俺が男のベッドを占領したのは一晩だけで、翌日からは医務室へ隔離された。
当然といえば、当然の話だ。
男は時間が空くと、冷やかしに現れ、治りかけて暇すぎる俺の相手をしてくれた。
明日には相部屋に戻れると告げられたものの、医務室でうだうだとしていたら、やっぱり彼が現れ、
「もう、すっかり元気だな。」
「うん。だけど、まだ、誰かにうつしちゃうんだって。」
「らしいな。」
二人して、苦笑いを浮かべる。
医務室には他に誰もおらず、ただ廊下の奥からガキどもの喧騒が響いてくる。
男がぼそり、と言った。
「身体が治ったら、俺の部屋にこいよ。」
「?、うん。いつでもいい?」
「いや。…誰にも気づかれるな。えこひいきに思われて、しんどくなるのはお前だぞ。」
言われて、俺は納得する。
「言い訳に聞こえるだろうが、先に言っておく。…、うまくいかないかも知れないぜ。俺のただの思いつきだからな。」
男の顔を見れば、うっすらと陰っていて、あまり乗り気ではないと判る。
俺は笑って、
「何だよ、おっさん。別に、悪いことするわけじゃないだろ?…悪だくみ、かもしれないけどさ。」
「悪だくみ、ねぇ。お前、そういうところ、明るいよなぁ。」
つられるように笑って、男は部屋を出て行った。
結局おたふく風邪は、施設の中で、俺だけを犠牲者にして終わった。
「運がいいのか、悪いのか…。」
あきれ果てている男の言葉に、俺はこれ以上ないというくらい、口を尖らせた。
だが男はすぐに、
「だがまあ、やけっぱちになって、誰かれ構わずうつそうとしなかったのは、お前のいいところだと思うぜ。」
確かに、やろうと思えば簡単にできただろう。
でも、俺はそんなにバカじゃないし、人でなしでもない。
男の言葉は、そんな俺をわかってくれている気がして、俺はにっこりと笑う。
「そうそう、その調子、その調子。いい笑顔だ。」
男は嬉しそうに笑って、俺の頭をくしゃくしゃした。
相部屋に戻るなり、俺は男との約束を実行し始める。
強くなるための修行、ってやつだ。
だが、男に会いに行って開口一番、
「笑え。」
「はあ?」
意味不明な男の台詞に、俺は思い切り聞き返した。
疑問符を山ほど浮かべた俺に、男はもっともらしく、こんなことを言った。
「まず、笑顔でいることを心がけろ。だが作り笑いはするな。無理な笑顔は逆効果になる。」
「えー、…強くなるためか、それ?」
なんだか釈然としない俺は、上目遣いに男を見た。
どうしても、強さと笑顔が繋がらない。
へらへら笑ってばかりいる奴なんて、俺だって、変な奴だと思うのに。
だが、男は意外なほど真面目な表情になり、
「これが俺の出した答えだ。前に、お前、言っただろ?本当に強い奴は、悔しい時、どうするんだ?って。」
「うん。」
「確かに、強い奴は大抵、悔しいって気持ちを、別の気持ちに変える術を持ってる。
だが、今のお前はまだ道半ばなんだから、まんま真似するには、ちと荷が重い。
だから、とりあえず、悔しいのは自分の弱さだ、って一度丸飲みしろ。相手を許せ。
それから、相手をいなせ。」
「いなす?」
「味方にしろだの、媚びろとまでは言わない。ただ、敵対するな。」
「え?…え?」
「戦うべき時のために力を温存する練習だと思え。なるだけ、敵を作るな。」
難しい言葉が畳み掛けてきて、理解が追い付かない。
とにかく、自分のすべきことを簡単に確認するために、眉をしかめながら、
「…、じゃあ、ずっと笑ってんの?俺…」
すると彼は軽く呆れたらしく、
「タコ、お前は俺の人形じゃねえんだ。ちゃんと自分で考えて行動するんだよ。
言ったろ?不自然なのは逆効果だって。
キレたい時はキレろ。泣きたい時は、泣け。
どんな自分になりたいのか、気持ち悪くなるくらい考えてみろ。」
どんな自分、って言われたって、笑顔でいろだの、敵を作るなだの、いろんなことを言われてパンク寸前だ。
怖い顔で黙りこみ、立ち尽くしたまま動かなくなってしまった俺に、彼はちょっと考えてから、
「悪りぃ、ちっとばかし急いだ。…だが、お前は賢い。俺の言ったことは、おいおいわかってくるだろう。
今は、自然な笑顔の練習だ。
お前の笑顔は、いい守りになる。
そのうち、笑顔の持つ力を知るだろうよ。」
笑顔の持つ力、だって?
「全然、ちっとも、わかんねえや…」
ぼそぼそと呟いたのに、彼にはちゃんと聞こえていたらしい。
男はじろりと俺を睨むと、
「たりめぇだ。そんな簡単に判られてたまるか。何か判ったらまたこい。以上。」
あっという間に追い出されて、俺はとぼとぼと部屋に戻る。
強くなる修行っていうから、もっと身体を鍛えたりするかと思ったのに。
笑え、だと?
自分のベッドに戻り、男の言っていたことを繰り返し思い出す。
彼の言葉は、確かに俺の問いかけにきちんと答えている気がした。
ただ、笑え、ってのに、驚いただけ。
いいさ、騙されてやる。
別にそんなに難しいことをしろと言われたわけじゃないしな。
俺はうとうとしながら、うっすらと笑った。