peaceful days   作:楡野 透

5 / 43
第3話

急に身体がびくりとして、俺は目を覚ました。

「悪りぃ、起こしちまったか。」

男の声に、自分が眠っていたと気づく。

喉がカラカラで身体を起こそうとすると、顔から小さな保冷剤がパラパラと落ちた。

どうやら額や頬の辺りをこれで冷やしていたらしい。

「…、水か?」

言われて、俺は頷く。

さっきのカップで再び水を飲むが、飲み込むにも痛みが走り、少しずつしか飲めない。

ちびちびとぬるい水をすすりながら、俺は男を見た。

彼は出入口のドアの前に置かれた椅子に座って、俺の様子を見ていたらしい。

時計を見れば、まだ明るくなる時間ではない。

しかし、

「おっさん、」

「あ?」

うまく動かない口で俺が話しかけると、彼は軽い調子で聞き返した。

俺は一番に知りたいことを尋ねる。

「もしかして、…寝てないのか?」

ベッドを占領している以上、そうとしか考えられない。

だが彼は、何でもないかのように、

「いや、…うとうとはしてる。気にするな。」

また、気にするな、だ。

「飲んだら、寝ろ。それとも、トイレか。」

トイレ、と言われて行きたくなるのは、やっぱりガキだからかもしれない。

毛布をはねのけ、ベッドから飛び下りる。

さっきより、ちゃんと身体が動く。

「もう歩けるみたいだな。」

男の言葉に頷くと、俺はいつものテンポで歩いてトイレに行くことができた。

男の部屋に戻り、さっきと同じようにベッドに潜り込む。

男はまた俺の顔に保冷剤をあてがうと、椅子に座った。

身体の前で腕組みし、足はベッドの端に乗せて眼を閉じる。

少しでも仮眠を取ろうとする彼だったが、こっちは薬が切れ始めているのか、一向に眠くならない。

目が冴えた俺は、ようやくこの部屋をきょろきょろと眺める。

さっき薬を取り出したキャビネットがまず最初に眼を引く。日用品は壁につけられた小さな棚に並び、よれたジャケットが壁のフックにかけられている。

後は多分ベッドの下の大きなケースに入ったままなのだろう。

ベッドのサイドテーブルには、さっき俺が置いたカップとスタンド代わりのカンテラがあるだけ。

覗くなら、キャビネットが一番面白そうだ。

そう思った時、男と目が合った。

「…、眠れない、か。」

ため息まじりの彼の呟きには、俺を責めている響きはなかった。

「お前が坊主だったら、酒でも舐めさせて寝かしちまうんだが…。」

困ったように頭をかく男に、俺は軽く混乱する。

お前が坊主だったら…?

ちなみに、この孤児院は幼いガキが多い。だから俺達は、男女の区別ない扱いをされている。

もし、十代後半位になっても里親がつかない場合には、男と女でそれぞれ別の所へ移されることになっていた。勿論、住み込みで働きに出る者もいる。

ここは腹を立てるべきだと思った俺は、ぶすくれた声で、

「…、おっさん。」

「ん?」

「おっさん、バカだろ?」

ガキに、声高にバカと言われて、彼は眉を潜めたが、俺がだまって睨み付けているのを見て、やっと気づいたらしい。びっくりした様子で、

「え?…、お前、お嬢じゃねえのか?…、つうか、だってお前、ずいぶんときれいな顔してるから…。」

そんな言い訳ってあり得るか?

何だか怒れない言い訳に、俺は口を尖らせる。

大体、俺は一度だって女だなんて言ってないし、女言葉だって使ってない。

男はしばらく呆然としていたが、力なく肩を落として、

「いや、…間違ったのは、確かに俺だ。…、悪かった。」

椅子に腰を下ろしたまま、いずまいを正した彼は、どこか頼りなげに見えて、俺はなんだかおかしくなる。

悪い人じゃないんだよな、きっと。

「そう言えば、…いた?熱、出してる奴。」

俺は多少、気になっていたことを確認すると、彼は首を横に振った。

いなかったか。

ちょっと安心して、小さく安堵の息を吐く。

正直、うつすのもうつされるのも、気分のいいものじゃない。

しかしそれもつかの間、

「だがまだ油断はできない。潜伏期間てのがあるからな。」

「せんぷくきかん?」

「病気ってのは、ある程度悪くならないと、熱とか痛みにならないのさ。潜伏期間てのは、病気になってから、熱とかになるまでの、病原体がこっそり悪さの準備をしてる間のことだよ。」

