呼ばれた気がして、零は瞼を上げる。
目の前には、寒々とした平原が広がる雪景色。
鈍重な暗い雲が天を覆い、ちらちらと雪が舞う。
見晴らしのいい小高い丘に、彼は佇んでいた。
「絶狼…、お待ちかねの彼女よ。デートの準備はよくて?」
手の甲で、銀色に輝く魔導具が楽しげにからかう。
気づかないうちに、忌まわしい過去へと意識が立ち戻っていたらしい。
癒えようのない哀しみをなぞり返してしまい、再び裂けてしまった心に、ふわりと現在(いま)の風が抜ける。
……、思い出した。
今回の指令書は、珍しく連名の呼び出し。
俺の名前が奴の名前の下に書かれていて、あげく、北の管轄へ来い、としか書かれていなかった。
奴と組め、ってことなんだろうが、…余計なことを。
思わず俺は、奴よりも先に北の番犬所に駆け込んだ。
そんで、ひとりで始末して、自慢してやって、奴に無駄足を踏ませてやれ。
そう思ったのに…。
北の番犬所の神官ときたら、
「冴島鋼牙の到着を待ちなさい。両名が揃ったところで、指令の詳細を伝えます。」
少年の姿をした、人にあらざる存在は、無表情にそう言った。
「何故、俺と鋼牙なんだ?」
これじゃ、俺が無駄足になってしまう。
何か解るかと思い、あわてて尋ねてみたが、即、
「質問は許されません。」
「……、あ、そ。」
呼びつけといて、何だそりゃ。
格好はガキんちょのくせに、頭は干物みたいにカチコチらしい。
相変わらずの、人を見下した物言いといい、目付きといい、一気に嫌気がさして、俺はふらりとこんなところに。
「昔から、犬は苦手よ。特に、永く生き過ぎて、躾も忘れてしまったような犬は大嫌い。」
毛虫を嫌う少女のように、銀の貴婦人は眉をひそめて、声を苛立たせる。
つんけんとした口振りが可愛くて、俺はくすりと笑いながら、
「確かにな。」
彼女が時折見せる、人のように細やかな感情の波。
歴代の絶狼に愛されてきた理由が、今はよく解る。
多分、絶狼の称号を継ぐ者はみな、寂しがり屋だったに違いない…。
穏やかな俺の同意に気を緩めたのか、銀色の美女はひそりと沈んだ声で、
「せっかく、…絶狼が鋼牙の手を煩わせないよう、気をつかってあげようとしたのに…。」
思いもかけない言葉に、俺は目を丸くして、
「あれ、シルヴァはそんな風に思ったんだ?」
すると、彼女は確信めいた艶やかな声で、
「違って?」
誘うように聞き返されて、俺はますます口元を緩める。
顎を上げ、真っ白な雪原を遠くまでのぞめば、凍てつく風が一瞬だけ鋭く吹き抜けた。
耳が切れそうなほどの冷たさが、今は心地良い。
自然、明るい声で呟く。
「…ま、いいさ。雪は苦手なんだ。」
道寺が初めて俺の前で倒れたのも、雪の降り積もる夜だった。
「何か、思い出していたの?」
心に触れてくるような、魔導具の優しい響き。
だが、急に心配そうになったシルヴァを、俺は小さく笑って、
「いーや。今日は何食べようかな、って考えてた。あったかいのがいいな。……なあ、鋼牙。」
こいつはいっつも、こうだ。
気配もなく俺の後ろを取って悠然としてやがる。
無神経で、本当に腹が立つ。
ま、そんな自覚、ないんだろうけど。
「零。」
毅然とした声に振り向けば、見慣れた奴の立ち姿があった。
白の魔法衣をまとい、茜色の鞘の魔戒剣を手にした男は、誰もが振り向く器量良しなのに、あいもかわらず無愛想。
「よ、久し振りだな、鋼牙。」
お手本と言わんばかりに、にっこり笑いかけてやってんのに、奴ときたら、眉ひとつ動かさず俺を見据え、
「ああ。…そこで、何をしている。」
問い質すような口振り。
本当に、生真面目な奴。
「ちょっと、雪に魅入られてた。」
小さく肩をすくめて、俺は丘を下る。
