軽くノックをして、俺は静香の部屋に入った。
「あ、れ、…起きちゃった?」
俺の呟きに、カーディガンを羽織って立つ静香が振り向く。
裾の長い、白のネグリジェ姿。
静香はいつもこんな姿ばかりしている気がする。
彼女は微かに笑みを浮かべて、俺の前に立つと、そのほっそりとした指先を俺の髪へのばしてきた。
こめかみに触れ、耳の後ろをたどり、首筋の辺りまできて、するりとその指先に髪を絡ませる。
「やっぱり、…まだ乾いてない。」
呆れて、多分怒っている彼女に、俺は笑いながら、髪に絡むその指を手に取ると、唇に軽く押し当てる。
「平気だよ、これくらい。」
しかし、静香は俺をまっすぐに見上げたまま、頬を膨らませた。
「駄目よ。起きた時、すっごい寝癖で、私を爆笑させる気なの?」
そう言われて、俺はくすくすと笑い、静香はにっこりと微笑む。
「ほら、乾かしてあげる。」
仕方なく、でも喜んで、俺は静香の促す通り、椅子に腰かける。
ドライヤーの風は少し熱かったが、静香の指は優しくて心地よい。
「髪、伸びたね。そろそろ切らないと。」
「ああ。」
「でも、銀牙は長くても、きっと似合うと思う。」
「そうかな?」
「お仕事の邪魔になっちゃうかな。そしたら、縛るのもいいかも。」
楽しそうな彼女の声と共に、彼女の指が、俺の髪をすくったり、揺らしたり、好きなように弄ぶ。
はらはらと。
さらさらと。
少し前までの静香は、夜、指令で俺が出掛けてしまうと、いつも遅くまで起きていて、俺の帰りを待ってくれていた。
帰りが明け方近くになってしまうと、さすがに諦めてベッドに潜り込んでくれていたようだが、椅子でうたた寝しているところを戻った俺が見つけてしまうことも、何度もあった。
きちんと休まないと、彼女の場合、命にかかわる。
何度もそう訴えてはみたものの、静香は頑として聞く耳を持たなかった。
あげく、たしなめる俺をきつく睨む静香の瞳に涙が潤んでいるのを見つけてからは、もう何も言えなくなった。
しかし、最近の彼女は、先に休んでくれている。
多分、俺が静香に剣を向けた、あの直後くらいから…。
そう思い当たって、微かに苦い不安がよぎり、あわてて忘れる。
最後に前髪を散らかして、静香はドライヤーのスイッチを切った。
「はい、お疲れ様。」
そう言って、静香は俺から離れた。
ドライヤーの熱を浴びて、身体が火照った俺は、ふうと息を吐く。
「大丈夫?…疲れちゃった?」
不用意に大きな息を吐いてしまったせいで、静香が心配そうな声を降らせてきて、それは本当にため息となってしまった。
そんな風に差し出してくれる静香の優しさに、今の俺は抵抗できない。
何も言わず、背もたれに身体を預け、俯き加減で顔を伏せていれば、彼女の手がゆっくりと俺の頭を撫でてくれて、その感覚に何もかも委ねたくなる。
気づかれないように、傍らに立つ彼女に片腕を回して、やんわりと引き寄せてしまう。
表情を隠した俺が何をしようと、静香は抗わないし、理由すら問わない。
ただ、寄り添ってくれる。
今日立てた、五つの墓。
魅風、魅風の子、禍燐、闇落ちした魔戒騎士、そして、…ウル。
誰も救えなかった…。
本当に、誰ひとり…。
ウルを手にかけた時の感触を、その血の熱さを、俺は一生、忘れない…。
こんなことが、当たり前になるほどあってたまるか…。
また、黒い糸が俺に蔓延(はびこ)る。
俺の内側に膨らむ、無力感と焦りを糧に、みしみしと内臓から指先、その先まで…。
苦しくて、静香の柔らかい身体に、そっと頭を押しつける。
いつの間にか、静香の手は髪だけでなく、肩や背中まで撫でてくれていた。
「今回も、…怪我とか、してない?」
指令から戻ると、彼女は必ずこの質問をする。
それは、静香が魔戒騎士について知ってすぐの指令の時からずっと続いている。
あの時も、指令から戻るなり、泣きそうな彼女がすぐさまこう尋ねてきたので、俺は彼女の肩を抱きかかえながらソファに座らせ、こんな風に説明した。
