音楽は新しい創造を醸し出す葡萄酒だ。
そして私は人間のためにこの精妙な葡萄酒を搾り出し、人間を精神的に酔わすバッカスだ。
──────────────ベートーヴェン
─── 突然ですが、感情とは何だと思いますか?
喜、怒、哀、楽。それは誰もが持ち得る感情です。
嬉しければ喜びます。腹が立てば怒ります。悲しい事があれば哀しみます。心躍る事があれば楽しみます。
じゃあ、そんな色彩豊かな人の感情は。
人間の何処に存在するのでしょうか?
そもそも、感情とは何なのでしょうか?
────── 何処まで行っても空っぽの僕には、それが分かりません 。
『何時か染まる無色の君へ』
「……今日はイマイチね。」
私、湊 友希那が今日の練習に感じたのはソレだった。
ガールズバンド、Roseliaを結成してから、早二ヶ月。私達はライブハウスでのライブは成功を収め、新しい曲の練習に取り掛かっていた。
バンドを結成すれば、こういった壁にぶつかる事は分かりきっていたが、実際にその壁に直面するとなると、どうしていいか分からなくなる。
全体のリズムが合わない、そもそも曲自体に力が足りない、そして何より……自分が上手く歌で表現出来ていない。そんな現実が、今の自分を呑み喰らわんとしていた。
「そうですね……今日は、というより新曲に取り掛かってからずっと、という感じですが。」
どうやら、ギター担当の紗夜も分かっているらしい。
そう、明らかに何かが足りていない。足りていないのは分かるのに、何が足りないのか分からない。それが今の状況だろう。
「…もうすぐ時間ね。今日はこのくらいで切り上げましょう。」
「あこも賛成〜…なんか今日は何時もより全然だよぉ〜…。」
ドラム担当のあこが、気の抜けた声で音を上げる。それもそうだろう、ここ最近はバンドが迷走仕切っているのだ。疲れも溜まる。
「あ、ねぇねぇ!今日はちょっとみんなでごはん食べに行かない?最近どうも煮詰まってるし、軽い息抜きって事でさ!」
「ホント!?あこ行きたい!ちょー行きたい!」
「わ、私も…賛成です……。」
ベース担当のリサの提案に、あこ、それにキーボード担当の燐子も賛成した。確かに、今の状況はバンドにガスが溜まっている状態。言いたい事は良く分かる。
「今井さん、私達にそんな暇はありません……と言いたい所ですが、今回ばかりは賛成ですね…。明らかに、今の状況が良くないのは事実ですから。」
珍しく紗夜が賛成した。その驚きに紗夜を除くメンバー全員が目を剥いたが、直ぐに笑顔になり、
「よし!なら決まりかな!友希那も来るでしょ?」
「……ごめんなさい、リサ。今日は留守番をしないといけないの。両親が家を空けてるから。だから、私抜きで行ってくると良いわ。」
「うぇえ〜、友希那さん来ないのぉ〜?」
「あぁ〜……それなら仕方無いかなぁ。でも、友希那が居ないと意味無いし……今日は無しにしよっか。」
本当に今日は間が悪い。
そんな感じで、今日のRoseliaの練習はお開きとなった。
紗夜、あこ、燐子の三人と別れ、リサと二人での帰り道。
「う〜ん、最近の練習は良くないなぁ〜……友希那は何が原因だと思う?」
「……何かが足りない事は分かっているの。…でも、その何かが、私にも分からない。」
「友希那にも分からないかぁ……はぁ、本格的に行き詰まっちゃったね。」
リサとバンドについて話しながらの帰り道。勿論、何かが進展するわけも無く、歩みを進めていた。
互いにバンドについて頭を抱えながら、唸り声を上げていると、不意にその音は流れて来た。
──── それは、ピアノの音だった。
何処か室内で弾いているのだろう。然し、辺りは夜の帳に包まれているが故に、その音はハッキリと聴こえてくる。
まるで透き通るかのような音色が、夜の住宅街に鳴り響く。傍から聴けば、その音色は素晴らしいモノなのだろう。然し、私にはその音色が……とても哀しく聴こえた。喩えるなら……空虚。それが一番似つかわしい言葉だろう。何も無い空間に響く様な、そんな感覚。ただ、ピアノ一つだけでここまで想起させるこの音色は、圧倒的な技量によるモノだろう。それは明確に分かった。
「凄い……誰が弾いてるんだろ……」
「えぇ……」
リサにもその音とその凄さが伝わっているのか、そんな言葉を零していた。
その音は、家が近くなるにつれて遠ざかっていき、家に帰る頃には既に聞こえなくなっていた。
今日は、その音色が耳について離れないまま、眠りに着いた。
日曜日。
今日は午前中の練習のみにした。
というのも、前回自分のせいで話し合いの場が無くなってしまったので、今日こそはバンドで食事を取ろう、と早めに切り上げたのであった。
「う〜ん、何処で食べよっか?」