男は億劫がらずに、俺の疑問に答えてくれた。

そうか。まだ分からないか。

「そんな顔すんな、死にやしないんだ。安心して、寝ろ。」

「…眠くない。まだほっぺた、痛いし。」

いじけた声で呟くと、彼は困った顔で、そうか、と納得する。

「おっさんは、眠たい?」

「俺か?俺は、別に…」

彼は迷うような口振りだったが、すぐに明るい声で、

「まあいいさ、少し話そう。お前が眠くなるまで。」

「…いいの?」

「ああ。一晩くらいなら寝なくても平気だ。」

一応、頼もしげなことを言う男に、俺は内心にんまりと笑う。

これは、チャンスだ。

ドキドキをひた隠しながらも、

「じゃ、…聞いてもいい?」

「何だ?」

「…、おっさんの左手。」

「あー、…これか。」

「噂になってるんだ、その手。」

誰が最初に気づいたのか、彼は常に左手だけ、黒の薄い手袋をしていた。

いかにも何かを隠しているようで、俺達の勝手な妄想はいつも暴走気味だった。

だが彼は呆れた笑みを浮かべ、ゆっくりと手袋を外してしまう。

出てきたのは、右手とほとんど変わらない左手。

「え?」

俺が眼を丸くしていると、彼はにんまりと笑って、

「悪いな。何も隠してねえよ。」

「えー、…じゃ何で?」

納得できない俺はどうしても追求してしまう。

彼は椅子から立ち、キャビネットの前に近寄ると、引き出しから小さな酒瓶を取り出した。

椅子に座り直し、彼は一口酒を飲んでから、疲れたようにため息を吐くと、

「坊主は、喧嘩は好きか?」

唐突な質問だった。

喧嘩は正直、好きじゃない。怒りに任せて暴れられるバカ相手ならいいが、大抵、反撃されるし、暴力はお互いに痛い。

だから、俺は毛布を顎の下まで引っ張りあげたまま、首を横に振る。

「でも、強い奴は好きだろう?」

そりゃあ、もちろん。と、頷く。

すると今度は、

「じゃ、喧嘩ばっかりしてる強い奴は好きか?」

これには少し考えてから、

「…そいつが悪いヤツじゃなければ。」

すると彼はちょっと黙ってから、

「そうか。俺は、悪い奴じゃなくても、好きじゃないな。というか、そんな奴は、本当に強い奴じゃない。」

「?、本当に強い奴?」

惹き付けられる言葉だ。

それが判れば、自分だって目指せるかもしれない。

そんな思わせ振りな台詞に、俺は身動ぎもせず、耳を傾ける。

彼はまた一口だけ飲むと、

「本当に強い奴は、本当に戦わなくちゃいけない時にしか戦わない。

つまらない喧嘩なんぞ、しないのさ。

どんな些細な喧嘩でも、やりゃあ、疲れもするし、怪我だってするかもしれない。

その怪我だって、相手が強ければ、目が潰れたり、耳が聞こえなくなるような、完全には治らない怪我になるかもしれん。

そんな状態で、いざ戦うべき時が来ちまったら、どうするよ。」

責めるような目で覗き込まれて、俺は困惑する。

それは、普通にまずいと思うな、やっぱり。

そんな顔をして首をかしげて見せると、彼はうんうん、とひとりで頷き、

「…本当に強い奴、ってのは、そういう怖さをちゃんと知ってるもんさ。」

なるほど、と俺は納得する。

でも、

「じゃ、本当に戦わなくちゃいけない時、ってどんな時?どんなのが、つまらない喧嘩なんだ?」

俺の質問に、彼はしばし黙った。

ゆっくりと表情が暗く沈んでいくのに、何故か口元が緩んでいる。

俺は何かひどいことを言ったような気がして、この沈黙が息苦しかった。

「…戦うべき時、ってのは人それぞれだと思うが、…俺が思うに、大事な奴の命がかかってる時とか、大切な何かを守りたい時とか、じゃねえのかなあ。

失ったら、…自分の心が死んじまうくらい大切なもの。それを守る時こそ、戦うべき時だと思う。

本当に強い奴は、そんな時にゃあ、たとえ戦えなくても戦っちまう。自分が死ぬとわかっていたってな。」

俺は今まで、そんな風に考えたこともなかった。

俺の喧嘩の理由なんて、もっと単純で身近なこと、それも自分のことばかりだ。

彼の言っていることが、まるで自分の知らない世界のことのように聞こえて、途方に暮れてしまう。

そんな俺のことなど気にもならないのか、彼は続けて、

「喧嘩なんてのは、大抵つまらないもんだ。

自分のためにしか戦えない奴がする、意地の張り合いみたいなもんさ。

まるきり駄目だとは言わないが、勝っても負けても、大したことじゃない。」

さらりと言い捨て、彼はまた一口だけ、酒を口にした。

黙りこくってしまった俺を見て、彼はフフ、と小さく笑う。

「まだ、坊主にはよくわかんねえか。まあ、かっこいいこと言ってるよな、実際よ。でも、知っていて損はないことだ。」

膝の上に置いたままだった手袋を見下ろし、男は低く呟く。

「俺は知らなかった。誰も教えちゃくれなかった。…、いや、知りたいとも思わなかったんだ。だから、…。」

やるせない口振りに聞こえたのは、気のせいだったか。

俺がじっと見つめていることを急に思い出したのか、彼はくるっと振り向いて、

「俺は、…見ての通り、頭が悪くてよ。俺にとって、失ったら心が死んじまうほど大事なもんが何なのか、失う寸前になるまで判らなかったんだ。

でも、かろうじて失わずにすんだ。運がよかったんだな。その代償が、これさ。」

彼はそう言って、左手を俺にかざした。

「え?」

なんともない左手なのに?

