欲しいもの、欲しいもの、お嬢ちゃんが欲しいものはそこじゃない。
欲しいもの、欲しいもの、お嬢ちゃんの欲しいものはも1つとなりのお店だよ
私は手を止めて辺りを見回したけど、そこには誰もいなかった。ただ街中を冷たい風が吹き抜けていくだけで、釣られた私の足が声の方へ歩みを進めていた。殆ど意思を持たない人形のように、私は謎の声が漏れる店の扉を開いたた。カランカランという渇いたベルの音と共に土臭い香りが私を包み込んだ。呆然としていると、先の見えない階段の向こうから音もなく現れた。それは宙に浮かび、髪もその他全ても白で覆われた仙人の如き老人か立っていた。いや、浮いていたと言った方が正しい気がした。幽霊など知らない私はさほど驚きもせず、その人物を見つめていた。
「なんとぶしつけな。子がこのような夜遅くに徘徊とは」
状況の飲み込めないまま叱られた私は、ただ小さく頭を下げて立ち尽くしていた。まるで部屋を覆うように積み上げられた細長いボックスが、一つの山をこしらえていた。余裕のもたない息苦しい空間だった。
「にしても、どうやら遊びに来た訳ではなさそうじゃな」
老人は重みのある咳払いを一つして言った。
「あの、この箱には何が入ってるの?」
恐る恐る尋ねると、老人は口元をへの字にして言った。
「まともに敬語も使えんか。まぁよい。見たところによるとおまえさんはホグワーツ魔法学校入学生のようじゃが」
「入学生?それは何?」
話の噛み合わない私にイライラし始めた老人は、最期には顔を真っ赤にして怒鳴った。
「ぇえい、もう何も喋るでない。その場に立て。もうそれだけでよいわ」
ホグワーツ?入学生?魔法学校?混乱する私に有無を言わさず、老人は暗がりの手狭な空間にポカリと空いた穴のような、ライトが当てられた部分を指差した。
「あの、ここに立つと何が」
「その減らぬ口を閉じんか」
老人の気迫に負け、私は仕方なくその楕円形の枠に両足を収めた。そしてこれから起こり得るであろう何かを待った。辺りが色を失い、黒が全てを支配した。闇の中で何やら唱える老人の声が微かに聞こえる。老人が耳をつんざくような奇声を上げた後、ぱっと色を取り戻した。何が起こったのか全く理解できずにいたが、明かりを失う前と私の状況は変わっていなかった。老人はただ立ち尽くす私に言った。
「つかぬ事を聞くが、おまえさんはマグルの生まれか?」
「いいえ、私は純血を継ぐマルフォイ家の娘よ。紛れもなく。何かの変異があって両親が望んではいない形に産まれ落ちてしまったけど」
老人は静かに私の語りを聞き終え、暫く考え込んでいた。そして元の苦い顔付きに戻して言った。
「望んではない形?それはあり得んの。そもそも今ここにおまえさんが存在しているというのが答えじゃ。あの名高いマルフォイ家の血筋とな。希だがスクイブという結論が妥当じゃろ
「スクイブ?何なのそれは?」
「ええい、やかましい。静まれ」
私の疑問に心底邪魔臭そうな顔をして、老人は私の口を閉じた。文字通りファスナーのような取っ手が付属し、息苦しくなった私はそれを引いた。驚いてもう一度口元を弄ってみるが、もうそこは何も付いていなかった。
「あの、私何も分からないの。今日初めて外の世界を知ったから。だから、お願い。何か知っているんなら教えて。私は知りたいの」
尚も迫る私に根負けしたのか、老人が呆れたような顔をして吐き捨てた。
「知らぬが仏というものがある。とにかくおまえさんは選ばれんかった。ただそれだけじゃ」
「選ばれなかった?」
「そうじゃ。この杖達は日々主を探しておる。客が杖を選ぶのではない。杖が然るべき場所へ赴くのじゃ」
