peaceful days   作:楡野 透

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第12話

 直後、剣は振り下ろされ、禍燐はとっさにベンチから転がり落ちる。

 バキンッ、と木製のベンチは真っ二つになり、キーンという、金属の澄んだ音が微かに尾を引いた。

 綺麗な響き。

 地面を転がり、なんとか無傷でジキルの剣をかわしてから、禍燐はつかの間、その音に耳を澄ませたまま、男を凝視する。

 音が消えて、ようやく、

「…どういうつもり?」

 ジキルから目を離すことなく立ち上がると、禍燐は魔導筆を握りしめる。

 一撃くらいなら、撃てるかもしれない。

 それにしても、と禍燐は眉をひそめる。

 明らかに、彼のコートの左袖には中身がなく、ひらひらとはためくばかり。

 このタイミングでそんな有り様を突きつけられれば、誰だって疑う。

 だが、魔戒騎士はそ知らぬ振りで、長剣を手に下げ、ゆっくりと近づいてくる。

 彼の表情に生気はなく、初めて顔を合わせた時とはまるで別人の様。

 ただ、眼差しだけを鋭く尖らせ、こちらを睨みつけている。

 禍燐は瞬時に、腹を決める。

 できるだけ引き付け、顔面に一発かまして、怯んだ隙に、脱兎のごとく逃げるしかない。

 ホラーに憑依された、いわゆる闇堕ちした魔戒騎士なんて、まともに相手できるもんじゃない。

 不気味なほど静かに近づいてくるジキルに、禍燐が攻撃のタイミングを見計らっていると、突然、彼女の前にウルが立ちはだかった。

「え?」

 ウルは禍燐を背に、ジキルに向かって両腕を横に広げて立っている。

 まるで、その身をもって、父の行いを阻止するかのように。

「駄目!ウル!逃げて!」

 禍燐はとっさにウルの腕を掴むと、踵を返し、反対へ駆け出そうと踏み出した。

 ぞく。

 禍燐は一瞬にして、身体が硬直したのがわかった。

 そして、落胆する。

 ミスった…。

 ウル、あんた…。

 握っていた魔導筆が、震えるばかりで動かない指から、ぽとりと落ちる。

 ああ…、振り返らなくても、判る。

 ウルを掴んでいる腕から這い上がってくる、このざらざらとした闇。

 自分はこの闇に包まれ、全てを削られながら、この世から消え失せる…。

「禍燐ッ!」

 不意に、彼の声が聞こえた気がして、急いで正面に目を凝らす。

 視線の先には、確かに、彼の姿が…。

 そうだ!

 あたしはまだ死にたくない!

 死にたくない!

 死にたくない!

 …死ねない!

 あたしはいつか、あいつと一緒に戦う、って決めたんだ!

 あいつとなら、あたしはもっと強くなれて、…あいつと、もっと…。

 けれど、ざわざわと絡みついてくる闇が、足元からあたしを喰っている。

 痛みではない。

 自分がぼろぼろと砕け消えていくのに、なす術もない、という恐怖。

 圧倒的な無力感に気が遠くなりながらも、禍燐は今、自分の胸に灯った小さな願いに気づいてしまう。

 はらはら、と涙が落ちる。

 くそ!

 畜生!

 あたしの未来まで喰うな、化け物!

 筆を落とした手を無理矢理動かし、禍燐は絶望にあふれてくる涙を拭うよりも、襟の先にある色硝子の珠飾りを引きちぎって、手放す。

 簪にも手を伸ばそうとするが、腕はもうすっかり硬直していて、言うことをきかなかった。

 あいつのために、こんなことしか、できない、なんて…。

 ほんの僅かしか残されていない時間を惜しむように、禍燐は必死に彼を見つめる。

 駆けてくる彼に、指や手をのばそうとするが、もうそれもなかった。

 生きたまま、ゆるゆると闇に喰われるということは、こういうことなのか。

 なす術もなく、己が消えていく絶望。

 届かなかった夢や、未来。

 それらを思い知りながら、唐突過ぎる死に、押しつぶされていく。

 あまりに悔しくて、あまりに悲しくて、彼女はその瞳に彼を映したまま、切り裂くような泣き声で、力いっぱい絶叫する。

「絶狼ォォォ!」

 高い悲鳴は、確かに夜空へ響き渡ったが、長くは続かず、彼女の姿と共に、この世から消えた。

 

