ゆゆゆいよ、終わるな……!頼むからっ!
「………チッ」
神崎レナは、誰もいない自宅で舌打ちをした。
毎日毎日毎日毎日、学校から帰っても翼がいない。彼は病院が面会を受け付けている時間は病院にいて、郡千景という少女の見舞いに行っている。
(……別に、毎日行かなくても良いでしょうに)
正直に言って、面白くない。———翼には自分だけを見ていてほしいというのが彼女の本音だが、それを決して表には出さない。なぜなら翼にとってレナは(血が繋がっていないとはいえ)姉で、恋愛対象にはならないのだから。幼い頃からずっといたが故に、彼女の願いは叶わない。近すぎる立ち位置というのは、時に理想からは最も遠い場所にもなるのだ。
(………いっそ、翼さんがもっと薄情なら一緒にいる時間も増えるのに)
そう考えた後に、それを否定する。———なんだかんだで情が深いからこそ、レナもここまで惚れ込んだのだから。
(私はこんなに頑張ってるのに、報われるのは視界に入っただけの赤の他人。………なんか釈然としませんね)
いくら相手を想っていようと、それが成就するとは限らない。愛が最も深い者が確実に選ばれると決まるほど、恋愛とは単純なものではないのだ。
この嫉妬心には覚えがある。———それは確か、小学生の時に翼が『ライキ』と呼ぶ女子を家に連れてきた時か。明らかに翼を慕っている様子を見て、生まれて初めて、彼女は嫉妬した。
そして今も昔も、嫉妬した時に考える事は変わらない。
(……ああ、人類が私と翼さんだけになれば良いのに)
『翼が自分を見てくれるには、自分以外に価値のある人間がいなければ良い』。彼女は割と本気でそんな事を考えていた。
翼は、病院が面会を受け付けている日は毎日千景の見舞いに行った。ついでに雷姫の見舞いにも行き、面会時間の終わりまで他愛の無い話をして帰宅する。やがて雷姫が退院すると、翼は面会時間の初めから終わりまでずっと千景の病室に入り浸るようになった。
———事件が起きたのは、雷姫が退院してから一週間が経った頃。千景の退院が一週間後に控えた日の事だった。
その日も、翼は普通に面会を申し込み、見舞いに行った。いつも通りに扉をノックし、いつも通りに「どうぞ」と返事がするのを聞いて、いつも通りに扉を開けた。すると、
「…………」
翼はフリーズした。全く想像もしていなかった光景に、彼は身動きが取れなくなる。
「………どうしたの?」
心底不思議そうな声で、固まったままの翼に千景が話しかける。それで翼はようやく正気を取り戻し、慌てて扉を閉めて後ろを向いた。
「………………どうしたの?」
その翼の奇行に、千景は不思議そうに首を傾げる。翼はそれに、こう答えた。
「とりあえず服を着てください!」
いつも通りのお見舞いに、いつもと違う光景。ベッドに横たわる千景は、なぜか上半身裸だった。
「……いやね、だったら看護師さん呼ぶべきだと思うよ。片手じゃ着替えられないんだし」
「………私なんかがナースを呼ぶのは、時間と人的資源の無駄遣いだわ」
事件の真相は、ごくごく単純。千景が服に飲み物を溢し、着替えに手間取っていただけだった。……左腕が使えない現状で、よくも一人で着替えようと思ったものだと翼は感心する。そもそも器具が着けられた状態でどうやって服を脱いだのかが疑問だった。
「……卑屈なのは良くない。そもそも、ナース呼ばなきゃ俺がこのまま君の方を向けないじゃん」
———現状は何も変わっていない。千景は上半身裸のまま、下着さえも身につけていない状態。そして翼は扉の前で、千景に背を向けたまま話している状態だ。いくら部屋に入った時に、視界に入った彼女の裸を全体像から傷の一つ一つに至るまで
「だいたい、着替え中に『どうぞ』って返事しちゃダメでしょ。羞恥心どこ行った…?」
「……?何か問題でもあるの?同性なのに?」
「……えっ?」
「えっ?」
千景の見舞いに通い続けておよそ三週間。そこで初めて、互いの認識が異なる事に気づく。