「私は何でも良いです。」
「私も……特には……」
「リサ姉!あこ、ハンバーグが食べたい!」
「あはっ、ならファミレスかなぁ。」
各々がこれからの食事について楽しく話している。然し、そんな中、私だけが一人黙りをきめていた。
理由は、この間のピアノ。あの音色が、どうも頭を離れない。どうすれば、あんな音を奏でられるのだろうか。どうすれば……あそこまで夢中にさせられるのだろうか。そんな事で、頭がいっぱいだった。
「友希那は何がいい?」
「……。」
「…………友希那?どうしたの?」
「ッ。…何でもないわ。」
「…………あ!もしかして、こないだのピアノ?」
見事当てられてしまった。然し、リサにもそれだけ印象に残っていたのだろう。この反応はきっとそうだ。
「ねぇねぇ!ピアノって何、何の話?」
早速あこが食いついてきた。
「いやー、こないだ2人で帰ってる時だったんだけど、ピアノの音が何処からか聴こえてきたんだよね?その音が凄くてさ!言葉には上手く出来ないけど、とにかく惹かれるというか、何というか!ね?友希那も聴き惚れちゃったでしょ?」
「……えぇ。あんなピアノ、初めて聴いたわ。」
確かに、あの音は凄いの一言に尽きた。あそこまで惹かれたのは、自身の経験でも無かった。
「湊さんがそこまで……」
「何それ!あこも聴いてみたいっ!」
「ピアノの音……私も聴けば…参考になるでしょうか…?」
「うーん、聴かせたいのは山々だけど、アタシも友希那も、何処から流れて来た音なのかサッパリでさ〜。」
そう、アレが何処から流れて来た音色なのか、分からない。願わくば、もう一度聴いてみたい所ではあるが……それは難しいだろう。
────そんな時、再びその音色は流れて来た。
「「!!」」
私もリサも、その音に一瞬で気が付いた。あの時の曲では無いが、この感覚は、確かにあの時聴いた時と同じ感覚。そして、その音は他の三人にも届いていた。
「もしかして…これが、友希那さんの言っていた……」
「凄い……何が凄いのか分からないけど、何か凄い!」
「何なの……この感覚は……。」
三人にも、この感覚が伝わったのだろう。それぞれがそれぞれの言葉で、この音色を語っている。
この曲は…Amazing grace 。私にも分かる、イギリスの有名な賛美歌。つまり、この音色の出どころは……
「教会……。」
「ねぇ、行ってみようよ友希那さん!」
あこが真っ先に提案してきた。さっきまでハンバーグが食べたいと言っていたのに、この言葉。余程この音色に興味を持ったのだろう。
「この辺りの教会は……一つしかありません。行ってみましょう、湊さん。」
「行こうよ、友希那!ほら、行き詰まりの原因が分かるかもしれないし!」
二人もそう言っている。燐子は、言葉に出すことは無いが、こちらを見て頷いている。……斯く言う私も、この音色を探りたかった。故に、答えは一つ。
「……えぇ、私も知りたい。この音色が何なのかを。」
そうして、教会に向けて歩くこと数分。音色の出どころに辿り着いた。
至って普通のキリスト教の教会。造りも、物語に出てくるような、とんがり屋根に十字架の、あの造り。
そして何より、その音色は、目の前の建物の中で、美しく、ハッキリと響いていた。
「此処ですね……。」
「花咲川…キリスト教会?」
「普通の教会…ですね。」
各々感想を零す。然し、私にはその教会の見た目などどうでも良かった。私の興味はただ一つ。その中のピアノの音色ただ一つ。
「取り敢えず、入ってみよっか。」
リサの一言で、皆生唾を飲み込む。
そして、その木の扉を……ゆっくりと開けた。
──── そこは、音が空間を支配していた。
一定の感覚で並べられた机。
ステンドグラスを介して光る、色とりどりの光。
奥には、白い十字架が掛けられている。
そう、いわゆる普通の教会。
然し、端の方にある、一つのグランドピアノ。
そこから、その音は生まれていた。
その音が、まるで、ここの全てを彩っているかのようだった。
そして何より、その奏者に、目を奪われた。
青みがかった黒髪、整った顔立ち。
まるで、御伽噺からそのまま出てきたかのような、かっこいい、と言うより、美しい、という言葉が似合う様な、私達と同じくらいの年頃の、男子。
「……綺麗。」
思わず、言葉が零れてしまった。
その声を聞かれていたのか、奏者は此方の存在に気が付いた。
演奏を止め、鍵盤の蓋を閉じる。そしてゆっくりと立ち上がり、此方を見てはにこやかに語り掛けた。
「……もしかして、日曜礼拝の方々ですか?すみません、今日の礼拝は終わってしまって……。」
──── それが、私達Roseliaと、彼、鏑木 空の出会いだった 。
きっとその音は、福音のように。