次の日から、俺は彼に言われたことをこっそりと実践し始める。
とにかく、笑顔。
できるだけ、何気なく、穏やかに。不自然にならないように。
やってみて分かったこともあったし、男の言っていたことが分かったりもした。
前にも言った通り、俺は元々、年下のガキどもに抑圧的な態度をとるのは好きじゃなくて、実際、それで問題なかった。
でもまあ、ものは試し。
奴らに笑顔を向けてみると、最初こそ、好奇心に目を輝かせ、
「何で笑ってるの―?」
「いいことあった?」
うーん、そういう訳じゃないんだけどなぁ。
しかし、顔を合わせる度に、ニコニコを繰り返していたら、奴らはすぐに慣れて、今では、そういうものかと普通に笑い返してくれる。
そして、慣れてきた頃から、奴らの態度がちょっとずつ変わってきていることにも気づく。
年長者は日々の生活の中、幾つかの場面で、ガキどもの面倒をみる。食事とか、風呂とか。
役割分担をし、当番制で、一度に五、六人のガキを相手にしなくちゃならない。
ガキのメンバーは、毎回違う。俺に慣れている奴もいれば、そうでない奴もいたりする。女の子もいる。
そういう場面で、いつも感じていた、年長者の俺に対する妙な緊張、というか身構えている感じが、明らかに薄らいだ気がする。
そのおかげでなのか、俺が奴らの世話を焼いている時、俺に突っかかってくることも、ガキ同士の無駄な争いも、あまり起こらなくなり、扱いがずっと楽になった。
すると不思議なもので、こっちもそんな奴らが可愛いく思えてくる。
ガキどもとの距離がぐっと近くなり、そのうち、
「あのね、…怒らないで、聞いてくれる?」
とか、
「どうしたら、いい?」
なんて、泣きそうな顔でひそひそと訴えてくるようにもなった。
そんな風に、奴らは俺をただの年長者ではなく、信頼できる友人として、少しずつ打ち解けてくれるようになった。
ガキどもとの円満な関係は、実はそれだけに止まらず、その後、意外な展開を見せる。
「チビ達のこと、助かってるわ。他の男は当てにならなくて。すぐ怒鳴るわ、小突くわ、でさ。」
ある時、年上の女の子からそう言われて、俺はびっくりした。
振り向けば、いわゆる『女子のボス』じゃんか。
この施設の中では、一、二を争うくらいの超有名人で、権力者。
俺はただの凡人。
なのに、俺を知ってるなんて。
彼女は大人びた笑みを浮かべ、
「頭の悪い男どもにイジメられたら、言ってね。すぐに黙らせてあげるから。」
あっけにとられて、茫然。
カッコ良過ぎだぜ、お姉様。
確かに、女子はいさかいを好まず、ガキどもの味方という立場を好む。その保護者振りは、いざとなれば、男どもとの戦争すら厭わないほどだ。
だけど、そんなこと、俺には関係ない。
はずだったのに。
ガキどもに好かれると、女子にまで信頼されるなんて、それまで考えもしなかった。
他にも、相手の歳にもよるけれど、初対面の奴に笑いかけると、相手の緊張が解けて、会話がしやすくなるのが分かったり、そういった経験を重ねることで、俺も初対面の奴に緊張することが減ったりもした。
勿論、いいことばかりじゃない。
女子に優遇されやすくなったせいで、ほどなく、年上からのやっかみもあったが、味方が増えた分、やっかむ方が悪者にされた。
笑顔の力、ってやつが少しずつ判ってきて、と同時に、以前苦しんでいた閉塞感が少しずつ消えつつあった。
しかしまだ、強くなったわけじゃない。
どうしたら本当に強い奴になれるのか、一番肝心なところをまだ聞いていない。
そう思い当たった深夜、俺はしばらく振りに、男の部屋を覗きに行くことにした。
男は遅くまで起きていることが多い。
それは、施設の人間なら皆、知っていることだ。
足音に注意して、男の部屋の前に出る廊下に立つ。先を見通せば、一ヵ所だけ、ドアの隙間から細い光がこぼれていた。
爪先で駆け寄り、軽くノックして部屋に入る。
「ん、坊主か…」
部屋の明かりを点けたまま、男はベッドに横になっていた。
「何だ、おっさん、寝てたのか。」
がっかりとした気持ちをあからさまに口に出したが、男は気にする素振りもなく、あっさりと認める。
「まあな。…、ちっとしんどくてよ。」
呻くように呟きながら、寝返りでこちらを向くものの、起きようとはしない。
一応、
「身体、大丈夫か?」
そう言ってみたら、男は不機嫌な口振りで、
「そう思うなら寝かせてくれや。」
おっと、そうはいかない。
俺には大事な目的がある。
「ち、おっさんはこれだから。」
俺の元気な憎まれ口に、彼は片眉をつり上げると、むっつりと身体を起こした。
ベッドの端に腰掛け、サイドテーブルの煙草に手をのばす。
「ふう、…しゃーないなぁ。…で、何だ?」
そう言って、男が億劫そうに煙草を一本くわえるのを眺めながら、
「それはないだろ?次だよ、次。何したらいい?」
急かすような俺の台詞に、男は困惑気味に目を丸くして、
「は?次?…次って、何だ?」
「強くなるために、俺は次に何をしたらいい?」
前のめりになって、再度尋ねる俺に、男は背中を丸めて項垂れると、重たそうなため息を床に吐きつけた。
それから、ドアの前に立っている俺を、斜めに見上げる。
初めて見る、っていうくらい、意地の悪い目付き。
「お前なあ、…お前の言ってる強さ、って何なんだ?」
「強さ?」
意味がわからず、俺は繰り返す。
強さは、強さ、なんじゃないのか?
