ぽちゃり。ぽちゃり。ぽちゃり。 不規則なリズムで垂れ続… 作:きしのみか
ぽちゃり。ぽちゃり。ぽちゃり。
ひんやりとした堅い床に、規則的なリズムで液体が垂れ続ける。
耳を塞いでも、目を瞑っても、うずくまっても。
ぽちゃり。ぽちゃり。ぽちゃり。ぽちゃり。
それはまるで時計の秒針。拒絶しても時を刻み続ける。意識してしまったら、ソレはどうしようもなく不快で、不気味で。まるで底の見えない穴を覗いてしまったよう。だから忘れてしまう。自分の頭から追い出してしまう。現実逃避とは違う、醜いモノ。だからこうなってしまう。
ああ、醜い。汚い。気持ち悪い。五感以外のどこかから入り混んでは隙間無く取り囲む。
本当は、分かっていたのかもしれない。
理解していた上で、昆虫の涙ほどの僅かな希望にすがっていたのかもしれない。
喜劇で悲劇で滑稽な演目はもうすぐ幕を閉じる。
ソレを意識してしまったら、きっとーー
ぽちゃり。ぽちゃり。ぽちゃり。ぽちゃり。
私は外から聞こえる、水滴が垂れ続ける音で目を覚ました。覚醒しきってない身体を起こし、外を眺める。雪こそ降ってはいないが、鉛を張ったような厚く重い雲が一筋の光すら通さない。私が毛布から出ると、肌を刺す寒さが襲ってくる。まるでフローリングが冷気を放っているようだ。だだっ広い私の部屋に、目覚まし時計の秒針が嫌に大きな音で響いている。私は目覚まし時計を見た。短針は九時を指している。
「え、九時! 遅刻じゃん!」
私は急いで制服に着替え、髪の毛をとかす。鏡を見て身だしなみを整えていると、制服の襟に赤いシミが付いてた。紺色の制服のおかげで幸いシミはそれほど目立たない。しかし、胸に淡いピンク色のリボンをつけると赤いシミの異様さが引き立ってしまう。
「昨日赤い絵の具なんて使ったっけ」
私は大仰なため息をついた。寝坊し、制服にシミまでついている。朝起きてからまだ十分もたっていないというのに、これで気持ちを落とすなという方が無理な話だ。
私は昨日の授業内容を思い出そうとする。しかし、思考に靄がかかったように思い出せなかった。なにか大切なことを忘れた気がする。鏡を見ると、眉をひそめ口を開けっぱなしな間抜け面が映る。私は、吹き出してしまった。シミのことなど既にどうでもよくなっていた。私の幸せな頭は遅刻のことですらどうでもよくなってなっていた。
私は靴を履き替え、家を出る。昨日雨が降ったのだろうか、浅く積もっているざらめ雪はうっすらとアスファルトを透かしていた。
「おはよう。レナちゃん」
少し離れたところで声が聞こえた。そこには胸のあたりで軽く手を振り、微笑みながら私を見つめるシロちゃんが立っていた。分厚い雲が割れ、何本かの白い直線が引かれる。薄い灰色の世界で、そこだけが切り取られた絵画のように見えた。
シロちゃんと目が合った。すると、スキップをしながら私の前にやって来る。シロちゃんがはねる度にふわふわとしたアホ毛が猫じゃらしのように揺れていて、なんだか可笑しくなった。
何故シロちゃんは登校時間を過ぎているのに、私の家の前にいるのだろう。私は相変わらず微笑んでいるシロちゃんに、それとなく聞いてみる。
「シロも朝寝坊しちゃったからー! レナちゃんと学校行きたいし」
シロちゃんはそう言って、目を細めて私を見た。なんて表情をすんだろう。こっちがどきどきしてしまう。
ーーでも?シロちゃんが寝坊?