そのトドメとも言える言葉を残し、老人は消えてしまった。跡形もなく、そこにはただ飼い主のお越しを心より待ち望み、今は息を潜めている"箱"の群れしかなかった。
私はトボトボと店を後にし、兄さんとの約束の場である書店に足を向けた。街は異様に静かで、まるでここには私ししか存在しない、世界にたった一人だけ取り残されたような気分になった。大丈夫だ。ふとさっきまで隣にいた兄さんの言葉を思い出す。そうだ。私には兄さんがいる。私をあの永遠の闇から救ってくれた兄さんがいるじゃないか。だから、もう私は一人ぼっちじゃない。
店の扉を開けるとさっきと似たような、けれど忘れかけていた大事な想い出を思い出させてくれるような、心地よい香りがした。この匂いはどこから来ているのだろうか。辺りをキョロキョロ見回すと、天に向かって聳え立つそれが目に入った。所々にのっぽの梯子が立てかけられていて、一ミリのズレもなく何かが詰め込まれていた。店には誰もいなくて、試しに下側に押し込まれたそれを手に取ってみた。引き出すのに時間がかかり、指先が真っ赤になる。硬くて厚みのあるそれを起こし、初めのページを繰ってみた。所狭しと文字が並べられていて、解読しようとそれを睨んでみるが、残念ながら全く読めずに私はそれを閉じた。
「本を探すなら本屋へ」
突然耳元で押し込めた笑い声がした。振り向くと緑色をした奇妙な生物が私の肩で休息を取っていた。目が合い、それはニタリと微笑む。私は驚きのあまり硬いそれを床に落とした。落下したそれはバサリとフクロウのように羽を広げ、伸びて動かなくなった。
「本を粗末に扱っちゃダメだよ?」
脅える私を気にも止めず、生物は落ちたそれを丁寧に拾い上げた。
「ほん?」
「そうさ。ツマラナイ日常にそっと花を咲かせてくれる。魔法のアイテム。それが君が落とした本というやつさ」
皮肉混じりに言われ、私は取りあえず頭を下げておいた。
「こんな真夜中に本が読みたくなるなんて、君は相当な本の虫だね?
「本の虫?」
私はまた繰り返した。
それはさっき本の間に挟まっていたアレの事を言うのだろうか。真っ黒で永年ページとページの間に挟まれカラカラに干されたそれ。質問の時間も与えずに、目の前の生物は梯子に足をかけ、兄さんの手に握られていたそれと同じモノを軽快に振りかざした。途端、眠っていた本達が書棚から飛び出し宙に円を描き、そして何冊か折り重なってテーブルの上にパタパタと落ちた。
「いまの君に必要な書を何冊かピックアップしておいたよ。僕は殆ど取り柄がないけど、お客さんに似合う本を選ぶ事だけは長けてる」
「すごい。ここにある本ぜんぶあなたのものなの?」
私が驚嘆の声を上げると、緑の生物は満足気に頷いた。
「あぁ、ここにある本どころか世界のあらゆる場所に僕のお気に入りの書物が眠っている。腐っても僕は書店員だからね」
緑色の生物は書店員というところを強調して言った。
「あれ?こんなところに埃が。おかしいなさっき掃除したばかりなのに」
緑色の生物はまた杖を振った。
「あなたはとてとも一生懸命な人なのね」
私は何となく羨ましいと思った。一生懸命に取り組める何かがあるこの人を。
「あぁ、ここは僕の財産だからね」
「財産?」
「うーん、君にはちょっと難しかったかな。大切なモノって意味だよ」
「大切なモノ?」
首を傾けて必死で思案する私に、緑色の生物が言った。
「僕はもう立派な書店員だから、こんな事お客さんに話す必要がないと思っていた。でも君には話しておいた方が良さそうだな。僕を長年支えてくれたこの直感がそう言っている。書店員の直感が」
