指令を遂行することの方へ意識を向ける。

 まずは、ホラーの気配をたどってみるか。

 魔戒騎士は、淡々とした声で、まだ落ち込んでいる彼女に告げた。

「ホラーから離れた場所まで案内してくれ。後は俺が何とかする。」

 

 

 

 闇に生きる者、二人、街を疾走する。

 禍燐が示した場所は、魅風と別れた地点から、そう離れてはいなかった。

「大抵の奴なら、倒せる自信があったんだけどな。あいつ、妙にしぶとくて、封滅し切れなかった。ムカつくったらないわ。」

 今回の相手は、禍燐のプライドをいたく傷つけたらしい。

 彼女は形のよい小さな鼻を、不機嫌そうに、つんと尖らす。

 何となく興味が湧いて、

「今まで、何体、倒してきた?」

 すると、禍燐は思案顔で小首を傾げながら、

「二十くらい、かな。」

「へえ、…大したもんだな。」

 実際、彼は驚いていた。

 魔戒法師でホラーを封滅できるほどの力を持つ者はごくわずか、と聞いている。

 そのごくわずかの中に、彼女のような年若い者がいるとは。

「で、そっちは?」

 当然のように聞き返され、彼はくすりと笑うと、嫌味のない明るい笑顔で、

「ま、それなりに。」

「ええ?ちゃんと答えなさいよ、魔戒騎士!」

 子供をあやしつけるような、あからさまな濁し方に、禍燐は眉をひそめて抗議してみせるが、彼は全く意に介さないらしく、どこまでも穏やかに笑う。

 そんな彼を、禍燐はいつの間にか覗くように眺めていた。

 ほどなくして、二人は目的の場所に到着する。

 彼は胸元の相棒に、

「奴の気配を追ってくれ。」

「お安い御用よ。ちょっと待ってて。」

 銀の貴婦人は軽やかに答える。

 そんなやりとりを耳にして、居心地悪そうな禍燐が、ぎこちない口振りで彼に告げる。

「じゃ、あたしはもう、お役御免だね。」

「ああ、助かった。」

 笑みの滲む表情で彼がそう返すと、禍燐は俯き、少しためらった後、意を決したように顔を上げて、

「ねえ、どうして?」

 焦げ茶色の瞳が、不安げに彼を捉える。

 しかし唐突過ぎる問いに、彼が目を丸くしていると、彼女はさらに続けて、

「どうして、魅風さんから人形を奪ったりしなかったの?あれが怪しい、ってわかってたんでしょ?」

 恐らく禍燐は、ずっと考えていたのだろう。

 自分のした事や、その結果。

 どうして、自分は過ちを犯すことになり、彼はそんな行動をとらなかったのか。

 何がいけなかったのか。

 魔戒騎士は少し考えてから、改まった口振りで、

「意味ない、って思ったからさ。彼女があんなに大事そうに抱えていたんだ。だから、力で引き離しても、何も解決しない気がした。

 逆に、あれを抱えてさえいれば、あの人は安心していられる、……それなら、それもいい、と思った。

 あの人形自体からは、何の力も感じなかったからな。

 いつか、彼女が自分からあれを手離したいと望む、そんな日がくるようにしてやることの方が、大事なんじゃないか、そう思った。」

 魅風の抱いているものが、命あるものではないことは、すぐに解った。

 赤子、と聞いて、魅風の正気を疑った。

 けれど、魅風は他のことに対しては、いたって普通で何の問題もない。

 なら、魅風のしたいようにさせてもいい気がした。

 魅風が人形を赤子だと思い込むきっかけは、今となっては想像するしかないが、恐らく、我が子に関わる悲しみ。

 それも、あんな人形を赤子だと思い込まなければ生きることすらままならないほどの、深く大きな悲しみだったのではないか。

 ならば、人形を取り上げたとして、その後、彼女はどうなるのか。そしてその後の彼女をどうしたらよいのか。

 何も知らない彼に分かるはずもなかった。

 人形を心の拠り所にしていると解った上で取り上げることは、悲しみで壊れた魅風の心を、さらに傷つけるようなもの。

 できればそんなことは、したくない。

 魔戒騎士の彼にとってできる、それが最大限とも言えた。

「あんた、強いくせに、優しいんだね…。」

 彼の返答に、禍燐は肩を落として儚げに笑う。

「あたしは、…我慢できなかった。

 魅風さんの様子を見ているうちに、……彼女のあんな姿、辛くて、見ていられなくて…。なんとかして、元のあの人に戻って欲しくて…。」

 確かに、以前の魅風を知っている彼女にとって、あの姿は耐えられないものがあったかもしれない。