魔戒騎士は、使命の為に戦う。だから、傷は命取り。負えばすぐに手当てする。もとより、魔戒騎士の肉体は治癒能力や回復能力が高い。大抵は、手当ての必要もないのだ、と。
俺がそう告げると、彼女は強ばっていた肩を緩め、ふう、と細い息を吐き、よかった、と囁いた。
それでも、静香は指令の度に、こうして怪我の有無だけは、必ず尋ねてくれる。
心配そうな静香の、何もかもが嬉しくて、俺は決まって、笑顔でこう返すことにしている。
今回も多分に漏れず、ひょいと顔を上げ、笑顔で静香を見上げながら、
「なんなら、…自分で確かめてみる?」
からかうような口振りで言えば、彼女は真っ赤になって、そっぽを向く。
「…銀牙の意地悪。」
「意地悪じゃないよ。自分の目で確かめていいよ、って言ってるだけ。」
「それが、意地悪って言ってるの!」
毎回のやり取りなのに、彼女は決まって、首元まで赤く染めて、怒ってみせる。
俺はくすくすと肩を震わせながら、
「じゃ、…確かめないの?」
すると彼女は口を尖らせ、そっぽを向いたまま、
「確かめません!」
すっかり拗ねてしまった静香をそのままに、俺は椅子から立ち上がると、部屋のシーリングライトを消す。
室内は、カーテンの端からこぼれる、少し冷たい朝の光によって、うっすらとした闇に沈んだ。
これくらいの薄闇なら、いくら暗がりを怖がる静香でも大丈夫だろう。
振り向けば、彼女は心細そうな表情で俺を見つめていて、
「本当に、…ひどい怪我は、してないのね?」
「…うん。そんなヘマ、してないよ。」
微かに笑んで、俺は静香に歩み寄ると、彼女の腕をやんわりとつかみ、そっと引き寄せる。
すると静香は俯いたまま、ゆっくりと俺と向かい合わせになった。
しばらくして、彼女は視線を床よりもわずかに上げ、恐る恐る俺の胸の真ん中に指をのばす。
まるで、触れたら幻のように壊れてしまうんじゃないか、と怖がっているような仕草。
でも、俺は幻なんかじゃない。
指先は、確かに俺に届き、そっと触れる。
微かな感覚なのに、とくん、と胸が熱くなる。
彼女の指先は、そのまま押し広げられ、静香の手のひらが俺の胸にひたりと当てられた。
シャツ越しに触れられているのに、肌がざわつき、熱に眩む。
さらに引き寄せると、彼女は逆らうことなく身を寄せてきて、俺は腕を回して、彼女を胸に閉じ込める。
静香は手のひらを当てていたところに、今度は耳を当て、しなだれるように目を閉じた。
見下ろせば、うっとりとした美しい微笑みが口元に浮かんでいる。
「温かい、音。…銀牙の、音。…優しい響き。…ずっと、こうして、聞いていたい…。」
静香の声が甘く、震える。
彼女はこうして、俺が生きていることを確かめているようだった。
だから、俺も彼女が夢でないと感じたくて、彼女の小さな肩や細い腰に腕を回して、ぎゅうと強く抱き締める。
亜麻色の髪に酔い、額に唇を寄せ、守りたくて壊したくて、愛しい。
結局、…俺はそんな答えしか出せなかった。
窓から差す午後の日差しが、ベッドの上で膝を抱えて座っている彼女のつま先を掠めている。
俺はそんな彼女の前に立ち、手を差し出す。
「気晴らしに、庭へ出てみない?」
目の前に差し出された手をじっと見つめた後、彼女はゆっくりと視線を上げた。
不思議そうな表情が俺を見上げる。その瞳には言い様もない暗い影が壁のようにあり、全てを塞いでいるみたいだった。
しかし、彼女はすぐさま小さな微笑みを浮かべ、
「どうしたの?銀牙。改まって、お散歩のお誘い?」
「ああ。今、ちょっと暇だから。」
「まあ、暇つぶしに私の相手なんて、ちょっと、失礼じゃなくて。」
そう軽口を交わしながらも、彼女は少しためらった後、俺の手に自分の手を重ね置く。
よかった。
にっこりと笑い、俺は静香の手を緩く握る。
ひんやりとした細い指が、そっと俺の手を握り返してきた。