「……まさか千景さん、あなた俺のこと女だと思ってる?」
「…え?…………え?」
次に固まるのは、千景の方だった。
———彼女にとって、神崎翼は唯一信頼できる人間となっていた。初めの数日は記憶が曖昧だが、それ以降の思い出は強く残っている。千景の疑心暗鬼は治っていないものの、「この人になら騙されても良い」と思えるくらいには彼女は翼の事を信じていた。
「……もしかして、神崎さんって」
恐る恐る、千景が翼に問う。
「……はい、男です」
そして、空気が凍った。
(やべえ、思いっきりやらかした感が凄い⁉︎ここまで頑張って築き上げた信用が全て水の泡⁉︎)
神崎翼は焦る。性別を打ち明けていなかった事をすっかり忘れていたツケが回っていた。まさかここにきて自分の容姿が裏目に出るとは全く想定していなかった。
(まずい、本当にまずいッ!ここで裏切り者認定されたら今後に差し支えるッ)
当然だが、後ろを向いているが故に千景が今どんな顔をしているか分からない。しかし、振り向いて確かめる事もできない。ここで振り向いたが最後、『堂々と覗きをした』という事実が生まれてしまう。
(……どうするッ?どうすれば良いッ⁉︎)
この場から立ち去る?……論外。そもそも、ここから逃げた所で何の解決にもならない。それこそ信用を失う選択だ。
必死に弁明する?………言い訳にしか聞こえないだろう。
誠意を見せる為に土下座?………不可能。振り向く必要がある。
もはや手詰まりと思われたところで、「……あの」と声がした。
「……こっち、向いて………」
「……でも君、服着てな…」
「いいからっ……」
必死なその声に、翼は後ろを向く。
「……着替え、手伝って………」
千景は顔を真っ赤にしながら、涙目で懇願していた。
———千景は、『また一人になるのではないか』と怖くなった。
それは別に、『翼が裏切っていたから』ではなく、『自分が相手の性別を誤解していたから』だった。
千景はずっと、翼を女子と勘違いしていた。だから、『相手が女子である』という前提で今までの時を過ごしていたのだ。見舞いに来るのは翼だけだったから、病室に鍵を掛けないまま着替える事にも躊躇はなかった。……翼を女子と勘違いしていたのだから。
———それが、問題。もしも、今までの自分の態度と信頼している理由が『同性だから』だと誤解されたら、距離を置かれるかもしれないと思った。現に彼女———否、彼は裸の千景を視界に入れようとしなかったのだから。虐めで裸を男女問わず見られていた千景にとって、『男子だから自分の裸を見まいとしている』という思考は存在しなかった。
千景にとって、同性である事は信頼する理由にならない。なぜなら、千景を虐めていた人間は、男子よりも女子の方が多かったのだから。男子にも女子にも虐められていた彼女だが、男子よりも女子の方が、その虐めの内容と頻度が酷い事には気づいていた。
だから、彼女は必死に翼を繋ぎとめようとする。今の彼女にとって、神崎翼は前の世界の◯◯◯◯に取って代わっている相手だ。故に、羞恥心を押さえ込んででも彼女は翼との距離を離したくはなかった。決して自分の信頼が『同性だから』という理由ではない事を証明するために、彼女は女子としての尊厳を平気で放り出して着替えの手伝いを懇願する。
———それが不健全な依存だと、彼女は気づいていない。
その危うさに、翼は気づいたのか。
「分かった、手伝う」
千景の頼みを、彼は二つ返事で引き受けた。
「……翼さん、帰ってきてますね」
買い物から帰宅したレナは、玄関にある靴を見てぼそりと呟いた。
———別に、不自然なことではない。彼はいつもこの時刻には帰宅している。基本的に寄り道などしないから、毎日同じ時刻に家に帰ってくるのは当然の事だ。
……だから、彼女が違和感を覚えたのは翼が帰宅していることではなく、靴の置き方。
(……いつもに比べて、つま先が20°ほど開いている?それに、右の靴が5ミリほど前に出ているような……。何かあったのでしょうか?)