 好きだった魅風が、今はどう見ても正気を失っている。

 それを事実として受け入れることは、相当な悲しみと苦痛を伴うに違いない。

 だが、禍燐はそんな魅風を拒みながらも、いったん受け入れたからこそ、正気に戻って欲しい、と願った。

 見捨てることだって、できたはずなのに、と彼は影で微笑む。

 そんな彼に気づかないまま、禍燐は大きな息を吐くと、今度はにっこりと彼に笑いかける。

「あたし、一度、里に戻るね。

 あの馬鹿兄貴を、気のすむまで何回でも半殺しにして、それに飽きたら、……また、ここに戻ってくる。

 あたし、あんたと仕事がしたい。」

 思いもかけない禍燐の申し出に、彼は驚き、声も出ない。

 しかし、禍燐はそんな彼の様子を気にする風もなく、強い眼差しで彼を見上げ、

「あんた、優しいのに、魅風さんを斬る時、全然ためらわなかった。……あんた、凄い。あたしも、そうなりたい。」

 そう言って、禍燐は彼に明るい笑顔を向ける。

 だが、銀色の美女がすかさず、

「彼は、誰とも組まないわ。そんな力量では、絶狼を継ぐことはできないもの。」

 冷たくはねつけたはずの魔導具の台詞に、しかし彼女は、

「絶狼、っていうんだ。…でも、それ、称号の方でしょ?名前は?何て言うの?

 あんなに綺麗に輝く鎧、あたし、初めて見た。

 ていうか、あんた、歳は?あたしと変わらないくらいよね?」

 急に元気よく話し出した禍燐に、彼は安心するも、

「俺、ひとりで動く方が気楽だから…。」

 やんわりと彼女の申し出を断り、禍燐がそれ以上何か言うよりも先にコートを翻すと、

「行こ、シルヴァ。」

「ええ。」

「何!あたしを無視すんなぁ!」

 禍燐の叫びを背に、彼は駆け出すとすぐに大きく跳躍して、その場を離れる。

 禍燐もその背中を追おうとしたが、もう術のひとつも放てない自分を思い出し、諦める。

 足手まといになることだけは、死んでも嫌だった。

「いいもん。絶対、戻ってきてやるから。魔戒騎士、絶狼くん。」

 まるで宝物でも見つけたみたいに嬉しそうに笑うと、禍燐は彼が行ってしまった空を見上げた。

 さて、寝るところでも探すか。

 禍燐は軽い足取りで歩き出す。

 魅風のことは、一生背負っていく十字架だ。

 それはもう、そう飲み込んでしまうしかない。

 それでも、時間は流れていくし、自分は生きていて、何かできる可能性が多少なりとも、ある。

 前に進まなくちゃ。

 勝手に滴る涙を拭いながら、禍燐は元気よく歩く。

 街中の方が、目が覚めた時すぐ食事にありつけるだろう。

 彼女は来た道を戻るように歩いて、アーケードの近くにある、小さな公園のベンチを寝床に決めた。

 荷物を枕に、ごろりと横になる。

 そのまま、天を仰いだ時、

「え?!」

 頼りない星空に代わって、眼に飛び込んできたのは、このベンチの傍らに立ち、自分に向かって魔戒剣を振り上げているジキルの姿だった。

 

 

 

 胸元の美女が、訝しげに呟いた。

「おかしいわ、絶狼。このホラー、ここから離れられないみたい。」

 禍燐から逃げるように駆けていた銀牙は、いったん足を止め、彼女の言葉に耳を傾ける。

「どういうこと?」

「正確には、人形を抱いていた女と出会った地点と、その女を斬った地点の間を、同じルートで行き来しているの。

 同じホラーの気配が重なって残っている。こんなこと、初めて。」

 しかし彼は思いついて、

「なら、見つけるのも、簡単だよな?」

 探す範囲が狭いことは、悪いこととは思えない。

 しかし、相棒は呆れ気味に、

「逆よ。その間の、どの地点にいるのか、気配が強い線になって残っているせいで、点を特定しにくいの。」

「成る程。…でも、できないわけじゃない、だろ?」

 楽しそうな声色で、銀牙はわざと彼女のプライドをくすぐるような言い回しをしてみせる。

 彼なりに、彼女が喜ぶやり方を学び始めているらしい。

 だが、冷たい瞬きの音に続いて返ってきた銀の貴婦人の響きには、残念そうな憂いが滲んでいた。

「勿論よ。でも、……素直に喜べないわ。そのホラー、私たちがさっき通り過ぎた辺りにいるのよ。」

 彼女の台詞に、彼は鋭く振り返る。

 そして、次の台詞で顔色を変えた。

「小娘のすぐ近くに。」

 

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