弱々しい繋がりのまま、ひどくのんびりした歩調で、俺は中庭へと向かう。
物憂げな眼差しを伏せ、静香は大人しく俺に手を引かれている。
こんなシチュエーション、どっかで聞いたな、と思い、すぐに思い当たる。
琴座にまつわる神話だ。
確か、竪琴の名手が、死んだ妻の手を引いて、冥府からこの世まで歩いて連れ戻そうとする話。
振り返ってはいけない、と言われていたのに、最後の最後に振り返ってしまう、バカな男。
今なら、少し解る。
男の哀れさが…。
ここ数日で、ようやく静香の体調が安定した。
俺に剣を向けられ、熱を出してしまったが、何とか命をとりとめ、静香は回復し、今ここにいてくれている。
だが今回は、発熱の後の様子が、いつもと少し違っていた。
熱が下がって四日経っても、目眩がひどく、歩いて部屋から出ることもできない。
そんなことは初めてだった。
しかし、静香は何も言わない俺に向かって、
「ちゃんとしたご飯を食べられるようになれば、すぐに良くなるわよ。」
そう笑い、すぐに、
「だから早く、ちゃんとしたご飯が食べたいわ。味の薄いものばっかりで、いい加減飽きてきちゃったもの。」
そんなことを言って、頬を膨らませたりもした。
でも、俺はそっと、彼女の指先を握る。
冷たくて、冷たくて、細い指先。
けれどそれは、ゆっくりと俺の手から引き抜かれて、逃れる。
笑みを浮かべている彼女は、俯いたまま、
「大丈夫よ。大丈夫、だから。」
緩くウェーブのかかった亜麻色の髪の影で、口元に滲んでいる笑み。
俺は小さい子にするように、彼女の頭を撫で、
「わかってるさ。」
そうして優しく抱き締める。
これ以上、彼女が凍えないように。
これ以上、彼女の肩が小鳥のように震え続けないように。
俺は彼女に、体温を分け与え続けた。
中庭に出ると、微かな風が心地よく、いつもと変わらない穏やかさに、つい目を細める。
見上げれば、空は淡いくらいに晴れ渡っていた。
そんな青空の下、空中へ噴き上げられている噴水の水は、光の流れそのもののように白く輝き、またその周りを取り巻く花園には、カラフルな花々が強い陽射しを喜ぶようにたくましく咲き乱れている。
頼りない足取りでついてきた静香を、噴水の縁に座らせると、二人して水の落ちる音に背を向け、俺は彼女の傍らに立つ。
俺達の視線の先には、花弁の縁に鮮やかなピンクが際立つミニ薔薇が、旺盛に葉や枝を伸ばして咲いていた。
「天気、良かったのね…。気がつかなかった。」
つばの広い白い帽子の下、静香は穏やかな眼差しで花達を見つめる。
陽射しの下で咲く花々を目にすると、途端に静香の表情が変わるのは、幼い頃から変わらない。
いつも通りの彼女に、俺は安心する。
幾分柔らかさを取り戻した彼女の表情を見て、俺は身体ごと静香に向き直ると、ゆっくりとした口調で声をかけた。
「聞いて、欲しいことがあるんだ。」
改まった言い様に、静香は瞬時に表情を強ばらせる。
きっと彼女は直感的に、よくないことだ、と思ったに違いない。
静香は顔を伏せ、
「…それは、相談?それとも、報告?」
彼女の笑みが薄れ、暗い影が覆う。
顔の見えない静香を見下ろしながら、彼女の質問に答えることなく、強くはっきりとした口調で話し出す。
「俺は今まで、静香に言わなかったことがたくさんある。
言わない方が余計な心配をかけなくてすむ、そう思ったから。
だけど、今回、静香は被害者で、俺が加害者だ。
だから、…全部話すよ。」
「え?」
俺の最後の台詞に、彼女はぱっ、と顔を上げた。
目を見開き、息をつめて、食い入るように俺を見上げる。
「…本当に?…いいの?」
なぜか彼女は泣きそうな顔をしていて、俺は微かな笑みを彼女に降らせ、力強く頷く。
「ああ。静香に全部聞いてもらって、最後に、静香の意見が聞きたいんだ。」
かつてこんな風に、静香に話したり、意見を聞く、なんてことは一度もなかった。