なんだか腑に落ちないところもあるが、私は気にしないようにした。
「じゃあ、もう遅刻してるんだしゆっくり学校行こう?」
シロちゃんが私の手に触れようとした。そのときーー
「っ!」
突然、私の脳天にガンガンと響くような衝撃が襲ってくる。足元がふらついた。
「え! レナちゃんどうしたの!?」
シロちゃんはおぼつかない私に向かって、手を差し伸べる。急に頭を鈍器で殴られたような鈍い痛みが走った。
私は相変わらず引かない痛みの中で、シロちゃんが困っていることだけは理解できた。
ーー私がシロちゃんを困らせてる。
そう理解した瞬間、まっすぐ立つのも困難だったほどの痛みが嘘のように引いた。私はオロオロとしているシロちゃんを見つめる。
「シ、シロちゃん私は全然平気だから! ね?」
自分でもなんと言ったか聞き取れない程の速度でそう言い放った。
私がそう言うと、シロちゃんはキョトンとした後、いつもと変わらない微笑みを浮かべた。
その後、私たちはゆっくりと歩いて学校に向かっていた。
「シロちゃん。今日はなんで寝坊したの?」
「シロ最近あんまり寝れてなくて。ちょっと寝不足なんだよね。レナちゃん昨日は?」
私は昨日ーーなんだ?夢のようにおぼろげで思い出せない。私は昨日何時に寝たのだろうか。私はーー
「レナちゃん?」
「あ、あ! 昨日ちょっと夜更かししちゃって! あはは……。さっきの頭痛も寝不足だから心配しないで!」
シロちゃんの訝しむような視線を浴びて驚いてしまった。別にコミュ障というわけではないのだが、今日の私は一体どうしてしまったのだろうか。
「そうなんだ! じゃあお互い早く寝なきゃだね!」
シロちゃんは納得したように笑顔で私にそう言った。
太陽の光は薄くなった雲のレンズを通り、白濁とした筋となって私たちの背後を刺していた。
そうこうしている間に学校が見えてきた。
玄関で靴を履き替え、私たちの教室へ向かう。授業中であるため私たちが廊下でクラスメイトと会うことはなかった。
教室のドアの前に立つ。自分の教室とはいえ、授業中に入っていくというのは緊張する。手を軽く握り、息を少し吐いてドアに手をかけようとした。しかし、シロちゃんが私とドアの間に入るように前へ出た。そのままシロちゃんはためらいなくドアを開けてしまった。
「先生! 遅れてしまって申し訳ないです……。シロ体調があんまり良くなくって。レナちゃんは私を待っててくれたんです!」
シロちゃんは先生の意識が向く前に、矢継ぎ早に言葉を放った。先生は数回まばたきをした。それから、思い出したかのように言った。
「わ、わかりました。今度からは事前連絡を入れるように気をつけてください……」
状況を理解できていない私をよそに、シロちゃんは自分の席へと向かって行く。私も身体を小さくしながらその後ろをついて行く。なんとも言えない不安が私を包んだ。
チャイムが鳴り午前の授業が終わった。各々が親しい者同士で昼食をとるために席を立つ。シロちゃんも私のすぐ後ろの空席に座った。
「じゃあ食べよっか!」
シロちゃんは微笑む。それから、お弁当を取り出そうとする。
「え、シロちゃんお弁当用意してるの?」
「ん、持って来てるけど?」
シロちゃんは可愛らしい柄のお弁当箱を机に置いた。私はさも当然かのように言われ戸惑った。
「いや、寝坊したのにすごいなって。私てっきり購買で買うのかと……」
「ああ、昨日作っておいたの! でも多く作り過ぎちゃったから、レナちゃんも食べてくれるとシロ嬉しいかも?」
シロちゃんは首をかしげて私に言った。いつもの私なら喜んで食べさせて貰うのだが、なんだか今日は気が進まない。
「ごめん。今日お昼は購買で買うんだ……。ごめんね」
「ううん……。大丈夫だよ。早くしないとなくなちゃうから急いだほうがいいかも」
シロちゃんは眉を下げた。その表情に心を痛める。私はお弁当を一緒に食べてあげればよかったなと少しだけ後悔したが、やはり気は進まなかった。
「じゃあ、待ってるよ」
そう言って、シロちゃんは手を振った。
シロちゃんの背後の窓から差し込む光が、ちょうど逆光になってシロちゃんの表情がよく見えない。
まるで、顔がないように見えて、私は動揺した。どうして、そんなこんなでうろたえてしまったのだろうか。
「う、うん。すぐ戻ってくるね」
私はシロちゃんに手を振って、教室を出た。
いつものように廊下を歩いて、階段をくだる。開けた踊り場で息をついた。すると、どこかからからひそひそと話し声が聞こえた。
「ねえ、最近この街で何人も行方不明になってるでしょ?」
「うん。それがどうかしたの?」
「実は……昨日からうちの学校の生徒で、行方不明になった子がいるんだって!」
「え! ほんと? 知らなかった……」
「今朝からもう学校中に広まってるよ。あなたも気をつけてね」
ーーこの学校で行方不明?