俺の困惑を察したのか、男は、
「お前が一番求めてる強さとは、何だ?」
ふてぶてしく煙草をふかしながら、俺に問い直す。
俺は当然、一番わかりやすい強さであろう、
「そりゃあ、…力だと思うけど。」
すると男は気持ち悪そうに顔を歪ませて、
「辻褄の合わねえこと、言うなよ。本当に強い奴は、つまらん喧嘩はしねえんだ。力なんか、いらねえじゃねえか。」
力がいらない?
なんか、カチンときた。
そんなはずない。
反射的に言い返す。
「戦うべき時に、無力だったら、何の意味もないだろ?」
おっさんは知ってるはずなのに。
守るべきものを、身体をはって庇うしかなかったおっさんだろ?
だから、左側が死にかけてるんだろ?
それは、敵を打ち倒す力が足らなかったからじゃないのか?
男はやけに暗い眼で俺を睨みながら、苛ついた仕草で口元の煙草を指にとると、荒げた声を叩きつけてきた。
「何かを守る戦いに必要なのは、力じゃなくて、勇気だ!」
ゆ、勇気?
気持ちの問題、だと?
俺はますます頭に来て、
「勇気だけじゃ、殺されるだけだ!」
「殺されるのが怖かったら、初めから戦おうとするな!」
まるで、殴り合っているかのような言葉の応酬。
気づけば、夜中だってのに二人して怒鳴り合っている。
いつもと違う荒い口振りといい、明らかに男の様子はおかしい。
俺は苛立ちのまま、
「おっさん!…何か変だぞ。」
すると、男は口元を曲げ、苦そうに鼻で笑った。
よろめく腕を伸ばして、サイドテーブルの灰皿で煙草をねじ消すと、はああ、と背後のベッドに両手をついて天を仰いだ。
身体を伸ばして、気持ちが落ち着いてきたのか、男はゆるゆると姿勢を正す。
口を尖らせて突っ立ったままの俺に、彼は小さく笑った。
笑っているのは口元だけで、男の表情はひどく深刻に疲れている様子に見える。
「すまん、…悪かったよ。つい、な…。」
そう言いながら、彼の視線は、俺から斜めに外れて落ちていく。
男のこんな様子は初めてで、何も思い当たらない俺は、首を傾げるばかりだ。
本当に、具合が悪いのかもしれない。
憎まれ口を叩いて、無理矢理男を起こしたことを後悔しそうになった時、男がぼそぼそと話し始めた。
「おっさんはな、…坊主に戦うことばかり、覚えて欲しくないんだ。
お前は強くなった。
お前にはわからんかもしれんが、力でもなく、相手を倒す訳でもない、心の有り様ってやつの『強さ』だ。
優しい心が、しなやかさを覚えた。
俺からすれば、それだけだって十分だよ。
なのに、お前は俺にこれ以上何を求める?