 

 

 悪い予感しかなかった。

 ホラーは最初から、禍燐を狙っていたのかも知れない。

 彼女の攻撃力の高さに、一度は退いたものの、再び独りになるのを待っていたのか。

 魔導具の言った通り、アーケード近くの公園にたどり着くと、禍燐は男と対峙しているところだった。

 男は黒いコートをまとい、その手には、野太刀とおぼしき長刀を抜き身で下げている。

 さらに速く駆けようとした矢先、禍燐の前に幼い少年が割って入ったのが見えた。

 すかさず、銀の貴婦人が囁く。

「男からは、ホラーの気配がするわ。だけど、あの子供…。あの子の、あの気配……。」

 銀色の美女は困惑している様子だったが、どう見ても、事態は逼迫しているように見える。

「話は後だ。禍燐を助ける。」

 彼らから目を離すことなく、公園の中へと駆け込む。

 彼女は少年の腕を取ると、すぐさま駆け出そうとして、のけ反るように固まった。

 そして次の瞬間、少年の小さな身体から大量に吹き出したのは、闇。

 その闇は、意思を持った霧のように禍燐へ絡みつき、瞬く間に飲み込もうとうねる。

「禍燐ッ!」

 名を呼べば、彼女は涙で頬を濡らしながらも、こちらへ振り向いた。

 苦しげに眉を寄せ、唇を強く噛んでいた彼女は、銀牙を睨んだまま、巻き上がる風によって足先から崩れる砂像のように、闇へ飲まれていく。

 最後まで残っていた彼女の泣き顔が悔しげに歪み、

「絶狼ォォォ!」

 そう絶叫しながら、黒い霧に覆われて、消えた。

 あまりに唐突で、残酷な光景。

 自分の目の前で起きたこととはいえ、にわかには信じがたいほど、あまりにあっけなく、あまりに無慈悲な禍燐の最後に、銀牙の思考は追いつかない。

 しかし、依然として、少年は闇の真ん中に立ち、闇は彼を取り巻いて、黒い炎のように揺れて踊る。

 禍燐を喰った闇は、一度大きくうねると、ぶわりと膨らみ、今度は隻腕の男を飲み込んでしまった。

 男は恐れることもなくそれを受け入れ、闇は一度、彼の左腕に凝縮し、渦巻いたかと思うと、そのままの勢いで潮が引くように男から離れて行った。

 見れば、先刻までなかったはずの左腕がある。

『結構頑張って、弱らせたんだよ、これでも!…片腕、吹き飛ばしたまではよかったんだけど、……あとひと息のところで、界符も法力も底をついちゃって、打つ手がなくなっちゃったの。』