そう言うと、生物は軽快に杖を振りかざした。
私の脳内に稲妻が走り、文字通り頭の中にスクリーンが現れた。ボロ切れを身に纏った緑色の生物が、背の高いガッシリした男に怒鳴られていた。その男が杖を振ると生物の小さな体が上下に叩きつけられ、暫くしてやっと男が杖を置いた。
「これはあなたなの?」
なんだかよく分からないが、見るも酷い仕打ちに私はぎゅっと目を閉じた。
「そうさ。僕はね、昔屋敷シモベだったんだよ」
「屋敷シモベ?」
私は目を瞑りながら言った。
「そう。とてもお金持ちの家で純血を守りぬく高貴な家系だった。子どもたちも皆んなとても可愛くて幸せそうだった。そう、とても幸せそうだった。シモベの僕を除いてね」
「あなたは違ったの?」
「そうさ。だって僕は腐っても奴隷だからね。子供達と遊ぶ事は愚か自身の自由さえ許されず、ずっとその家の主人に仕えていた。幸福の知らない僕はそれが当たり前に思っていたから。お仕置きの魔法には日々怯えていたけど何の疑問も持たなかった」
私は胸が痛くなった。自分の昔置かれた環境を思い出さずにはいられなかったからだ。痛いほど分かる。だって、外の世界にある喜びを知ってしまったから。私を想ってくれる大好きな人といる楽しみを知ってしまったから。知らない事も辛いけど、何かを知る事だって同じくらい辛いんだ。
「ねぇ、目を開けてごらん」
そう優しく促され、私は恐る恐る目を開けた。場面は移り変わり、とても可愛らしい部屋に女の子と埃を取り除く生物の姿があった。
「彼女に出会う前まではね」
「彼女?」
私は目を凝らしその場面をじっと見続けた。忙しく体を動かす生物と絵本に目を落とす女の子。
「他の兄弟と比べると体も弱いし、とても大人しい子だったけど、その子だけはいつも僕に優しかった。ご主人が決めたルールなんて、まるで目に入ってないみたいに」
女の子は脅える緑の傍に絵本を置いた。最初は警戒心を抱いていた緑だったが、日が経つにつれ変化を見せた。気づくと女の子の隣に大人しく正座をしてそれを見つめていた。
「彼女は鈴のような声で、文字の読めない僕に読み聞かせてくれた。驚くほど丁寧にね。彼女の親友は本というもので、忙しい主や兄弟達はそんな彼女に構ってはくれなかった」
「そんな」
私は思わず口を押さえた。瞼に盛り上がった涙を堪える為に。
「だから、彼女はシモベの僕に言ったんだ。友達になって下さいと」
「友達?」
「あぁ、僕はある意味ショックを受けたよ。こんなシモベを友達と呼んでくれる人間がいたなんて。あの時の僕は到底信じられなかったね。返事もできず、戸惑う僕に彼女は言ったんだ」
「あなたはお父様や他の兄弟達とも変わらないのよ?もっと幸せになる権利があるのよと」
権利と私は小さく呟いた。意味は分からなかったが、とても大切な言葉のように思えた。
それからスクリーンがパラパラと早送りになり、彼らが同じ時を過ごす様子が流れた。
「彼女は主人の目を縫って僕に毎日絵本を読んでくれた。外に出た事のない僕の知らない世界がそこにはあった。汚れた部屋をどれだけ綺麗にできるか、そんな事しか頭になかった僕がだよ?そしていつしか屋敷シモベのタブーである、"自由になりたい"という感情が芽生えるようになった」
「自由?」
なんて素敵な響きなのだろうと思った。産れながらにしてそうだった人達にはこの気持ちがきっと理解できないのだろう。
「そんな僕に彼女は約束してくれた。あなたを自由にしてあげると。僕は半信半疑で尋ねた。そんな事ができるのかと。すると、彼女は何かを覚悟したように言ったんだ」
「いつか立派な魔法使いになってあなたに自由をあげると」