知らない方がいいことばかりだったのは間違いなかったし、とにかく関わらないでいて欲しかったから。
だけど、今回は違う。
今回に限っては、俺と静香の問題になってしまった。
静香なら、今まで通り、黙っている俺を受け入れてしまえることも解っていたし、俺自身すら、それでいい、と思っていた。
「私の、意見…?」
不安そうに見上げたまま、彼女は聞き返す。
「私、魔戒騎士のことも、お仕事のことも、よく解ってないのに、意見なんて…。」
「だから、今から話すんだろ?」
戸惑う静香に、俺は落ち着かせるように笑いかけてから、今回のあらましを残らず話した。
そして、
「またあんなことが起きないように、浄化は繰り返してる。だけど、根本的な解決法じゃない。かといって、他にできることもないに等しい。短い期間で指令を幾つもこなせば、…また起きる可能性は、ゼロじゃないんだ。」
そこまで言って、一度息をし直す。
静香はただ黙って、俺を見上げて動かない。
そんな彼女を見つめ、唇を軽く噛んでから、突き放すように言った。
「だけど、……待って、欲しいんだ。」
俺は、自分で殺しかけた、何よりも大事な彼女に向かって、そんな間抜けな答えしか出すことができなかった。
脆弱な薄いガラスのように張りつめていた静香の瞳が、ブレるように震える。
いつのまにか中庭に入り込んだ黒い揚羽蝶が、強い日差しの中、花に止まることもなく、目まぐるしいほどの速さで俺たちの周りを飛び回る。
鮮やかな色彩に輝く花園の中で、その黒はひどく異質にも見えた。
「俺は必ず強くなる。絶狼のことも、きっと完全に支配できるようになってやる。
だけど、今の俺はまだ、…届かないんだ。
後、どれくらい強くなったらいいのか、どんな風に強くなればいいのか、…俺にはまだ見えてない。
だけど、それでも、俺は静香と離れることは選ばない。」
静香を見下ろしたまま、俺は断言する。
「怖くない訳じゃないし、静香のことをいい加減に考えている訳でもない。
またあんなことになったら、と思うとゾッとする。」
次は、静香の返り血を浴びてから、我に返るかもしれない。
「静香の命を第一に考えるなら、俺といるべきじゃないことくらい、バカでもわかる。」
そう言って、俺は足元に深く息を吐いた。
静香を危険にさらすような真似だけは絶対にしたくない、という思いは今だって同じ。
しかも、俺自身が一番ヤバいなんて、本当に笑えない。
そして、それに対して有効な手立てが、こまめな浄化だけ。
誰だって、正気の沙汰じゃないと思うだろう。
俺とて、今まで、どんな場面であっても、理性的に、理論的に、客観的に、冷静に、一番正しいと思う答えを出してきたつもりだ。それはきっと間違っていない、と今も思う。
感情とか、欲とか、判断材料にも根拠にもならない。俺の命はもちろん、仲間の命、誰かの命がかかっているのに、そんな真似は自殺行為に等しい。
道寺にもそう言われ続けてきたし、俺自身、様々な戦いの中で、それがいかに正しいことか実感さえしてきた。
なのに、金縛りにでもあっているかのように、ちっとも動かなくなってしまった静香を前にして、俺は強く言い切る。
「それでも、俺は静香といる。そう決めた。」
この体たらくは、何だろう。
『ひとりにしない。』『約束を守る。』
そんなことを考えている理性なんて、感情の前では何の力もなく、いともたやすくねじ伏せられ、みっともないほど、どうすることもできない。
この答えは、間違ってる。
理性はそう叫び続け、雄弁にその理由をまくしたてているのに、感情はただ押し黙ったまま、この答えを握りしめて離さない。
もしかしたら、俺は知らないうちに、狂ってしまったのだろうか。
黒い糸が、もう俺のすべてに蔓延ってしまって、俺の思考まで狂わせているのかもしれない。
じゃなくちゃ、説明がつかない。