 禍燐の台詞が、脳裏に甦る。

 ホラーが人の世に出現する条件は、言葉ほど単純なものではない。

 よって、この地に片腕を失ったホラーが複数存在するなんてことは、あり得ないと言ってもいい。

 だから今、目の前で満足げに口元を歪めて笑うホラーは、きっと禍燐が傷を負わせたホラーなのだろう。

 禍燐によって失った左腕を、彼女を喰った闇によって再生させた。

 そのあまりに呪わしい所業を目の当たりにし、銀牙は言い様のない不快さと、身を焦がすような憤りに息苦しくなる。

「…熱くなっては駄目よ、絶狼。」

 すかさず、胸元の魔導具が優しく囁く。

 自覚がある分、とっさに唸る。

「わかってる!」

 銀牙は少年と男の前に立つと、足を止め、ゆっくりと魔戒剣を抜いた。

 銀色に輝くその刃よりも鋭い眼差しで睨みながら、彼は迷うことなくその剣先を、少年に向ける。

 鼻先に切っ先を突きつけられても、子は顔色ひとつ変えない。

 が、すぐさま男がそれを上へ弾いた。

 少年を庇うように前へ出て剣を構えるその男は、その出で立ちからして、

「闇堕ちした、魔戒騎士か。」

 闇に染まった同業者とやり合うのは初めてだったが、銀牙は臆することなく剣を構える。

 男は、歳の頃は三十代位で、背の高い痩身。

 何を言うよりも早く、彼は銀牙に斬りかかった。野太刀の特徴である長い刀身を活かして、軽い踏み込みで素早く間合いに入り、比較的大振りに斬り込んでは重たい一撃を狙ってくる。

「わ、とっ、と。」

 野太刀のくせに、速い。

 人ではあり得ないほどの速さで、男は重いはずの野太刀を操る。

 人であった時も、なかなかの使い手だったのだろう、豪快だが正確な剣捌きは、ホラーのものではない。

 一撃目の速さに、銀牙はびっくりした様子でよろめいたが、構えていた直刀で何とか男の剣を受けると、いったん後ろに飛び退いた。

 そんな彼の様子に、恐るるに足らないと判断したのか、男はにやりと蔑むような笑みを浮かべてみせる。

 だが、銀牙もまた、そんな彼に明るく笑いかけながら、何気ない仕草で手の中の剣を弄ぶ。

 絶狼の魔戒剣は、鍔のない、両刃の直刀、二振り。

 彼は、本来なら鍔のある辺りに人差し指を当て、それを軸にそれぞれの手の中で剣を回す。

 右も、左も。

 順手の構えから、切っ先を下側に回して逆手に構え、今度はそこから切っ先を自分に引き付けるように上へと振り上げ、順手に持ち変える。

 順手から逆手、逆手から順手、という風に一方向に回しながら、銀牙はまるで自分の身体の一部がごとく、自在に剣を弄ぶ。

 そうしながら、男から眼を離すことなく、ゆっくりとした足取りで奴の側面に回り込んでいたが、不意に足を止めた。

 そして、持ち変えるのではなくそのまま、人差し指でくるくると剣を回転させたかと思うと、ぴたりと逆手に構え、男を鋭く睨みつけた。

 黒曜の双眸が、一際輝く。

「来なよ。」

 自分よりもずっと若い魔戒騎士に挑発され、男は忌々しそうにひと睨みすると、再び銀牙に斬りかかった。

 大きく薙ぎ払ってきた男の野太刀を、彼は片方の剣で受け止めると、そのまま真っ直ぐ、奴の懐へと駆け込む。

「はあぁ!」

 野太刀と直刀の刃が擦れて、軋み、激しく火花が散るのも構わず、銀牙は男の正面までくると、勢いそのままに、もう片方の剣で男の喉を突き破ろうとする。

「絶狼、後ろ!」

 銀色の相棒が抑えた声で耳打ちする。

 いつの間にか、鋭く尖った触手のようなものが銀牙の背後を狙っており、彼は目の端でそれを認めると、小さく舌打ちした。

 直後、触手がブレて見え、銀牙は咄嗟に、喉を狙っていた方の手で、剣と共に男の肩を掴むと、倒立する要領で身体を跳ね上げた。タイミングを合わせ、背中を貫くはずだった触手の尖端を踵で蹴り上げる。