「きたいしているよ。僕は大して期待も込めずにそう言った。だって彼女は僕の読めない文字もスラスラ読む事ができたけど、それでも魔法の方はからっきしダメだったから」
「で、どうなったの?彼女はどうなったの?」
私はスクリーンに釘付けで、彼等の未来を自分の事のように辿っていた。
「このとおりさ。今ある姿が全てさ。彼女は魔法学校で一目を置かれる存在になっていた。もうあの部屋にいた不安げで頼りない彼女はいなかった。彼女は当たり前のように僕との約束を守った。一丁前の魔法使いになって僕の目の前に現れた。待たせてごめんねって」
私は泣いていた。あの部屋にいるときは泣くなんてなかったのに、この世界にいると涙ばかり溢れてくる。スクリーンのセンターにはすっかり成長した魔女と照れ臭い表情をした生物が見つめ合っていた。そこで私は現実の世界に引き戻された。まるでスクリーンの電源を切ったみたいに。
「素敵なお話ね」
私は頰を伝う涙を静かに拭った。生物も昔を思い出したのか、ポロポロと容姿には到底似合わないそれを零した。そして掌でさっと拭いて言った。
「僕達の物語に涙を流してくれてありがとう。実はこのイカした書店も彼女からの贈り物なんだ。彼女は事情があって遠くに行ってしまったけど、あなたはたくさん寂しい思いをしたんだから、これからはたくさんの本に囲まれて暮らしてねってね」
「素敵な人に出会えてよかったね。私は本を読めないけれど、その楽しさは何となく伝わってくるよ」
少し残念そうに呟く私に、生物は言った。その細長い棒を振りながら。
「まだわからないの君は」
「何を分からないの?」
眉をひそめる私を生物は笑い飛ばした。
「君は字が読めない。けれどこの世界で大事なのは事実じゃない。気持ちさ」
「気持ち?」
生物はポンポンと右胸を叩いた。
「彼女は誰が見ても出来損ないの魔女だった。いや、魔女と呼ぶのにもおこがましいくらい」
「どうしてそんな事言うの?」
悲しそうな顔をする私に、生物は杖を振った。一冊の本が群れから離れ宙を舞い私の元にやってきた。
「さぁ、読んで見て」
「だから私は読めないの」
「君は今本がすごく読みたい?そうだろ。さぁ、早く表紙を開いて」
私は生物に促されるままにそれを開いた。私は自分の目を疑った。上から基礎魔術の呪文、方程式、困った時の裏魔術等、よく分からないが普通に目を通す自分がいた。
「どうして?何で。さっきは読めなかったのに」
驚く私に生物が言った。
「足りなかったからさ。君のその読みたいという気持ちが。僕は立派になって再び顔を合わした彼女に言った。君一人の力ですごいよと。そんな僕に彼女が首を振って微笑んだ。あなたがいたから。あなたとの約束があったから頑張れたと。きっと、私は一人では上手くいかなかったと思う。いつの日もあなたを思う気持ちがあったからこそだと」
私はもう一度それに目を落とし、そして顔を上げて生物をみた。
「強い気持ちがあれば、大切な人を救えるって事?」
「そういうこと」
生物は満足気に頷いて、また本棚の掃除に取り掛かった。一粒のホコリも逃さないという信念と共に。私はまだ温かい気持ちを胸にページをめくった。そこには私の知らない呪文や挿絵が描かれていて、私は自分がマグルの人間である事も忘れて読み耽った。とても小さな箱だけど、そこには想像もできないくらい、未知の世界が広がっている。私の未来など到底予想できないけれど、それでも私は期待に胸を膨らませていた。私には幸せな未来が待っている、そう疑いもせずに。
突然ものすごい音がした。揺れは感じられなかったけれど、私の手から本が落っこちた。