男はじっくりと自分の左手を眺めながら、

「守りたかったもんは、確かに失わずにすんだんだが、無傷、って訳にはいかなくてな。…、あいつは左手を失ったんだ。」

左手を、失う。

俺は想像する。

彼の目の前で、誰かが左手を切りつけられ、彼もその誰かも、真っ赤に染まり、苦しそうに顔を歪める、そんな光景を。

「俺は俺で、守りたいもんを身体をはって、かばっちまった。おかげで俺の左半身は、かろうじて動く程度なのさ。

傷はみんな綺麗に消しちまったから、ぱっと見たくらいじゃわかんねえよ。」

目の前で、軽く握ったり開いたりさせている左手には、そんな気配はない、ように見える。

「クク、…信じられねえか?」

見透かすような男の台詞に、俺は口を尖らす。

「だって、傷って、そんな簡単に消えるものなのか?」

だが彼はなぜか穏やかな笑みを浮かべ、自分の左手を眺めながら、

「腕のいい医者だったからな。だが、傷は治せても、壊れた身体は元には戻せない。…、ほれ、握ってみろ。」

握手でも求めるように差し出された左手。

俺は毛布から手を抜くと、彼の手を掴んだ。

「!」

びっくりして、俺は反射的に手を引っ込め、男の顔を見上げる。

彼は穏やかな表情のまま、

「冷たい、だろ。…もう、死にかけてんのさ。」

確かに、あり得ないほど体温が低かった。

俺はもう一度確認するために、彼の手を握る。

やっぱり、冷たい。

よく見れば、男の指や肌は細かい傷があり、ごつごつとして、いびつな感じさえする。

「あったけえ手、してんな。」

男は静かな動きで俺の手から逃れると、ついでのように俺の腫れた頬と額に触れた。

がさがさとした感触の手が、高すぎる体温を奪ってくれる。

男は再び椅子に落ち着くと、さばけた明るい口調で、

「まあ、俺にしちゃあ上出来だった。

しかし、あいつの左手を守れなかった、ってのは、忘れちゃならない。

手袋はそういう意味だ。俺のこの左手は、本当はあいつのもので、俺は借りてるようなものなのさ。」

また一口だけ酒を口にし、男は大きく息を吐く。

「まだ、眠くならねえか?…、まいったな。」

彼の言い種に、俺は内心あきれた。

何が、まいったな、だ。

こんな話を聞かされて、眠たくなる方がどうかしてる。

彼の話の雰囲気からして、俺は当然聞いてみた。

「おっさんは、…強かったのか?」

問われて、男は首を横に振った。

「いいや。仕事柄、そう勘違いしてたこともあったが、今は、そうは思わない。」

「仕事柄?」

「…、武器を手に、狩りをしてた。」

彼の声が少しだけ固くなったのがわかって、俺は自分のことに話題を変える。

「俺でも、強くなれる?」

俺の無邪気ともとれる問いに、男は緩やかに笑んで、

「そりゃあ、いくらでも。」

「でも俺、意外と喧嘩っ早いんだぜ。

からかわれたり、バカにされたりなんかしたら、すぐだぜ、すぐ。

おっさんの話じゃ、本当に強い奴は、そんなことじゃ、喧嘩しないんだろ?」

俺はがっかりするように言った。

実際、俺には判らないことばかりだ。

失ったら心が死ぬほど大切なもの、とか。

自分のためにしか戦えない奴は、つまらない喧嘩しかできない、とか。