 弾いた手ごたえを得てから、銀牙は男の背後へ視線を飛ばし、膝を小さく丸め、身体を捻るようにして、強引に男のすぐ背後へと着地した。

「…尻尾?」

 男の腰の後ろ辺りからのびているものが先ほどの触手の根元らしいと分かると、銀牙はさも気味悪そうに眉をひそめ、うねうねと動くそれにすぐさま剣を振り下ろす。

 男が振り返るよりも早く切りつけ、ぐあ、と憎々しげにこちらを向いた男の喉に、銀牙はもう片方の剣を当てると、容赦なく切り裂いた。

「ぐがあ!」

 剣を離し、両手で首の傷を押さえながら、男は両膝をつく。

 苦し気に身を丸めた直後、男は天に向かって怒りの咆哮を上げ、あっという間に、見覚えのあるホラーの姿となった。

 禍燐と魅風に襲いかかっていた、あのホラーの姿に。

「あれ?…闇堕ち、って鎧に喰われてなるんじゃなかったっけ?」

 あどけなく首を傾げる銀牙に、銀色の賢女は無関心な口調で、

「それは心滅。確かに心滅も闇堕ちだけど、こいつは鎧に喰われたんじゃないわ。ホラーに心の隙を突かれたのね。」

「だから、鎧を着てないのか。ちょっと残念。」

 彼は鎧に喰われた成れの果てを期待していたらしい。

 だが、胸元の魔導具は彼のその台詞を聞くなり、憤慨気味に、

「馬鹿言わないで。心滅の相手なんて、冗談じゃないわ。鎧の力を完全に引き出したホラーなのよ?無傷で帰れやしないわ。」

 銀色の相棒に思いの外、強かに怒られてしまい、銀牙は口を尖らせる。

「ごめん、悪かったって。…ちょっと見てみたかったな、って思っただけ…。」

「絶狼!」

 さらに叱責され、銀牙は首をすくめた。

 直後、斬りつけてやったホラーの尻尾がしなり、空を切る音と共に銀牙の頭を掠めた。

 瞬時に鋭く振り向き、ホラーを睨みつけると、銀牙はすぐさま、鎧を召喚して絶狼となる。

 一方、本来の姿となったホラーは、強靭な後ろ足で跳ねながら絶狼に突進してくる。

 と同時に、長く太い尻尾を鞭のように唸らせ、絶狼を叩き潰そうとしてきた。

 両手に銀狼剣を下げ、絶狼はホラーの動きを伺っていたが、彼は小気味よく連なる尻尾による殴打を小さな動きだけでかわし、目の前で尻尾が地面を叩いた瞬間、銀狼剣でそれを上から突き刺した。

「グルァァァ!」

 痛みに喚きながら、ホラーは剣で尻尾を地に縫い止めている絶狼へと太く長い爪を振りかざす。

 向かってくるホラーを見て、絶狼は瞬時に、突き立てた剣を、刃が見えなくなるほど深く地に押し込み、もうひと振りの柄を両手で握った。

 腰を落として、逆袈裟掛けに構える。

 落としていた腰を、さらに下げた次の瞬間、一気にホラーへと地を蹴った。

 強すぎる踏み切りのせいで、地面は広くひび割れ、破片さえ弾け飛んだが、彼は構わず、突っ込んでくるホラーよりもさらに速いスピードで矢のごとく跳躍し、激烈なひと振りでもってホラーの首を斬り飛ばした。