「ねぇ、今すごい音がしなかった?」
先ほどまでいたはずの、生物の姿が見当たらなかった。胸騒ぎがした。私は床に落ちた本を拾って店を飛び出した。街道は相変わらず静かなのに私の胸騒ぎは収まらなかった。どうしよう。目に見えない恐怖に私は慄いていた。確かにどこかで何かが起こっている。でもその正体もその姿さえも見当たらず私は辺りを見回した。おかしいと思った。よく分からないけど、何かがおかしいと。先ほど通った外壁の一部が歪んでいる。そんな錯覚に陥った。いや、と私は首を振った。錯覚ではない。確かにここの壁が1センチズレている。店を回っている時からずっとタイルの壁を数えてきたので間違いない。私は精神を統一させた。自分でも何をしようとしているのか、分からなかった。目を閉じ、何かを唱えたと同時に外壁にヒビが入った。それらは真っ二つ割れ、中の普通ではない光景を私の瞳に映し出した。暗闇の中で二つの影が衝突し合っている。薄暗い空間に私は目を凝らした。少しの時間を要し、目が闇に慣れたその時、私はその全てを認識した。戦っている。見た事もない恐ろしい獣達が己の命を歯牙にもかけず、ただ何かの目的の為に殺し合っている。そんなおぞましい表現が浮かび、私は無意識に片足を踏み入れた。途端、扉は重い音を立てて崩れるように、先ほどの世界との境目を遮断し、永遠の終わりを告げた。もう二度とあの書店には戻れない。私はふとそんな事を思った。
私の存在には気づいていないようだった。私の5倍はありそうな巨大な体躯に、ピンと立った二つの耳、鋭い瞳と口からはみ出た二本の牙はどんな獲物でも噛み切ってしまいそうだった。硬そうなブラウンの体毛から私は思い出した。街をぶらついている時に、兄さんが教えてくれた。犬という生き物がいるのだと。でもその時見たアレとは比べものにならないくらい大きく、溢れんばかりの殺気を放っていた。形はアレとは似ているが少なくとも、別物に思えた。対峙するのは巨大な羽根を広げ、突き出た鼻先を鳴らし、背中にはナイフのような棘が幾重も連なっていた。この世の生物とは思えないその者達に私の両足は恐ろしく竦んでいた。何もできず、声も上げられず、逃げ道も奪われた私にできる事は、ただ黙ってその光景を見守る事だった。壁につらくられたランプたちがその二匹の動向を追い続けていた。涙を流す事も許されず、私はただその場に立ち尽くし、時折聞こえる咆哮と唸り声に一々飛び上がっていた。羽根のない者が優勢だった戦いは見事に覆され、気づくと犬に似たそれが壁の隅にまで追い詰められていた。鉄の匂いが部屋中を充した。それは殆ど犬に似た者から流れた出た血液だった。赤い水溜まりの中で、それは苦しそうに唸っていた。翼のあるモノが酷く冷めた目で見下ろしていた。戦意の失ったそれに興味を無くしたのか、ふと翼のあるあるモノがある一点を見つめた。私だった。恐怖に慄き、震え、立ち尽くす私だった。それは翼を使わず、ヒタリヒタリト二本の足でゆっくりと近づいてきた。逃げようにも後ろはすぐ壁でなす術なかった。私は死を覚悟し、ぎゅっと目を閉じた。震える体が今この瞬間生きている事を教えてくれた。せっかく手に入れた自由。こんなところに来なきゃ良かった。思ってから私は後悔した。何を言っているんだろう。私は確かに自由を手に入れた。暗闇の中で息を潜めて生きてきた私が、喉から手が出るほど欲しかったもの。だけど、だけど自由なんてあったって私が、私には兄さんが。自然と涙が溢れてきて、私は崩れ落ちた。そのまま硬い地面に一直線だったはずの私の体が、何か温かいモノに触れた。驚いて目を開けると、そこには、翼のないモノが横たわっていた。厳密に言うと、私を受け止めるように下敷きと化していた。瀕死の状態だったはずなのに、どうして。その時私は何かの匂いを感じ取った。部屋を満たす重く鈍いそれとは違う、どこか懐かしい香り。その香りの正体に気づいた瞬間、私の凡ゆる臓器が打ち震えた。