———いつも靴をピッタリ揃えて置く、几帳面な翼には珍しい荒さ。
思考は加速し、それに応じて感情が変化する。『翼が帰宅している』という喜びは、『翼に何かがあったかもしれない』という危惧へと変わった。
「翼さん、大丈夫ですかっ⁉︎」
靴を放り、スーパーのタイムセールの戦利品を玄関に置いたまま駆ける。そして、家中を探し回り———
「……やっぱり、レナの上はあの子には大きいか……。下はピッタリだと思うんだけどな……いっそのこと、レナが買ってきた女装用のを……」
「……………」
———レナは、自分の下着を物色する翼を見つけた。ああでもないこうでもないと言いながら、パンツやらブラジャーやらをじっくりと観察して棚にタンスに戻すという奇行を繰り返している。
(……何ですかこれ?何なんですかこれ?)
当然ながら、翼がいるのはレナの私室だ。———つまりそれは、レナがいない間にこっそり部屋に忍び込み、下着を漁っていたという事で。
(え、期待していいんですかこれ?実は異性として意識される対象に入っていたんですか、私⁉︎)
先程とは全く異なるベクトルの感情が彼女を支配する。……翼が望むならいつでもウェルカム。表に出していないだけで、レナはそこそこ肉食系だった。
「あ、おかえり。……ごめん、ちょっと下着借りようと思ったんだけど、サイズ合いそうにないや」
真っ赤になって固まっていたレナは、レナに気づいた翼の一言で正気に戻る。
「……え?どういうことですか?翼さんも男の子、しかも中学生です。金髪青目美少女メイドの私の下着を漁って、匂いを嗅いだり顔を埋めたりするのが当たり前では?」
「何言ってんだこいつ」
翼はドン引きだった。……自分の所業も人からドン引きされる行為である事に、彼は気づいていない。
「あの子の下着がボロボロだったから、サイズが合うのを探してたんだよ。……もっとも、あの子胸小さいからサイズが合わなかったんだけど」
「………………はぁ」
翼のなんでもないかのような告白に、レナは絶望の溜息を吐いた。
(………軽い気持ちで下着を借りようとする。全く異性として扱われてないじゃないですか)
そもそも、たとえ異性として意識されていなくとも、『下着を借りる』という発想そのものがおかしいのではないだろうか。下着は人から借りるものではない。つまり、それは翼がレナを人間扱いしていないという解釈にも———
「———って、あの子って誰ですか⁉︎まさか郡千景の事ですか⁉︎」
しばらく思考を彷徨わせた後、レナはようやく話の本質に辿り着く。
———ここにいるのは二人だけ。だから、下着を漁っているのが見つかって平然としている翼にも、下着を漁られて怒らないレナにもツッコミを入れる人間はいなかった。
ぐんちゃん
翼君に依存し始めてしまった子。開放骨折の治療のための器具は未だに着けたままだが、それだけならば入院の必要性はない。彼女の入院理由は、過度のストレスから身を守り、心をケアするためである。入院前に発生していた異常な腹痛は、ストレス性の胃潰瘍。
神崎レナ
本性が少しだけ出てきてしまった。
……普通は『下着を漁って匂いを嗅ぐ』などという事を平然と言葉にできないため、変態である事は確定。
工藤雷姫
小学生の頃は翼君の家に頻繁に遊びに来ていた。学校で虐められていたわけではないものの、名前でからかわれるのが苦痛であったが故に、翼君の家がもっとも居心地の良い場所だった。
神崎翼
平然と異性の下着を漁る困った子。ラッキースケベという主人公の通過儀礼を受けた。その通過儀礼によって、虐めっ子達への憎悪が一段と強くなった。