 絶狼が地に立つと同時に、宙へ飛んだ首とよろめいた身体が、黒い霧となって消え散る。

 ホラーが消失するなり、鎧は解除され、銀牙は元の姿に戻ると、肩で息を吐いた。

 それから、苛立ちも露に、わざと嘲るような口振りで、ゆっくりと振り向く。

「高見の見物とは、…いい身分だな。」

 そう声をかけても、少年は未だ闇をまとったまま、微動だにせず佇んでいる。

 いや、ただ立っている訳ではない、と気づいて、銀牙は絶句した。

 少年は表情ひとつ変えず、また、息も乱さず、ただ静かに涙を落としていた。

 銀牙の感情の揺らぎを感じ取ったのか、胸元の魔導具がひどく押し殺した声で囁く。

「絶狼、…あの子供、ホラーではないわ。人よ。…それも、まだ生きてる。」

 彼女の言葉は、銀牙が予想もしていなかった事実を告げていた。

 困惑に眉を寄せるばかりの主に、銀色に輝く魔導具は、言いにくそうな口振りでさらに、

「彼を取り巻く気配が複雑過ぎて、今の今まで、確証がなかったけれど、…彼は人。それも、血に染まりし者。」

「!、何だって!」

 血に染まりし者。

 闇に生きる者達にとって、最も耳にしたくない呼称のひとつ。

 常々、道寺から冷静であれ、と言い聞かされてきた銀牙であっても、これには顔色を変える。

 しかし、魔導具の言葉はそれだけにとどまらず、

「そして、彼を取り巻く闇は、恐らく、…魔戒樹によるものよ。」

 魔導具の言葉を裏付けるかのように、闇は再びうねると、たちまち大木の姿となってみせた。

 メキメキと夜よりも黒い枝を空にのばしながら、太い幹の中へと少年を取り込む。

 少年はまるで人形のようにされるがままに背中から抱えこまれるものの、胸像のごとく、頭や胸元は外界に残された。

 首をかしげるようにして、前髪を傾ける少年の表情は虚ろそのもので、銀牙は途方に暮れる。

 あの子どもが、人?

 なのに、ホラーを従え、魔戒樹に守られている?

 突然、魔戒樹の幹や枝が、おびただしいほどの見開いた眼に覆われた。

 大小様々な大きさの瞳に見つめられ、銀牙はその異様な有り様に、神経を尖らせ魔戒剣を構える。

 人ではない声が魔戒語を操り、こう告げてきた。

「坊やは、渡さない。」

 幾つもの異なる音が重なり合ったような響きが、無理矢理、頭の中に入り込んでくる。

「この子は、私といるの。でないと、苦しんで死ぬことになる。」

 魔戒樹の言い分を耳にし、銀牙は質す。

「その子は、ホラーの血を浴びているんだな?」

 すると、魔戒樹を覆う全ての目が、同じタイミングで瞬きをしながら、

「そう。だから、私から離れてはいけないの。」

 いまのところ、この魔戒樹は会話に応じている。

 警戒を解くことこそしなかったが、それでも、答えてもらえるのならと、銀牙は質問を続けた。

「お前は、その子を救えるのか?」

「私は、この子を守るだけ。」

 守るだけ、という魔戒樹に、銀牙は眉をひそめる。

 ホラーの血を浴びた子どもを、守るだけ?

 救えないのか、救わないのか。

 奴の目的が解らず、

「何故だ?」

 すると、魔戒樹は、

「私が見つけたから。

 血を流して、泣いていたの。

 だから、私の力で守ってあげるの。そうすれば、死なないですむ。」

 ホラーの血を浴びていても、魔戒樹の庇護があれば、血のドルチェにならない、だと?

 忌まわしい、血のドルチェ。

 ホラーの血を浴びた者は、百日後、壮絶な苦しみの中、悪臭を放ちながら、生きたまま身体を腐らせて、死ぬ。

 その有り様は、血のドルチェと呼ばれ、ホラーが最も好む餌のひとつ。

 ホラーの血による呪いとは、百日間、休むことなく数多のホラーに命をつけ狙われながら、血の悪夢に苛まれ続け、挙句、壮絶な苦しみと共に腐れ死ぬことを指しており、だからこそ、闇に生きる者達は『ホラーの血を浴びた者、即ち、血に染まりし者は、即その命を絶つべし』という掟を、今も守り続けている。