「マルフォイ兄さんなの?」
まさかと思った。まさか兄さんがこんな姿に。でも、どうして?私達はただ兄妹揃って静かな夜の街を歩いていただけなのに。なんで、こんな事になっているのだろうか。私はまだ息のある兄さんの心を持ったそれにしがみついた。
「ねぇ、どうして?どうしてなの兄さん。何がどうなってこんな事。私達さっきまで楽しくお喋りをしていた。そうでしょ?」
兄さんは答えてくれなかった。ただ兄さんの弱まる息を私は耳もとで聞いていた。
(ほんに愚かな兄妹だ。あぁ嘆かわしい)
最初はその声が何処から聞こえて来たのか分からなかった。しかし兄さんは口を開くのもままならぬ状況で、ハッとなって私は翼のあるモノを見た。それは人間である時と変わらぬ瞳で私を見通した。冷たく、慈悲のない瞳。
「父上?なんで?私はまだしもどうして兄さんまで
私の叫びに、それが地の果てまで届くような咆哮を放った。
(気安く私を呼ぶでない。汚らわしい)
体毛に顔を埋め、泣きじゃくる私を、翼なき者が嘲った。
(本当はもっと早急に始末するべきだった。ドラゴがおまえを気にかけている事を私はとうの昔から知っていた。気が触れたように何度も警告を促す私を無視し、私の目を欺き、このようなガラクタ同然の人間に下界の味を覚えさせた。これはぅおるでもーと様率いるデスイーター組織の一員として有るまじき行為であり、曲解に値する行いで有る」
私は兄さんの頭に手を置いた。まだ暖かった。初めて手を繋いだあの日を思い出した。
「お願いです。私は産まれ落ちた瞬間から死が決まっていた。
けれど兄さんは違います。兄さんは頭も良くて優しくて、素敵な人です。だから助けてあげて下さい。私はどうなろうとも」
「闇組織に優しさなど不要だ。おまえの命などなんの価値もない。純血生まれながらろくに魔法も使えないスクイブのおまえになんかはな。ここにおまえを呼び寄せたのも私だ。一人より二人。始末する手間が省ける」
「始末?」
「そうさ。まずはその無様に舌を出し死に損った兄さん"から」
私の必死の懇願も水泡に期し
トドメを刺すべく、兄さんの喉笛目掛けてそれが空高く飛び上がった。私は目を閉じて、ただ兄さんの大きな背中にしがみついていた。ごめん、兄さん。兄さんは私を助けてくれたけど、わたしは兄さんを助けられなかった。こんな目に遭って、来なきゃ良かったなんて思ったけど、これだけは言わせて。私は兄さんの妹でよかったよ?その時兄さんの瞳が微かに開いた気がした。生きてる?兄さんはまだ、生きてるの?その時私の体の中で何かがはじけた。気づくと翼のないものが地面に叩きつけられ、何かに囚われたように一向に動きを見せなかった。
「おのれ、どこで呪文を」
苦悩に満ちた翼なきモノの声がした。驚嘆と憎しみの瞳でこちらを見ている。
「ハーミー」
そのとき私の耳元で微かに声がした。いや、声ではない。兄さんの震えが一時的に音という形になり、振動として私に届いているのだ。私の名前を呼ぶその大好きな声に耳を澄ませた。
「どこ行ってたの?私ずっと兄さんを待ってたんだよ」
私の瞳から溢れたそれを、兄さんは長く大きな舌でなめとった。
「ごめん。行けなくて、でも」
兄さんは今度はしっかりとニ対の瞳を開け言った。
「魔法上手だな。兄さん驚いたよ」
すこしずつ、兄さんの息が弱まる。