すると、主よりずっと口数の多い、奴の魔導輪が、興味深そうな口振りで、
「ほう、お前でも、惑わされることがあるのか?」
何それ。人をどうしようもない鈍感ヤローみたいに。
癪に障ったから、口を尖らせ、
「それは鋼牙に言ってやんなよ。…それに、お前には惑わされてやんないから、安心しな。」
相手は皮肉屋の魔導輪だって、分かってはいるんだけど、……やっぱり、言い返さないと気がすまないんだよね。
挨拶代わりの軽口が済むと、どちらからともなく、俺達は肩を並べて歩き出す。
さくさくと雪を踏み、北の番犬所へと向かう。
失礼な神官が俺に言ったことを、鋼牙にも聞かせてやった後、
「ところで、……みんなは、元気?」
冴島家には最近寄っていなかったから、一応確認。
すると、鋼牙は眉ひとつ動かさず、
「ああ。」
なら、いいや。
後は聞きたいこともない。
だんまりを決め込もうとしたのに、意外にも鋼牙の方が会話を繋げてきた。
「零。」
「ん?」
「雷牙から、伝言がある。」
「えー、マジで?」
他所のお宅の息子さんでも、なんか嬉しい。
でも、何だろ。心当たりは全然ないんだけど。
すると鋼牙は、わずかに声を下げ、
「今度の誕生日には、きっと来て欲しい、…顔を、忘れたくないから、と。」
……そう、か。
前に会ったのは確か、二年位前だっけ。
すごく不思議な存在だ、と感心したことを思い出す。
何というか、鋼牙とカオルちゃん、両方の気配を持っている存在が、実際に目の前で生きている、っていうのが不思議というか、感動的というか。
地味にびっくりしたんだよな。
あれから、二年か。
ちびっこは育つのに忙しいからな。
もうそんなに経つのか。
「ふふ、……なかなかの殺し文句だな。誰が教えたんだ?」
面白がる俺を、鋼牙は冷たく一瞥し、
「……皆、不安がっている。雷牙も、ゴンザも、カオルも。」
冴島家の人々の面差しを思い浮かべ、胸に走る微かな痛みを俺は笑い飛ばす。
「心配症だなあ。俺はそう簡単には、くたばらないって。」
「そうよ。私がついているのよ。そんなこと、あり得ないわ。」
さも不愉快そうに、銀色に輝く彼女が呟く。
魔導具としてのプライドが高い彼女は、この手のことを言われると、決して黙ってはいない。
だが、鋼牙には俺達の言い分など、どうでもいいらしい。
最後まで聞かず、ひどくぞんざいな口振りで、
「ならば、お前達の口から、そう言ってやるんだな。俺はごめんだ。」
「あれ、もしかして、鋼牙パパ、信用されてないの?」
からかってやろうと思ったのに、鋼牙はギロリと俺を睨み、
「信用されてないのは、お前の詰めの甘さだ。」
ぎゃふん。
「容赦のないお言葉…」
素直にへこむ俺を残して、奴は平然と急ぎ続ける。
指令の内容は、至って簡素。
ゲートの封印。
それと、その影響で出てきちゃうホラーの封滅。
俺達二人を指名したのは、そのゲートがでか過ぎたから。
北の管轄でも、過去最大の規模らしい。
ひとりで突っ込んで行かなくて、ホントよかった。さっきの勢いだったら、絶対、行ってた。
ありがとー、番犬ちゃん。
「それで他の連中は、このでかいゲートの出現の影響で発生した、小規模ゲートの火消しに回った、って訳か。」
「ああ。」
俺の素朴な疑問に、鋼牙は牙狼剣を鞘に納めながら頷く。
俺は手の中の銀狼剣を、くるくると軽く弄んでから、魔法衣の中へと仕舞う。
「ま、こんなもんでしょ。」
ゲートの封印だっていうのに、バックアップやフォローの為の魔戒法師をひとりも回して貰えない、なんて聞いた時には、あまりの特別優待に涙が出そうになった。
そりゃあ、それなりの腕がない奴をあてがわれたら、お守りまでしなくちゃならなくて、余計面倒になるけどさ。