もしこの答えを選ばなかったせいで、ひとりぼっちになってしまった静香の身に何かあったりなんかしたら、俺は一体どうなるのか。そんなことになるくらいなら、離れることなど選ばず、結局、俺と静香、二人して死ぬような最悪の結果を招くことになったとしても、俺は決して後悔しない、なんてことまで考えている自分に。
でも、そんな思いを静香に押し付ける気はない。
だから、尋ねる。
「静香は、どうしたい?」
俺が話している間、噴水の縁に腰かけていた静香は、片時も目を離すことなく見上げていた。
最後の問いかけの余韻が消えかける中、慎重ともいえる動作で、彼女は俺の腕をつかみ、足を地に下ろす。
俺の前に立った彼女に表情らしきものはなく、口元は固く結ばれたままで、怒っているようにも見える。
ふわりと彼女の細い腕が持ち上がり、つばの広い帽子が白い花びらのように地に落ちた。
明るい鳶色の瞳がまっすぐ近づいてきて、彼女の両腕が俺の首に回される。
ぎゅっと力が入り、彼女は小声で告げた。
「嬉しい!」
彼女の言葉に、一瞬耳を疑う。
しかし、彼女は俺の首にしがみついたまま、
「私、…ずっとずっと、怖かった。銀牙が離れよう、って言ってくるんじゃないか、って。
それだけは、私、どうしても嫌だったの。
嫌だったけど、…銀牙からそう言われちゃったら、私は拒めない。
拒めないのがわかってたから、……だから、今、すごく、すごく嬉しいの!」
泣き声混じりの静香の台詞を聞きながら、俺は彼女の身体を抱き留める。
ホッとしすぎて、頭がぼんやりする。
今になって、複雑な気分だ。
こんな、感情むき出しな自分勝手な答えに、静香は付き合ってくれるっていうのか。
「本当にわかってる?もし、またあんなことがあったら、もっと酷いことになるかもしれないんだぞ?」
やっぱり確認してしまうが、彼女は抱きついたまま、首を横に振る。
「駄目よ、今さら脅かしても。それに、銀牙なら、次なんて起きないわ。
もし万が一、そうなったとしても、私なら構わない。銀牙が他の誰かを傷つけて苦しむくらいなら、私でいい。」
「馬鹿言うな!」
静香は本気で言っている。
だから、余計に腹が立つ。
なのに、彼女はしれっと、
「私なら平気。信じて。」
わかってる。
そんなことは、俺が一番わかってるんだ。
「静香、頼むから…。」
そんなこと、本気で考えないでくれ。
そう諌めようとした時、静香はゆっくりと身体を引いて、俺を見上げる。
久しぶりに見る、眩しいくらいの静香の笑顔。
「ありがとう、銀牙。私、今が一番嬉しい。銀牙が私を選んでくれた時も嬉しかったけど、…今が一番。
本当に、銀牙に求められてる、って実感できた気がするの。」
輝きほころぶ花のように、彼女は目を細めて柔らかく笑う。
一番好きな笑顔が、やっと戻ってきてくれた。
彼女の髪に指を伸ばしかけるが、彼女はふと目線を下げ、
「銀牙も、お父様も、…私を甘やかし過ぎなの。
私だって、もう少し、何か力になりたいのに、何もさせてくれない。
でも、今、ちょっとだけ、銀牙に近づけた気がする。
やっと、銀牙と同じ景色を見ることができた気がしたの。それがすごく……嬉しい。」
目じりに膨らんだ涙を隠すように、静香はぽす、と俺の胸元に顔を押しつけた。
何となく解る。
彼女は以前から、疎外されている、と訴えていたから。
「酷い景色だから、…あんまり見せたくないんだけどな…。」
俺の呟きに、彼女は顔を押しつけたまま、小さく首を横に振る。
そのまま動かない静香を柔らかく抱き、俺は安心する。
安心して、決意を新たにする。
邪気なんかに蝕まれない。
好きにさせない。
俺の無茶を、静香は嬉しそうに許してくれたんだ。
「絶対、守る。今度こそ。」
呟いて、ぎゅっと抱き締める。
この命は必ず守る。
必ず。
俺は抱き締める腕を少しずらし、静香を抱き上げると、二人してベッドに倒れ込む。
「え?ちょっ、銀牙?!」
初めてこうした時、静香はびっくりしてあわてふためいた。