私は不安な気持ちでいっぱいになる。いつのまにかひそひそ声の会話は聞こえなくなっていた。それから私はシロちゃんを待たせていることを思い出し、急いで購買室へ走った。不気味な程の静寂に包まれた踊り場に、私の足音は大きく響いていた。
「シロちゃん! お待たせ」
シロちゃんは私に気づいて、顔を上げた。
「うん!じゃあ食べよっか」
シロちゃんはお弁当を開ける。シロちゃんのお弁当の中には唐揚げ、タコさんウインナー、サラダなどが細かいしきりに丁寧に並べられていた。とてもおいしそうだ。
私は、購買で買ったパンを一口食べる。それからさっき耳にした噂を思い出す。
ーーこの学校で行方不明。何か引っかかるような……。
シロちゃんはプチトマトをフォークで突き刺して、じわり、と赤色の液体が染み出ていくのをながめる。それから、顔を上げ微笑んだ。
「レナちゃん。なんだか怖い顔してるけど……。どうかしたの?」
シロちゃんは私の目を覗き込むように、顔を近づけた。近い距離で、見つめ合う。その目は私の心の中をじっと覗いているようで、今にも私の胸に穴をあけてしまいそうだ。青く澄んだ瞳に、ひどく怯えた表情をした私が映る。
シロちゃんは私の頰に、ゆっくりと腕を伸ばす。シロちゃんの一挙一動、衣擦れ、心音、普段は気にも留めないことのはずなのにーー。
何十秒か、はたまた何分か。時計の短針のような速度で近づくシロちゃんの指先が、私の頰に触れた。
ーー怖い。
怖い?あなたの友だちでしょ。
「ねえ、どうしたの?」
シロちゃんが小首を傾げ、眉を寄せる。
ーーそうだ。
なぜ私は友だちに怯えているのだろう。ああ、もう少しで昼休みの時間が終わってしまう。
私はシロちゃんの目を見つめ返す。
「ちょっと近いよ! それと、もう昼休み終わっちゃうよ」
シロちゃんはゆっくりと私から顔を遠ざけて、小さく息をつく。
「そうだった。早く食べないとだね」
シロちゃんは微笑み、重苦しかった空気はどこかへ去っていく。その瞳はどこか黒く濁っていた。
フォークを突き刺されたままのプチトマトは、どろり、と赤い液体を流しながら小さくすぼんでいく。
ーーそれは美味しそうには見えなかった。
身の入らない午後の授業を終えての放課後、帰り支度を済ませる。私はシロちゃんと一緒に帰ろうかと教室を見わたす。シロちゃんの席は椅子が少し引かれているばかりで、当人はどこにも見当たらなかった。
私は探すのを諦めて廊下に出ると、鞄を大事そうに抱えて鼻歌を歌っているシロちゃんがいた。
「なんで先にいっちゃうの!?」
私はわざとらしく大股でシロちゃんへ詰め寄っていく。
「まぁまぁ。そうカンカンしたっていいことないよー? 行こっか」
「はあ……。いいよ……」
そう言いながら私は目を細めて不満気な視線を送った。
「レナちゃんどうしたの? そんなに目を細くして。ドライアイだっけ?」
「もう!」
私はにこにこ笑っているシロちゃんを背に、足早で玄関へ向かう。
「あ、待っててば!」
シロちゃんが慌てたように駆け出す。廊下にはリズムの異なる二つの足音が響いていた。
靴を履き替え外に出る。外は枝葉を落とした小枝が揺れ、カタカタと風が窓を叩いている。私は吹きつける風に少し肩をすくめた。
「寒いねー。シロ冬は好きだけど寒いのは嫌かも」
シロちゃんは腕をさすりながら呟く。
「なにそれ。矛盾してない?」
「してないよ!」
シロちゃんはそう答え、私の手をとった。シロちゃんの手はとても暖かかった。しかしなんだろうか。何か物足りないというか、えもいわれぬもどかしさが私を襲った。
手が暖かい人は心がなんとやら。そんな話を最近耳にした気がする。
「レナちゃんの手、とーっても冷たいね!」
シロちゃんは何故かとても嬉しそうに笑いながら、私の手を少し強く握る。いつも以上に上機嫌なシロちゃんは、どこかで耳にしたことのあるフレーズを口ずさみながら、私の手を引いて歩き始めた。
二人で歩くいつもの通学路。シロちゃんは私に次々と突飛な話題を投げる。
「でねー! でねー! ……あ! 自販機あるからシロちょっと買ってくる、まってて!」