ここにいる連中はみんなそんなものだ。

自分のことだけで精一杯で、自分ばかりが可愛くて。

俺だって、そうだ。みんなと何ひとつ変わらない。

でもここで、他にどんな生き方がある?

男の話は、俺からすれば、何もリアルじゃない。

でも、ここにいると時折、叫び出したくなるような閉塞感に襲われる。

未来なんて、薄闇でしかない。

 生まれた落ちたところが、棺桶。

その闇の中で息を潜め、じっと死ぬのを待つ、それだけのもの。

どんなにあがいても、そこから一歩も出られやしない、そんな息苦しさだけが、少しずつ俺の首を絞めていく。

 我に返ってはいけない。

 我に返れば、さらなる絶望にぶち当たるだけだ。

誰かのせい、とかじゃない、とは思う。

だけどあの時の俺は、目指すべき光りが欲しかったんだ、と今なら判る。

どんなに小さくてもいい、この閉ざされた世界の外にある何かに手を伸ばすようなことがしたかったんだ、と。

彼はその外の世界からやってきた。

彼の語る言葉は、俺の知らないことばかり。

俺は多分、無意識に、彼に助けを求めていたのかもしれない。

男は俺の突き放した台詞に、そりゃあそうだが…、と口ごもる。

だから苛立つように、

「本当に強い奴、って、悔しい時とか、どうするんだ?黙って耐えるのか?それとも、強いから悔しい時なんてないのか?」

俺はどうしたらいい?

そこまで言ってしまいそうになって、俺はぐっと奥歯を噛み締める。

いつのまにか、彼を睨み付けていた自分に気づき、俺は寝返りを打って目を閉じた。

すっかり溶けてしまった保冷剤が外れても、俺は動けない。

背中で男がゆっくり立ち上がったのがわかった。

…、怒られる。多分。

自分のしたことに、俺は内心ため息を吐いた。

しかし、男は冷たい手を俺の額と頬に当て、

「…、まだ熱いなあ。…、ちょっと待ってろ。」

返事もしない俺をそのままに、彼は部屋を出た。

時を置かず、彼は冷たい保冷剤を手に戻ってきて、俺の痛む部分を冷やしてくれる。

「…、ごめん、なさい。」

謝罪の言葉はすんなりと出た。

男は冷たい手で、くしゃりと俺の頭を撫で、にやりと笑う。

「阿呆。そこは、ごめん、じゃなくて、ありがとう、だ。」

「…そう、なの?」

目を丸くして聞き返すと、男は楽しそうに、

「その方が、俺は何倍も嬉しい。」

…、そうなのか。

そんなことも、俺は知らないんだ。

男はベッドの隣に立ったまま、窓の外へ向いていた。

俺はぼんやりと彼を見上げる。

…、少し、疲れたかも。

「なあ、坊主。」

「ん?…」

静かな彼の声に、俺はやっと返事をする。

男は窓の外を見つめたまま、

「…、少しばかり、試してみるか?騙されたと思って、よ。」

「?、…何を?」

「強くなるための修行、…さ。」

「強く?…」

「ああ、…なんか、俺も面白そうな気がしてきた。」

彼がそう言ったのを聞いたのが、やっと。

いつのまにか、俺はまた眠ってしまった。

クスクスと笑う彼の声に、ちょっとだけイラつき、ちょっとだけ安心しながら。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。