鳶色の瞳が見開かれ、息をつめて、俺を見上げる。
だが、その時の俺は、すぐにさらりと笑って、
「大丈夫。何もしないよ。こうして、一緒に眠りたいだけ。」
そう告げたら、静香は小さく肩を下げ、安堵したように微かな息を吐いた。
ベッドの中で、俺は彼女を胸に抱き締める。
黒い絹糸が紡ぐのは、俺の判断が甘かったせいで、ホラーに喰われた少女の残像。
あるいは、俺の力不足で、片腕を失った新米の魔戒法師の残像。
あるいは、ウルや禍燐、魅風の残像。
そんなものばかりを俺に紡ぐ。
俺に糸を止める術はない。
無様に、闇雲に、斬りつけるばかり。
しかし、
「銀牙…。」
柔らかい静香の声が胸元で聞こえた。
ぴたりと、糸はその動きを止める。
腕の中で見上げてくる静香が、儚げな指先で、俺の頬を撫でてくれる。
「好きよ…。」
彼女の囁きが胸に響き、熱が溢れる。
黒い糸が抗い、ぎりぎりと軋む。
俺は彼女にねだる。
「もう、一度…」
すると、彼女は俺の顎のラインをたどたどしい指でなぞりながら、
「好きよ、銀牙。…誰よりも、好き。」
はにかむように囁かれて、俺は抱き締める力を強め、俺もだ、と微かな声で応えれば、彼女は俺の胸元で、ふる、と震え、額を当ててくる。
「ずっと、側にいてね。ずっと…。」
弱々しい静香の声に、黒い糸は一瞬にして砕け散り、消え去る。
道寺の言っていたことは、本当に言葉の通りだった。
静香は驚くほど的確に、圧倒的に、黒い糸を粉砕してくれる。
苦しんでいたことが、バカみたいに。
初めてそれを体感した時、びっくりしすぎて、声も出なかった。
その日は、道寺の書斎で魔導書をめくっていたのだが、すぐに飽きてしまい、長椅子に寝そべっていた。
ひじ掛けに頭を寄りかからせ、それでも一応、魔導書を開いていたのだが、次第に文字を目で追うのもだるくなり、早々と諦める。
頭の後ろに手を組み、開いた本を顔にのせて寝てやろうとしたのだが、うとうととすると、早速、黒い糸が現れた。
ムカつく…。
苛立つがどうしようもない。
起きてしまおうか、と思った時。
「まあ、銀牙ったら……、何もこんなところで寝なくても。」
静香の呆れた声に、俺は顔に乗せた本の影で思わず笑う。
全くだ。道寺に見られたら、お小言、間違いなしなのに。
彼女は足音を立てず、ゆっくりこちらに来ながら、
「なっがい脚…。お行儀悪い。」
仕方ないだろ?
こうして、ひじ掛けに組んだ脚をのせなきゃ、昼寝もできないんだから。
聞くものなどいないと信じきっているらしい静香は、呆れた声のまま、
「凉邑家の次期当主、ってことはそれなりに王子様なんだから、もっと王子様らしい振る舞いをしないとね。」
…王子様、ねぇ。
静香の囁きは本当に小さくて、彼女も俺に聞かれているとは夢にも思っていないはず。
だが、彼女は俺の隣に立つと、しばし動かなくなった。
あれれ。どうしたの、静香ちゃん。
すると彼女は不意に歩み出し、金属の擦れる音がして、部屋が急に暗くなった。
カーテンを引いたのか…。
再び、頭の上の方から静香が囁く。
「お疲れ様。そう言えば、昨日の夜もお仕事だったものね…。今、ブラケットを持ってくるわ。…でも、次はちゃんとベッドで寝るのよ。お行儀の悪い、王子様…。」
楽しそうにそう言って、静香の気配が離れて行く。
が、俺はすぐさま跳ね起き、彼女の腕をとらえた。
「え?」
振り向いた彼女は、びっくりした顔で俺を見下ろしていて、俺は戸惑い、手を離す。
いつもなら、軽口なんて何でもないように出てくるのに、今の俺は何も浮かばない。
黒い糸が、死人の顔ばかりをちらつかせているせいだ。
血に染まった死人の眼が、俺を見つめ続ける、そんな光景ばかりを見せつけてくるから。
イラつくったら、…ない。
「俺は、ただの魔戒騎士だよ。」
王子様、って何だよ。俺なんて所詮、捨て子の成れの果てじゃないか。道寺が拾ってくれなかったら、とっくの昔に、道端で石ころみたいに死んでた。