 魔戒樹とて、ホラーと同じ、魔戒に棲むもの。

 銀牙は確かめずにはいられない。

「お前は、その子を喰わないというのか?」

 銀牙の問いに、魔戒樹はそっけない口振りで、

「この子は、私の子。喰うのなら、…お前でいい。」

 小気味よい返答に、銀牙は口元に笑みを浮かべた。

 子どもを喰うつもりはない。

 が、俺は喰う、か。

 銀牙は殺気を宿した眼で魔戒樹を下から睨み付け、魔戒剣を逆手に構え直しながら、

「…喰ってみるか?」

 押し殺した声で呟く。

 魔戒樹の持つ無数の目が、何度か瞬きを繰り返した後、

「お前は、あの男を倒した。だから、今度はお前がこの子を守りなさい。」

 一方的な言い様はさておき、銀牙は聞き返す。

「あの男?…さっきのホラーのことか?」

 すると、魔戒樹は空に輝く星々の光りさえ煩わしいかのように、その黒々とした枝をパキパキと音を立ててしならせてから、

「我が子を手にかけておきながら、死の救いすら成せなかった、愚かなる男。

 挙句、己に絶望し、世界を憎み、ホラーに憑かれた、小矮な男。」

 魔戒樹の台詞が意味する、幾つかの事実の重たさに、銀牙は目眩を覚える。

 しかしすぐさま、目眩がそれだけのせいじゃないとも気づく。

 魔戒樹の力が強いせいからか、その時の情景らしき映像が頭の中に流れ込んできた。

 先刻の男が少年を背中で庇いながら、ホラーと戦っている。

 その時、少年にホラーの血が飛ぶ。

 ホラーを退けた後、男は苦し気に震える剣を、少年へと突き立てる。

 だが、男の手元が狂ったのか、少年は口から血を流し、地に倒れているが、死にきれていない。

 よろよろと、どこかへと立ち去って行く男の背中を眺めながら、悲しげに涙を落とす少年のところに、白い光がやってくる。

 白い光は、よく見れば、禍燐が割った陶器の人形の姿をしていた。

 映像が流れ込む圧力が苦しくて、頭に左手をあて項垂れていた銀牙だったが、それが去ると、静かに息を吐く。

 漂泊していた魔戒騎士の親子は、きっと、掟を守ろうとしたのだろう。

 だが、人であるがゆえに失敗し、男はホラーに憑かれ、魔戒樹の使い魔となった。

「この子と私の盾くらいにはなるかと思ったが、…それはお前でも構わない。」

 魔戒樹の枝や根が、音もなく銀牙の背に忍び寄ってきて、囚われそうになる。

 銀牙は素早くその場を飛び退き、続いて地面から突き出てきた魔戒樹の根を避けるため、大きな跳躍を繰り返す。

 やっと、魔戒樹の攻撃が届きそうもないところまで下がれば、胸元の魔導具が話しかけてきた。

「気をつけて、絶狼。魔戒樹は、ホラーよりも上位の存在。私が気づきにくかったのは、そのせいなの。」

 彼女の言葉の意味するところを、銀牙は自分の言葉で言い直してみる。

「上位、ってことは、…向こうはシルヴァのことを探知できるけど、シルヴァにはできない、ってこと?」

 銀牙の台詞に、彼女は眼差しを伏せ、幾分沈んだ声色で頷く。

「ええ。さっきのホラーも、魔戒樹に従っていたでしょ。それくらいには、奴の方が上位なの。今回も、ただのホラーではなく、魔導具だったからこそ、私はあれを探知できた。悔しいけれどね。」

