男がいなくなり、ちょっとぽかんとしていた頃。
俺の生活が唐突に激変する。
施設には、庭らしい庭がない代わりに、実用的な畑が何枚かあった。
畑では当然、食糧にする野菜が育てられていて、施設の者全員で、当番を決め、面倒を見ている。
その日は、どうしようもなくガキな奴等が当番になっていて、俺は暇潰しがてら様子を見に行った。
面倒を見るといっても、することなんて雑草抜きと水やりくらいのものだが、用具は子供用じゃない。ふざけが過ぎると怪我をしかねない。
特に、誰が組み合わせたのか、今日のコンビはお調子者どもだ。
危なっかしくて、ほっとけない。
そんな言い訳をしながら外に出てみれば、明るい青空の下は、気分がよかった。
「…?」
畑の端で、ちょこんとしゃがみ込んでいる大きな白い帽子を見つけた。
静かに歩み寄ると、どうやら女の子らしい。
彼女は畑の端で咲いている花を、摘もうかどうか迷っているようだった。小さな手が伸びたり引っ込んだりしている。
さては新入りだなと思い、できるだけ明るい声で、
「花が好きなの?」
基本的に、俺はこんな風に誰かに声をかけることが億劫じゃない。
もういないあの男は、俺のそういうところを、
「気さくというか、愛想がいいというか。」
「…、それ、褒めてねえよな?おっさん。」
俺が睨んでいるのを、男は面白そうに軽く笑って、
「いやいや。俺は素直に優しさだと思ってるぜ。お前、誰かがさみしいの、嫌なんだろ?」
…ち。
本当に、イヤな奴。
ますます目つきを尖らせてやっても、あの野郎はさらりとした口振りで、
「まあ、役にも立つぜ。声をかけた時の反応の仕方、ってのは、結構シンプルにそいつそのものだったりするからな。
…打算的であるにしろ、ないにしろ、人には優しくしておいた方がいい。」
あいつはそんなことを言っていた。
言われて、なるほど、とも思った。
だって、俺はそんなことを考えて声をかけてる訳じゃない。
気になるから、声をかけてるだけ。
そう言ったら、
「お前のそういう優しさは素質だと思うよ。優しい奴は強くなれる。こればっかりは、鍛練でどうこうしにくいしな。
だが大抵は、歳くって、擦りきれちまう。
お前は、なくすなよ。」
「?、そういうものか?」
俺は自分がそう簡単にお節介でなくなるとは思えないけど。
首を傾げて見せる俺に、男は諦めたような笑みで、
「心が強くないと、優しさってのは身につかない気がすんのさ。」
説明してるようでちっとも解らない台詞だったが、俺は自分が強いと言われた気がして、
「じゃ、心はもう鍛えなくていい?」
「阿呆か。鍛えないとあっという間に、なくしちまうって話だよ。」
手袋の指でデコピンされて、俺はむくれた。
まあ、いいさ。
要は、変わるな、今のままでいい、ってことなんだろうから。
急に声をかけられ、驚いて振り向いた彼女は、俺を見て顔を強ばらせたが、俺がそれ以上近寄ってこないと解ると、安心したように笑い返した。
眼のぱっちりとした、可愛らしい女の子だ。
俺と同い歳くらいかな。
肌が白いせいか、亜麻色の癖毛がすごく似合って見える。
ふわ、と彼女の緊張がとけたのが見えたので、
「その花なら、摘んでも大丈夫だよ。畑の中に、入らなければね。」
柔らかい口調で告げると、彼女は寂しそうに笑って、
「…お花、キレイだけど、…摘んだら、しおれちゃうよね。」
「…、まあ、そうかな。」
「じゃ、…可哀想だから、見てるだけでいい。」
きっぱりとそう言って、彼女は明るく笑った。
花が可哀想、か。
女の子らしい優しい言葉に、俺もにっこりして、
「じゃ、あっちの畑の方にも、行って見る?ピンク色の花が、たくさん咲いてるんだ。」
「ほんと?」
こぼれるような笑顔で、彼女は頷く。
明るく素直な反応に、こっちまで嬉しくなる。
いつのまにか、俺と彼女は人が探しに来るまで、ずっと畑の周りで遊んでいた。
彼女は花の名前をよく知っていたし、俺は草花遊びを少し知っていた。
自分の意見を押し通すような我の強いところが、この子にはちっともなくて、俺の話もちゃんと聞いてくれる。
そして、よく笑ってくれた。
輝くような笑顔っていうのは、こういう笑顔のことを言うんだろう。
そう思える位、彼女の笑顔はのびやかで、くすぐったそうで、心地好かった。
服が汚れるのも構わず、俺達は遊びに夢中になっていたが、この子を探しに来たらしい黒いコートの男が現れると、彼女は急に怯えた顔をした。
こいつが彼女をここへ置いていくのか。
そう思って、俺は彼女の前に立ち、男をキッと睨む。
男は、そんな俺をしばし冷やかに見下ろしていたが、突然、コートの裾を軽く捌いて、片膝を着いた。
当然、俺とそいつの目線の高さが同じになる。
思わず怯んでしまうほどの鋭い眼つきなのに、どこか穏やかな瞳に覗かれる。
「お前が、守ろうと言うのか?」
低い声に、敵意も、不快な感情も感じられない。
けれど、男の言っている意味が解らなくて、俺は正直、困惑する。
男はさらに、
「私は彼女を守る者を探しにきた。…、お前が守ってくれるか?」
彼は品のいい年配の男だったし、自分をこんな風に扱う大人は今までいなかった。
ちょっと困ったがすぐに、
「あんたが守ればいいじゃないか。大人なんだから。」
俺の言葉に、彼は目を丸くした後、あははははは、と豪快に笑った。
「お前は頭がいいのだな。確かにそうだ。
だが、ずっとは守ってやれない。
私に後継ぎがいれば、彼女を託すこともできるのだが、残念なことに、そのような者もない。
だからこうして、なってくれる者を探している。」
彼は子供を探しにきた里親なのだと、ようやく気づいた。
それも、自分の跡を継がせられる、息子になり得る子供を。
ふと、シャツに重さを感じて、振り向く。
泣きそうな顔の彼女が、俺のシャツの裾をつまんで寄り添っていた。
彼女の泣き顔に反応して、俺は思わず、
「大丈夫だよ。何も怖くないよ。」
安心させるようににっこりと笑うと、彼女はホッとした顔になった。
結局、それが決め手になったらしい。
男は俺がまだはっきり返事をしていないにも関わらず、さっさと引き取る手続きを済ませ、その日のうちに連れ帰った。
開いた口がふさがらないほど、でかくて立派な城に引っ張り込まれ、俺は途方に暮れる。
男は道寺と名乗り、彼女は静香と紹介された。
「お前は今日から、私の息子だ。私のことは義父(ちち)と呼べ。お前は銀牙と名乗るがいい。」
物心ついた時からずっと施設にいた。
外の世界なんて、全く知らない。
道寺のこの扱いが普通とは大分違っていた、なんてことは、随分後になってから知る羽目になる。