いつもなら、笑って流せることにも引っ掛かって、今の俺は無様過ぎる。
昨日の夜だって、大したことないホラーが男を喰っているところに遭遇した。
一瞬で方をつけたが、封滅した後に指輪が残っていて、男には伴侶がいたんだ、と知る。
別に、俺が悪いんじゃない。
そんなことは解ってる。
解っているが、……。
黒い糸が勢いを増して、俺を貫き縛る。
「銀牙…。」
静香の声で、はたと我に返る。
彼女は俺の傍らに膝をつき、こちらをじっと覗き込んでいた。
彼女の瞳が俺を見透かそうとしていて、ふい、と彼女から視線を外す。
だが、静香の両手が俺の頬をとらえて、ぐい、と彼女の方へと向け直した。
イラッ、として睨んだら、静香も口を尖らせ、
「怒っても駄目。私は銀牙が好きなんだから。」
え、と目が点になる。
今、何て…。
この手の言葉を、静香は滅多なことでは口にしない。
しかもこんな風に面と向かい、真剣な面差しで、なんてことは、今までだって数えるくらいしかないはず。
『好き』
静香の唇からこぼれる言葉で、一番甘い響きだと実感する。
その甘さに思い切り酔いながらも、もうひとつの事実に、息をのむ。
黒い糸が、止まっている。
まるで結晶にでもなったかのように、固まって動かない。
驚いている俺など気にすることもなく、彼女はそのまま少し早口なくらいで、
「好きな人がそんな顔してたら、ほっとけないわ。」
そう言って身を乗り出すと、顔を寄せてきた。
ふわ、と唇が軽く触れ合う。
がすぐに、彼女は逃げるように手を放し、離れていってしまった。
今度は床に膝だけでなく、手までついて項垂れている彼女は、きっと照れの極みに苦しんでいるに違いない。
俺は俺で、びっくりしていた。
こんなに積極的な静香、見たことない。
何より、静香の言葉で、糸はぴたりと止まり、淡いキスで、何の力もなくなった。糸が入り込んで蔓延っていく感覚も、血をしぼる上げるような苦痛も、息苦しさも、何も感じない。
唐突な解放に、ぼんやりしながらも、すぐ隣で小さく唸ったまま動かないでいる亜麻色の頭に手をのばし、そっと撫でる。
びくびくと顔を上げた静香は、涙目で俺を見て、
「…、怒ってない?」
叱られる前の子どもみたいで、俺は笑って、
「何で怒るの?…それに、俺だって、好きな人がそんな顔してたら、ほっとけないよ。」
と、身体を起こし、すばやく唇を重ねる。
合わせるだけだったけど、お互いに離れようとしなくて、結局、ゆっくりと静香の方から離れた。
頬を赤く染め、口元を指先で押さえながら、静香は下を向いてしまう。
恥ずかしそうに俯く彼女に、俺はにっこりと笑い、明るく告げる。
「ありがと、静香。」
俺の台詞に、静香はすぐ顔を上げ、
「…ありがと?」
小首をかしげて見せる彼女に、俺は小さく頷きながら立ち上がる。
「うん。今、俺のこと、助けてくれたから。」
さっぱり解らない、という顔の静香の手を取ると、
「さ、お茶にしよう。もう、魔導書は飽きた。」
俺は早速、道寺の書斎を後にする。
だが、手を引かれ、隣に並んできた静香は意外そうな口振りで、
「私は、面白いと思うわ。」
「…もう魔戒語、覚えたの?」
呆れた風に笑うと、
「私には、そういう時間だけは、たくさんあるのよ。」
くすぐったそうに笑いかけてくる静香に、俺は内心苦笑する。
もし、静香がごく普通の健康体であったなら、さぞかし有能な魔戒法師になれたに違いない。
階段を降りる手前くらいで、繋いでいた静香の手が、俺の手をきゅっと握り返してきた。
覗いてみれば、彼女は足元に微笑みを降らせながら、あまやかな声で呟く。
「いつも私を許してくれて、ありがとう、銀牙。」
それから俺に振り向き、明るい瞳を輝かせて、
「…大好き。」
俺の胸に、眩むような心地良い熱が灯り、力を失った黒い糸だったものは、音もなく砕け散って消えた。