 銀の貴婦人は、魔導具としてのプライドが高い分、決して間違ったことは口にしない。

 例え、自分の能力の限界についてであっても。

 銀牙はふう、と一度息を吐くと、未だに理解できない一番の疑問を彼女に尋ねてみる。

「魔戒樹がどうしたいのか、解るか?」

 銀色に輝く相棒は、戸惑う素振りすらなく、すんなりと告げる。

「あれは嘘はつかないわ。そんな必要はないもの。だから、言葉の通りよ。」

 あの子どもを守る。

 ただそれだけ。

 銀牙は暗い面差しで立ち尽くす。

 この魔戒樹からは、誰彼構わず人を喰い殺すほどの禍々しい気配は感じられない。

 多分、言っていることも本当なのだろう。

 だが、根を避けている際、偶然目の前をよぎったそれに、つい手を伸ばし握り込んでしまった。

 手のひらを開き、改めて眺める。

 禍燐の襟に下がっていた、色硝子の珠飾り。

 彼女の最後の声と、悔しげな涙を思い出す。

 珠飾りを握り直すと、痛みをこらえるように、ゆっくりと瞼を閉じる。

 す、とそれをコートのポケットに落とすと、鋭く眼を開いた。

 闇夜のような黒曜の瞳に、強い意志の光が宿る。

 銀牙は両手の魔戒剣を順手に握ると、天に翳した。

 鎧と共に、魔導馬銀牙まで召喚し、絶狼は魔導馬に跨がると、魔戒樹へと疾走する。

 剣を構えた絶狼の姿を認めるなり、魔戒樹は少年を庇うように枝を寄せて質す。

「何故?私はこの子を守りたいだけ。」

 魔導馬は魔戒樹の正面にたどり着くと、そこから斜に飛び退く。

 その際、絶狼はこちらを睨む異形の枝を幾つも斬り払いながら、

「お前が人に仇成す存在だからだ。第一、ここはお前の棲んでいい世界じゃない!」

 魔導馬はその脚力にものを言わせ、地面から突き出される魔戒樹の鋭利な根を俊敏にかわしながら、幹や枝にぶつかりそうなほど近づき、即、離れる、を繰り返す。

 絶狼はその都度、攻撃の機を逃すことなく、何度も魔戒樹を斬りつけた。

 弱り始めたらしい魔戒樹は、おののく声で訴える。

「私を倒せば、この子も死ぬ。」

 だが、絶狼は怯まない。

 冷徹な声で、ただ一言、唸る。

「煩ェ!」

 魔導馬に跨がったまま、絶狼は淡い蒼炎を纏った烈火炎装の態となる。

「うおお!」

 炎をまとった魔戒剣をひと振りの大剣にして構え、絶狼はまっすぐ魔戒樹へと突っ込む。

 魔戒樹は迎え撃つため、無数の枝先で、矢の形となった小枝を番えると、一斉に絶狼を狙いすました。

 すかさず、絶狼は銀牙銀狼剣を魔戒樹へと投げる。

 枝を切り払うようにそれは横回転しながら、魔戒樹の目前まで飛んでゆくが、しかし、その幹の前で大きく斜めに逸れ、そのまま掠ることなく、ブーメランのように戻ってきてしまう。