武器の使い方か?人の殺し方か?」
最後の言葉を耳にし、彼が前に言っていたのを思い出す。
『…、武器を手に、狩りをしてた。』
男の『仕事』はあまり楽しいものでなく、ひどく血生臭い、殺伐としたもの、だったらしい。
けれど、俺は男に向かって、まっすぐに立ち、笑顔で言い切る。
「違うぜ、おっさん。
俺は戦うべき時に、守るべきものを守りたいだけだ。
俺は男として、本当に強い奴になりたいんだよ。」
今の俺はただの非力なガキ。
だけどいつか、戦わなくちゃいけない時が、きっとくる。
未来とか、命とか、その時俺が持っているものすべてをかけて戦わなくちゃいけない時が。
もちろん、現実には、どうなるかなんて分からない。
そんな時は来ないかも知れないし、実際、来ない方がいい、っていうのも分かってる。
でも俺は、その瞬間にひどく惹き付けられる。
その瞬間を思い描くだけで、心が熱く昂(たかぶ)る。
その瞬間のためだけに生きたっていい、ってくらいに。
「おっさん、…俺、おかしいか?俺じゃ、強くなれないか?」
理由は解らないが、男は俺に戦い方を教えたくないらしい。
でも、強さって、戦うだけじゃないはず。
自分でだって、さっきそう言ってたくせに。
「おっさん、…俺はさ、おっさんのこと、ちゃんと尊敬してるんだぜ。
だから、もっと教えろよ。何が強さなのか、とかさ。」
思いつくまま言葉にしたが、男は顔を隠すように項垂れて動かない。
彼にはもう何も届かないんだ。
悔しいけど、本当に悔しいけど、俺はもうこの部屋を出て行くしかない。
「…、じゃあ、な。おっさん。おやすみ、なさい。」
声が震えないようにするのが精一杯。
苦しいほどのもどかしさと悔しさを背負って、俺は踵を返し、ドアに手を伸ばす。
「待て、坊主。」
呼ばれて、俺はゆっくりと男に振り向いた。
厳めしいはずの男の顔が、今はもう泣きそうに見える。
目が合った瞬間、男はすぐに眼差しを床に伏せ、
「俺はな、時々、怖くなるんだ。俺が戦い方を教えた奴が、俺より先に、死ぬ。
どうにも、…耐えられねえ。」
弱々しい男の声が感情に捩れて、震える。
男の気持ちなんて、想像することはできても、分かる訳ない。
分かるのは、どうやら、男の踏み込んではいけない領域に、俺は踏み込んじまったらしい、ということ。
だから、彼の吐き出す痛みを、ただ黙って受け入れる。
「俺は、正しかったか?
俺が戦いを教えなければ、奴らは戦いに向かうこともなかった。
俺が、殺してる気がして…。」
男はわずかに顔を傾げ、俺を睨みつけるような目で、
「坊主は、…違うんだな。死にに行かないんだな。…俺は嫌だぜ、お前の死に顔なんか見たかねえよ。」
俺は彼に見えている悪夢のような未来を、鼻先で明るく笑い飛ばす。
「俺はそんな死にたがりじゃないからね。…当分の間は、死なないよ。」
そして、こうもつけ加える。
「だから、その時がくるまでに、俺をちゃんと強くしてくれよ。ちょっとやそっとじゃ、死なないくらいに、さ。」
こんなやり取りがあって、ようやく俺の思う強くなるための修行が始まる。
そう思っていたのだが、結局、そうはならなかった。
男の弟と名乗る者が、施設にやってきたのだ。
ずかずかと強引に建物の中へ乗り込んできたと思ったら、あっさり男を見つけ、
「な、何やってんだよ、兄さん!」
駆け寄って掴みかかるその者を、男は払い退けようともせず、胸ぐらを締め上げられながら、
「うげ、…てめえこそ、何しに…」
「探しにきたに決まってるだろ!俺達がどれだけ心配したか…」
傍目には、強気な弟と弱気な兄。
ごにょごにょと揉めていると、女性がひとり、駆け寄って行く。
施設の連中は、このイレギュラーなイベントに気づくと、興味津々といった顔を並べ、遠巻きに様子を窺う。
俺もそんな連中に紛れ、ぎりぎり彼らの会話が聞きとれるくらい離れたところから、成り行きを見守ることにする。
後からきた若く美しい女性は、男の前に仁王立ちになると、いきなり拳で男の顔を殴った。
…、あっちゃー、おっさん痛そう。
男は軽く吹き飛び、しりもちをつく。殴られた頬に手を当て、びっくりした様子で彼女を見上げていた。
「義兄様!」
彼女は男を見下ろしながら、動かない。
傍らにいた弟が、彼女の肩に優しく手をそえると、彼女は振り向き、そのまま彼の胸にすがりつくようにして大泣きし始める。
地面に座り込んでいた男は、そんな二人の様子を見上げながら、ため息をついていた。
やってきた二人は結局そのまま帰っていき、その夜、男は施設を出て行った。
俺にはそんな予感があって、焦れながら夜を待ち、男の部屋に行ってみると、
「はは、バレてたか。」
小さくまとめられた荷物がひとつ、ベッドに転がっている。
男はすでに旅支度を終えていた。
「後の荷物は坊主にやるよ。」
変にさばけた笑顔を向けてくる男に、俺は肩をすくめて、
「そりゃどうも。」
すると、男は目を丸くして、
「…意外だな。連れてけ、って騒ぐかと思った。」
「こんなガキ、邪魔なだけだろ?…一応、気ィ、遣ったつもりさ。」
お互い、決別の時だと納得してしまっていた。
今さら、言うべきこともない。
施設の正面玄関から出て行く男の背に、ちょっとした意地悪を言ってやる。
「守りたかったの、弟じゃなかったんだね。」
すると、男は肩越しににやりと笑い、
「うっせえ。黙っとけ。」
振り向きもせず、男は去って行った。
弟は、ちゃんと両手で男につかみかかっていた。
一方、女性は右のメガトンパンチ。その後の大泣きの時も、ずっと右手しか見えなかった。
弟の嫁、か。
じゃあ、逃げるしかないよなあ。
紫の冷たい空の下、俺は背の高いその影を、見えなくなるまで見送った。