「何で今そんな事。もっと、もっと他に話したい事がいっぱいあるのに」
「最期にもう一度だけ、ハーミーの魔法…見せてよ」
兄さんの言葉に私はハッとした。さっきマグレで魔法が使えたなら、もしかしてもう一度だけ。私は祈るような思いで呪文を唱えた。暗記した教科書の呪文を全部試して見たけどどれもダメだった。そもそも、蘇りの魔法が一年生の書物に載っているはずがないのだ。
「ごめん、兄さん。私の魔法で兄さんを助けたかったけど、上手くいかない」
兄さんの瞼が少しずつ下がっていく。私の瞳から大粒の涙が溢れ落ちた。
「ハーミー大好きだよ」
「ダメな妹でごめんね」
最期にゆっくりとかぶりを振って兄さんは微笑んだ。
「ダメなんかじゃない。ハーミーはもう僕なんかよりもずっと…
兄さんの首がガクンと落ち、それっきり動かなくなった。まだ微かに温もりは感じられるけど、鼓動が失われてしまった。さっきまで確かにここにいたはずなのに。兄さんの巨大な亡骸にかぶさる私に、何者かが問いかけた。兄さんじゃない。井戸の底から這い上がって来たような、底知れぬそれに私は顔を上げた。白い仮面を被った男が立っていた。翼なきモノの姿がそっくりなくなっていた。
「陰ながら見させてもらったよ。見事だった。先程の魔法を使えるのは、わたしを含め我が組織に殆どおらん」
私は嗄れた声で問うた。
「あなたは誰なんですか」
仮面はしばらく黙り、そして言った。
「それは重要な事ではない。私は君のお兄さんを生き返らせる事が出来る。ただその事実を伝えに来たまでだ」
私は思わず立ちあがり、その人物を見た。
「それは本当ですか?本当に兄さんの命が、兄さんが帰ってくるんですか」
「あぁ、本来ならこの世の理りに反すこの許されざる呪文は硬く禁じられてある」
「許されざる魔法?」
「我が闇組織でのみ使われている裏魔術のことだ。そしてその中でも未だ嘗て日の目をみておらぬこの蘇りの術を今ここで」
私の落ちくぼんだ瞳に光が射した。
「お願い、お願いします。どうかその魔術で兄さんを」
迫る私にを制するように、仮面は言った。
「ただ、その大いなる術の禁が解けるとき、如何なるときも相応の生贄が必要となるのだ」
「生贄?」
私はその不穏な響きに身震いした。私はこの世からリダツした兄さんを見た。もし兄さんの息がまだあれば間違いなくこう叫ぶだろう。ハーミーダメだ。こと切れたその体から今にも聞こえてきそうな声。だけど。私は小さく首を、振った。もらってばっかりの我儘な妹だった。まだ私は兄さんに何もあげられていない。だったら、だったら私のこの命は、命は兄さんに。私は亡霊のように浮かぶそれに頭を下げた。
「この命。私のこの命をどうか捧げてください」
固いコンクリートにひざまづく私を仮面は笑った。
「いや、代償は君の命ではない」
顔をあげると、能面のようなマスクの内側の瞳と合ったような気がした。
「先ほどの君の術を見て気が変わったよ。兄さんの命を返す変わりに我が組織、偉大なるぅおるでもーと率いる死喰い人の一員となれ」
しくいびと?ぅおるでもーと?翼の無いモノも口走っていたが、それは一体何なのだろうか?思案する私に仮面が言った。
「案ずるな。我が組織の一員なればすぐにわかる事。そしてその稀有な才法で我等魔法会の意に反するもの、闇組織を支えてくれればよい」
私の頷きを認めた白仮面は、懐から例のアレを取り出した。何かを唱えたと共に辺りが反転し、稲妻が走ってそこから先は記憶がなかった。ただ一つ、その意識がなくなるまで私は兄さんの事を考えていた。兄さんともう一度あの街を歩きたい。その一心で。