「銀牙!」

 その時、絶狼の声は上から聞こえてきた。

 彼はすでに魔導馬から離れ、はるか上空へと跳躍しており、魔導馬銀牙はその絶狼の声に応えるかのように、駆ける脚を止めると、すぐさま後ろ足で立ち上がり、大きく嘶いた。

 空を掻く前足の蹄で、回転したまま戻ってきた銀狼剣を強く蹴り上げる。

 その瞬間、光りを含んだ強大な衝撃波が生じ、辺りを根こそぎ薙ぎ払った。

 魔戒樹の矢は、この輝く烈波に襲われ、ことごとく吹き飛ばされて砕け散る。

 次を用意する暇も与えず、絶狼は魔導馬の蹴った剣を上空で受け取ると、落下しながら魔戒樹を上から真っ二つに切り裂いた。

「ギアアア。」

 絶狼の剣は少年を傷つけはしなかったが、彼にも痛みが流れ込んでいるらしく、魔戒樹と共に苦痛の悲鳴を上げる。

「絶狼!あそこ!」

 魔導具の声に、絶狼はすぐさま反応し、手にした珠飾りをそこへ投げつけた。

 珠飾りは、魔戒樹が取り込んだままになっていた、揃い物の珠簪に当たると、りーん、という鈴のような美しい音を響かせた。

 と、同時に、砕け、弾け、音と共に、辺りへぶわりと紫色の火を広げる。

 瞬く間に、それは魔戒樹を焼き始めた。

「苦しい!やめて!私の坊やが死んでしまう!」

 しかし、紫の火は喚く魔戒樹を嘗めるように揺らめきながら燃え広がる。

 鎧を解き、苦しがる無数の眼を冷たく眺める銀牙に、魔導具が呟いた。

「小娘ったら、『業の焔』を持っていたとはね。」

「『業の焔』?」

 ぼんやりとした銀牙の問いに、銀の魔導具は落ち着いた口調で、

「業の深いものほど激しく猛り焼き焦がす、特別な炎よ。魔戒に棲むものには、たまったものじゃないわ。」

 音もないまま、ただひたすら猛々しく勢いを増す紫の炎を、暗い眼差しで眺めていた銀牙は、次第に力なく項垂れてゆく魔戒樹にゆっくりと歩み寄る。

 そして、改めて少年の前に立った。

 何故か紫色の炎は、彼の元へはやってこないでいる。

 銀牙はこっそりと安堵の息を吐いた。

 瞬きすら諦めたらしい魔戒樹が、弱々しく囁く。

「強い子は、…嫌いじゃないわ。」

 強がっている風でもない魔戒樹の台詞は、銀牙には届かなかったのか、彼は表情もないまま、魔戒樹に声をかける。

「お前、陶器の人形の中にいたんだろ?」

 すると、魔戒樹は観念したかのように、ぼそぼそと、

「あれが割れて、私は以前、自分で挿し木した、この子を次の依り代にした。」

「何故、人形なんかに?…一体、誰の仕業なんだ?」

 必死なほど声を張り、銀牙は魔戒樹を問い質すが、

「そんなこと、私は知らない。どうでもいい。」

 まるで風に流されるだけの砂のような返答に、銀牙はうまく言葉を返せない。

 いつの間にか燃え尽きそうになっている紫の炎に、彼は急いで、

「待て!挿し木は、まだあるのか?」

「…さようなら、坊や…。」

 ため息の混じった最後の台詞と共に、魔戒樹は砕けて塵となる。

 最後まで残った魔戒樹の幹から、無傷なままで残された少年の身体を引き抜くと、魔戒樹は本当に最後のひとかけらまで砕けて消えた。

 銀牙は胸に抱えた少年を見下ろす。

 魔戒樹の呪縛が薄れつつあるのか、ふらふらとした眼差しが、銀牙を見上げた。

 明るい、鳶色の瞳。

 銀牙はにっこりと笑いかけて、

「名は?何ていうの?」

 少年は億劫そうに唇を開くと、割れた小声で、

「…ウル。」

「ウルか。…もう少し寝てな。もう大丈夫だから。」

 ぎゅっ、と銀牙の腕に強く抱き締められて、ウルはやっと口元に笑みを浮かべる。

 舌足らずな口振りで、

「だ、いじょう、ぶ?」

「ああ。もう全部終わったんだ。心配いらないよ。」

 するとウルは再び、唇を震わせ、

「お母、さん、は?」

 その問いに、銀牙はふわりと穏やかな笑みを浮かべてから、

「疲れてたみたいで、先に眠ってる。一緒だ。」

 軽やかな彼の口調に、ウルは安心したのか、ゆっくりと眼を閉じる。

 ウルを抱き上げている彼の手には、眠りの界符が一枚、忍ばせてあった。

 とろとろと眠りに落ちていく少年の寝顔を見下ろしながら、

「お母さん、か。」

 声に出すつもりのなかった呟きだったが、銀色の賢女はすかさず、

「貴方にも、私にも、縁のない存在ね。」

 さっぱりとした言い方に、銀牙は小さく笑う。

 そして、さらに突き放す様な口調で、

「別に、知りたくもないさ。ただ、」

「ただ、何?」

 聞き返されても、銀牙はもう口を開こうとはしなかった。

 夜風がさらに冷たさを増し、夜明けを告げている。

「絶狼、…時間よ。」

 珍しく感傷的な彼女の響き。

 それでも、銀牙はもうしばらく、彼を抱いていた。

 冷たい風に身をさらしながら、彼はただその少年を胸に抱き締め続ける。

 さも、愛おしそうに。

 

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