狼の物語
人の世がまだ混沌としていた闇の世に、漆黒に映えて大きな満月が昇る。
その満月は静かに彼の遠吠えを聞いていた。
全ては全ての命に畏怖の念を与える幾粒かの種。
彼は走っていた。
獲物を追うためでなく…
誰かから逃げるためでもなく…
ただ、ひとつの誇りのためだけに彼は走り続けた。
彼には相棒がいた。
長年連れ添ったつがいである。
そのつがいこそが彼の心の支えでありまた誇りでもあった。
群れで一番の美女であり、また命を賭してまで守りぬく対象であり、彼女に仕えることそのものが誇りだった。
森を統べる王としての象徴のつがいと分かち合う誇り。
天照らす昼と闇沈む夜とを幾千と越え、この森の支配者のつがいはその領地を駆け抜けた。
誇りと共にリズムよく刻まれる足音。
その向かう先には彼女がいて…。
…はず…
月に遠吠えは悲しくひびく。
疲れた足を引きずり愛しい感情(こころ)を引き裂かれて。
月は遠吠えを哀しく聴く。
全ての畏怖の象徴は暗闇に横わたる彼女を喰らっていった。
少なくとも彼にはそう見えた。
多くを語るつもりもなくただそこにいるだけでよかった。
月の手しかのびないところになんていって欲しくなかった。
そもそも、我らつがいに仇為せる存在があるなど想像だにしていなかった。
しかし、彼女は「森の闇」に呑まれてしまった。
すべては後の祭り。
愛するものを守れなかった漆黒の騎士。
彼の遠吠えに混じって断末魔が聞こえた。
森に住まうあらゆる命の断末魔。
それは人も、動物も、そして…彼と同じ、森の支配者の同族であっても。
闇に月は
紅く
赤く
朱く
染まってゆく
彼は失ったものを取り戻したくて
そして数多(あまた)の命を奪っていった。
―――死神
いつしか彼につけられた名。
多様性は人の目をくらませ真実を見えなくする。
人は彼の「死神」としての側面にのみ畏怖した。
彼は悲しかった。
自分には死神としての側面しか見られていないことを。
彼は哀しかった。
自分が死神としてしか振る舞えなくなったことを。
闇に融(と)ける漆黒の騎士は死神となって森から森へと流浪の旅に出た。
彼女と暮らしたあの森にはもう彼の姿はない。
あの森へ
その森へ
この森へ
あらゆる森へと彼は走りぬいていった。
そう、
彼は走っていった。
あてもなくどこまでも。
彼の目にはもう
紅くて
赤くて
朱くて
ただ血の色に染まる月しか見えなかった。
今一度、闇に吸い込まれる遠吠え。
一声残して彼は次に向かった。
彼が、哀しさに壊されるのはとある森にとある人間と出会ってからである。