とりあえず、指令のあったゲートの出現場所とおぼしき場所へすぐさま赴き、もううろついている気の早いホラーを一掃した。
それが今。
そして、時が満ちるのを、二人して待ち構える。
「で、どうする?どっちが、ゲートを封印する役なんだ?」
暇潰しに尋ねたら、
「どっちでも、いいだろう。」
鋼牙にぴしゃりとはねつけられ、俺は半ば呆れる。
わかってはいたんだけどね。
「相変わらず、つまんない男だなぁ。じゃ、せっかくだから、黄金騎士様に主役はお譲りしてやるよ。俺は、しがない雑魚狩りってことで。」
一方的に俺が決定してしまっても、鋼牙はきっと何も言わない。
事実、彼は鋭い眼差しをちらりと向けただけで、やはり何も言わなかった。
お互い、どちらも面倒は同じ。
それくらいのことは、二人とも了解していた。
月が欠け始め、時が来た。
ゆらゆらと空間が歪み、巨大ゲートが出現し始める。
すかさず鋼牙は鎧と魔導馬轟天を召喚し、あっという間にゲートを斬り飛ばした。
「……え?」
高みの見物気取りでニヤついていた俺は、目が点。
……斬り飛ばすか?普通。
なんというか、とんでもなく、……尊大で、雑。
ものすごく鋼牙らしくて、嬉しくなっちゃう。
「何をしている、零!もたもたするな!」
出た。
鋼牙の威張りんぼ。
「…はいはい。わかってますって。」
出遅れた形になった俺は、仕方なく、自分で言った通り、辺りに漏れ出たホラーをちまちま潰す。
ちまちま、ちまちま、……。
「くそ!やってられっか!」
絶狼となり、魔導馬銀牙を召喚すると、曇天さえ消し飛べと、思い切り咆哮をあげた。
くくく、……いい感じ。
身体が熱い。
湧くような血の流れや、力の漲りがすべて、戦いに対する高揚感となって、身体が浮いているような感覚に酔う。
気分いいぜ。
すぐさま、鋼牙と一緒になってホラーを蹴散らす。
「うおおお!」
「……結局、やってることは鋼牙と同じなのよね。」
魔導具のため息など、聞こえない振り。
思い切り暴れて、指令も無事終了。
あー、すっきり。
久しぶりに全力出せたぁ。
辺りから不穏な気配が消え、ぼんやりとした夜に包まれる。
なんとなく、来た道を戻ろうとする俺の背中に、鋼牙がぽつりと、
「ひとつ、…聞きたいことがある。」
呼び止められるのは好きじゃない。
仕方なく、ゆらっと振り返って、
「番犬所に報告に行くのは、俺じゃなくて、鋼牙、だろ?」
「?」
さすがの鋼牙様も、訳が解らないらしく、怪訝そうに眉をひそめる。
だが、俺は構わず、
「じゃ、俺の誕生日?」
するとようやく、奴も気づいたらしい。
仏頂面が、さらに険のあるそれになる。
でも、やめない。
「好きな色はね、」
「茶化すな!」
鞭打つような、鋼牙の鋭い声だったが、俺は緩やかな微笑を浮かべたまま、
「同じようなもんさ、俺には。」
すべてが色褪せている俺にはみな、同じようなもの。
白か、黒か。
色がない、のだから…。
あの瞬間、あの赤を目にしてから。
しかし、鋼牙は珍しく表情を曇らせ、言葉を続けた。
「お前の戦いを見て、……ひとりの魔戒騎士を思い出した。」
「魔戒騎士?」
「二刀流の使い手。」
ぎくりとする。
が、表に出さない。
一方、鋼牙はそ知らぬ様子で、
「たった一度だけ、共にホラーを倒した。いや、正確には、助けてもらったんだが。さっきのお前の立ち姿を見て、思い出した。」
唐突な告白に、俺は動けない。
「ただ、ホラーの前に立っているだけなのに、圧倒された。
剣を構えもせず、まるでそこにいないかのように静寂。
そして、一度剣を振るえば、寒気すらするほどの、神速の連戟。
あんな剣士は、見たことがない。いまだに。」
俺は鋼牙を見つめたまま、くすりと笑って、
「俺より、強い?」
「ああ。」
