雨の続く、肌寒い夜だった。
寝る前になって、なんだか身体の調子が悪いな、と思ったら、いきなり嘔吐した。
幸い、ベッドではなく、部屋の床を汚しただけですんだが、それを見て、急に膝に力が入らなくなり、俺はその場にへたりこむ。
初めての感覚だった。
同じ部屋の奴らがおろおろしていると、彼が部屋に踏み込んできた。
今思い返してみると、男はこういった些細な異変に、ひどく敏感だった気がする。
俺の有り様に気づくなり、彼は側に膝をついて、俺の額に手を当てた。
びっくりするくらい大きな手だった。
「ちょっと、あるな。立てるか?」
彼に抱えられるようにして立ち上がると、彼は俺を目の前のベッドに寝かせた。
手際よく俺の吐いたものを片付けてくれる。
「…、ごめん。」
こんな時、なんて言えばいいのかわからず、俺はとりあえず謝ってみた。
すると彼は、ちょっと笑って、気にするな、と手を止めることなく返す。
彼の返事で少し気が楽になったが、彼は掃除を済ませると、何の脈絡もなく、俺を抱き上げた。
何事かと目を丸くする、俺と相部屋の奴らに、
「こいつはまだ熱がある。今晩は、俺の部屋で寝かせるから、お前達は安心して寝ていい。」
予想外の展開に、俺達の方が驚く。
いつもなら、薬を飲まされ、自分のベッドで寝るくらいなのに。
くらくらしながらも、俺は彼の胸元から男を見上げた。
俺を抱き上げ、部屋を後にした彼は、一度食堂に寄ると、うがいをしていけ、と俺を下ろした。
言われて自分の内側の匂いに、また吐きそうになる。
うがいついでに顔も洗って、俺は大きく息を吐いた。
そんなことにさえよろめく俺を、彼は急がせることもなく、ただじっと待ってくれる。
一口だけ水を飲んで、もういい、と俺が彼の隣に踏み出すと、やっぱりすくい上げられた。
「無理すんな。抱っこなんて、ガキの特権だろ。」
特権、か。
何だか嬉しくなる響きだ。
彼の部屋は施設の正面玄関の近くにあった。
俺達の相部屋より狭い有り様だったが、整理整頓されていて、息苦しい感じはしない。
彼は俺をベッドに寝かせると、キャビネットの引き出しを覗き込む。
ベッドには彼がたまに嗜む煙草の匂いが残っていた。
「おい、こいつを飲んどけ。熱冷ましだ。それから、身体のどこか、痛いところとかあるか?痒かったりしてないか?」
赤い紙に包まれた粉薬を差し出しながら、男は矢継ぎ早に尋ねてくる。
そういえば、なんだか耳と顎、頬のあたりが痛い。
手で痛むところを押さえ、ここが痛い、と訴えると、男は眉をしかめ、
「もしかしたら、おたふく風邪、ってヤツか。感染症じゃねえか。やべえな。」
おたふく風邪。
病名を聞いて、俺は納得する。
ほっぺたが腫れて、熱が出る病気。ガキのうちにかかっておいた方がいい病気。他の奴にうつりやすい病気。一週間くらいで治る病気。
それくらいの知識しかないが、治る病気と解れば不安は薄れた。
苦い粉薬を口の中に流し入れると、彼がタイミング良く、カップを渡してくれる。
薬さえ飲んでしまえば、後は寝て治るのを待つだけだ。
ばったりと仰向けでベッドに倒れると、男は感心するように、
「よく、粉薬、飲めたな。器用なもんだ。」
そんなことを言ってから、表情を改め、
「大人しくしてろよ。俺は他にも発症してる奴がいないか、見回ってくる。…、灯りはつけとくからな。」
男はそう告げると、さっさと部屋を出て行ってしまった。
見知らぬ部屋の、見知らぬベッド。
いつもならワクワクで探険だ。
だが、次第に耳の辺りが痛み出して、頭もガンガンしてきた。
唸るようにして寝返りをうつと、身体を丸め、薬が効き始めるのをじっと待つ。
早く…、早く…。