そう言って私の返事も聞かず駆け出した。私のすぐそばに煤け焦茶色をしていたベンチがあった。私が座ると壊れた弦楽器のような鈍い音を立ててベンチが沈む。私は慌てて身体を前に倒して、出来るだけ体重がかからないようにした。
私は自分の体重でベンチが沈んだことに少しショックを受けた。
「じゃじゃーん! おしるこ缶! すっごい甘くて美味しいんだよー。……あれ? でも、おしるこ缶って期間限定って書いてないのに夏になると売ってないのってなんなの!? 詐欺だよ!シロ許せない……」
どこまでもマイペースなシロちゃんが、おしるこ缶を恨めしそうに眺めながら現れる。
別におしるこ缶に罪は無いと思うんだけど黙っておく。
「うわ! レナちゃんボロっちいベンチに座ってるね……。ちょうどいいから、ここでおしるこ缶飲もうかな。せい!」
シロちゃんはおかしな掛け声をあげて私の隣に座る。ベンチが鈍い音を立てることはなかった。私は少し傷ついた。
シロちゃんは両手でおしるこ缶を持ちながら口をつけて幸せそうな息を吐く。シロちゃんと一緒にいるときにはなかなか無い沈黙の時間。たいていその沈黙もシロちゃんが破るのだが、今日は珍しく私からその沈黙を破った。
「ねぇ、シロちゃん。噂話なんだけど、最近行方不明の子が出たらしいんだけどその話知ってた?」
そう聞くと、シロちゃんはおしるこを飲みながら横目で私を見る。やがて飲み干したのか、缶を口から離し軽く振った。
「行方不明? シロ全然知らなかった。うちの学校で出るなんて怖いね。……へぇ。あ! でもレナちゃんその話しどこで聞いたの?」
シロちゃんはこの話に興味津々というより、なんだか責め立てるような声色で私にたずねた。
ーーあれ?私学校の子が行方不明なんて
「ねえ」
「う、うん!あ、えっと。こう噂話で耳にして……」
いつもと様子が違うシロちゃんに私は萎縮してしまい語尾が尻すぼみになる。
「ふうん……。わかった」
シロちゃんは含んだように納得し、瞳を軽く閉じた。私はシロちゃんの次の言葉を落ち着かない様子で待つ。シロちゃんは未だに瞳と口を閉ざしている。私はその沈黙から逃げるようにちらちらと辺りを見回した。
いつのまにか空は深い青色に染まり始め、街灯が灯る。
「レナちゃん!」
シロちゃんは勢いよく立ち上がりながら私の名前大きく呼んだ。突拍子ないシロちゃんの行動に私は声を上げ大きく肩を揺らした。街灯が立ち上がったシロちゃんの背を照らしできた影が私を覆う。
「レナちゃん器用なことするね。器用だけど、とっても不器用。私レナちゃんのこと見てて飽きないな。シロは別にレナちゃんがどうなろうといいんだけどね」
シロちゃんはからからと笑いながら躊躇なく私へ近づく。暖かい両手が私の頬を包む。それからシロちゃんの唇を私の耳元に寄せ、ぽつりと言った。
「どうなっても……ね?」
冷たいその響きは私の背筋を凍らせて、暖かな両手は私の心を溶かす。言い知れない不安感と訳の分からない安心感が私を包んだ。矛盾だらけの感情に一抹の気持ち悪さをおぼえる。
人は正体不明の物事に遭遇すると強い恐怖を覚える。私も例外ではなく今の状況を理解できないまま、正体不明の恐怖をシロちゃんに覚えていた。
シロちゃんはそんな私を知ってか知らずか、声を上げて上機嫌に笑い、深く暗い空を見上げた。
「そろそろ暗くなってきたね。シロ早く帰らないと親に怒られちゃうんだ! また明日ね?」
弾んだ声色でそう言った。それから軽く手を振り私に背を向けて歩き始めた。
ーーいかないで。
放ちかけたその言葉は喉の奥で詰まり乾いた息が漏れるだけだった。吐き出した白い吐息が虚しく霧散していく。ゆっくりと歩いていたはずのシロちゃんの背中はいつのまにか暗い闇へと消えてしまっていた。
街灯はまるでスポットライトのようにベンチを照らしていた。私の影はいくつもの方へ延びてしまっていて、一つ一つが薄く、おぼろげだった。
先ほどまであった暖かなベンチの感触は空気に冷やされ、乾燥した、ただの木材になっていた。
私はふらふらと立ち上がる。
煤れたベンチは鈍い音を立て、沈んだ部分は元からそうであったかのように歪んでいて元には戻らなかった。