「随分はっきり、言ってくれるなあ。」
文句を言いながら、俺は思わず笑ってしまう。
さすが、鋼牙。
わかってらっしゃる。
俺はまだ届いていない。
病に蝕まれ続けた道寺にすら。
「だが、どこか似ている。……、知り合いか。」
鋼牙の質問に、俺は背を向ける。
シルヴァが答えようとするのを、俺は自身の唇に人差し指を立てて制した。
名を告げれば、鋼牙のことだ、遅かれ早かれ、その死に様までたどり着いてしまうだろう。
バラゴによって殺されたことは、道寺には耐えがたい屈辱だろうし、鋼牙もまた古傷を疼かせることになる。
いいことは、ひとつもない。
だから、内緒。
くるっ、と首だけをひねり、
「さてね。探したいなら、他、当たってよ。」
背を向けたまま、軽く手を振って歩き出す。
胸が熱い。
鋼牙の中に、道寺が生きている。それも、稀代の二刀流の使い手として。
嬉しくない訳がない。
ふと、気がついたら、またあの丘の下。
雪はいつの間にか止んでいた。
少しためらって、俺は通り過ぎる。
もう、いいや。
俺がどんなに雪の中に立ち尽くしても、迎えにきてくれる人は、もう、いない…。
それに、今はもう、どこにいても、さほど何も変わらない。
今俺が生きているこの世界そのものが、あの雪の晩の景色そのものなのだから。
見渡す限りの、白と黒。
光もなく、暖かさもない。
何もなく、誰もいない。
俺だけが立ち尽くしている…。
そう言えば、あの時、もし雪の中に倒れていたら、助からなかっただろう、と後から道寺に聞かされた。
「何がお前を、ぎりぎりのところで踏み止まらせていたのか。」
あの時はよく解らなかったけど、今はなんとなく解る。
…男の子だから。
本当の最後のぎりぎりまで追いつめられてしまったから、だから簡単に負ける訳にはいかなくなったんだ。
それは今も変わらない。
そして今も、それがいいことなのかどうか、わからない…。
今の俺を見て、彼女は何て言うだろう。
そんなことを思いそうになって、俺は口元に笑みを滲ませる。
夢は、もういい。
優しい彼女には、美しい花々や星空、そして、あまやかな眠りを…。
俺が願える、たったひとつの祈り。
「絶狼」
不意に、相棒たる魔導具が美しく声を響かせた。
「何だ?」
気分のいい俺は、柔らかく尋ねる。
すると彼女は、ちょっと困った口振りで、
「この先に、ホラーの気配がするわ。後ろからは、鋼牙。…、どうする?」
ふーむ、どうしようかなぁ。
一番面白そうなのは、今日の企みの続き、だよなぁ。
「ここはやっぱり、早い者勝ち、だろ。」
思わず愉快そうな口振りになった俺を嗜めるように、銀の彼女は艶やかな声で囁く。
「そこは、牙を研いでこその絶狼ゆえに、でしょ?」
「はは、かっこいー。」
穏やかな笑みを浮かべたかと思うと、彼はすぐに表情を切りかえる。
眼差しを尖らせ、コートの裾を軽やかに翻すと、零は静かに封滅すべきホラーへと駆け出す。
しかし、魔導具の胸中は、薄闇のように蒼く沈んでいた。
冠するその名の通りに、唯一の家族である、零の想いを温かく悲しむ。
彼は、鋼牙を少しでも早く家に帰らせてあげたいだけ。
彼の帰りを待つ家族を、少しでも早く安心させてあげたいだけ。
彼には、自分が無くしてしまったものを大切にして欲しいから。
自分だって疲れてるのに。
馬鹿な子ほど可愛い、って本当。
だからこそ、死なせない。
私がついているのだもの。
ごめんなさい、道寺、静香。
もう少し、待たせてしまうわ。
だけど、この子は愛されているの。
この子を慕い、信頼する人達は少なくないわ。
だから、もう少しだけ…。
銀色に輝く貴婦人は、憂いの滲む瞳をわずかに伏せると、絶狼の称号を持つ者に身を寄せ、共に夜の闇へと消えて行った。